夜空が天蓋を覆い、人々は家路につく。ケイたちがムヒョウの家に戻るのと同じように、ここにも十数年ぶりの帰宅を果たした少女がいた。
「今日は色々あって疲れたでしょう。ゆっくり休んでちょうだいね。お風呂は、廊下の突き当たりにあるから、冷めないうちに入るといいわ。着替えは娘のと同じ着丈のものをいくつか用意したから、好きに使ってちょうだい」
「はい、叔母さん。ありがとうございます」
フェリキシーに言われるがままに、自分の家に残ったユキハネは、叔母と叔父から無事の帰還を改めて喜ばれ、帰還祝いと称して豪華な夕飯も食べさせてもらった。
汁物一つとっても、味噌の味がしっかりと含まれていた。煮物の野菜はほんのりと甘く、こちらも安くない調味料を使って味付けしたのだろうと分かる。
市場で買ってきたという新鮮な魚を焼いたものの隣には、つやつやの白米が並んでいた。大富豪やお殿様の食事に比べれば見劣りするかもしれないが、彼らが奮発しているのは一目で分かった。
借金の話が浮上しているのに、良いのだろうかと、ユキハネの方が躊躇してしまったほどだ。
どの料理も、ユキハネにとっては懐かしい東方の味のものばかりだった。けれども、どういうわけか、ケイたちと一緒に食べた和風パエリアのときほど、心に染み入ってはくれなかった。
(ケイさんと違って、叔母さんも叔父さんも生粋の東方の人なのに)
調味料の使い方は、間違いなく彼らの方が慣れているはずだ。それなのに、ごちそうの美味しさは舌の上を滑っていくばかりだった。
聞き慣れたケイやミィハの声が、今日は無かったからだろうか。それとも――いつも隣にいる彼の姿が、ここにはなかったからか。
「布団は押し入れにあるから、好きなところに敷いていいわ。それとも、今から準備した方がいいかしら」
「あ、いえ。大丈夫です。自分でやります」
夕飯を終えた後、叔母はユキハネを部屋へと案内し、こうしてあれこれと説明してくれている。
「これからは、ここがあなたの部屋になるわけだものね。中のものは好きに使っていいわ」
叔母は、ユキハネがこの先もずっとこの家にいると思って話をしている。嬉しそうに語る彼女に、ユキハネは自分が感じている気詰まりを話せずにいた。
「後は……そうねえ。何か、伝えておかないといけないことは他にあったかしら」
「そんなに心配しなくても平気ですよ、叔母さん。わからないことがあったら、質問に行きますから」
「そう? じゃあ、何かあったらすぐに来ていいからね」
部屋を出ようとした叔母は、一度足を止め、目を細めてユキハネと部屋の様子を眺める。さながら、ようやく完成した一幅の絵画を眺めるかのように。
「……懐かしいわねえ。この部屋、姉さんと義兄さんが使っていた部屋なのよ。小さいあなたも一緒になって、三人で並んで寝ていたのにねえ」
そう言われても、ユキハネにはその頃の記憶は残っていない。クガネに来てから所々に懐かしさを覚えてはいるものの、叔母のように細かな思い出までは記憶としては残っていなかった。
叔母が部屋を出て行った後、ユキハネは細く息を吐き出してから、部屋の隅に腰を下ろした。今まで、小さな宿の一室で暮らしていたユキハネには、この部屋は何だか広々としすぎて落ち着かなかった。
部屋の片隅で膝を抱えてうずくまっていると、ようやくそわそわしていた心が落ち着きを取り戻してくれた。
(この家に来て、叔母さんたちと話していた私は、なんだか私じゃないみたいでした)
たとえるなら、ユキハネの核のようなものだけがふわふわと外に飛び出してしまったかのような気分だった。
体から完全に離れたわけではないから、ユキハネの意思で体は動いている。だが、自分の意識だけ宙ぶらりんになっているような感覚が拭えなかった。叔母と再会した直後はそんなことはなかったのに、言葉を交わせば交わすほど、ユキハネの中の大事なものがどんどん置いてけぼりになるような感覚があった。
「お師様……」
無意識に口からこぼれたのは、夕方に別れてそれっきりとなったフェリキシーを呼ぶ言葉だった。
