Hnyanko
2026-05-10 00:51:39
8702文字
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悠アキ長生きif改訂版


 完治、という言葉は、思っていたよりも軽い音をしていた。

 診察室の白い壁に反射した午後の光が、やけに眩しかった。清潔な薬品の匂い、規則正しく鳴る空調の低い音、机の上に置かれた検査結果の紙束。そこに並ぶ数値の意味を、悠真はひとつひとつ理解している。理解できるだけの頭はある。だからこそ、医師が何を言おうとしているのかも、その口が開く前からおおよそ察していた。

 それでも、実際に言葉にされると、喉の奥が妙に渇いた。

「浅羽さん。今回の数値ですが、極めて安定しています。投薬後の経過も良好ですし、エーテル適性減退症候群に起因する症状は、現時点でほぼ消失したと見ていいでしょう」

 医師は穏やかな声で続けた。慎重に、けれど明るさを隠しきれない声だった。長く診てきた患者が、ようやく死の影から離れた。その事実を喜ばない医者はいないのだろう。

「つまり、平たく言えば」

 わざわざ言い換える必要なんてなかった。けれど医師は、悠真にも、隣に座るアキラにも、きちんと届くように言った。

「完治です。おめでとうございます」

 隣で、息を呑む気配がした。

 悠真より先に、アキラが反応したのだとわかった。膝の上で組まれていた指が、ほんの少しほどける。緊張していた肩がゆるみ、翡翠色の瞳が一瞬だけ大きく見開かれて、それから、ゆっくりと柔らかく細められた。

……よかった」

 たったそれだけの声だった。

 けれど、その声には、悠真が今まで聞いてきたどんな言葉よりも深い安堵が滲んでいた。店で客に向ける穏やかな声でも、リンを宥める兄の声でも、プロキシとして状況を整理するときの落ち着いた声でもない。もっと、内側の柔らかいところから零れたような声。

 悠真は、それを聞いてようやく笑った。

「大げさだなぁ、アキラくん。僕、そんなに今にも死にそうな顔してた?」

 いつもの調子で言えたはずだった。軽く、冗談めかして、少しだけ皮肉っぽく。そうすればアキラは困ったように笑って、医師は呆れたように注意して、それでこの場はいつも通りになる。そう思った。

 けれど、アキラは笑わなかった。

 ただ、悠真のほうを見た。じっと、逃がさないような目ではなく、逃げてもいいと知っている人の目で。

「していたよ」

 静かな声だった。

「君が思っているより、ずっと」

 悠真は一瞬、返す言葉をなくした。

 そんな顔をしていただろうか。自分ではいつも通りのつもりだった。薬を飲んで、検査を受けて、異常があれば少しだけ笑ってごまかして、異常がなければ適当にサボる算段をして。病気なんて、悠真にとっては長年連れ添った厄介な隣人みたいなものだった。好きでもないし、ありがたくもない。けれどいなくなるとは思っていなかったから、どう扱えばいいのかだけは覚えてしまっていた。

 死ぬかもしれない、という事実は、怖いものではあった。けれど同時に、悠真の人生の輪郭でもあった。

 長くは生きられない。二十六まで生きられれば上等。もっと早く終わる者もいる。そんな数字を知ったときから、悠真は未来というものにあまり期待しなくなった。期待しないほうが楽だった。どうせ手に入らないものなら、最初から欲しがらないほうがいい。どうせいつか置いていくなら、できるだけ軽く、できるだけ笑って、できるだけ迷惑をかけないように消えたほうがいい。

 そう思っていた。

 アキラと出会うまでは。

 アキラと付き合い始めてからの悠真は、ひどく我儘になった。死ぬのが怖いと思った。置いていくのが嫌だと思った。けれどそれ以上に、残された時間を全部アキラのそばで使いたいと思った。自分がいつか彼を傷つけるとわかっていても、離れるなんて考えられなかった。

