ねぶくろ
2026-05-08 21:52:12
11645文字
Public 一次創作
 

幕開け

初出2026/2/22 COMITIA155新刊『僕らの銀河』

 なんで、と問いたい気持ちを飲み下す。
 飯田いいだ洋介ようすけは封筒と、中に入っていた一枚の手紙を一緒くたに放り捨て、大きなため息を吐いた。誠に残念ながら、と網膜に残った文字列に舌を打って、頭を掻きむしる。それでも、胸中に吹き荒れる嵐がおさまることはなかった。
 雑然とした部屋でのろのろとシャツに袖を通して、ショルダーバッグを肩から下げる。誰もいない部屋に向けて「行ってきます」と言うのも馬鹿らしく、飯田はそのまま無言で部屋を出た。
 向かう先は、勤め先である地域密着型のスーパーマーケットだ。入り口に据え置かれた呼び込みの機械が奏でるメロディを無視して、裏口に回る。何度も塗り直したのか、塗装の色合いが周囲の壁よりも一段深いドアを開ける。
 飯田がバックヤードに足を踏み入れれば、丁度、入れ違いに帰るパートタイマーとすれ違った。向こうは朗らかな声で「お疲れ様です」と会釈してくる。内心では嵐が吹き荒れていて、愛想よく対応する余裕などない。それでも、一緒に働く相手を邪険にするわけにもいかず、飯田は「お疲れ様です」と会釈を返した。それだけで、疲れが肩の上に圧し掛かる。
 飯田は、備品の溢れかえった廊下を足早に通り抜けると、誰とも会わないことを願いながら更衣室のドアを開いた。

