曹操の機嫌が良いとき、許都の丞相府で腹心ばかりを集めた無礼講の酒宴が催されることがある。今夜がそうで、漢王朝を掌握する冷厳たる丞相は気心の知れた部下たちに囲まれて満足そうに酒盃を傾けていた。
そして夏侯惇はそれを離れた場所から眺めて酒を飲んでいる。歌舞も演劇もない、本当にただ男たちが集って好きに飲み食いするだけの無骨な席だが、だからこそ普段は曹操に遠慮して声をかけられないような者たちには気楽なようだ。張遼や徐晃と過去の戦史を語りあう曹操など、こういう場でなければまず見られない。
「どうしたよ惇兄、こんな隅で。殿の所に行かなくていいのか?」
小皿一杯の剥いた胡桃と盃を手に、目ざとい従弟が夏侯惇の前へやって来た。夏侯惇は広い室を支える一柱の陰で片胡座を組んでいる。
「孟徳ならあの通りだ。こんな夜まで俺が相手をする必要もあるまい」
「それにしたってよ。惇兄と話したがってる連中だって山ほどいるんだぞ? せっかくの宴だってのに、天下の前将軍様がなんだって隠れてるんだ」
「淵よ」
「うん?」
夏侯淵は胡桃を頬張りながらきょとんと瞬いた。
「少し声を抑えろ」
「……うん?」
胡桃の小皿を奪い取りながらやや高く腕を上げると、夏侯惇の背を使って丸くなっている男の黒い衣が覗く。巨躯を曲げてそれを確認した夏侯淵の表情が、訝しげなものからみるみるうちに苦笑いへ変わっていった。
「なんだよ。探してもいねえと思ったら惇兄のとこにいたのか」
「人の飯と酒を平らげてさっさと眠りおった。おかげで腹が減ってかなわん」
「そりゃ災難だったな惇兄」
小さくひと笑いした夏侯淵が配膳役のもとへ向かい、さっと肉や蒸餅の乗った膳を用意させて戻ってくる。追加の酒も忘れないのがこの従弟の出来たところだ。
気持ち慎重に夏侯惇と並んで腰を下ろした夏侯淵は、ぐるっと目を回してみせてからおもしろそうに唇を緩めた。
「無名も、よくもまあこんなとこで眠れるもんだよなあ」
腕を組み、夏侯惇の背中に右半身を預けて目を閉じる男の白い顔に、珍しく赤味が差している。それがなければ死んでいると言われて信じかねないほど静かな寝姿だ。
「宴が始まる前から眠い眠いと船を漕いでいたからな。限界だったんだろう」
どこぞで小競り合いを平定し、軍師どもに指示された任務をこなしと、その使い勝手のよさのあまりあちこちを飛び回る無名だ。はっきりとした官職を得ていないからこその身軽さは、能力に見合った役職に縛られがちな曹操麾下では非常に重宝されている。
瑞鳥よ、暁天の鸞よともてはやされても無名も一応は人間だ。疲労は蓄積する。主君の催した宴の最中に意識を飛ばす無礼も多少は大目に見てやるべきだろう。
「それで惇兄がそのでっけえ背中で匿ってやってたわけだ。飲み食いもせず」
「おまえにでかいと言われてもな」
無礼講をいいことに、割いた蒸餅に肉を挟んで頬張る。夏侯淵に放った軽口ほどに自覚してはいなかったが、咀嚼するよりも早く口中に唾液が満ちてきたから、やはり腹は減っていたらしい。
「惇兄は無名に甘いよなあ」
「……そうか?」
隻眼を瞬かせて夏侯淵を振り向くと、従弟は手酌で盃をなみなみ満たしている。
「そうだろ? 俺が殿の宴席で居眠りなんかしちまったら、絶対ぶん殴って叩き起こすもんな」
「当然だ」
そら見ろ、と夏侯淵は笑った。
「なら無名にもそうすりゃいい。なんだって似合わねえ我慢までして好きに寝かしてやってるんだ?」
口の中のものを飲みこむふりで時を稼ぐ。夏侯惇はのんびりと嚥下し、ついでに酒を含んで、そして夏侯淵を鼻で笑った。
「おまえが俺の代わりを務めてくれても構わんのだぞ。どす黒い隈を浮かべて寝入る男を殴りつけて、その尊き仁心が痛まぬのならな」
「それを言われちまうとなあ」
「于禁くらいだ、そんなまねができるのは」