 それはきっと、刹那的な愛だった。

 明日がないかもしれないから、今日の手を強く握る。来年の約束ができないから、今夜の体温に縋る。老いる未来を語れないから、目の前の笑顔を焼きつける。

 それでも本気だった。
 嘘なんかではなかった。

 だから、完治したと告げられた瞬間、悠真は喜ぶべきだったのだ。

 この先がある。
 明日も、来月も、来年も。
 もしかしたら十年後だって、自分はまだ息をしているかもしれない。

 祝福されるべき奇跡だった。

 なのに、アキラがあまりにも嬉しそうに息を吐いたから。

 その横顔が、悠真のために心から安堵しているとわかったから。

 悠真はふいに、思ってしまった。

 ――この人には、僕がいない未来もあるんじゃないか。

 胸の奥で、何かが冷えた。

 それは病の痛みとはまるで違っていた。心臓を掴まれるような発作でも、肺の奥が軋むような息苦しさでもない。もっと静かで、もっと薄く、けれど確実に広がっていく冷たさだった。

 アキラの周りには、人が多い。

 優しくて、強くて、眩しい人たち。アキラを頼り、アキラに笑いかけ、アキラの隣に自然に立てる人たち。彼の主人公みたいな人生の中で、出会うべくして出会ったような人たち。美しい女性も、頼もしい仲間も、彼を必要とする依頼人も、きっとこれからいくらでも現れる。

 その中で、自分は何だろう。

 顔が綺麗だと言われることはある。金も、地位も、能力も、必要な程度には持っている。病気だって治った。けれど、死の影が完全に消えたわけじゃない。悠真の職場は、相変わらず死と隣り合わせだ。ホロウに潜れば、明日無事に帰れる保証なんてない。どれだけ腕が立っても、どれだけ冷静でいても、運が悪ければ終わる世界にいる。

 ならば。

 自分が、アキラの未来を縛っていていいのだろうか。

「悠真?」

 呼ばれて、はっとした。

 アキラがこちらを見ていた。心配そうに眉を下げている。医師も何かを説明していたらしい。投薬の終了後もしばらく経過観察は続けること、急な体調変化があればすぐに連絡すること、無理をしないこと。そういう当たり前の言葉が、少し遅れて耳に届いた。

「聞いてる?」

「聞いてる聞いてる。経過観察、無茶するな、サボるな、でしょ」

「最後のは僕が言いたかったことだけどね」

 アキラがようやく小さく笑った。

 その笑顔に、悠真は救われたような気持ちになる。けれど同時に、どうしようもなく苦しくなった。

 この人は、こんなふうに笑う。
 自分のために、心配して、安堵して、少しだけ拗ねたような顔もしてくれる。

 その全部を独り占めしたいと思っていた。
 今だって、思っている。

 でも、未来が長くなった途端、その欲がひどく醜いものに思えた。

 診察を終え、病院を出ると、外の空気は少し乾いていた。日差しは柔らかく、街の音が遠くからざわめいている。車の走る音、誰かの笑い声、電子広告の明るい音楽。世界はいつも通りで、悠真が死の宣告から解放されたことなど、誰も知らない。

 アキラは隣を歩きながら、何度か悠真の顔を見た。

「今日は無理にどこかへ寄らなくてもいいよ。疲れただろう」

「僕、そんなに病人扱いされるほど弱くないけど」

「今日くらいはいいだろう。お祝いに何か買って帰ろうか。リンもきっと喜ぶ」

「リンちゃん、泣くかな」

「泣く前に怒ると思うよ。今までどれだけ心配させたと思ってるの、って」

「あは、目に浮かぶなぁ」

 笑いながら、悠真は歩調を少し落とした。

 アキラも自然に合わせてくれる。いつだってそうだった。悠真が疲れているとき、言葉にしなくても気づく。茶化してほしいときは軽く返して、放っておいてほしいときは隣にいるだけにしてくれる。踏み込んでほしいときは、悠真が逃げる隙間を残したまま手を伸ばしてくれる。

 それが、ずっと心地よかった。

 心地よすぎて、忘れていたのかもしれない。

 アキラにも、感情があることを。

 アキラが受け入れてくれるからといって、傷つかないわけではないことを。

 自分はきっと、アキラに甘えすぎていた。死ぬかもしれないから。病気だから。残される側ではなく、置いていく側だから。そんな言い訳を、言い訳だと気づかないまま握りしめて、アキラの優しさに身を預けていた。

「アキラくん」

「うん?」

 振り向いた顔は、穏やかだった。

 悠真は、その顔に向かって、今すぐ「これからも一緒にいて」と言いたかった。言えば、アキラはきっと頷いてくれる。少なくとも、困ったように笑って、悠真の手を握り返してくれるだろう。