 高校入学と同時に、学校の最寄り駅に位置するこの店でアルバイトを始めた。
 スーパーマーケットを選んだのは、おつかいやらなんやらで、足を踏み入れたことがあるからだ。なんとなく、仕事の内容がわかるような気がした、というのが主な動機だった。
 店長の他に正社員が一人と、長く勤めているパートタイマーたち。数年で入れ替わるアルバイトの学生が複数、という人員で回っているこの店は、人間関係のトラブルもなく穏やかな、良い職場だった。
 近隣の学校に通う高校生たちと休憩室で勉強を教え合ったり、流行りのゲームの攻略情報を交換したり。同じアルバイト先の店員という関係性は、学校の友達よりは少し遠い。一定の距離を保ち続ける必要があるからこそ、クラスでは話さないようなタイプの相手とも大きなトラブルを起こさずに交流ができる。教室内の密接な人間関係を不得手としていた飯田にとって、アルバイトの人間関係はとても心地の良いものだった。
 高校を卒業した後は、漫画の専門学校に通い始めた。学校の最寄り駅は変わったが、アルバイトは続けることにした。専門学校が実家からは通えない範囲だったので、一人暮らしをする必要があったのだ。店の近くにアパートを借りれば、通勤時間も短くなるし、生活費もまかなえる。一石二鳥だ、と飯田は内心でほくそ笑んでいた。
 店は専門学校まで電車で一時間ほどの距離にある。通学時間としては許容範囲の距離だが、それでも在学中は、課題とアルバイトに忙殺されることになった。漫画を描くにはある程度のお金がかかる、ということを知ったのもこのころだ。原稿用紙やペン先などは消耗品だ。また、課題の度に資料を買い足したり、取材をしたりしていたのでは、早晩破産する。他に方法がなかったので、飯田はシフトを増やした。
 シフトを増やせば、当然一日の自由時間は減ってしまう。飯田は、かねてから気にかかっていた品出しのルールを新しく提案し、業務の効率化を図った。
 『漫画を描く』という行為は、大まかに言っても四つの工程に分かれる。まず、どんな話を描くか決めるために、ネタをまとめなければならない。課題ならばページ数やテーマが決まっている場合もあるので、どのようにして話の中に要件を落とし込むかも考える。
 ネタをまとめたら、次にネームを描く。ネームは、いわば漫画の設計図だ。大まかな画面の構成や、セリフ割りやコマ割り、ページ数を確定させる作業と言い換えてもいい。三つ目の作業でようやく線画を描く。ネームで決めた構図やコマ割りに従って、ようやく漫画に着手する、といったイメージだ。それが終わると、最後の工程である清書に入ることが出来る。
 清書では、ベタ塗りやトーン貼りといった細かな作業を行う。学校の課題として描いている場合には、提出用のフォーマットに整えることも必要だ。そうしてようやく、漫画が一本完成する。──それを、日常生活と学業とアルバイトの合間に行うのだから、時間の捻出は飯田にとって急務だった。
 シフトを増やした関係で、当時の飯田には漫画を描くための時間がなかった。何とか削れる時間はないか、と考えた時に、真っ先に考えられるのはアルバイトの時間だ。生活水準を下げて出費を削れば、シフトを少し減らすことも不可能ではない。しかし、それでは結局飯田が身を削ることになる。それは、避けたい。
 そして飯田が考えたのが、業務の効率化だった。作業にかかる時間が減れば、少なくとも残業は撲滅される。それだけでなく、手の空いた時間にネタを考える程度のことは出来るようになるはずだ。
 従来の品出しルールは煩雑で、新しいアルバイトのスタッフにルールを説明する時間が、最も無駄だった。飯田は簡単でミスの少ないルールを考案し、──その働きが評価され、専門学校を卒業するタイミングで、正社員にならないかと声をかけられた。
 飯田は、漫画家を目指してアルバイトをしている身の上だ。懐に余裕はない。正社員になれば、勤務時間と責任は増えるものの、比例して手取りも増える。そうなれば、漫画に費やせる資金も増えるわけで、店長からの誘いを蹴ってまでアルバイトの気楽さにしがみ付く理由は何もなかった。
 そのようにして正社員に登用されたのが、今から約一年前。ちょうどその頃に描き上げて新人賞に応募した漫画は、一次選考で呆気なく落選した。
 先ほど開いた封筒と、中に入っていた素っ気ないお祈りの手紙を思い返して、イライラと舌を打つ。更衣室で店のロゴが入ったエプロンに袖を通して、背中でキュッと紐を結んだ。苛立ちの混じった手の力で、いつも以上に硬くなった結び目が背骨にぶつかる。飯田はメガネを軽く拭いた後で、留飲を下げるために息を吐き出した。顔を上げて、気持ちを切り替える。
 タイムカードを捺してフロアに出れば、すぐにインカムから店長の声が聞こえた。「飯田さん、三番レジ応援お願いします」と、聞きなれた平坦な声が指示を出す。飯田は「了解」と端的に返事をして、三番レジに急いだ。
 このスーパーマーケットには、店長と飯田の他、近藤こんどうという女性が正社員として勤めている。彼女は現在、出産のために休暇を取っており、店は一時的な人手不足に悩まされていた。
 レジへと急ぎながら、店の壁にかかった時計を盗み見る。時刻は午後四時過ぎ。ここから、夕飯時にかけて買い物客が増える時間帯だ。総菜コーナーの品出しは大丈夫だろうか。不安になって、インカムに向けて問いかける。すぐに総菜を製造しているパートのおじちゃんから「トレイラックが二つ埋まった。誰か取りに来てくれ」と苦笑が返った。フロアのスタッフに応援を要請して、封鎖していたレジを開く。ある程度客が捌けたら、自分も総菜コーナーへ向かおう。飯田はロボットのように正確な手さばきで、一人目の買い物かごに山積みにされた食品をレジに通した。

