Hnyanko
2026-05-10 20:10:50
10861文字
Public
 

悠アキ長生きif改訂版2

本にするよう

 ドアベルの音が、いつまでも耳に残っていた。

 カラン、と軽く鳴って、閉まる。それだけの音だった。客が来て、客が帰るたびに鳴る、何の変哲もない音。毎日、何十回と聞いているはずの音。なのに、悠真が出ていったあとのそれだけが、やけに輪郭を持って、店内の空気に引っかかり続けていた。

 アキラは、しばらく扉を見ていた。

 追いかけることはできた。

 カウンターを出て、扉を開けて、夜の街へ飛び出せば、まだ間に合ったかもしれない。悠真は足が速い。けれど、どこかでアキラが追ってくるのを待つような狡さと弱さを、あの人は持っている。名前を呼べば、きっと一瞬だけ立ち止まる。振り返らないまでも、足音を鈍らせる。

 それがわかっていたから、なおさら動けなかった。

 呼び止めて、何を言えばいい。

 嘘だろう、と責めるのか。
 僕を見て、と縋るのか。
 別れたくない、と言うのか。

 どの言葉も喉の奥まで来ていた。けれど、そこから先には進まなかった。言葉にしてしまえば、悠真は困った顔をするだろう。優しくて、最低な顔をするだろう。自分が悪者になりたくて、けれど本当の悪者にはなりきれない顔で、またきっと笑うのだ。

 その顔を見るのが、怖かった。

 さっきの悠真の言葉は、どれも嘘だった。

 長生きできるから色々やりたい。
 恋愛も刹那的なものだった。
 疲れたのかもしれない。
 性格の不一致。
 飽きっぽい。

 ひどい嘘だった。

 悠真はもっと上手に嘘をつける人だ。仕事で必要なら、息をするように相手を欺ける。軽い調子で相手の懐に入り込み、必要な情報だけを掬い上げ、最後には何も悟らせないまま笑って去る。そういうことができる人なのに、アキラの前で吐いた嘘だけは、あまりにも雑で、あまりにも乱暴だった。

 傷つけようとしているのがわかった。

 アキラが追いかけなくなるように。
 アキラが引き止めなくなるように。
 アキラが、自分から手を離せるように。

 そのために、悠真はわざと刃を握らせた。

 別れたいと言われたことより、それが痛かった。

 嫌いになられたのなら、まだよかった。飽きたのなら、怒れたかもしれない。ほかに好きな人ができたのなら、惨めでも、傷つく理由がはっきりしていた。けれど違う。悠真は本当の理由を、アキラにだけ隠した。

 自分の本音を、もう預けてはくれなかった。

 その事実が、胸の奥を静かに裂いていた。

……そっか」

 さっき自分が口にした言葉を、アキラはもう一度呟いた。

 そっか。
 そうなんだね。
 君は、僕には話さないんだね。

 納得なんてしていなかった。理解もしていなかった。それでもアキラは、昔からそうやって生きてきた。飲み込めないものを、一度飲み込んだふりをする。痛くない顔をする。誰かが安心できる形に、自分を整える。リンを守るために。仕事を続けるために。今日まで生き延びるために。

 けれど今だけは、その癖が少し恨めしかった。

 どうして、もっと上手に傷つけないでいられないのだろう。
 どうして、こんなときまで相手の逃げ道を考えてしまうのだろう。
 どうして、別れたくないと、ただ一言、言えなかったのだろう。

 アキラはカウンターの上に置いた端末へ手を伸ばした。指先が、ほんの少し震えていた。画面に触れると、白い光が浮かぶ。さっきまで読んでいた依頼の文面が表示されたけれど、文字は意味を結ばなかった。視線は確かに画面を追っているのに、頭の中には悠真の声ばかりが残っている。

 僕のほうが疲れたのかも。

 軽い声だった。
 嘘の声だった。
 それなのに、痛みだけは本物のように残る。

 アキラは画面を消した。

 店の明かりが、急に遠く感じた。棚に並ぶケースも、レジ横の小さな観葉植物も、カウンターに置いたメモ帳も、全部いつも通りそこにある。ここはランダムプレイで、自分とリンの帰る場所で、長い時間をかけて守ってきた日常だ。

 けれど、悠真がいないだけで、店内のどこかが欠けて見えた。

 カウンターの端。

 悠真がよく肘をついていた場所。勝手におすすめ映画を聞いて、結局ほとんど観ないまま寝落ちして、それでも翌日には「途中までだけどさ、あの照明の使い方は良かったね」なんて妙に的確な感想を言う。リンに呆れられると、少しだけ大げさに肩をすくめて、アキラのほうへ助けを求めるような視線を投げてくる。