「お師様は、私がずっとこの家で過ごすだろうと思っているのですか。クガネに来たのは、親戚に会いに行く私に付き添うためだけじゃなかったのですか」
ケイが予想していたように、ユキハネは親戚の家に顔を出すつもりはあっても、永住するつもりはなかった。
だが、ユキハネの予想に反して、フェリキシーは自分の弟子を、正しい意味で家に返す気でいたらしい。
「もし、お師様がそのつもりだったら……私は、どうすればいいんですか」
ユキハネの冒険者としての日々は、常に師匠であるフェリキシーと共にあった。
彼に魔法の才を見いだされ、彼に娼館から連れ出してもらった。だから、ユキハネは冒険者として同行したいと申し出た。自分に生きるという意味を改めて示し、歩き方を教えてくれた『師匠』に、ついて行きたいと思ったのだ。
フェリキシーも、ユキハネの同道を許してくれた。師と呼ぶことを認めてくれた。
だからこそ、彼がユキハネを拒むのならば、ユキハネの冒険者としての道筋は途端に見えなくなってしまう。
「叔母さんたちは、私が冒険者として生活するのに反対だって言ってました。叔母さんたちは、仕事の後を継いでほしいみたいでした」
この家でただの機織りの娘として暮らすこと。それは、退屈なことかもしれない。だが、もし、両親を失わずにクガネで暮らし続けていたら、ユキハネがは間違いなく機織り娘の道を選んでいただろう。
今までが寄り道であっただけで、これから機織り職人の道に舞い戻るのは、一度見失った『正解』に今一度戻ることになるのではないか。
もう魔物に襲われて怖い思いをする必要もない。依頼主との折衝に、ヒヤヒヤすることもない。親切な叔父と叔母に囲まれて、のんびりと暮らす日々が間違っているとは思えない。
「でも、私にとっては、寄り道だったかもしれない日々が、忘れられないんです」
膝を抱えたまま腕に顔を埋めると、頬をざりざりと擦るざらついた感覚に気づく。それは、ユキハネの腕に生えている鱗が彼女の頬の鱗に触れて、擦れた音だった。
「そういえば、最近鱗の手入れ、できていませんでしたね」
クガネに向かう船には、アウラ族専用の手入れ道具などなかったので、ユキハネは自身の体に生えている鱗や尻尾のメンテナンスをできずにいた。
しかし、手入れ道具の入った荷物は、ムヒョウの家に置いてきたままになっている。もとより、今日は実家に泊まるつもりではなかったので、最低限の手荷物しか持ってきていなかったのだ。
「部屋の中に、手入れ道具はあるかな……?」
こうして気が滅入っているときは、何かしている方が気が紛れる。ここが両親の部屋だったのなら、アウラ族用の道具も残されているのではないか。
八畳ほどの部屋には、押し入れのほかに折りたたみ式のちゃぶ台、座布団、鏡台、そして大きな箪笥が置かれていた。下の引き出しの一つを開くと、そこには叔母が話していた着替えが畳まれて並んでいた。
「引き出しに入れるとしたら、上の小さなところでしょうか」
横長の引き出しの他に、上には小物を仕舞うための小ぶりの引き出しがいくつかあった。一つ目には、着物の着付けに使う小物がおさめられていた。二つ目にはシンプルな簪や凝った刺繍の半衿が。
三つ目の引き出しを開くと、ようやく爪切りや裁縫道具の中に、鱗を整えるためのやすりを見つけられた。だが、最初にユキハネの目を惹いたのは、お目当てのやすりではなかった。
「この鋏、随分と大きい……。布を織る仕事に使うものなのでしょうか」
裁縫道具の上に、まるで数多の道具の王のように置かれている大きな鋏。形から察するに糸切り鋏だろうが、黒々としたそれは、裁縫に使うには些か大きすぎるような気もした。
母の持ち物だったのだろうかと、鋏を恐る恐る手にとる。不思議と手に馴染むそれを、壊さないように引き出しの隅に移動させてから、ようやくお目当てのやすりを手に取った。
改めて箪笥に背を預けて、ユキハネはやすりで少しずつ腕の鱗を削って滑らかにしていく。落ちた鱗の粉が畳を汚さないように、引き出しから適当な端切れを取り出して敷いておくことも忘れない。
