意識が覚醒する少し前から赤々とした痛みがあったように思う。鮮烈な痛みと骨に染み入るような鈍痛を始めとした、宿主に危険を伝える信号が体のそこここから脳に送り届けられていた。
その中でも特に頻度が高いのは右の肋骨からで、呼吸をするたびに骨の位置を動かさないようにと懇願してくる。なるべく肺を広げないように気をつけながら、そこが折れていないか瞼を落として考えてみたものの、結局判別はつかなかった。
戦場にはいないだろう部類の女性がニキータの様子を見に来て、二、三質問をしたかと思うと姿を消した。ここがどこかも分からないが、少なくとも他所から医師や看護師が派遣されているからにはワイルドハントは跋扈していないらしい。
そう考えて少しもしないうちに医者がやってきて、目に光を当てたり、数を数えさせられたりする。それからナド・クライに住む者であれば誰でも知っているような質問をいくつかされた。
少なくとも今のニキータには辟易するほどの時間をかけてから、医者はようやく満足したのかニキータを解放してくれた。看護師に少しの水を与えられた後、一人きりにされると思いきや、入れ替わりでライトキーパーの隊員がやって来る。
緊急作戦の結果と隊の被害状況を聞いて、よくもまあ自分が死なずに済んだものだと悪運に感心してしまう。誰が死んでいてもおかしくはない戦況だったが、その中でも自分は最前線に立っていたのだ。負傷する前後で誰かの足を引っ張っていなければよいのだが。
臨時で隊の再編成を行ったが、後からしっかりと調整をしなければならない。そう告げられて、ニキータは微かに頷いて見せた。あなたがまともに動けるようになった辺りで、とも言われてもう一度頷く。痛みに思考が汚染された状態でろくな案を出せるとは、ニキータもさすがに思っていない。
雑談をしている暇はないとばかりに隊員が去って行くのを見送って、静かになった室内でニキータは瞼を落とす。意識を失う前に何があったかを思い出そうとして、結局無理やり思考を押さえ込んだ。今のニキータに必要なのは反省ではなく、迅速な復帰に繋がる休息だったからだ。
瞼を落としてから再び持ち上げるまで、どれだけ時間が経ったかは分からない。けれど、少なくとも来客がベッドの横に椅子を用意して座り込むくらいには時間が過ぎていたのだろう。
「待たせてしまったか」
「怪我人を急かすような趣味はありませんよ」
何某かの資料に視線を落としていたフリンズが顔を上げて、ニキータに甘い返事をする。ライトキーパーの状況を考えるとぴんぴんとしているように見える人材を遊ばせておいていいはずがないのだが、資料の読み込みのついでの態を保っているらしい。
「容態は医師から聞いています。よくぞご無事で」
「ああ、よく生き延びられたものだよ」
まだ、ここ最近で一番死に近かった瞬間をニキータはうまく思い出せていない。その瞬間を脳から取り出そうとすると、頭よりも肺が先に痛みを訴えた。あまり無駄口を叩かれると困るという事らしい。
「――痛みますね」
「……ああ」
「生きていればこそです」
言葉尻の硬さを察したらしいフリンズが、ニキータが隠したい弱味を肯定する。まるでニキータの苦痛を歓迎するようなそれは、フリンズが痛みを生の象徴として捉えたが故だろう。安堵の混ざる彼女の指摘に、ニキータは再び相槌だけで応じる。
「しっかり休んで、早く元気になられますよう。そうしたらしましょう」
「する? 何を?」
作戦中に彼女と何か話していたのだろうか。少なくとも、作戦前は自分の体調が万全でなければできない約束などした記憶はないのだけれど。
「おや、忘れてしまわれるとは薄情ですね」
ちらりと視線を寄せられて、そのままちくりと刺される。いつもであれば彼女の迂遠な振る舞いを気にすることはないのだが、血液が足りていない思考ではなかなかに厳しいものがある。
「はっきり喋ってくれないか。真っ当にものを考えられるほど――」