 そういう何でもない光景が、たった今、過去になった。

 もう、その場所に当たり前みたいに彼がいるとは思えない。
 もう、今日の夕飯を聞く必要もない。
 もう、薬を飲んだか確認する必要もない。
 もう、眠る前に胸の音を確かめることもない。

 完治したと聞いた夜、アキラは悠真の胸に耳を寄せた。

 以前よりも規則正しく、力強い鼓動だった。生きている音だと思った。明日も、来月も、来年も続いていくかもしれない音。嬉しかった。本当に嬉しかった。嬉しくて、泣きそうになるくらいだった。

 これで悠真は、明日を恐れずに済む。
 来年の予定を立てられる。
 自分の命を軽く扱わなくて済む。
 少しずつ、自分を大切にすることを覚えてくれるかもしれない。

 その未来を、アキラは心から祝福した。

 その未来に、自分がいないなんて、思いもしなかった。

……っ」

 息が詰まった。

 胸元を押さえる。別に痛いわけではない。心臓は正常に動いている。呼吸もできる。どこにも怪我はない。けれど、体の内側に冷たい空洞ができて、そこへ少しずつ水が流れ込んでくるようだった。満ちていく。静かに、ゆっくりと。声を上げるほどではない速度で、でも確実に呼吸を奪う深さで。

 ああ。

 僕は、悠真の内側から外されたんだ。

 その理解は、ひどく静かだった。

 叫ぶような痛みではなかった。もっと鈍くて、逃げ場のない痛みだった。大切に持っていた鍵が、ある日突然、もう合わなくなっていることに気づくような。扉の向こうに灯りは見えているのに、自分だけが外側に立っているような。

 悠真はまだ、アキラの大切な人だ。

 なのに、悠真の大切な苦しみの中に、アキラは入れてもらえなかった。

 それが、どうしようもなく苦しかった。

 別れたくないと思った。
 まだ好きだと思った。
 嘘をつかないでほしかった。
 君の怖いものを、僕にも見せてほしかった。

 でも、そのどれも口にできなかった自分もまた、悠真と同じくらい臆病だった。

 アキラは深く息を吸った。震えないように、ゆっくり吐く。二階にはリンがいる。リンは聡い。足音ひとつ、息遣いひとつで兄の異変に気づいてしまう。だから、泣いてはいけない。声を荒げてもいけない。いつも通りでいなければいけない。

 いつも通りの兄で。
 いつも通りの店主で。
 いつも通りのプロキシで。

 それができる自分を、アキラはほんの少しだけ嫌いになった。

 カウンターの端に、白いマグカップが置かれていた。

 悠真に出すつもりだったものだ。今日は夜風が冷えるから、温かいものを淹れようと思っていた。あまり甘いものは好まないけれど、少しだけ蜂蜜を入れると、悠真は文句を言いながらも全部飲む。苦い顔をして、「アキラくん、僕を子ども扱いしてない?」なんて言う。そのくせ、カップを返すときにはいつも少しだけ表情が緩んでいる。

 もう、淹れなくていい。

 ただそれだけの事実が、急に耐え難かった。

……困ったな」

 掠れた声が落ちた。

 困った。
 本当に困った。

 人を好きでいる癖は、別れようと言われたくらいでは消えてくれない。

 明日もきっと、悠真の体調を気にしてしまう。雨が降れば、濡れていないかと思う。寒ければ、ちゃんと上着を着ているかと思う。任務の連絡が入れば、無事に帰ってくるかどうかを考える。

 もう恋人ではないのに。
 もう、そんな顔をする資格はないのに。

 アキラはマグカップを手に取った。中身は空だった。使われてもいない。洗う必要なんてない。それでも流しへ運び、水を出す。冷たい水が白い陶器の内側を濡らし、指先を伝う。

 水の音が、やけに大きかった。

 その音に紛れるように、目元が熱くなる。

 アキラは泣きたくなかった。泣けば、自分が置いていかれたことを認めてしまう気がした。別れを受け入れたのは自分なのに、本当は少しも受け入れられていないと、認めることになる気がした。

