いを
2026-05-08 19:13:37
4978文字
Public くらくら
 

朝焼けの名

マルタ
・慶さん【ppy_op】
お借りしています。

 5月8日、朝。テレビをつける。アンチドート本部襲撃の事件が否応なしに流れてくる。
 ベッドの上で、部屋のすみに居心地が悪そうに置かれた黒いトランクに視線をうつす。あと必要なものといえば身分証明書、パスポートくらいだろうか。

 母が死んで、一週間がたった。
 5月1日、深夜二時。彼女は死んだ。マルタは踏み荒らされ、奪われ、焼き払われ、荒れ果てた本部にいた。自分の研究室も壁が崩されてとなりの研究室が見えていた。母が大事にしていたフランス人形は無事ではあったが、髪が埃まみれになり、白かったほおも煤で汚れてしまっている。それを指先ではらい、脇に抱えた。
 呆然と立ちつくすくらいには、やるべきことが見つからない。やらねばならないことはたくさんあるのだけれど、手も足も自由に動かない。
 そのとき、スマートフォンが鳴り響いた。母の病院からの電話だった。
「はい、飛白」
「飛白さん。ヴィオレッタさんの容体が急変して――すぐに来られますか」
 知り合いの医者だった。名前を那地なちといった。マルタのかつての同僚。母が入院している病院の医者だ。電話越しにでサイレンの音が鳴り響いている。
「分かった。すぐに行く」
 フランス人形と一緒に、その場からようやく離れることができた。
 不思議と、心は凪いでいた。
 ようやく掴まえたタクシーの中で夜景を眺める。
 変わったのか、変わらなかったのか。それでも東々はここにあるし、ひとびともまた、存在している。
 連日の徹夜で意識が遠退く。
 ――マルタ。ごめんね。ありがとう。
 ぼやけたシルエットが見えた。輪郭もはっきりしない髪の短い女は、母、ヴィオレッタだった。すでに目も鼻も口も裏返って存在しないながらも、脳も臓器も無事に動いているから、じわじわと生きてきた。と同時に、命も削られてきたのだろう。〝そのとき〟はいずれ来ると思っていた。ただ、一日もはやく楽にしてやることが息子である自分の役目だと考えて、アンチドートの研究員になった。が、母は親殺しをさせたくなかったのだろう。敬虔なプロテスタントであったから。人殺しは大罪だ。けれど自死もまた、大罪である。
 そんな、今やどうすることもできない事柄を考えても、意識のない母に「殺してやれなくてごめん」などと言えるわけもなかった。
 母は選んだのだと思う。自分本位の考えだが、自分で選んだ死が、「これ」なのだろう。
 目を開くと、もはや見慣れたとも言えない病院の前だった。のろのろとタクシーを出て、病室に向かう。
 暗がりのなかで、見知った顔に目礼した。
「飛白、よかった。大丈夫か、君、ひどい顔色だ」
「ああ」
 那地は一度、ため息をついてガラス窓の向こうを視線でうながした。
 透明なケースに覆われた、黒く細長い物体が横たわっていた。あれが母だ。周りの医師や看護師たちは立ちすくんでいる。
 この病室の中で動けるものはいない。手は尽くしに尽くされ、救う手立てなどどこにもない。
 それを、医師であった自分も理解している。
 看護師がドアを開け、入るように促す。埃と塵にまみれてはいたが、彼らはマルタを招き入れた。
……母さん。俺」
 6年もの間、ずっと目をそらしていた姿だ。ぴくりとも動かない母を、ケース越しにながめる。
「俺が本当は罪をかぶらなくちゃいけなかった。でも、母さんがそれを拒んだ。昔から、ずっと優しいままだ」
 めくられた皮膚にふれることもできない。人間の内部は菌の温床だからだ。
「俺、ちゃんと生きるから。もう逃げない。母さんの大事にしていた人形だけ、ギリシャに返すよ」
 心停止しました、厳かな声が聞こえる。
 安心したのだろうか。それとも苦々犯罪者を恨んで死んでいったのだろうか。
 本当のところは分からない。
「父さんも……エヴィも、天国にいるんだろう。きっと。天国ってところは病気も空腹も痛みも、不幸せな気持ちもないところなんだって聞いた。だから、母さんはそっちにいけるはずだ」
 ケースにそっと触れる。美しかった母の面影はどこにもないけれど、微笑んでいるように見えたのは、きっと自分の傲慢なのだろう。
「飛白……
「ああ。那地、ありがとう。6年もよく世話をしてくれた」
「いや。お母さんは本当によくがんばってくれたよ」
 黒い短髪の同僚は目をふせ、俯いた。
……飛白。また落ち着いたら連絡する」
 わずかに息を詰めたのち、男はマルタに微笑み、肩をとんと叩いて部屋を出て行った。
「飛白さん。ヴィオレッタさんを移動させてもよろしいですか?」
「ああ。頼む」
 ケースごと移動し、朝が明けてからすぐに火葬するように手配をした。ここには彼女の親族もいない。友人はいるだろうけれど、連絡先は知らない。マルタがあえて遠ざけていたツケがきたのだ。
 通夜も葬式もしない。遺体を燃やしたらすぐに外国人墓地にいれる。そこには父とエヴィの骨もあるから。すべてすべて、ひとりで整えなければならない。
 ――襲撃事件のせいで死傷者が多数出た。火葬場も慌ただしいだろう。
 スマートフォンをおろし、空っぽになった病室でひとり、深呼吸をした。
 今こそ、やるべきことをやる。
 誰かのためではない。自分のためのけじめだ。

