夜明 奈央
2026-05-10 14:25:23
2874文字
Public 中太SS
 

中太 もう戻れない

ビ 過ちを犯した中也の話
2026年5月10日初出

 部下たちから十分離れると、太宰がすーっと近づいてきた。腰に手を回し、中也の耳に低く囁く。
「セックスしない?」
「するわけねぇだろ」
 中也が腰に回った手を振り払う。太宰は振り払われた勢いそのままにくるりとターンして、うふふと満足そうに笑う。先ほどまでの艶っぽい空気は既に霧散して、悪戯が成功した幼子のようだ。仕事では大人顔負けのえげつない手腕の数々を披露しているというのに、こうしていると年齢以上に子供っぽい。
 セックスへのお誘いは、太宰のここのところのお気に入りだった。“セックス”なんて直接的な単語、思春期真っ盛りの中也にとってはそれだけで劇薬だ。初めて言われた時にはあからさまに動揺して言葉に詰まり、散々笑われた。太宰曰く「ちょっとあり得ないくらい面白い顔」をしていたらしい。悔しいことに中也自身でもだいぶみっともない顔を晒した自覚はあったのでこの件についてはあまり強く出ることができない。
 しかし数回もすれば慣れるもので、すぐに「へいへい今度な」とか「誰が手前と」なんて軽く遇らえるようになる。そこで飽きて終わりだと思っていたが、何故だか太宰がそれを気に入った。艶のある声で耳元に「今夜どう?」と囁いたり婀娜っぽく太腿を撫でたり、手を替え品を替え今もなお誘い続けている。他人に見られたら確実にそういう関係だと勘違いされることだろう。太宰も一応気にしてはいるのか、他に人がいないところでしか誘ってこないのがせめてもの救いだ。逆に言えばうっかり見られでもすれば余計に本気だと勘違いされかねない。
「夕飯どうする? 僕お腹空いた〜」
 仕事を終え、すっかり日も落ちている。約束もしていないのに何故だか一緒に行くみたいになっているが、腹が減っているのは中也も同じだ。断る理由もない。
「肉食いてぇ気分」
「いつもじゃない?」
「いいだろ別に。食い盛りなんだよ」
「残念ながら成長期は来ないけどねぇ〜」
「うっせぇ今から来るんだよ」
 軽口を叩き合いながら並んで歩く。ふたりの間には一歩分の距離。セックスはもちろん、キスも、手を繋いだこともない。太宰が時折セックスに誘ってくる以外には、ふたりの間にそういった関係は存在しない。
 太宰が何を意図してあんなことを言うのかはわからなかった。それが単なる揶揄いなのか、冗談に本音を忍ばせているのか、はたまた別の何かなのか。いずれは正式に、という野望が中也にないわけではないが、あれに乗っかるのが間違いだということだけははっきりしていた。急ぐ必要はない。今はこうして一緒に軽口を叩き合うくらいで満足だった。

× × ×

 中也は何者かが侵入する音で目を覚ました。ガタン、バタン、ドタドタ。聞こえるのは、空き巣や暗殺の類とは思えない騒がしさ。ここまであからさまであれば逆に警戒心も湧いてこない。候補として見知った人間が数人頭に浮かぶ。
 太宰だろうとあたりをつけたところで、寝室の扉が開かれた。まだ窓の外は暗闇に覆われている。灯りの落とされた部屋では、ぼんやりと浮かぶシルエットしかわからない。けれど馴染んだ気配で己の予想が的中したと悟る。太宰は先ほどまでの騒ぎが嘘のような忍び足で、ゆっくりと中也の眠るベッドに近づいてきた。何の用かと動向を窺っていると、中也に覆いかぶさるようにして抱きついてくる。太宰に連れられた夜の気配が中也の首元にひんやりと纏わりつく。
 しばらく好きなようにさせていたが、太宰が声を発することはない。どうするか迷って、太宰の背を引き寄せた。その背は弱々しく震えている。記憶にあるよりも薄く感じるのは、きっと気の所為ではない。
 最近の太宰は何やら忙しくしているようで、本部にもめっきり顔を出さなくなっていた。顔を合わせるのも数週間振りだ。太宰の秘密主義はいつものこと。だから気にも留めていなかったが、しばらく会わない間に何かあったようだ。その何かがなんなのか中也には見当もつかない。ただ、太宰がそれを中也に話すことはないとだけは確信した。プライドの高い太宰が人に弱みを見せることは滅多にない。けれど中也がほんのひと欠片でも弱みを見せてもいい相手だと思われているなら、受け入れてやるのが“相棒”の務めだ。
「ねぇ、抱いてくれない?」
 ふたりの体温が馴染んだ頃、太宰が長い長い沈黙を破った。いつもの冗談ではない。いつもみたいに断っていいものか悩んで、やはりまずは事情を聞くべきかと喉の奥で言葉を練る。中也の逡巡に気づいたのか、太宰が顔を上げた。
「君とセックスしたい。ダメかな?」
 請うように中也の顔を覗き込む。徐々に暗闇に馴れた視界が、太宰の歪んだ笑顔を捉える。誘惑でも説得でもなく、ただ純粋に懇願された。返事に迷っているうちに、太宰の冷たい唇が唇に重なる。「流された」とは思われたくなくて、太宰の舌を吸った。何がなんだかわからなかったが、太宰が望むならそれが誰かの代わりでも現実逃避でも構わなかった。

 その夜、初めて太宰を抱いた。その身体は、びっくりするほど細くて頼りなかった。太宰の痛々しい表情はいずれと夢見た理想とはほど遠く、会話どころか碌に目を合わせることさえできなかった。
 だから気づけなかった。太宰の顔に明らかな失望が浮かんでいたことに。

× × ×

 目を覚ますと、太宰は姿を消していた。まだ夜も明けていない。昨夜の太宰は明らかに様子がおかしかった。どうにも嫌な胸騒ぎがして、慌てて身支度を整えて家を飛び出す。真っ先に自宅に向かったがそこはもぬけの殻で、まだ人気のない本部を駆け抜けて太宰の執務室に向かう。いてくれと切に願ったそこには、暗い瞳を湛えた太宰がひとり、佇んでいた。
「やあ、中也。どうしたんだい、こんな時間に?」
 不自然に明るい声色が降ってくる。中也の方を見ているようで、見ていない。底知れぬ闇に言葉を失った。呆然と立ち尽くすしかできない中也の横を、太宰がするりとすり抜けていく。
「大した用がないなら私は失礼するよ。最近忙しくてね」
「そうか。……何、してんだ?」
「やりたいことができたんだ」
「そうか」
 太宰が部屋を出て、扉が静かに閉まる。足音が完全に聞こえなくなってから、ぽつりと呟く。
……それは、良かったな」
 太宰はずっと「死にたい」のだと言っていた。やりたいこともなく、ただ漫然と目の前の仕事をこなしていた。「やりたいことができた」なら、それは祝福してやるのが正解だろう。けれど中也は、ちっとも祝う気になれなかった。

 それ以降、太宰の自殺未遂はぱったりとなくなった。それ自体は良いことだろう。けれど一方で、心を通わせたと感じる瞬間もなくなった。対峙し、視線を交わしていても、頭の中は一瞬たりとも中也の方を向いていない。もちろん冗談みたいなセックスのお誘いもなくなった。そうして間もなく、太宰はポートマフィア首領の座に就任した。
 あの日の選択は間違いだったのかもしれないと今更気づいても、もう遅かった。


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