 けれど、目尻に溜まった涙は、勝手にこぼれた。

 一粒だけだった。

 頬を伝う前に、アキラは手の甲で拭った。乱暴に拭いすぎて、皮膚が少し痛む。その痛みのほうが、まだ扱いやすかった。

 そのとき、二階の床板が小さく鳴った。

「お兄ちゃん?」

 リンの声だった。

 アキラはすぐに水を止めた。息を整える。表情を戻す。目元を指で押さえて、何事もなかったように振り返る。たぶん、うまくできている。うまくできてしまう。

「うん。どうした?」

「悠真、もう帰ったの?」

「うん。仕事で疲れてたみたいだから、早めに帰ったよ」

 嘘は、驚くほど滑らかに出た。

 悠真の嘘より、ずっと上手だった。

 そのことが、また少しだけ悲しかった。

 階段の途中で、リンが黙る気配がした。姿は見えない。けれど、こちらを見ているのがわかる。リンはきっと気づいている。兄が平気なふりをしていることくらい、全部ではなくても、何かが壊れたことくらい。

 それでも、リンはすぐには降りてこなかった。

……そっか」

 同じ言葉が返ってくる。

 アキラは小さく笑いそうになった。兄妹だな、と思った。飲み込めないものを飲み込むときの言葉まで似ている。

「お兄ちゃん」

「うん?」

「あとで、ホットミルク作ってあげる」

 優しい子だ、と思った。

 自分が守ってきたつもりで、本当はずっと、こんなふうに守られてもいたのだと思う。

「ありがとう。でも、リンが飲みたいだけじゃないの?」

「違うし。お兄ちゃんのためだし。ついでに私も飲むだけ」

「そっか。じゃあお願いしようかな」

 リンの足音が遠ざかる。

 アキラはその音を聞きながら、流しに手をついた。体を支えるほどではない。ただ、少しだけ何かに触れていないと、立っている輪郭が曖昧になりそうだった。

 悠真の嘘が痛かった。

 でも、自分も嘘をついている。

 大丈夫だと。
 わかったと。
 君の望みを尊重すると。
 これ以上踏み込まないと。

 そうやって綺麗に整えた顔の下で、本当は今すぐ追いかけたい。嘘でもいいから、やっぱり別れたくないと言わせたい。そんな言葉を望んでいる自分がいる。

 みっともないな、と思った。

 それでも好きだった。

 みっともなくて、情けなくて、悔しくて、傷ついているのに、それでもまだ悠真が好きだった。

 アキラは店内の明かりをひとつ落とした。棚の影が濃くなる。ガラス扉の向こうに夜の街が滲んで見える。さっき悠真が出ていった扉は、もう何事もなかったように閉まっている。

 その向こうへ行けば、まだ追いつけるかもしれない。

 そう思った。

 思っただけだった。

 アキラは動かなかった。

 動けなかった。

 自分が追いかければ、悠真の決意を壊してしまうかもしれない。悠真がようやく選んだ未来を、恋人だったという理由で引き戻してしまうかもしれない。そう考えてしまう限り、アキラは一歩も踏み出せなかった。

 最後まで、悠真のことを考えている。

 そのことが、どうしようもなく苦しかった。

 アキラは空のマグカップを布巾で拭き、棚へ戻した。悠真がよく使っていた位置ではなく、少し奥へ。見えにくい場所へ。見えるところにあると、明日も明後日も、何かの拍子に手を伸ばしてしまいそうだったから。

 それでも、捨てることはできなかった。

 捨てられるほど、終わっていなかった。

 水気の残る指先を握りしめて、アキラは誰にも聞こえないほど小さく呟いた。

……本当のことを、聞きたかったな」

 答える声はなかった。

 閉店前のランダムプレイには、古い映画の匂いと、冷めた夜の気配と、使われなかったマグカップの沈黙だけが残っていた。

**

 それから数日、悠真はランダムプレイに顔を出さなかった。

 仕事では会った。

 もちろん、会わないでいられるほど、彼らの世界は広くなかった。プロキシとしてのアキラと、対ホロウ六課の浅羽悠真。依頼があれば通信越しに声を交わすし、必要があれば現場で顔を合わせる。作戦内容を確認し、状況を整理し、危険があれば互いに警告する。そのやり取りは驚くほど滑らかだった。