 その想像があまりにも容易くて、だからこそ怖かった。

……なんでもない」

 言葉を飲み込んだ。

 アキラは少しだけ首を傾げた。けれど深くは追及しない。

「そう」

 ただ、それだけ言って、また隣を歩き出す。

 その優しさが、今は痛かった。

 完治したのに。
 これから先があると言われたのに。

 悠真はその日、初めて本当の意味で、未来を怖いと思った。

 別れ話を切り出すまでに、悠真は三週間をかけた。

 三週間。

 長いようで、短い。短いようで、ひどく長い。検査結果を受け取った日から、悠真の日常は何ひとつ変わらなかった。朝になれば目が覚める。体は軽い。胸の奥に沈んでいた鈍い痛みも、息を吸うたび肺に絡みついていた違和感も、いつの間にか遠い記憶みたいに薄れていた。薬の副作用に怯える必要もなくなり、定期的に数値を確認されるだけの日々になった。

 周りは喜んだ。

 医師は穏やかに笑ったし、同僚は珍しく真面目な顔で肩を叩いた。雅はいつも通り涼しい顔をしていたけれど、ほんの少しだけ目元を緩めた。リンはアキラから話を聞いたらしく、ビデオ屋に顔を出した悠真を見つけるなり、「今まで心配させた罰として、今日はお兄ちゃんの言うことを全部聞くこと」と宣言した。

 そしてアキラは、泣かなかった。

 泣きそうな顔もしなかった。

 ただ、いつもより少しだけ悠真の近くにいた。

 夕飯を一緒に食べるとき、隣に座る距離がいつもより近い。仕事終わりに迎えに来るとき、悠真の顔色を見る時間が長い。手を繋ぐとき、指先に力がこもる。それから、眠る前に悠真の胸元へ耳を寄せることが増えた。

 鼓動を確かめるように。

 そこにまだ悠真がいることを、確かめるように。

 悠真はそのたびに、アキラの髪を撫でた。灰色の髪は指通りがよくて、光の下では少しだけ銀色に見える。こんなふうに触れられる時間があることを、幸せだと思った。心の底から思った。

 けれど、その幸せが深ければ深いほど、同じだけの重さで、胸の奥に問いが積もっていく。

 この人の未来を、自分が持っていていいのか。

 アキラは優しい。優しすぎる。悠真が笑えば安心するし、悠真が寂しそうにすれば手を伸ばす。何も言わなくても、いつだって悠真の一歩先を読んでくれる。欲しい言葉を、欲しい距離を、欲しい沈黙を、間違えない。

 その優しさに、悠真はどれだけ救われただろう。

 救われた分だけ、怖くなった。

 自分がいなければ、アキラはもっと自由なのではないか。

 そんな考えが浮かぶたび、悠真は自分で自分を笑った。何を今さら、と。病気が治った途端に善人ぶるなんて滑稽だ。死ぬとわかっていた頃は、アキラを残していく未来を知っていながら、それでも離れたくないと縋ったくせに。今さら彼のためなどと言うのは、あまりにも都合がいい。

 それでも、一度見えてしまった未来は、もう見えないふりができなかった。

 アキラの隣に、自分ではない誰かが立つ未来。

 アキラが穏やかに笑って、誰かに名前を呼ばれて、誰かのために夕飯を作って、誰かの帰りを待つ未来。

 その想像をするたび、悠真の胃の奥が焼けるように痛んだ。嫉妬だった。醜くて、浅ましくて、どうしようもない嫉妬。まだ何も起きていないのに、まだ誰もアキラを奪っていないのに、悠真は見えもしない誰かに苛立っていた。

 その苛立ちに気づくたび、ますます自分が嫌になった。

 アキラを自由にしたいと思いながら、アキラが自由になることを許せない。
 幸せになってほしいと思いながら、自分以外の誰かに幸せにされることは耐えられない。

 矛盾していた。

 けれど恋なんて、きっと最初から矛盾ばかりなのだろう。

 それでも悠真は、矛盾を抱えたままアキラのそばにいるほど、もう子どもではいられなかった。

 別れ話をするなら、夜がいいと思った。

 昼間では明るすぎる。朝では逃げ道がなさすぎる。ビデオ屋の営業後、リンが二階に上がり、店内の明かりが少し落とされる時間。棚に並んだ映画の背表紙が、照明の下で静かに影を作る。レジ横に置かれた小さな観葉植物の葉が、空調の風にわずかに揺れていた。

