tokanon
2026-05-09 22:09:55
2471文字
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夏の日ろささ

乳首の話の後日談かも

 焼けた鉄の外階段を、カンカンとリズミカルに踏んで部屋の前に立つ。盧笙の部屋の鍵を開けるときはいつもひとつ息をしてからキーを回す。カチリ。素直に回る錠の音を聞いて満面の笑みでドアを開ける。
「ろしょ〜! たっだいまー! 愛しの簓さんのお帰りやで!」
「おうお帰り、て何がただいまやねん、お前んちちゃうねん」
 いつものやりとりもそこそこに、エアコンの下に立って全身に風を浴びる。汗で湿った肌がひんやりと気持ちいい。盧笙は体温が高いから、いつも俺には寒いくらいエアコンをきかせている。飲んでる途中に寒くて毛布を引っ張り出すこともあるけど、炎天下の中駅から歩いてきた身としては非常に助かる。
「ふい〜、生き返ったわ。最近えっぐいな、もう日ィ落ちるっちゅーのに異常気象やで」
「そうか? 昔より体力落ちとんのとちゃう?」
「ムッカー! 今日も真夏の外ロケ全力でやりましたぁ、ロショセンこそ若い子に体力吸い取られとるんとちゃいます〜?」
「バカにすんなや、体育祭の教師対抗リレーMVPやぞ、平均年齢40歳やけど」
「ふはは、それ自慢になるかぁ?」
 笑いながらツマミのビニール袋をぶら下げて冷蔵庫に向かう。ロケ先でついでに包んでもらった惣菜には、おばちゃんの気遣いでたっぷり保冷剤を入れてもらったけどこの気温だと心配だ。まだひんやりしていることを確認して冷蔵庫の中に突っ込んだ。ふと目をやったシンクの中で、なぜか風呂の洗面器の中に入ったヤカンが鎮座していることに気づいた。
「なあ盧笙、なにこれ」
「これってなんや? ああ、ヤカンのことか」
 立ち上がった盧笙が俺の後ろからシンクを覗き込み、洗面器の水の温度を確かめるように指を突っ込んだ。
「だいぶ冷めとるな、もうええやろ」
 シンク下の棚から大きめの冷水筒を取り出して、盧笙はおもむろにその中にヤカンの茶を注ぎ始めた。まだぬるいお茶から、麦の香ばしい匂いがふんわり香る。
「麦茶やぁ……
 この匂いを最後に嗅いだのはいつのことだったろうか。小学生の頃、夏になると学校に持っていく水筒にオカンが詰めてくれていたのも麦茶だった。オカンが出てったのは春で、その夏からうちの冷蔵庫に麦茶はなくなった。
「盧笙、いっつもペットボトルやったやん」
「節約や。お前らしょっちゅう来るからイチイチ買うとったら破産するわ」
 盧笙が冷凍庫を開け、ボックス付きの製氷皿を取り出す。グラスに四角い氷を放り込んで、作りたての麦茶を注ぐと、透明な氷にピシピシと音を立ててヒビが入った。
「ほれ、酒飲む前に水分補給しとき。ロケで汗かいたんやろ」
 差し出されたグラスが結露で曇る。俺のために作ってくれた麦茶の中で、氷がまたパシリと音を立てて割れた。やかんの麦茶のこと、水道水で作った氷のこと、俺がずっと忘れていたものだ。
「ろしょ、オカンみたい」
「あ? 誰がオカンや誰が……
 ぽすん、と盧笙の胸に額を当てた。強すぎるエアコンで冷えてきた体に、高い体温がじわりと沁みる。そのまま額を擦り付けると、薄く盧笙の汗の匂いがした。俺の好きな匂いだ。
 グラスをカウンターに置く音がする。後頭部に温かい手が添えられて、不器用に髪を撫で始めた。
……ねーんねーん、ころーりーよー」
「ぶほっ」
 突然の謎の子守唄に思わず咽せてしゃがみ込んだ。
「うひ、うははは、は、ぶふぅ、うひゃひゃひゃ、はー、な、なんで、こもりうた」
「わ、笑うなや、子供のあやし方なんか知らんねん!」
「それにしても、ひー、苦し、息できへん」
 笑い転げる俺にむすっとした顔をして、盧笙はズカズカとリビングにもどり、背中を向けて座布団に座り込んだ。あかん、すっかり拗ねてもうた。丸まった背中に抱きつき、頬を擦り寄せる。
「ごめんな、笑うて」
 盧笙が俺の手を掴んで身を捩る。あれ、と思った途端に視界がぐるんと周り、気がついたら盧笙の胸に抱き込まれていた。
「わ、な、なに、ろしょ……
「ええから」
 そのままグリグリ頭の後ろを撫でられる。炎天下に歩いてきた頭は臭うはずなのに、盧笙は気にもせずに俺を抱きしめる。
 こんな日が子供の頃にもあったのだろうか。あの頃のオカンはいつもイライラしていて、怒っているか泣いている姿しかもう思い出せない。オカンが出て行った後、空っぽの冷蔵庫を開けて、どれだけオカンが家族のために働いていたかを初めて知った気がする。だけど、俺は多分、水筒の中身がペットボトルのお茶でも水でも、オカンが笑ってくれていたらそれで良かったのだ。
 顔が見られないのをいいことに、浮いてきた涙を盧笙の胸で拭く。盧笙と付き合い始めてから、俺は自分の弱さを自覚することが増えた。それはすごく怖いことで、でも嫌な気分じゃない。ずいぶん遠回りして、今はそう思えるようになった。
「なあろしょー」
「なんや」
 返す声はあくまでぶっきらぼうだ。付き合っていても盧笙は相方で、親友で、俺を女の子みたいには扱わない。もちろんオカンでもない。
「一緒に住んだら、毎晩子守唄うたってくれる?」
「いっ!!?」
 盧笙がデッカい声を出して、俺の肩を掴む。あったかい胸から引き剥がされた不満で唇を尖らせたけど、盧笙はそれどころではなかったようだ。
「や、やっと一緒に住む気になったんか!?」
「んー、どうやろ、盧笙がまいんち麦茶沸かしてくれんならええかも」
「いやそれはお前もやれや、亭主関白か」
 なはは、俺が亭主でええんや。クスクス笑って盧笙の首に抱きついた。オカンにもオトンにも、もう別の家族がいる。だけど俺は一人じゃないし、これから自分の家族を作ることだってできる。その相手に立候補したこの男をずっとはぐらかし続けてきたけれど、どうやら撤回する気はなさそうだ。そろそろから折れる時がきたのかもしれない。なんたって亭主やからな?
 ついばむように始まった口付けは、だんだん深さを増して行く。ほっとかれた麦茶のグラスの中で、溶けた氷がカラリと音を立てた。