アウラ族の鱗は、髪の毛や爪に比べれば伸びるスピードはそこまで早くない。だが、そうはいっても一ヶ月以上放置すれば、鱗の表面が成長してざらざらするようになる。着替えの際に衣服に引っかかったり、こうして肌に触れたときに違和感を覚えるので、ユキハネは鱗の表面はできる限り滑らかにするように意識していた。
部屋の鏡台で確認しながら、削りすぎないように慎重に、そして無心で鱗を削っていく。普段は面倒なだけと感じていたが、今のユキハネにとっては、これは実に都合のいい作業だった。
(だって、何も考えたくない。お師様のことも、叔母さんたちのことも)
親戚に会いたい気持ちは、嘘ではなかった。
なのに、実際に会って話をして、一緒に暮らそうと言われて、冒険者を辞めて普通の娘になってほしいと告げられて。
フェリキシーからは、ここがお前の家なんだから戻ってくる必要はないと突き放されて。
ざりざり。ざりざり。
鱗をやする音が響く。その音は、ユキハネ自身の心から響いている軋みそのもののようだった。
(考えれば考えるほど、分からなくなってしまう。どうすることが正解なのかが……)
腕に生えている鱗だけでなく、腰や足、尻尾の先端、喉や顔など集中する必要がある部分も一通り手入れし終えて、ユキハネはふうと息を吐く。ずっとやすりを動かし続けたせいで、少し腕が痛いが、もやもやした気持ちは幾らか静まってくれた。
「お水をもらって、鱗の削りかすを落とさないと。いえ、いっそのことお風呂に入ってしまいましょうか。お風呂が冷める前にと言われていましたし」
そうして床についてしまえば、明日がくる。明日のことは考えたくないが、ひとまず今日やっておく必要があることは済ませねばなるまい。たとえ叔母たちに思うところがあっても、ユキハネは迷惑をかけて平然としていられる性分ではなかった。
先ほどの箪笥から着替えとなる着物を取り出して、ユキハネは部屋を出る。
「たしか、お風呂は突き当たりって言っていたような……」
きょろきょろと周囲を見渡していると、折よく足音が曲がり角から聞こえてきた。ちょうどいい。やってくる叔父か叔母に確認しよう。
そう思っていたユキハネの期待は、あっさりと裏切られる。
「は? あんた、誰?」
曲がり角から出てきたのは、叔父でも叔母でもなく、ユキハネと同年代のアウラ族の少女だった。
ユキハネよりも少しくすんだ銀髪を一つにまとめ、ユキハネとはまた形の異なる鋭い角が両耳に生えている。
自分と同じ客人かと思いきや、彼女の服装は着物の袖や裾を適当に絡げたものだった。家でくつろいでいる家人の姿を前にして、戸惑ったのはユキハネも同じだ。
「え、あの、私は……」
「あー……わかった、あんたか。母さんが、今日から一緒に暮らすことになったとか言ってた従姉妹って」
ユキハネが戸惑っているうちに、目の前の少女は答えを教えてくれた。彼女は、叔母たちの娘ーーつまり、ユキハネの従姉妹にあたる。
「あ、あなたが、従姉妹の方の……」
はじめまして、というのも妙な話だ。子供の頃に、ユキハネは赤子の従姉妹――つまり、彼女の面倒を見た覚えがあるのだから。
とはいえ、もはや十年以上も昔の話だ。今やユキハネとさして変わらない背格好の少女に、あの頃の赤子の面影を見いだすのは難しい。
当然、本人はそんな頃のことは覚えていないようで、吊り目がちの銀色の瞳で、ユキハネを値踏みするようにじろじろ見やる。
「あんた、名前は」
「ユキハネ、です」
「そ。あたしはギンチョウ。母さんは、あんたのことを死んだ伯母さんの娘だから、娘同然に扱うとか言ってたけど。別に、あたしのことを家族だとか思わなくていいから」
ギンチョウの言葉は、気遣いから生じたものではない鋭さがあった。それどころか、ユキハネを突き飛ばすような警戒心が多分に混ざっていた。
「大体、自分の子供をほいほい他所にやっておきながら、何を今更。思いつきにしたって、勝手にも程があるわ」
「えっ?」