 アキラはカウンターの奥で、端末を確認していた。仕事の連絡だろう。眉間に薄く皺が寄っていて、けれど悠真が入ってくると、すぐに表情を緩めた。

「いらっしゃい、悠真。今日は遅かったね」

「ちょっとね。仕事が長引いちゃって」

「夕飯は?」

「食べたよ」

 嘘だった。

 朝からほとんど何も食べていない。けれどアキラは一瞬だけ目を細めただけで、それ以上は言わなかった。たぶん、嘘だと気づいている。それでも今は問い詰めないでくれる。そういうところが、どうしようもなく好きだった。

「アキラくん」

「うん」

「少し、話せる?」

 アキラの指が端末の画面の上で止まった。

 わずかな沈黙。

 その沈黙だけで、アキラは何かを察したのだと思う。昔からそうだった。悠真が言葉を選ぶ前に、アキラはその輪郭に気づく。気づいて、それでも先回りしすぎない。相手が自分の言葉で話すまで待ってくれる。

「もちろん。奥に行こうか」

「ここでいいよ」

 悠真は笑った。

 うまく笑えていたかは、わからない。

 カウンター越しの距離が必要だった。手を伸ばせば触れられる距離では、きっと言えなくなる。アキラの手を見てしまえば、握りたくなる。アキラの瞳を正面から見てしまえば、全部やめたくなる。

 だから悠真は、少しだけ視線を外した。

「別れよっか」

 言葉は驚くほど簡単に出た。

 簡単すぎて、自分で自分に呆れた。三週間も悩んで、眠れない夜をいくつも越えて、何度も言い出す練習をして、それで出てきた言葉がこれかと思うと、笑いたくなった。

 けれどアキラは笑わなかった。

 端末を伏せ、ゆっくりと顔を上げる。

 その目は静かだった。驚きも、怒りも、悲しみも、まだ何も浮かんでいない。ただ、悠真の声の奥にあるものを探すように、まっすぐこちらを見ていた。

……一応、理由を聞いてもいいかい?」

 柔らかい声だった。

 優しい声だった。

 その優しさが、悠真の逃げ場を奪った。

 本当のことを言えばよかった。

 未来が怖くなった。
 あんたの未来を僕が縛っていいのかわからなくなった。
 病気が治った途端、僕は長く生きられるかもしれないと思った。そうしたら、あんたにももっと長い未来があると気づいてしまった。
 その未来に、本当に僕がいていいのかわからない。

 そう言えばよかった。

 言えば、アキラはきっと怒っただろう。悲しんだだろう。呆れたかもしれない。それでも、話を聞いてくれたはずだった。悠真の不安を、悠真だけのものとして受け取ってくれたはずだった。

 でも、悠真は言えなかった。

 アキラが優しく受け取ってくれることを、知っていたから。

 受け取られてしまったら、きっと縋ってしまう。
 縋れば、またこの人は悠真を許してしまう。

 だから悠真は、いちばん愚かな方法を選んだ。

「いやぁ、長生きできるってなるとさ。色々やりたいことも増えるじゃん?」

 軽く言った。

 いつものように、少しだけ肩をすくめて。

「僕、今までけっこう刹那的に生きてたし。恋愛もまあ、その一環だったっていうか。病気が治ったなら、もう少し自由にやってみたいなって」

 アキラの表情は変わらなかった。

 変わらないことが、怖かった。

「それは、僕といると自由じゃないということ?」

「そういうわけじゃないけどさ。ほら、アキラくんって真面目だし、優しいし、ちゃんとしてるでしょ。僕みたいなのと付き合うの、疲れたんじゃない?」

「僕が疲れたと言ったことがあったかな」

「ないね。だから、僕のほうが疲れたのかも」

 言った瞬間、自分の声が少しだけ濁ったのがわかった。

 最低だな、と頭のどこかで思った。

 アキラの眉が、ほんのわずかに動いた。

 それは痛みだった。怒りではなく、痛み。刃物で切られたときのような派手な反応ではない。触れられたくない場所に、ふいに冷たい指を入れられたような、小さく鋭い痛み。

 悠真はそれを見て、胸が潰れそうになった。

 でも、止まれなかった。

「ま、性格の不一致ってやつ?」

 口角を上げる。

「僕、けっこう飽きっぽいしね」

 嘘だった。

 全部嘘だった。

 アキラに飽きるはずがない。
 疲れるはずがない。
 自由になりたいわけがない。

 本当は、ずっとそばにいたい。
 今すぐカウンターを越えて、アキラの手を握って、嘘だと言いたい。全部怖くなっただけだと、笑えないくらい情けない理由だと、白状してしまいたい。