 滑らかすぎて、アキラはときどき自分が嫌になった。

「右奥、エーテリアス反応。数は三。悠真、無理に突っ込まないで」

『はいはい、了解。アキラくんに怒られるのは怖いからねぇ』

「茶化さない」

『怒ってる?』

「仕事中だよ」

『それはそう』

 そんな会話が、何事もなかったようにできてしまう。

 通信越しの悠真の声は、いつも通り軽かった。少し眠たげで、少し皮肉っぽく、けれど肝心なところでは決して判断を誤らない。アキラが指示を出せば、悠真は冗談を挟みながらも従う。アキラが危険だと言えば、ぎりぎりのところで身を引く。たぶん、誰が聞いてもいつも通りだった。

 けれどアキラだけは、ほんの少しの違いに気づいていた。

 悠真は、アキラを頼らなくなった。

 必要な報告はする。連携も取る。通信越しに軽口も叩く。けれど、以前なら何気なく差し出してきた小さな甘えが消えていた。少し無茶をしたあと、怒られるのを待つような沈黙。疲れているときに、声の端へわざと滲ませる倦怠感。作戦終了後、「今日のご褒美は?」とでも言いたげに、こちらの反応を窺う気配。

 そういう、恋人同士だった頃の余白が、きれいに削られていた。

 悠真は線を引いたのだ。

 自分で別れを告げたのだから当然だと言わんばかりに、きちんと、器用に、アキラの手が届かないところへ立っている。

 その器用さが、痛かった。

 いっそ下手でいてくれればよかった。どこかで声を震わせてくれれば、未練を見せてくれれば、アキラだってそこに縋れたかもしれない。けれど悠真は、仕事の場では完璧に近いほど“浅羽悠真”だった。飄々として、優秀で、どこか掴みどころがなくて、誰からも一目置かれるエージェント。

 アキラだけが、その外側から見ている。

 知っているはずの人を、知らない人のように見ている。

 作戦が終わったあと、通信が切れる直前に、悠真が言った。

『じゃ、お疲れさま。プロキシさん』

 プロキシさん。

 その呼び方に、アキラは一瞬だけ返事が遅れた。

 以前にも冗談で呼ばれたことはある。依頼中なら不自然ではない。けれど、その日は違った。アキラくん、と呼ばれなかった。ただそれだけのことが、胸の奥を薄く削った。

……お疲れさま、悠真」

 返した声は、ちゃんと平静だったと思う。

 通信が切れる。

 画面に残ったログが、無機質な文字列になって流れていく。さっきまで耳元にあった声が、急に遠いものになる。アキラは端末を伏せて、しばらく目を閉じた。

 仕事はできる。

 会話もできる。

 笑うこともできる。

 なら、何がつらいのだろう。

 そう自分に問いかけて、すぐに答えは出た。

 つらいのは、まだ愛されていた頃の距離を体が覚えていることだった。

 悠真が任務から戻ると、アキラは無意識に顔色を確認してしまう。通信にノイズが入れば、心拍が速くなる。軽傷だと聞けば、どこを、と訊きそうになる。食事は、睡眠は、薬は。もう確認しなくていいはずのことばかりが、舌の上まで上がってくる。

 そのたび、アキラは飲み込んだ。

 恋人ではない。
 もう、そういう顔をしていい立場ではない。

 自分で受け入れたのだから。

 君がそういうなら、別れよう。

 あの言葉は、悠真のために差し出したものだったはずなのに、数日経っても、ずっとアキラ自身を縛り続けていた。

 リンは、何も訊かなかった。

 訊かない代わりに、夜になるとホットミルクを作った。甘いものが苦手なアキラのために、蜂蜜は少しだけ。カップを渡すときも、わざとらしいほど普段通りに「はい、お兄ちゃん」と言う。アキラが礼を言うと、「別に。私が飲みたいからついで」と返す。

 そうして、二人でカウンターの内側に並んで座る。

 閉店後のランダムプレイは静かだった。昼間には客の声や端末の通知音、リンの明るい声で満ちている店が、夜になると急に広くなる。棚の影は濃く、床に落ちる照明は柔らかい。外を通る車のライトが、ガラス扉に一瞬だけ白く流れて消える。

 リンはカップに口をつけながら、ちらりと兄を見た。

「お兄ちゃん、最近ごはん少ない」

「そうかな」

「そうだよ。私が気づかないと思ってる?」

「リンはよく見てるね」

「見てるよ。唯一の家族だもん」

 その言葉に、アキラは少しだけ目を細めた。

 唯一の家族。

 それはアキラにとって、ずっと誇りだった。リンを守ること。リンと生きていくこと。互いの帰る場所であり続けること。それだけは、どれだけ街が変わっても、どれだけ過去が追ってきても、手放さないと決めていた。