「ははっ、違いねぇ」
まだ酒の残る酒器を置いたまま立ち上がった従弟を目線で追う。腰に手を当て、夏侯淵は夏侯惇に歯を見せて笑った。
「于禁で思い出したぜ。どうせ挨拶回りもまだなんだろ? 大任を遂行中の夏侯将軍に代わり、不肖淵が皆々様へのご挨拶を仕ろう」
「そうか。かたじけない夏侯将軍」
万事そつのない夏侯淵の背中が明るい場所へ向かっていくのを見送り、夏侯惇は手に残る蒸餅をすべて口に放りこんだ。何度か噛み、腹まで酒で流す。
「それで、いつまでそうしているつもりだ」
「……もうしばらく」
ごく低い、囁くような声が返ってくる。夏侯惇の背中を滑り落ちてくるように左脇の下から現れた無名は、目をしばたかせてまだぼんやりしていた。
「眠い……今の声は、妙才殿か」
「おまえを探していたようだぞ。あとで顔を見せてやれ」
「うん」
ゆらゆらとさまよい出てきた右腕に盃を持たせ、酒をそそいでやる。ちびちび舐めてはいるものの、あくびを噛み殺す回数のほうが多い。
「しゃんとしろ。いくら無礼講とはいえ、一度くらいは孟徳へきちんと挨拶しておけよ」
「うん……」
「……無名、起きてはいるのだな?」
「うん……うん」
「紫鸞」
変化は劇的だった。
黎明の湖に初めて陽光が当たった瞬間のように、寝ぼけてしょぼしょぼしていたはずの目がみるみる力を取り戻す。だらしなく緩んでいた目尻が上がり、頬の赤みは一瞬で引いてしまう。眠気で半開きだった唇はすっきりと引き結ばれて静けさすら漂う。
すっかり平素の面になった無名が、それでも恨めしげな視線を流してきたのを、夏侯惇は知らぬふりで受け流した。
「なんてひどい人だ。殿のために粉骨砕身して戻ってきた俺に、元譲殿はうたた寝も許さないんだな」
「つい今までのことを忘れてよく言う。背中が凝ってたまらぬわ」
「鍛えかたが足りないんじゃないのか」
「そうだな。だからおまえも俺の背など使わぬがいい」
愕然とした顔で夏侯惇を振り返るのが愉快だ。普段はあまり表情が動かないくせに、こういうときばかり大きく目を見開いて口を丸くする。
く、と笑ってその面を肴に酒を飲んだ。
「惇兄……それは困る」
無名が気まずそうに横を向く。
「何を困る」
訊ねると、無名の唇がもごりと動いた。ただでさえ口の重いこの男だが、さらによくこうして言葉を放つ前に呑みこもうとするので、こちらから繰り返し促してやらねばならない。
「無名。笑いはせんから言ってみろ。ただ宴席でおまえとくだらぬ話に興じたいだけだ」
「大した話ではない」
「であれば、なおさらこの場にふさわしかろう」
ふっ、と無名が目を伏せた。居心地悪そうに身じろぎし、せわしない指先が酒盃をもてあそぶ。
「……本当に、大した話ではない。あなたの近くは安全なので安心して存分に眠っていられると、それだけの話で」
夏侯惇は酒を噴き出す衝動をかろうじて耐えた。斜め下を見つめてじっと盃を握りしめる無名を凝視し、凝視し、視線が交わらないことに奇妙な安堵を感じながら慎重に嚥下する。
気ままな猫がふいに自分を見上げて喉を鳴らしたときのような、なんともいえない感慨があった。
「……なんだ、元譲殿」
気づけば手が無名の頭の上にある。寝癖がついたままの髪はあちこち跳ねて、夏侯惇の皮膚をくすぐった。
「孟徳に顔を見せてこい」
手のひらの下で素直に頷いた頭を、一度だけぽんとやる。
「それが済んだら背中を貸してやる」
無名は数回すばやく瞬いたあとにうっすらと微笑んだ。
「……惇兄はいささか俺に甘い」
囁くような声にも笑みが混じっている。夏侯惇はそれを聞きつつ盃を干した。
「なんだ。今更気づいたのか」
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