     *     *     *

 客足が落ち着いた頃合いを見計らって三番レジを休止中にし、総菜コーナーへ向かう。今まさに品出しをしているアルバイトのスタッフを見つけて、飯田は表情を強張らせた。先ほどの要請に応えたのは、バイトリーダーを務めている金森かなもり心愛ここあという女子だった。
 ふんわりと丁寧にブローされた髪の毛に、可愛らしいメイクを施した顔。隙のない、いかにも女の子らしい容姿の女の子。──見た目に反して勤務態度が真面目なことは知っているが、どうにも先入観が邪魔をして、扱い方に困ってしまう相手だ。
 よりにもよってお前かよ、と内心で毒づきながら、飯田は「手伝う」と心愛に声をかけた。唐揚げのパックを並べていた彼女が目を上げて、「お疲れ様です。バックにまだラックが残ってるので、お願いします」と手短に状況を伝えた。頷いて、バックヤードに向かう。
 見れば、心愛の言った通り、総菜を山積みにしたトレイラックが手つかずのまま廊下の端に鎮座していた。現在時刻は午後五時三十分。丁度、帰宅時間と重なって客足が多いタイミングだ。レジに人を取られて、品出しまで手が回っていないのだろう。心愛が要請に応じたのだから、他の面々が彼女に仕事を任せる心理は、分からないでもない。
 でも現実として仕事が回ってないんだから誰か手伝えよ。──誰もいないのをいいことに舌を打ち、身の丈ほどもあるトレイラックを押す。心愛は先ほどの場所で、今度は焼きそばのパックを並べていた。彼女の手さばきは速く、正確で、総菜コーナーには整然と美味しそうな唐揚げが並んでいる。あっという間に空っぽだった棚を埋めていく焼きそばの茶色を横目に、飯田は棚の反対側へ向けて天ぷらを並べ始めた。
 心愛が、手を止めないまま、「飯田さん、質問いいですか?」と問いかける。飯田は「なに」といつも通りのぶっきらぼうな声を返した。
 自他ともに認めるほど目つきの悪い飯田が、こうして素っ気ない声を発すると、傍からは恫喝しているように見られることは自覚している。それでも、これまでの人生であまりかかわったことのない華やかな年下女子とどのように接すればいいのかを、飯田は知らない。
 幸いにして、心愛は飯田の愛想の悪さには頓着しないまま、「店のこれからについてなんですけど、」と言葉を続けた。
「飯田さんが課題だと思っていることって、何ですか?」
 漠然とした問いに、咄嗟に「は?」と剣呑な声が零れる。この忙しいときに、店の課題を聞く神経がわからない。飯田は忙しさと意味の分からなさにイライラしながら、「人手が足りないこと」と答えた。彼女が品出しの手を緩めないまま、非難するような視線をこちらへ寄越す。心愛は、「それは確かに課題ですけど、そうじゃなくて」と言葉を重ねた。
「正社員としての意見をください。他のお店に勝つために、何が足りないと思いますか?」
 問われて、身の内で吹き荒れる嵐を抑え込んでいた自制が崩壊した。彼女を見下ろして、口の端を酷薄に歪める。
「自由研究か?」
 問えば、彼女が口を噤んだ。黙って仕事だけしてろ、と横目で睨みつければ、彼女は数拍の間を置いてから、「……忙しいときにすみませんでした」と口を開いた。
「でも、自由研究じゃありません。また改めてお伺いするので、その時は教えてください」
 なおも迫られて、飯田は唇を噛んだ。トレイラックから取り上げたメンチカツを見栄えよく並べながら、剣呑さを隠すこともせずにため息を吐く。心愛には一瞥もくれず、飯田は突き放すように言葉を放った。
「店を心配する前に自分の心配をしろ。受験生は勉強するべきだ」
 いつまでバイトしてるつもりだ、と吐き捨てて、最後のメンチカツを棚に置く。飯田は返事を待たずにトレイラックを引き連れて総菜コーナーを後にした。