 けれどアキラは、悠真の嘘を見抜いていた。

 見抜いて、それでも何も言わなかった。

 しばらくの沈黙が落ちた。

 店内に流れる小さな音楽が、やけに遠い。外を通る車の音、二階でリンが何かを片付ける微かな物音、冷蔵ケースの低い稼働音。日常の音ばかりが残酷なくらい平然としている。

 アキラは、伏せていた視線をゆっくり上げた。

「そっか」

 それだけだった。

 悠真は息を止めた。

「君がそういうなら、別れよう」

 思っていたよりも、あっさりとした声だった。

 けれどその声が平坦であればあるほど、悠真にはわかった。アキラは傷ついている。深く、静かに、見えないところで傷ついている。

 別れたいと言われたことにではない。

 悠真が、本当のことを話さなかったことに。

……物分かりいいね、アキラくんは」

 また余計なことを言った。

 言わなければいいのに。これ以上傷つける必要なんてないのに。けれど言葉が止まらなかった。アキラが優しく頷いてしまったから、その優しさを壊さなければ自分が壊れると思った。

 アキラは少しだけ笑った。

 笑った、ように見えた。

「そうだね。君の望みを尊重したいだけだよ」

「優しいなぁ」

「優しくないよ」

 その声だけ、少し低かった。

 悠真は顔を上げた。

 アキラの瞳は、いつもと同じ翡翠色をしていた。けれどその奥に、薄い膜のようなものが張っている。悠真を責めないための膜。自分の本音を、これ以上外に出さないための膜。

「僕はただ、これ以上君に踏み込んでいいのかわからなくなっただけだ」

 静かな言葉だった。

 悠真の喉が鳴った。

 アキラはそれ以上、何も言わなかった。どうして嘘をつくのかとも、本当のことを言ってほしいとも、別れたくないとも言わなかった。

 言ってくれればよかったのに、と思った。

 引き止めてくれればよかったのに。
 怒ってくれればよかったのに。
 嘘つきだと、卑怯者だと、ちゃんと罵ってくれればよかったのに。

 けれど、そんなことを望む資格は悠真にはない。

 嘘をついたのは自分だ。
 手放したのも、自分だ。

……ごめんね」

 その言葉だけは、本音だった。

 アキラは頷かなかった。

 許すとも、許さないとも言わなかった。

「気をつけて帰って」

 ただ、それだけ言った。

 悠真は笑って、ひらりと手を振った。軽薄な、いつもの浅羽悠真の仕草。カウンターの向こうにいるアキラは、それを見送るだけだった。

 店を出ると、夜風が頬を撫でた。

 病気だった頃なら、冷たい空気を吸い込むだけで胸が痛んだ。今は痛まない。苦しくもない。肺はきちんと空気を取り込み、心臓は規則正しく動いている。

 完治した体は、驚くほど健康だった。

 だからこそ、悠真は少しも言い訳ができなかった。

 路地の角を曲がって、ビデオ屋の明かりが見えなくなったところで、ようやく足が止まる。

 吐き気がした。

 膝に手をついて、悠真は声にならない息を吐いた。胸は痛くない。苦しくない。どこも悪くない。医師の言う通り、体は正常だ。

 それなのに、心だけがひどく痛かった。

……ばかだなぁ、僕」

 夜の街に、声が溶けた。

 当然だ。自分で選んだ。自分で言った。自分で、あの人の目の前から離れた。

 これがアキラのためだと思った。
 アキラには、もっと良い未来があると思った。

 でも本当は。

 アキラの未来に自分がいない可能性を考えるのが怖くて、先に逃げただけなのかもしれない。

 悠真はその場でしばらく動けなかった。

 泣きはしなかった。

 泣けるほど、自分を可哀想だとは思えなかった。