minato_kt
2026-05-08 22:31:20
6639文字
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御景山の狐と鴉 - 第1話 呼子鳥


 りん、と澄んだ鈴の音がした。

(あれ?)
 夢から覚めたみたいな心地で、彼女はぱたりと瞬いた。
(ここ、どこだっけ。わたしは、何をしてたんだろう)
 眠い目を擦りつつ、周囲を見渡す。
 薄暗い山の中だ。座り込んだ背中に、ごつごつとした木の幹の感触が当たる。
 すう、と息を吸い込めば、湿った土の匂いと早春の空気の冷たさが胸に沁みた。
(そうだ。ここは、ミカゲ山。わたしは、……ヤコ。弥子やこ
 確か、そう呼ばれていたはずだ。
 眠気を払うように頭を振れば、徐々に思考が回り始める。

 母はいつものように朝早くから出かけていた。
 弥子たちの食べる物を探すためだ。分かっていても、寂しいものは寂しい。それでぐすぐすと泣いていたら、上の兄に家を追い出されてしまったのだ。
 入れて、入れて、と必死に戸を叩いても、意地悪な兄はだんまりを決め込んで、他の兄や姉たちは気付いてくれない。
 仕方がないので、山に向かった母を追いかけた。でも、母は見つからなくて、探しているうちに道に迷ってしまった。
 冬の名残りを残す山中には、まだ雪が溶け残っている。

 母を呼びながら山を彷徨ううちに、ぬかるみに足を取られて弥子はべしゃりと転んだ。
 悲しくて、痛くて、冷たくて、疲れ切って、そのまま木の根元に座り込んで眠ってしまったのだ。たぶん。
「どうしよう……
 弥子は身体を丸めて、立てた膝に顔を埋めた。
 山に入った時はまだ明るかったはずだが、寝ているうちに日が沈んでしまったらしい。
 枝を広げた木々の影が、得体の知れないおばけのように見える。
 夜風が枝を揺らすたび、小動物が木々の隙間を走り抜けるたび、弥子はびくりと身を縮めた。
 かえりたい、という思いだけがあった。
 それなのに、来た道も帰る道も分からない。立ち上がる体力も気力もなくて、弥子はただただ途方に暮れて木々を見上げた。

 その時だった。
 りん、と澄んだ鈴の音が聞こえたのは。

(何の音だろう)
 首を巡らして、音の方向を探す。
 怖くはなかった。
 確かに、夜の山中で聞こえるには異質な音だ。
 でも、それはあまりに清らかで、悪いものの気配が少しもなかったから。
 りん、とまた鈴の音がした。
 続いて、バサバサと、枝をかき分けるような、あるいは鳥の羽音のような音がする。
 仰いだ視線の先。木々の間から姿を現したのは、どこか不思議な雰囲気の少女だった。

 年の頃は十二、三だろうか。
 振り分けた黒髪を肩のあたりで切り揃えて、赤い色糸の髪飾りを花の形に結っている。
 黒い衣と赤い袴を纏った身体は華奢で、肩に羽織った外衣を引き寄せる手は白く細い。足元は黒い足袋に一本歯の高下駄を履いている。
 見慣れないいでたちだ。あからさまに華美というわけではないが、ふつうの里の娘にも見えない。
 彼女は木の根元に座り込む弥子を認めると少し目を瞠って、それから不機嫌そうに眉を寄せた。
「こんな時間に、お前のような幼子がひとりでどうしたんだ」
 苛立たしげな声に、弥子はびくりと肩を震わせた。
 地面に手をついて後退り、木の幹にぴたりと背をつけて怖々と少女を見上げる。
 そんな弥子の反応に、少女は戸惑ったように黒い睫毛を瞬かせた。
 衣の裾を払ってしゃがみ込み、弥子と高さを合わせるようにして視線を合わせる。
「すまない。怖がらせるつもりはなかったんだ」
……おこって、ない?」
「怒ってないよ」
 弥子を安心させるように、少女が少しだけ表情を緩めて、声音を和らげた。
 そうすると、冷たく素っ気ない雰囲気が薄れて、いくらか親しみやすい印象になる。
「大丈夫か。怪我をしているのか?」
 気遣わしげな視線が、座り込んだままの弥子の足のあたりを心配そうに見遣る。
 弥子はぶんぶんと首を振って、少女を真っ直ぐに見つめた。
「あのね。わたし、おかあさんをさがしにきたの」
「母君を?」
 少女が首を傾げる。
 濡羽色の髪がさらりと揺れて、赤い髪飾りの先に付けられた小鈴がりりん、と鳴った。
 弥子は頷くと、短く息を吸い込んだ。
「うん。あのね……
 一度話し始めると、堰を切ったように言葉が溢れてくる。
 兄に家を追い出されたこと。母を追いかけて道に迷ったこと。要領を得ない弥子の説明を、少女は辛抱強く聞いてから、生真面目な瞳で弥子をひたと見据えた。
「それで、お前はどうしたいんだ」