 自宅アパートに帰り着いて、沓脱にスニーカーを脱ぎ捨てる。飯田はショルダーバッグを放り投げると、洗面所で手洗いうがいをして座椅子に座り込んだ。背面に位置するベッドに頭を持たせかけるが、ちょうど、取り込んだまま畳まずに放置した衣服が積み上がっていて邪魔くさい。足元には出掛けに放り捨てた封筒と手紙が落ちていた。それらをゴミ箱に突っ込み、息を吐く。ショルダーバッグを引き寄せて、中からスマートフォンを取り出した。動画投稿サイトでお笑い芸人の動画を再生し、それをBGMにしながら電気ケトルで湯を沸かす。
 カップラーメンを啜りながら三本の動画を観て、飯田は箸を置いた。視線を上げれば、作業机の上にはネタ帳や漫画雑誌、作画資料の本などが山積みになっている。新人賞に落ちた以上は、次に向けて動き出さなければならない。何か、いいネタはないものか。
 考えてみても、疲れているからか思考が全く動かない。正社員になってからは、閉店後の締め作業やシフト組み、店長の補佐などで帰宅が遅くなっている。とてもじゃないが、就業中にネタをまとめる余力はない。
 もっと業務を効率化したら余裕も出るだろうか。しかし、近藤さんが復帰するまでは人手不足が解消されない。もしかしたら、産休後に復帰しないまま彼女が退職する可能性すらある。しばらくは落ち着かないだろうな、とため息を吐いて、飯田は目を瞑った。
 意識が闇の奥に吸い込まれそうな疲労感。このまま眠ってしまいたい欲求を堪えて、何とか立ち上がる。歯を磨き、シャワーを浴びて、飯田が布団にもぐったのは午前二時のことだった。
 とろとろと浅い眠りの縁を行きつ戻りつして、昼過ぎに目を覚ます。今日のシフトは、午後からだ。パキパキと音の鳴る体を伸ばし、ゴミの散乱した部屋を見回してため息を吐く。生活リズムが乱れていて、ゴミ捨てもままならない。部屋は荒れていく一方だ。何か腹に入れなければ、と飯田は財布を片手にコンビニへと向かった。
 雑誌コーナーに、先日落選した新人賞を主催している出版社の漫画雑誌が並んでいる。表紙に大きく描かれた少年漫画の主人公から目を逸らして、飯田は適当な弁当を買い込んだ。温めてもらうと持って帰れないので、冷たいままのそれを手にしてアパートに戻る。
 夕飯と同じように動画を観ながら流し込むように食事をとって、着替えを探した。取り込んだまま放置して皺の寄ったシャツを一瞥し、ため息交じりにアイロンをかける。一つひとつの動作が重たく、煩わしい。力が湧いてこないのは、どうしてだろうか。風邪でも引いたのかな、と首をかしげてシャツに袖を通す。飯田はスマートフォンと財布をショルダーバッグに放り込み、家を出た。

「今、質問いいですか?」
 休憩室で声をかけられて、そちらを見る。真剣な表情の心愛を一瞥し、飯田は「休憩中」と言葉を返した。
「でも、就業中に声をかけると怒るじゃないですか」
 ムッとしたように言葉を重ねられて、飯田はため息を吐いた。昨日の今日でよくもまぁ、へこたれないものだ。どういう神経をしているんだ、と睨むように彼女を窺えば、心愛はかすかに怯えたような顔をしてから、気を取り直したように話を続けた。
「飯田さんは、この店の課題は何だと思いますか?」
「それに答えて、俺に何の得があるんだ? 自由研究は一人でやってろ」
 飯田が言下に切り捨てれば、背後から「冷たいなぁ」とよく知った声が聞こえた。びくりと肩が跳ねて、声の主を振り返る。見れば、休憩室の戸口には、店長の姿があった。いつも通りの穏やかな表情で、彼女がこちらに近づいてくる。一見して彼女の様子はいつも通りだが、飯田の脳内には警戒信号が鳴り響いていた。
 店長とは、飯田が高校生の頃からの付き合いなので、もう六年は共に働いていることになる。長年の経験が、これはマズいぞと伝えていた。空気に混じった怒気に、身が竦む。
 飯田の表情が強張ったのに気付いているのかいないのか、彼女がいつも通りの淡々とした声で「飯田さんは、冷たいなぁ」と言葉を繰り返した。それだけで、肺を押し潰されたようなプレッシャーを感じる。心愛は、店長と飯田を見比べて、控えめに相槌を打った。
「飯田さん、正社員は他のスタッフの手本になるべきだよ。金森さんのように、店のことを考えて動いてくれる子を邪険にしちゃ、ダメでしょう」
 はじめに教えたはずだよ、と諭されて、表情が苦る。飯田は「すみませんでした」と言葉を返して、睨むように心愛へ視線を向けた。お前のせいだぞ、と非難する気持ちが伝わったのか、彼女は不服そうに唇を尖らせて、「飯田さん、改めて質問いいですか?」と仕切り直すように言葉を発した。
「質問するのはいい。……けど、何のために知りたいのかを先に言え。目的によって必要な情報が変わるだろ」
 飯田が素っ気なく答えれば、彼女は「正社員になりたいんです」と応じた。
「そのために、この店に貢献したい。だから、社員の目から見た課題を知りたいんです」
 心愛の言葉に、飯田は目を瞬いた。
 この、規模が小さくて華やかさのない、少し寂れた地域密着型スーパーマーケットの、正社員になりたい?
 本気でそんなことを望むやつがいるはずはない。さては受験勉強から逃げたいのか、と彼女を眺めて、内心で蔑む。飯田はため息を吐くと、小さく首を横に振った。
「俺は、貢献の方法を自分で考えられるやつこそ、社員として雇う価値があると思うけどな」
 自分で考えろ、と切り捨てて休憩室を後にする。背中に突き刺さる非難の眼差しが、心愛のものか店長のものなのかは、確認しなかった。

