みずあめ
2026-05-09 23:03:16
2899文字
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ゆづあい

ワンライお題「糸」
ちょっとSF(すこしふしぎ)

事務所に入ってすぐ、目の前に垂れた赤い糸に気がついて足を止めた。ミシン糸のような細い糸は俺の目の前から事務所の奥、カフェに繋がる扉へと伸びている。
また芦佳のイタズラか?
すぐにそう考えたけれど、芦佳は一昨日から海外に行くと言っていたはずだった。いくらアイツでも一日で飛び帰ってくるとは思えない。それならば、誰が、何の意図で?
少し考えてみても心当たりはない。だが、このままにしておいてはそのうち誰かが引っかかってしまうだろう。まずはこれを片付けてから犯人を探せばいい。俺は糸を辿ってカフェの方へ足を運んだ。事務所ではゆるく垂れ下がっていたそれはカフェが近付くにつれピンと張っていくようだった。どうやらこの糸の先はどこかに繋がっているらしい。
カフェのバックヤードを覗き、そこに誰もいないことを見てから糸を目で追う。繋がっているのはここではないようで、次は糸が挟まっているキッチンに続く扉を開いた。
「あれ、逢さん? お疲れ様です。戻られたんですね」
……ああ」
「どうかしましたか? あ、賄いですか?」
「いや、昼食は外で食べてきた」
「?」
おそらくいつになく戸惑った顔をしているだろう俺を見つめて、由鶴はきょとんと首を傾げる。サラダを盛り付ける由鶴の左手に、俺が追ってきた糸の先が繋がっていた。手袋をして調理中の由鶴が自分でそんなことをするとは思わないし、そもそも、由鶴はその存在にすら気が付いていないようだった。
……最近、何か変わったことはないか」
「え? 変わったこと……、今日は珍しくランチにデザートをつける方が多くて、ランチだけで用意していたケーキがなくなりそうです。……とか、そういうことではなさそうですね?」
由鶴は「ちょっと待っててください」といつも通りに微笑んで言うと手早くサラダを仕上げ、デシャップ台に置いた。ホール側でそれを取ろうとした神家に声をかけて呼び止める。
「少しだけキッチンを抜けるから、もし注文が入ったらお客様に提供に時間がかかる旨を伝えてくれる?」
「了解です。こっちはもうピークも終わったししばらく大丈夫だと思うけど、何か問題発生? お手伝いできることある?」
「ううん、逢さんが戻ってきたから共有事項を伝えてくるだけ。ありがとう。注文溜まってきたら声かけてもらってもいい? できるだけ早く戻るね」
「はーい! いってらっしゃい」
「よろしくお願いします」
さくっと話を切り上げ、由鶴は手袋を外しながら俺の方へとやってきた。糸は、変わらずそこにある。由鶴の左手の薬指に。
「お待たせしました。事務所に行きますか?」
……そう、だな」
「今日、お水はどれくらい飲みましたか? 今の時期でももう昼間は暑いので水分補給を忘れないでくださいね」
「体調に問題はない。そうではない、……いや、もしかしたらそういう類なのか……?」
「じゃあコーヒーの代わりに麦茶にしましょう。あ、差し入れでもらったお菓子がありますよ。チョコのやつ。食べますか?」
「いい。俺の分はおまえがもらっておいてくれ」
「やった。じゃあいただきます」
二人で事務所に戻り、俺は由鶴がグラスに入れてくれた麦茶を受け取って自分の席に座った。由鶴も麦茶とチョコを持って隣に座る。
「それで?」
……念のため確認をしてもいいか」
「? はい、なんですか?」
「それは、自分で付けているわけじゃないよな?」
「それ?」
俺が指で示した糸とは少しズレた場所を由鶴の視線が彷徨い、ぱちぱちと瞬きをして俺を見つめてくる。やはり由鶴がやったわけではなく、糸自体も由鶴には見えていないようだ。だとすれば由鶴の言う通り、俺が熱中症の疑いがあるのだろうか。
何をどう伝えればいいのか、冷静になるために麦茶に手を伸ばす。その時になって初めて、グラスを持つ自分の左手にも糸が繋がっていることに気が付いた。由鶴と同じように、赤い糸が左手の薬指に結ばれている。
……は」
「逢さん?」
自分の手と、由鶴の手を交互に見やると、さっきまで垂れていたはずの糸がその間でピンと張っている。お互いの左手の薬指を、赤い糸が繋いでいる。
……本当に疲れているのかもしれない」
「え。……大丈夫ですか? 今日の分は俺に投げて、逢さんは帰った方が」
「由鶴、聞きたいことがある」
「はい?」
「お前のことが好きだ」
「は? ……え? え、あの、逢さん、なにを……?」
「お前が俺のことをどう思っているか、聞いても?」
……好き、ですけど、急にどうしたんですか?」
「職場の人間としてではなく、恋人として付き合いたいという意味だが、お前は?」
「え」
俺を見つめたまま溢れるんじゃないかというほど目を見開いて固まった由鶴は、数秒後には顔を赤く染めていた。すぐに拒絶されなかったことにほっと息を吐き、ちらりと赤い糸に視線をやる。これが幻覚だろうが構わない。可能性があるなら、賭けてみたい。
「俺はお前と恋人になりたい。由鶴は、どうしたい?」
……おれは、……あなたのことを、とても尊敬していて、……逢さんは俺なんかが釣り合うような相手じゃないです」
「つまり、付き合うことはできないと?」
…………俺でいいんですか?」
俺の視線から逃げるように俯いた由鶴の聞き逃してしまいそうな小さな声でも、目の前にいて、俺が取りこぼすわけがない。
「由鶴がいい」
……俺でよければ。俺も、逢さんのことが好きです」
ちゃんとそういう意味で、好きです。二度目の「好き」は顔を上げしっかり俺の目を見て言った由鶴に、ドクンと心臓が跳ねた。
俺は急に喉の渇きを覚え、さっき飲みそびれた麦茶に手を伸ばした。そうしてさっきまで赤い糸が結ばれていたそこに何もないことに、目を見開く。バッと由鶴の方を向けばそちらも赤い糸は跡形すらない。本当に幻覚だったとでも言うのか? いや、幻覚じゃなかったとしても、説明はつかないが。
「逢さん? やっぱり体調が」
「いや。……いや、もう、どういうことか……
「? でも、どうして急に、こんなタイミングで告白を? 出先で何かあったんですか?」
……赤い糸が」
「え?」
……いや、なんでもない。……ただ由鶴を好きだと伝えたくなっただけだ」
「それは、嬉しいですけど……。こんな仕事中じゃなくて、逢さんの家にお邪魔した時とかでも良かったのに」
……今夜の予定は?」
……いえ、特には」
「それなら今日は残業は禁止だ。俺の家で夕食を一緒に食べよう。話は、そこで」
「話って?」
「俺が勢いだけで言っているのではなく、本当に由鶴のことを好きだということを伝えさせていただいても?」
……それじゃあ、俺もただ逢さんに言われたから返事をしたってわけじゃなくて、ちゃんとずっと前から逢さんのことが好きだったってことを話した方がいいですかね?」
「ぜひ」
「ふふ」
約束ですよ、と嬉しそうに笑って、由鶴は俺の手を取り小指をきゅっと結んだ。赤い糸はもう見えないけれど、きっとこれからもずっと、それは俺たちを繋いでいる。