……かえりたい」
 その願いは、考える間もなく口から零れ落ちた。

 そうか、と呟いた少女が瞑目し、僅かに俯く。
 それから何かを振り払うように息を吐いて、静かに顔を上げた。
「分かった。それがおまえの望みなら、私が導こう」
「いいの?」
「ああ。この山には慣れている」
 どうやら、麓まで道案内してくれるらしい。
 良かった、と頬を緩める。少女が立ち上がって、弥子に手を差し伸べた。
「立てるか」
「うん。……っと、わわ」
 思いのほか強い力で引っ張り上げられて、少しよろめく。
「大丈夫か」
「ん、ありがとう」
 細い手に背中を支えられ、弥子はにこりと笑って少女を見上げた。
 少女が微かに表情を緩めて、弥子を見下ろす。
 その眼差しに、一瞬、物憂げな色が見えたのは、弥子の気のせいだろうか。
 あれ、と瞬いた時には、それは既に霧散して、確かめるすべもない。
「行こうか」
 柔らかな手が、弥子の手を引く。
 ばさりと衣を翻した少女を追って、弥子も歩き出した。


 さらさらと、水の流れる音がする。
 近くに小川でもあるのだろうか。きょろきょろと辺りを見回していると、前を行く背中に置いていかれそうになる。
 ぱたぱたと小走りで追いかける。足音を聞き咎めてか、少女が振り返った。
「急がなくて良い。速かったか」
「ううん。大丈夫」
「そうか」 
 意地を張って首を振ると、少女は素直に頷いて歩を再開する。
 少女の足取りには迷いがなく、彼女についていけば間違いない、という信頼を弥子に抱かせた。

 でこぼこしてぬかるんだ山道を、黙々と進んでいく。少女はもとから口数の少ない方なのか、余計な言葉を発することはないし、弥子の方は上り坂に息を切らして、会話をする余裕がない。
 黙々と、といっても、夜の山は意外と騒がしい。夜風が木々の間を渡る音。夜行性の小動物が駆け回る音。フクロウの低く深い鳴き声。それに重なる、細く寂しげな鳴き声。
「──っ」
 なぜか、ひどく不安をかき立てられて、弥子は少女の袖を握った。
 少女は足を止めないまま、冷静な様子で木々の間を見上げる。
「呼子鳥だな。子を呼んで鳴いているのだろう」
 事実だけを述べる淡々とした声に、ほっと肩から力が抜ける。
(かっこいいな)
 白い横顔を見上げながら、そう思う。
 一見、無愛想に見えるが、優しいひとだ。
 自分もあと五、六年経てば、こんなふうになれるだろうか。
 困っているひとを颯爽と助けて、怖がらずに冷静に対処できるようになるのだろうか。
 なれるといいな、と思う。

 しばらく歩くと森を抜けて、清流の流れる岩場に出る。ずっと聞こえていた水音はここからしていたらしい。黒々とした小川は深くはなさそうだが、流れが速い。
「ここ、わたるの?」
「ああ」
 弥子が尻込みをしている間に、少女はさっさと進んでしまう。
 下駄を鳴らして飛び石を渡るさまは鳥のように軽やかだ。
 慌てて続こうとするが、黒々と流れる水を見るとどうしても踏み出すことができない。
(怖い)
 遠ざかる黒い背中が、じわりと滲む。
(置いていかないで)
 俯いて衣の胸元を握りしめる。ぽたりと落ちた涙が、岩に沁み込んでいく。
「どうしたんだ」
 落ち着いた声がした。
 顔を上げれば、既に渡り終えていたはずの少女が目の前にいて、困った顔で眉を下げている。
(戻ってきてくれた)
「怖いなら、私が抱えてやろうか」
 少しの揶揄いを含んだ声に、ぼうっとしたまま頷く。
 少女がすっと弥子の前に屈み込んだ。
 悪戯っぽい含み笑いと、涼やかな鈴の音が、耳元に聞こえる。
「しっかり掴まっていろよ」
 言うと同時、カン、と下駄の音が鳴った。
「わわっ」
 空を飛ぶような浮遊感に、弥子は慌てて少女の肩口にしがみついた。
 危なげなく渡り終えて、少女が弥子を地面に降ろす。
 この細腕のどこにそんな力があるのだろう。感心する思いで見上げると、少女がぱたりと瞬いて、励ますように小さく微笑んだ。
「もう少しだ」
 その言葉にほっとする。ずっと上り坂で、そろそろ足が限界だったのだ。