 飛白センパイ、やわらかい声が耳朶に心地よく響く。
 つい先月、誕生日を迎えたばかりの男の声。自分に活を入れるための幻聴だったらしい。
 ぼんやりと部屋を眺めて数分、ようやくベッドから抜け出した。
 会いに行く。
 今日がもしかすると最後になるかもしれないから。約束もしていない。会えたならら、それは会うべきだったから、ということだろう。
 アンチドート本部に私服で向かう。黒い麻のシャツに、ベージュの木綿のズボン。マルタは今、喪に服している。
 あらゆる場所が壊れ果てたコンクリートのビルには大勢の人間が片付けをしていた。
 こうなってからも苦々を飲んだ人間による犯罪はおこっているし、アンチドートも楽々を摂取しながらそれに応戦している。前となんら変わっていない。
 ――ロビーここには彼はいないらしい。
 ふと、屋上かもしれない、と思った。屋上ではなかったら、きっと本部にはいない。そんな脅迫めいた考えとともに、階段を上る。
 こんなときにエスカレーターもエレベーターも使えない。
 右浜区でおきた、大規模デモ事件のときもこうして階段を上ったなと思い出す。あのときよりは身軽ではあるが、身軽すぎた。持ってきたものはスマートフォンだけであることに今さら気付く。
 けれどもいい、伝えなければならないことがある。伝えられたらそれで十分だ。
 肺が酸素を求めて、乱雑な呼吸音が頭のなかで反響する。
 屋上にいたるドアをあけると、ロビーにいたときよりも明るい景色が広がっていた。
 肩で息をしながらまわりをみわたす。ふと、太陽の光りと同化しているように見えるひとの姿をみとめる。
「齋穏寺」
 誰にいうでもなく、ポツリと呟いた。
 彼はマルタに気付いていないようで、ぼんやりと東々の景色を眺めている。
 ゆっくり歩き、三十歩目ほどでとなりに立った。
「あ……飛白センパイ」
「よう」
 いたっていつものように、短く返す。心臓は、どくどくと激しく脈打っていたけれど。それが階段を上りきったからなのか、それともこれから伝えることばのせいなのか、区別がつかない。
「どうしたんだ、こんなとこで」
「いえ……。ちょっと見ておきたかったんです」
「東々を?」
「ハイ」
 視線が交わる。
 彼は一度うなずいて、疲れたような表情で笑った。
「アンチドート、こんなふうになってしまいましたけど、変わらないなって思って」
「そうだな。なにも変わっちゃいない。苦々も楽々も相変わらずある。でも、解毒薬はある」
「すごいですね。研究員の方たち。本当に作れたんですから」
「アンチドートが、お前たちがいたからできた」
 風が三つ編みの髪をひどく揺らす。なまあたたかい、初夏の風だった。
「今日はお休みですか?」
「ん。まあな。――野暮用で明日からしばらく、留守にする」
「え?」
「ギリシャに行って、母の家族に会ってくる。いつ帰れるか分からない。だから、お前だけには挨拶しておこうと思って」
……。ギリシャに。遠い、ですね」
「ここからたったの16時間くらい」
 心臓が、いまだ強くからだの中を打ち鳴らしている。慶の顔を眺め、くちびるをそうっと上げた。
「なんだよ、寂しいのか?」
 そのままふと笑ってみせる。慶は眉根をさげて、なにかを言おうとくちびるを開いたが、それもすぐに閉じられた。
「大丈夫だって。あてはあるし、途中で野垂れ死んだりしないから」