     *     *     *

 社員ともなると、アルバイトやパートのスタッフには任せられない業務をこなす必要が出てくる。その筆頭が、シフトの管理と店舗計画の考案だ。店舗計画とは、本部からの指示に従って、毎月の売り上げ目標を設定したり、入荷する商品のラインナップや入荷数を決定したりする業務を指す。流石に、入社一年目の飯田が店舗計画に関わることは難しいので、自然と店長補佐としてシフトを組む役を振られることになる。
 閉店後の休憩室でPCと睨めっこをしていれば、店舗計画をプリントアウトした店長がふらりと部屋に入ってきた。気配に釣られて顔を上げ、──ふと、壁にかかった時計を見遣る。
 閉店時間が二十二時。残業をしているので、現在時刻は二十三時を回ろうとしている所だ。店長は確か、一児の母だったと記憶している。この時間まで仕事をしていて大丈夫なのだろうか、と余計な心配をしていれば、彼女は飯田の向かいの席に座って、プリントアウトした紙を机上に滑らせた。
「来月の店舗計画を組みました。売り上げ目標、ちょっときついかな? どう思います?」
 尋ねられて、ノートパソコンを閉じる。端末を脇に避け、飯田は見慣れた書式の店舗計画表を手に取った。上から順に項目を浚い、売り上げ目標を注視する。本部からの指示に、数パーセントの上乗せをした目標値。これまでの売り上げ統計を鑑みれば、達成は可能な範囲だ。
 飯田はメガネを押し上げて、紙を店長に返した。PCを引き寄せて、「大丈夫だと思います」と言葉を返す。
「これまでの平均売り上げを考えれば、到達できる範囲だと思いますよ。この辺りの客層を考えれば、来月はスープの在庫を押さえるべきだと思います。例年は月末辺りから気温が下がって需要が高まるので」
 飯田が進言すれば、彼女は「ありがとう。スープは確かに例年売り上げが好調だから、今年は売り場面積の拡大も視野に入れます」と頷いた。そのまま、紙へと視線を向けた彼女が言葉を続ける。
「漫画は描き続けてるの?」
 PCを開いて、キーに乗せていた指が止まる。飯田は画面に表示された作成途中のシフト表をじっと見つめたまま、低い声で「なんですか」と問いかけた。自然、店長を見る眼差しが尖る。彼女は飯田の発する敵意を軽くいなして、「ワークライフバランスの確認。正社員になってそろそろ一年でしょう」と、淡々とした声で応じた。
「で、どうなの? 描いてるの?」
 静かな眼差しを受けて、目を逸らす。飯田は唇を噛んでから、小さく舌を打った。
「この前、新人賞に落ちたばっかです。……だからまだ、次は考えられてない」
「そう。ま、クリエイティブな活動って大変だろうし、無理せずにね。体は壊さないように」
 労うような言葉に、俯くような頷きを返す。飯田はスタッフたちが提出したシフト希望の紙へと視線を落として、作業を続けた。来月は祝日が多いので、休みの希望が重なっていて面倒くさい。頭を悩ませながら、ナンプレを解くような心持ちで表の空白を埋めていく。
 休憩室には、飯田がキーを叩く音だけが響いていた。話すことはなくなっただろうに、なぜか店長はまだその場に留まっている。飯田が軽く目線を持ち上げれば、彼女は真っすぐに飯田を見つめて、「手は動かしたままでいいから、聞いてほしい」と口火を切った。嫌な予感に、手が止まる。
「金森さんに何かされたの?」
 問われて、押し黙る。飯田が答えずにいれば、彼女は軽いため息を吐いた。元より静かな眼差しが温度を失い、店長としての厳格さが顔を出す。叱責の気配に飯田が身を竦めれば、彼女は容赦のない口調で「飯田さん」と名前を呼ばわった。長年の蓄積により、条件反射で背筋が伸びる。おずおずと顔を上げれば、彼女は厳しい光を湛えた眼差しをこちらへと注いでいた。
「相手はアルバイトの高校生で、君は正社員です。態度には気を付けなさい」
……はい」
 低い声で返事をする。彼女は厳しい表情を緩めることはしないまま、語調だけをほんの少し和らげた。
「どうしても合わない相手だというのなら、こちらも店舗の責任者として対応を考えます。君を別の店舗に異動させることも、金森さんのシフトを君と被らないように調整することも可能です。……だから、正直に答えて欲しい」
 店長は、ゆっくりと言葉を重ねた。
「君は、金森さんに何かされたの? どうして対応が他のスタッフよりも邪険になるのか、理由を教えてくれる?」
 真っ向から問われて、飯田は俯いた。