……上り坂?)

 ふと感じた違和感に、再び歩き出した少女を追おうとしていた足が止まる。
 てっきり、ふもとの里に向かっているのだと思っていた。
 前を歩く少女を見上げる。
 頼もしいと思っていたその背中が、得体の知れないもののように見える。
「ねえ」
「うん?」
「どこに向かってるの?」
 少女の足取りには、ずっと迷いがなかった。
 迷いのない足取りで、彼女はどこに行こうとしているのだろう。
 弥子の問いかけに、少女は答えない。ただ、少しだけ肩が強ばった。
(このひとは、何なのだろう)

 考えてみれば、おかしかったのだ。
 妙に山に慣れた様子も、体格に見合わない力も。
 夜の山に、ひとりでいたことも。 
 もしかしたら、彼女は、自分を食べようとしている鬼なのではないだろうか。
 そう思うと、足が竦んで動けなくなる。

……
 少女が振り返る。静かにこちらを見下ろす瞳からは、感情が読み取れない。
「お前は、どこにかえりたいんだ?」
「どこ、って……
 答えようとして、弥子は愕然とした。
 かえりたかったはずだ。
 なのに、どこにかえりたかったのか、思い出せない。
「わたし、は」
 頭がぐるぐるする。
 必死で言葉を探そうとした、そのとき。

 さあ、と光が溢れた。

 木々の間から光が差し込んでいる。
 半ば無意識のまま、惹きつけられるように、ふらふらと歩き出す。
 道を開けるように半身を引いた少女を追い越して、上へ、上へ、光の方へ。
 いつしか、鬱蒼と茂った木々は途切れて、開けた高台を光が照らしていた。
 見上げれば、遠くの山の端から太陽が顔を出して、東の空が薄紅に染まっている。
 夜明けだ。

「思い出したか」
「思い、出した……
 思い出した。自分が何なのか。どこにかえりたかったのか。
 弥子の身体がすうっと形を変えていく。
 ばさりと翼を広げて、弥子は少女を振り仰いだ。
「もう、ひとりで行けるな」
 少女は笑っていた。穏やかに、少しだけ寂しげに。
 ──うん、ありがとう。
 返した声は人間の言葉にはならなかったが、少女には伝わっただろう。
 彼女は最初から弥子が何なのか気付いていて、ここまで弥子を導いてくれたのだろうから。
 広げた翼が風を捉える。地面を蹴れば、ぐん、と身体が引き上げられる感覚がした。
 導かれるように、天に昇っていく。
 羽の先から、光に溶けていく。
 けれど、怖くはなかった。きっと少女が自分を見守っていてくれる。そう思えたから。





 朝の光が、朱塗りの鳥居を柔らかに照らしている。
 澄んだ春空は淡い青色をして、薄い雲が細くたなびいている。
 眼下に広がる稜線は、山肌の黒に新芽の緑と残雪の白が混じって、咲き初めの山桜がそこに淡い彩りを添える。
 少女は鳥居の上に腰掛けて、赤い盃を空に掲げた。
「主様」
 囁く声は吐息のように儚く、切なげだ。
「また、あなたのいない春が来ます」
 吹き抜けた風が、少女の黒髪を揺らす。薄紅色の花びらがはらりと舞って、少女の持つ盃に浮かんだ。