 けれど今、その言葉は少しだけ胸に刺さった。

 悠真にも、そういう場所になりたかった。

 ふいに浮かんだ願いが、あまりにも素直で、アキラは困ったように笑った。

「大丈夫だよ」

「それ、信用ならないやつ」

「手厳しいな」

「お兄ちゃんの大丈夫は、大丈夫じゃなくても言うから」

 リンはそう言って、カップを両手で包んだ。湯気が彼女の顔の前で淡くほどけていく。昔よりずっと大人びた目をしているのに、こういうときの仕草はどこか幼い。アキラはその横顔を見ながら、やっぱりこの子には隠しきれないのだと思った。

 けれど、全部を話すこともできなかった。

 悠真とのことは、アキラひとりの痛みではない。悠真の痛みでもある。悠真が本当の理由を話さなかった以上、それを勝手に想像してリンに差し出すことはできない。

 だからアキラは、少しだけ本当のことを言った。

……少し、寂しいだけだよ」

 リンの指が止まった。

 アキラはカップの中を見下ろす。白い液面が、照明を映してかすかに揺れている。

「でも、それは僕の都合だから」

「お兄ちゃん」

「うん」

「そういうところ、ほんとによくないと思う」

 まっすぐな声だった。

 責めるというより、呆れている。呆れて、心配して、怒っている。リンの声には、いつもその全部が混じる。アキラが自分を後回しにするとき、彼女は決まってそういう声を出す。

「悠真の都合かどうかなんて、悠真に聞かないとわかんないじゃん」

……そうだね」

「そうだね、じゃないし」

 リンはカップを置いた。ことん、と小さな音がする。

「お兄ちゃん、相手の気持ちを考えるのは得意だけど、考えすぎて勝手に決めるときあるよ」

 アキラは返事をしなかった。

 言い返せなかった。

 リンは続ける。

「悠真もたぶんそう。あの人、器用そうな顔して、変なところでめちゃくちゃ不器用じゃん。ふたりとも勝手に相手のためとか言って、勝手に我慢して、勝手にきれいに終わらせようとしてるなら、正直、私から見たらどっちもどっち」

「リン」

「なに」

「手厳しいね」

「優しく言ってこれです」

 アキラは小さく笑った。

 笑えたことに、自分で少し驚いた。

 リンは兄の笑みを見て、ほんの少しだけ表情を緩める。けれどすぐに、また真面目な顔になった。

……お兄ちゃんは、悠真のこと、もう好きじゃないの?」

 問いは静かだった。

 静かだったから、逃げられなかった。

 アキラは長いこと黙っていた。カップの湯気が少しずつ薄くなる。店内の時計の針が進む音だけが、妙に大きく聞こえた。

 好きじゃない、と言えばよかった。

 もう終わったことだから、と言えばよかった。

 悠真がそう望んだから、と。

 でも、リンの前では、その嘘はつけなかった。

……好きだよ」

 声は思っていたよりも、小さかった。

「まだ、好きだ」

 言葉にした瞬間、胸の奥に沈めていたものが少しだけ形を持った。痛みは消えない。むしろ輪郭を得て、いっそう深くなる。それでも、言えたことにわずかな安堵があった。

 リンは何も言わなかった。

 ただ、隣に座ったまま、アキラの肩に自分の肩を軽くぶつけた。

 子どものころから変わらない、慰め方だった。

 アキラは目を伏せる。

「でも、悠真が別れたいと言ったなら、僕はそれを尊重したい」

「本当に別れたいって思ってたら?」

「それなら、なおさら」

「本当は別れたくなかったら?」

 アキラは答えられなかった。

 答えられない沈黙を、リンはたぶん答えとして受け取った。

「お兄ちゃんさ」

「うん」

「悠真のこと、信じてる?」

 信じている。

 そう即答したかった。

 けれど、すぐには言えなかった。

 悠真を信じていないわけではない。けれど、あの夜の嘘はまだ胸に刺さっていた。本音を話してもらえなかったこと。自分ではなく、雑な言葉と傷つけるための軽口を選ばれたこと。その痛みをなかったことにはできない。