 すみませんでした、今後は改めます。──そんな言葉で話を畳んで、逃げるように帰宅したアパートは、ひどく寒々しかった。部屋の電気をつけて、エアコンのリモコンを探す。暖房を入れよう、と部屋を見回して、飯田は不意に部屋が汚いという事実に気が付いた。
 床に積み上げられた読了済みの漫画雑誌。作業机の上で埃を被った作画資料と、漫画を描くための道具たち。いっぱいになったまま捨てそびれているゴミ袋。取り込んだまま畳むこともなく、皺だらけで山となっている洗濯物。
 作業机の上で化石のように冷たくなった教本を眺める。埃を被っている、という事実に狼狽して、飯田は記憶を遡った。最後に描いたのは、新人賞に応募したあの漫画だ。
 もう、一年以上も何も描いていない。それに気付いて、どうしようもない怒りに思考を支配される。
 飯田は舌を打ち、「クソが」と言葉を吐き捨た。

      *     *     *

 態度を改めると言った以上は、それを実行しなければならない。
 飯田は接客をしている心愛を見かけて、足を止めた。手にした段ボールを捨てに行かなければならないが、すぐに用件が済むのなら心愛を後で探すよりも今謝ってしまう方が手っ取り早い。彼女は、くたびれた風の成人男性と談笑しながら、「それでしたらこちらに」と棚を移動し始めた。少しの距離をあけて、その後をつける。
 彼女は、男性が無事に目当ての商品を見つけると、丁寧にお辞儀をして元の場所へ戻ろうとこちらを振り向いた。はっきりと視線がかち合い、気まずさに表情が強張る。昨日の経緯を記憶していないのか、それとも神経の太さが飯田のそれとは違うのか、彼女は表情をピクリとも変えないまま、「お疲れ様です」と飯田に笑みを向けた。
「応援要請ですか? どこか手が足りてないなら、すぐ品出し終わらせます」
 勢い込んで尋ねられ、「いや……」と口元で曖昧な言葉を発する。歯切れの悪さに首を傾げる彼女の視線から逃れようと、飯田は視線を床に落として、「金森さん、」と間を埋めるために言葉を発した。
……接客、すごい丁寧ですね」
 図らずして嫌味のようになった言葉に歯噛みする。昨日の今日で、朗らかに言葉を交わせるはずもない。飯田がリカバリーの言葉を探していれば、心愛は「あ、気づいてくれました?」と見当違いに明るい声を返した。
「飯田さんに言われて、自分なりにこの店の強みになることを考えたんです。このお店って、あんまり大きくもないし、地域密着型でお客さんとの距離が近いでしょう? それに、せっかく飯田さんがシステムの改善で効率化をしてくれた余裕があるので、接客をもっと丁寧にしてみたらどうかな~って思って!」
 彼女はにこやかに言葉を続ける。
「一人で静かにお買い物を楽しみたい方もいるので、そのあたりの見極めが課題かな、って思ってます。店長からは、飯田さんとは違うアプローチでお店を良くしてほしいって言われているので、方向性は今のままで、具体的な方法については今後も検討を重ねていこうと思います!」
 心愛が、『頑張ります』とばかりにこぶしを握る。飯田は、呆気に取られて彼女を眺めた。メガネを押し上げて、言葉に迷いながら視線を惑わせる。軽い混乱をきたした思考を整理しようとして、──整理しきれないまま、「なんで、」と言葉が零れた。彼女が小首を傾げて先を促す。飯田は、その仕草に釣られるようにして、問いを発した。
「なんでそこまで頑張るんだ? 成果が付いてくるとは限らないのに」