「人助けとは珍しいのう、鴉」
 不意に響いた明るい声が、時が止まったような静謐を破る。
 穏やかな時間を邪魔されて、少女──鴉のあやかしは不機嫌そうに顔を顰めた。
「何のことだ、狐」
「迷子の子供を送り届けてやっていたじゃろう」
 身軽に鳥居を駆け上り、鴉の隣に座ったのは、鴉と同じく少女の姿をしたあやかしだ。
 見た目は鴉より少し幼いくらいか。人の姿を取っているが、奔放に跳ねた髪も無邪気な瞳も輝く金色だ。
 海を渡った先にはそんな色彩を持つ者もあるというが、生憎とこの辺りでは馴染みがない。この姿で人里に下りれば、存在の異質さはすぐに見顕されてしまうだろう。
 未熟な変化に溜息を吐いて、鴉は盃を傾けた。
「盗み見か? 悪趣味なことだな」
「見かけただけだ。追いかけてはおらぬぞ」
 これ見よがしに眉を上げてみせれば、狐がぱたぱたと手を振って否定する。
 慌てた様子に少しだけ 溜飲を下げつつも、鴉は揶揄うように狐を軽く睨んだ。
「皮肉か? 私が迷い子に道を示すことがそんなにおかしいか」
「いいや。我は嬉しいのじゃよ」
「嬉しい?」
 妙なことを言う。
 片膝を引き寄せながら狐を見遣れば、彼女は満開の笑みを浮かべて鴉を見つめ返した。
「ああ。人嫌いのそなたの、優しい一面を見られたことがの」
……
 狐は少々鴉を過大評価しているところがある。
 昔、気紛れに一度助けてやっただけなのに、こうも懐かれるとどことなく据わりが悪い。
 自分は、そんな無邪気な賛辞に値するような者ではないというのに。
 それに、狐は勘違いをしている。
「あれは人の子ではないよ」
「そうなのか?」
 狐がきょとんと首を傾げると、白銀の髪がぴょこりと揺れた。
 あやかしとなってまだ日が浅い彼女は、人間とそうでないものの区別をつけるのが下手だ。
「ああ」
 短く肯定して、鴉は眼下に視線を逃がした。

 どこからか、子を呼んで鳴く鳥の声がする。
 その姿を探すように視線を彷徨わせてから、鴉はつと睫毛を伏せた。
「あれは巣立てなかった鳥の雛だ」
 可哀想なことにな、と呟く声が空気に溶ける。
 ある種の鳥は、自らの卵を他の鳥の巣に産みつけることがあるという。
 生まれた雛は、親鳥が持ってくる餌を独占するため、もともとその巣にいた雛を追い出して成り替わるのだ。あの幼子が言った、『意地悪な兄』というのも、おそらくは。
 あの幼子の親鳥も、いなくなった自分の雛を──ややこを探して鳴いているのだろうか。
 それとも、気付いていないだろうか。雛の入れ替わりは巧みだというから。

「この辺りには、主様──御景山の山神の気が満ちている。あの雛鳥の魂も、それにあてられて、いっとき人の形を得たのだろうよ」
「そうじゃったか……
 狐が悲しげな顔でしゅんと俯く。
 少し見かけただけの雛のためにそんな顔ができる彼女の方が、自分よりよほど優しいと、鴉は思う。
 下を向いた頭を、宥めるように軽く撫でる。春の日差しのような金色の髪は、もふもふとして手触りが良い。
 先程、雛が飛び去った東の空を見上げる。赤い盃を朝日に翳して、鴉は静かに呟いた。
「死した魂の行く先が天上にあるか地下にあるか私は知らぬが……あの子には空が似合いだろう」
「手向けの盃か。……む? その酒、社への奉納品ではないのか」
「別に良いだろう。主のいない社だ」
 こういう時だけ妙に目敏い。
 咎めるような半眼を向けられて、少しむくれながら酒に口をつけた鴉に、狐が目を細める。
……山神様は眠っているだけだと、そなたは言うておらなかったか」
「会えないのなら、いないと同じだ」
 反射的に答えた声は、ひどく固い音をしていた。
 ざあ、と強く吹いた風が、二人の髪を攫う。髪飾りの小鈴が、りりり、と煩いくらいに鳴った。
「そうか」
 呟いた狐の声は、ひどく悲しげだった。
 それでも、撤回する気はなかった。期待するのは、もう疲れてしまったから。
「のう。我にも一献」
 狐が戯れるように身体をすり寄せてくる。
 気まずさを誤魔化そうとしているのは明らかだったが、ぬくもりは嫌ではなかったので、付き合ってやることにする。
 空になった盃に酒を注いで渡せば、狐が喜んで盃を傾ける。
 もふもふとした髪を手持ち無沙汰に撫でながら、東の方向を見上げる。
 薄紅色の花びらが、青空に舞った。