 信じたい。
 でも、怖い。

 そのどちらも本当だった。

……わからない」

 アキラは正直に言った。

「信じたいとは思ってる。でも、少し怖い」

 リンはそれを聞いて、今度は茶化さなかった。

「そっか」

 短く頷く。

「じゃあ今は、それでいいんじゃない」

「それでいい?」

「信じたいけど怖い、でしょ。それ、ちゃんと本音じゃん。お兄ちゃんにしては上出来」

「褒められてるのかな」

「めちゃくちゃ褒めてる」

 リンはそう言って、冷めかけたホットミルクを飲み干した。

「でもさ、いつか悠真がちゃんと話しに来たら、そのときはお兄ちゃんもちゃんと怒りなよ」

「怒る?」

「うん。寂しかったとか、傷ついたとか、本当のこと聞きたかったとか。そういうの、ちゃんと言っていいんだよ」

 アキラは、言葉をなくした。

 言っていい。

 そんな当たり前のことを、どうして自分は知らなかったのだろう。

 悠真が傷つくかもしれない。困るかもしれない。責められていると思うかもしれない。そう考えて、言葉を飲み込んできた。けれどそれは、優しさの形をした逃げでもあったのかもしれない。

 自分の痛みを差し出すことを、怖がっていた。

 悠真に受け取ってもらえなかったら、今度こそ本当に壊れてしまう気がしたから。

……難しいね」

 アキラは呟いた。

「誰かを大事にするのは、難しい」

「そりゃそうでしょ。お兄ちゃん、人間関係を高難易度ホロウ攻略みたいに考えすぎ」

「攻略できるなら楽なんだけど」

「恋愛に攻略チャートはありません」

「厳しい」

「でも、セーブポイントはあるよ」

 リンはそう言って、にっと笑った。

「ここ。ランダムプレイ」

 アキラは目を瞬いた。

「だからお兄ちゃんが失敗しても、傷ついても、私がいる。ちゃんと帰ってこられる場所はある。だから、次に悠真と話すときは、ちょっとくらい格好悪くてもいいんじゃない」

 その言葉に、喉の奥が詰まった。

 アキラは慌ててカップに口をつけた。中身はもうぬるくなっていた。それでも、甘さが舌に残る。ほんの少しの蜂蜜。リンが入れてくれた、兄のための甘さ。

 目の奥が熱くなる。

 けれど今度は、泣くのを我慢しきれなかった。

 涙は静かに落ちた。ぽたりと、カップの縁に触れて、白い液面へ溶ける。アキラは笑おうとしたけれど、うまくいかなかった。口元だけが歪んで、情けない顔になった。

 リンは何も言わず、そっと兄の袖を摘まんだ。

 その仕草が優しすぎて、アキラは余計に苦しくなった。

……僕、悠真に」

 声が震える。

「本当のことを、話してほしかった」

「うん」

「別れたいなら、それでもよかったんだ。苦しかったけど、たぶん、ちゃんと聞けた。でも、嘘をつかれたのが……

「うん」

「僕は、悠真にとって、もう本音を話す相手じゃなくなったんだって思った」

 言い終えた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが崩れた。

 大きな声では泣かなかった。アキラはそういう泣き方を知らない。ただ、肩を少しだけ震わせて、息を乱して、涙を落とす。リンはそれを見ないふりをしてくれた。見ないふりをしながら、袖を摘まんだ手だけは離さなかった。

 アキラはその手の温度に縋った。

 悠真がいない夜だった。

 でも、ひとりではなかった。

 そのことが救いで、同時にひどく切なかった。

 悠真にも、ここにいてほしかった。

 リンに呆れられて、カウンターの端で肩をすくめて、アキラの泣き顔に困ったように笑って、それでもたぶん、何も言わずにそばにいてくれたはずだった。

 そんな想像をしてしまう自分が、まだ悠真を手放せていない証拠だった。

 アキラは涙を拭い、ゆっくり息を整えた。

……明日からは、ちゃんと食べるよ」

「ほんと?」

「ほんと」

「悠真のこと考えてごはん抜いたら怒るから」

「考えるのは止められないかもしれない」

「そこは正直でよろしい」

 リンは少しだけ笑った。

 アキラも、かすかに笑った。

 その夜、アキラは久しぶりに自分の部屋で眠った。けれど眠りは浅く、何度も目が覚めた。隣に伸ばした手が、何にも触れない。そのたびに、ああ、そうだったと思い出す。

 もう、悠真はいない。

 それでも朝は来る。

 窓の外が白みはじめ、街が少しずつ動き出す。アキラは寝返りを打ち、空いた隣を見つめた。

 好きでいることは、こんなにも静かに人を傷つけるのだと、初めて知った気がした。

 そして同じ頃、街の反対側で、悠真もまた眠れない夜を過ごしているのだと、アキラはまだ知らなかった。