フリンズの調子に引っ張られて少々棘の混じった声が喉の奥に引っかかる。それが先だったのか、それとも急に思い出された一幕が原因だったのかはニキータには分からなかった。ただ、フリンズがニキータをちくちくと批難した理由はおおよそ見当がつく。
傷口に噛みつく砂利と誰の物とも知れぬ血。無理やり身を押し込んだせいでへし折れた藪の枝に引っかかれた頬と鼻先に残る青臭さ。同じように身を潜めていたフリンズの、生命に支配され弾力を保つ肉体の感触。
思い出しましたか、と少々楽しそうな彼女の声が無事な鼓膜を揺らした。そう、あの時も血生臭い戦場には似つかわしくない軽やかな声で、彼女はニキータに告げたのだ。二人とも無事に生き延びられたら、セックスをしてみませんか、と。
「てっきり発破の類だとばかり」
記憶が正しければ、自分達は男女の仲にはなかった。少なくとも自分の尺度ではそれなりに長く同じ志を胸に戦った仲間であり、相応の信頼関係にあるとは自負している。
じっとニキータの瞳を覗き込んで答えを待つその眼差しに好奇心は宿れど、燃え上がるような情熱はなかったように思う。浮名を流すような女でないことも知っていたから、この誘いがただの遊びではないとは理解できた。
「だとしても、条件を満たした相手に本気ではありませんでしたなんて言うのは不誠実でしょう」
まあ、それはそうなのだけれど。あの時自分はどう返事をしたのだったか。彼女の提案が衝撃的過ぎたせいか、ニキータはその先の出来事を上手く思い出せずにいる。
「あなたがどうやって女を抱くのか知らぬまま失ってしまうのが惜しいと思ったのは本当ですよ」
ニキータの傷を作っていない場所を選んで、フリンズがそっと触れてくる。普段の寒気を避ける上着越しでは分からなかったはずの圧力をはっきりと感じ、ニキータの体は少しばかり硬直した。無駄な力が入ってしまったせいで痛みが走ったが、珍しい事にフリンズは気づいていないようである。
「いかんせん初めての事ですから、上手くできない部分は目を瞑ってください」
自分で言い出しながら、どうやら彼女も緊張しているらしい。彼女は人ではないので、その衝動の奥底にある感情が人の抱くそれと同じものであるのかニキータには分からなかった。もしかしたら、フリンズ自身にもはっきりしないのかもしれない。
少なくとも今までそう感じる相手がフリンズにはいなかったのだと思うと、微かな優越感がニキータを擽った。彼女の美しさは誰もが認めるところであり、日頃そこに過剰な評価をしていないつもりでも堪え切れないものがある。
「私も上手にできるほどの経験はないから、迷惑をかけるかもしれない」
経験が全くないわけではないが、誇れるほどのものでもない。おそらく、平均的な同年代の男性と比べればずっと少ない方だろう。人口が集中するナシャタウンから遠く離れ、戦いに明け暮れていれば誰だってそうなる。
生娘だと言うフリンズの安心材料にならないだろうが、それで撤回したくなるのであればそれで構わなかった。下手に見栄を張って、失敗してしまう方が明らかに予後がよくない。
「なら、お互いさまですね」
けれど、彼女はそんなことちっとも気にしていないようだった。炎の先を揺らがせるように微かにフリンズが笑って、彼女はとうとう片手に持ったままだった資料をベッドにおいて腰を上げる。それから腕に触れていた手が離れたかと思うと枝に引っかかれなかった方の頬に指が滑り、世話ができていないせいで伸びてきている髭を指紋が弾く。
息を潜めて耳を澄ませればその音が聞こえるとでも言いたげにフリンズが身を屈めるものだから、いつもは背中に行儀よく収まっている長い髪がシーツにさらさらと落ちてくる。その音が止まぬうちにフリンズはニキータの額に唇を寄せたのだった。
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