鳴上
2026-05-08 22:52:24
2740文字
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遠くの星で待っている

今書いてる長めの話の冒頭。学パロとかではない。

 頰に伝った何かの冷たさで、シンはふと目を覚ました。まだ部屋の中はぼんやりと薄暗くて、夜と朝のちょうど真ん中くらいだろうか。何かが足りない気がして、ツキンと胸が痛んだ。何か夢を見ていた気がする。思い出せないけど、大事なことだったようにも思う。
 顔を動かすと、白いシーツに金髪が散らばった。薄く発光しているように見えるシーツに、シンの細い髪の毛が泳ぐ。どこかでこの光景を見た気もするし、初めて見るような気もする。
 物音ひとつ聞こえない静かな時間に、少しずつ意識が薄れていく。嗅いだ覚えのある香りが鼻をくすぐった。だけどその香りがなんなのか分からなくて、確かめるように少し大きめに息を吸った。さらりとしたシーツは自分のものではないのに、なぜか肌によく馴染む。不思議に思いながらも閉じそうになった瞼で一度瞬きをして、先ほど流れた冷たいものが涙であることを悟った。
 泣くほど悲しい夢でも見たのだろうか。それとも、ただの生理現象だろうか。ぼんやりとした頭でそう考えて、眠気に耐えきれなくなったシンは再び眠りについた。

1.スロースタート

 どこか遠くで、誰かが呼んでいる気がした。ふわふわと身体が浮いている。真っ暗なようで明るくて、温かいようで冷たいそこに、ただひたすら漂っていたように思う。何をしていたっけ。自分のことさえも思い出せないその空間で、頭を捻る。また、誰かが呼んでいるような気がした。どこから聞こえるのか分からない声の主を見つけるために、目を閉じて耳を澄ます。
 聞き取れないその声はだんだん大きくなっていき、それから聞き慣れた電子音に切り替わった。ピピピピ、ピピピピ。枕元から聞こえるその音は、シンの眠りを大いに妨げた。
……うゔ、ん……
 唸りながら手で適当に探り、発信源のスマホのアラームを消そうともがく。しかし何度も空振り、次第に音が大きく激しく震えるスマホが鬱陶しくて、シンは身体を大きく動かした。
 途端に感じる浮遊感。自分の身体が言うことを聞かず、かくんと力が抜けた。その後後頭部と背中に走った衝撃は、シンの脳を覚醒させる。ベッドから落ちたのだ、と気がついた時にはもう手遅れだった。ジンジンと鈍い痛みが広がって、シンは再び低く唸った。
「くそ、朝からツイてね〜」
 足だけをベッドに乗せた状態で、シンは窓から差し込む太陽光に目を細めた。昨日閉めたはずのカーテンが開いている。きっと父親が起こしに来た時に開けたのだろう。そんなことに全く気が付かずシンは眠り続けていたわけだ。
 レースカーテンの向こうには、朝に相応しい色をした空が広がっている。軽やかな鳥の声が聞こえてきそうな、少し濃いめの味噌汁の香りが漂ってきそうな、そんな朝。
「空、あお……
 前にもこんな青い空を見たことがある気がする、と思ったけれど、空はだいたい青いし、朝はだいたい爽やかなものだ。気のせいだったと片付けて、シンはふう、と息を吐いた。
「おいシン! 早く起きねーと学校遅刻するぞ」
「はぁーい」
 階下から響く怒鳴り声にいつものように返事をして、シンは勢いよく立ち上がった。まずはこのうるさい音をどうにかしなければ。ピピピピ、とアラームがシンを起こそうといまだに音を立てていた。

「おはよう寝坊助、ご飯は自分で盛れよ」
「おー。おはよ、親父」
 くわ、とおおきな欠伸をして、シンはすでに濡らしてあるしゃもじを手に取った。五合炊の炊飯器には白い輝きを放つ米が敷き詰められており、その一部だけが形を崩されていた。親父、また混ぜずに自分の分だけ取ってやがる。カウンタータイプのキッチンは、二人で使うには少し狭い。二口あるコンロの一つには昨日シンが作った味噌汁が温められており、父親はそれをお椀によそった。その斜め後ろでシンはご飯を盛る。ついでに冷蔵庫から食べかけの明太子と沢庵を出して、席に着いた。
 遅れて父親もやってきて、いつもの朝ごはんが始まる。いただきます、と口を揃え、出来立ての目玉焼きを割る。とろりと黄身が流れてきて、シンのテンションは僅かに上がった。開けていた窓から柔らかい風が入る。カーテンが揺れて、窓際の観葉植物が光を反射した。テレビには朝のエンタメ番組が流れている。小さい頃に、テレビが見えるからこっちの席が良いと駄々をこねてから、ご飯中に視界にテレビを収められるのはシンだけだ。父親は耳で聞きながら、たまに気になるものがあるとチラリと後ろを振り向くのだ。ご飯中にテレビなんて、と言われるかもしれないが、父親の仕事が忙しく幼い頃から一人でご飯を食べることの多かったシンに、彼が注意をすることはなかった。
 咀嚼しながらなんとなくテレビを見ていると、豪華客船の特集をやり始めた。今東京に泊まっているらしいその船は、プールがあったりショッピングができたりとかなり豪華だ。そういえば。
「俺って、昔でっかい船乗ったことあるっけ?」
 そう言われ、後ろをチラリと振り向いた父親は、視線を上に向けた。
「あー、確かお前がまだ小さかった頃行ったな。碇も一緒だったぞ」
「げえ、碇さんもかよ」
「父親の部下に対してげえ、はねーだろ」
「だってあの人、親父の遺伝子がどーだとかよく分かんねーことしか言わないし」
……仕事のできる奴ではあるんだ」
「フォローになってる? それ」
 会話が特別多いわけでもない、父と子の二人暮らし。母親は知らない。父親は何も言わないし、シンもあまり気にしていない。シンの家族はこの小さなアパートの部屋で完結していて、そこには父親がいるだけで良かったから。
 食べ終えた食器を片付けると、そろそろ家を出るちょうど良いくらいの時間になっていた。薄いスクールバッグを肩にかけ、お気に入りのスニーカーを履く。バイト代を貯めて買った、シンだけのスニーカーだ。
「俺もう行くけど。親父今日晩飯は?」
 玄関から声をかけると、壁の向こうから父親がヒョイと顔を出した。忙しい時以外は、こうして見送りをしてくれるのだ。
「今日は会食があるからなくていい。お前も好きにしろ」
「んじゃ坂本さんとこで適当に買って食べる」
「今日バイトか?」
「シフト入ってないから、買いに行くだけ」
「そうか、気をつけて行ってこいよ」
「おー、親父もな」
 トントン、とつま先を鳴らし、玄関の扉を開けた。朝の香りが鼻をくすぐる。なんの変哲もない日常を、シンは今日も享受する。
 軽快な足音を立ててシンが去って行き、少し遅れてカチャンと扉が閉まった。少しだけ古ぼけたチャイムの上には、表札が飾ってある。右斜め上に歪んでいる『安藤』という文字が、朝日に照らされ揺らめいていた。