 彼女の正社員になりたいという言葉は、受験勉強から逃避するための方便だと思っていた。しかし、取り組み方を見るに、彼女は本気で社員への登用を狙っているらしい。つい一年前に飯田が採用されたばかりの状況で、大学受験を捨ててまで社員への道を目指すのは、酷くリスクが大きいというのに。
 飯田の動揺を歯牙にもかけず、彼女は平然とした顔で「え、だって頑張らないと結果は出ないじゃないですか」と言葉を返した。
「飯田さんの言う通り、頑張ったからと言って報われるわけじゃないのは分かってます。だけど、何もしなければ絶対に何の結果も出ません。それに、評価されるのは私だけじゃありませんから。競う相手は常に手を動かしているって仮定して、その相手を打ち負かせるような成果を目指さないと!」
 バイトリーダーになったからって慢心してたら、すぐに追い抜かされちゃう。そう言う彼女を、思わず見つめる。あまりにも真っすぐな眼差しに、飯田は返す言葉を失った。
 競う相手は常に手を動かしている。そんなことは、当たり前だ。──それなのに、自分はもう一年近くも漫画を描いていない。手を動かさず、結果が降って湧くのを待っている。
 馬鹿か、俺は。冷や水を浴びせられたような心地で「そうだな」と相槌を打ち、踵を返す。バックヤードに向けて歩いていれば、道中で研修中のアルバイトと、指導役のスタッフを見かけた。
 パートのスタッフが、メモを手にした新人に、飯田の考案した品出しのルールを教えている。横目で眺めていれば、すぐに説明が終わって、アルバイトのスタッフが手を動かし始めた。簡単なルールはすぐに理解されたらしい。指導役がルールを教え直す姿は確認できなかった。

     *     *     *

 帰路の途中に存在する唯一のコンビニに入る。夜のシフトだからか、店員の「いらっしゃいませ」には覇気がなかった。普段は素通りする雑誌のコーナーに立ち寄って、並んだ漫画雑誌を手に取る。今月号には、新人賞の結果が掲載されているはずだった。
 果たして、開いたページには大賞を受賞した作者へのインタビューが掲載されていた。受賞作品は、次のページから掲載されているらしい。息を詰めて、インタビューに目を落とす。
 大賞を受賞したのは、まだ高校生の青年らしかった。彼は、定期テストの勉強と並行してネームを描き、部活動と塾の終わった夜の時間にコツコツと作業を進めたと語っていた。時間のやりくりが難しいけれど、学校生活も漫画も両方を頑張りたい、と意気込みを語る文字列を目で追いかけて、雑誌を閉じる。飯田は、漫画雑誌を購入することはせず、夕飯を見繕うために弁当のコーナーへ向かった。
 海苔弁当を引っ提げてアパートに帰宅する。電気をつければ、出迎えるのは雑然とした一室だ。埃を被ったペン立てに、放り出された衣服。もうひと月は溜め込んでいるであろうプラスチックごみに、本棚から無秩序に溢れ出した漫画雑誌。部屋を見回しただけでも、未解決のタスクが山積みだ。
 飯田は海苔弁当を電子レンジに放り込み、洗面所で手を洗った。レンジが止まるまでの間に、手近な衣服を畳んでしまう。
 部屋の掃除にゴミ出し。夕飯を食べたら、次に目指す新人賞に目星をつけよう。テーマを決めたらネタ出しをして、ネームを練らなければ。それに、夜が明けたら布団を干して、近くの店でクッキーでも買おう。休み明けには、いい加減バイトリーダーの女の子に謝りたい。
 飯田は深呼吸をして、さっそく腕まくりをした。──さぁ、やるべきことがいっぱいだ。