「飛白センパイ……
 ほんのすこし、恨めしそうな顔でこちらを見つめる。
 それでも笑って、こう続けた。
「まあ、俺は寂しいけど。お前いないと」
 ――と。
 おおきくなった齋穏寺慶という男は、もう自分が庇護しなければならない人間ではない。
 幼かった子どもは、おおきくならざるを得なかった。
 義兄のこともある。おおきくなったとはいえ、まだ彼は二十歳に満たない。ひとりで抱えられるものも多くはない。そんなときに自分が彼のそばにいられたら――そう考えるも、それはただの偽善だろう。
 アンチドートに入って、マルタは慶をとおくから見てきた。が、今は手を伸ばせば触れられるほどの距離にいる。
 いまの気持ちの色は、たしかに齋穏寺慶の色をしている。
 ――そしてその色は、恋と呼ぶに相応しい。
「慶」
 やっと、この気持ちに名前がついた気がするよ。
「今さら、って思うかもしれないけど」
 すん、と鼻を鳴らす。風が湿った匂いを運んでくる。もうじき雨が降るのかもしれない。
「お前のつらい気持ちもくるしい思い出も見てきたけど、それでもお前は俺にずっと優しかった。お前のとなりは優しくて、あたたかい。だから甘えていたな。ごめん」
「そんなの……
「そう。だから、しっかりけじめをつけないと、と思った」
「けじめ?」
 彼のこころが見える。ほんのわずかな恐怖。聞きたくないと思っていそうな色。
「それをいうためにここまできた。お前に会えると確信していなかったけど」
 となりにいるのをやめ、慶の真正面に立つ。
 心細さをぬぐうために抱きしめたい、と思ってしまうけれど、今抱きしめたら離してやれなくなりそうだった。
「慶、お前が12歳のとき俺に告白してくれたこと、ずっと覚えている」
……
「あのときから俺は一切、恋をしてこなかった。おおきくなったお前と一緒に考えようと約束をしたし」
「覚えていてくれたんですか」
「そりゃ覚えてる。俺は記憶力がいいんだ。で、考えた。お前と同じ時間を過ごすたび、考えた。口に出して言えなかったのは悪かったと思うけど、それでも考えたよ。でもお前のことが大事だから、安易に答えを出したくなかった。この一年考えて、ようやく答えが出た。今さっき」
 ふわふわとした短い髪の先が風にゆれる。
 太陽に透けそうな色。そして青く続く空の色。マルタが好きな朝焼けの色。その色を飛白マルタは恋、と呼んだ。
「待たせてごめん。俺、お前のことが好きだ。慶、お前のことが――。お前に、恋をしている」
「マル……
 彼はなにかを言おうとしたのか、くちびるを開いた。そして先ほどと同じように、また、閉じる。本当に優しい男だと笑った。
「ようやく、お前に伝えられた」
 腕をゆっくり持ち上げて、慶のほおに指先で触れる。
 今はせめて笑っていたいから、むりやり笑ってそっと足を一歩引いた。
「俺がいない間も、病気や怪我に気をつけるように。不摂生は病気の元だ。メシは三食ちゃんと食べて、夜はしっかり眠るように。睡眠時間は大事だからな。あと――あとは、そうだな。……元気で、どうか」
 はじめて祈りたいと思う。
 ――どうかこの優しい男が、心身ともに健やかでありますように。
 逆光で彼の顔は分からない。
 ぼやけたシルエットになる。母のように。
 けれど、もう「さよなら」は言わない。
……またな!」