「あんた、知らないの? あたしの弟、生まれてすぐに、うちの母さんが父さんの親戚に養子に出しちゃったのよ。あっちの人たち、長い間子供ができなくて気の毒だからって言って。たしかに、あちらさんはうちみたいな貧乏職人じゃないから、弟もあっちで暮らした方が良かったかもしれないけどさ」
突然告げられた真実に、ユキハネは呆気にとられてしまった。たしかに、叔母からの手紙には新しい家族もできたと記されていたので、それらしき子供がいないのは気になっていた。てっきり、自分の勘違いかと思いきや、そんな事情があったとは。
「それと、あんた。うちの父さんが借金してるってこと、知ってる?」
「は、はい。ハチベエという方が、昼にきていました」
ギンチョウがチッと舌打ちをする。彼女も、彼の態度については既に知っているようだ。
「分かってるなら、こんな家、戻ってきたって何の旨みもないって分かるでしょ。ただでさえ貧乏なのに、あんたみたいな面倒な荷物を増やすの、あたしは反対。今更親戚面されても、どうしろって感じだし」
一方的に敵意を向けられて、ユキハネはタジタジになってしまう。そもそも、ユキハネだって好き好んでこの場に留まっているわけではない。
(叔母さんたちは、ああ言っていたけど。私はこの家の一員になりたいと思ってクガネに来たわけじゃない)
内心でギンチョウに反論はするものの、じゃあ今すぐ荷物をまとめて出て行けるのかというと、そこまでの踏ん切りがつかないのが現状だ。
(だって、今戻ったら……お師様を困らせてしまう)
いや、本当は困らせたくないから、動けないのではない。
(お師様に、嫌われたくない)
ここがお前の家だ、とフェリキシーは告げた。家に帰るのは何もおかしいことではない。自分はその当たり前の中に戻ったのだ。彼だって、それを望んでいる。だから、ユキハネはここにいなければならない。
「ねえ、聞こえてる?」
堂々巡りの悩みに囚われている間に、ギンチョウに何か言われていたらしい。ユキハネは、意識的にぱちぱちと瞬きをして、思考を現実に引き戻す。
「そこ、あたしの部屋の通り道なの。邪魔だから、退いて」
「あ、すみません……」
廊下の脇に寄ると、ギンチョウはユキハネをひと睨みしてから、横を通り過ぎようとした。その瞬間、通りざまに見えた横顔が、ユキハネの記憶の片端を疼かせる。
遠い昔の記憶ではない。ごく最近、自分は従姉妹をどこかで見た気がする。思わず、「あっ」と声をあげると、
「何よ。まだ何かあるの?」
「いえ、そうではないんですけど。ギンチョウさん、もしかして……私と、どこかで会ったことがありますか?」
「なんだ、ようやく気づいたの? ぼーっとしてるから、気づかないままだと思ってた」
束ねた銀髪を軽く払ってから、ギンチョウは突如とびっきりの笑顔を見せて、ユキハネへと頭を下げた。
「いらっしゃいませ、お客様。四名様ですね。近くのお席にご案内しますーーって言われたら、もっと思い出せるんじゃない? びしょ濡れで鍋を頼んだ旅人さん?」
「あ、潮風亭で応対してくださった……! あの時は、大変お世話になりました。地図のおかげで、すぐに目的の場所にたどり着けました」
従姉妹や家のことが一時的に頭から吹き飛び、ユキハネは純粋にお礼を伝えたくて、頭を下げる。対するギンチョウは、ギョッとした顔で、数歩後ずさっていた。
これまで、攻撃的な態度をとっていた相手に御礼を言われて、どう反応していいか分からず、戸惑っているようだ。
「あたしは、ただ、店員としてやるべき仕事を、してただけだから。……まさか、あんたが噂の従姉妹だとは思わなかったけど」
「それでも、気持ちのよい接客でしたよ。私も、接客のお仕事をしていたことがありますけれど、あがり症だったので、ギンチョウさんみたいに上手にはできませんでした」
ユキハネが苦笑いを零すと、それに釣られるようにしてギンチョウの気配がふっと緩む。今まで、ユキハネに対して攻撃的な姿勢を見せていた彼女が、初めて警戒を緩めてくれたように見えた。
「……あんたは、どうしてあたしがあんなところで仕事してるのかって聞かないんだね」
「それは、聞かなければならないようなことなのですか?」
ユキハネが逆に質問を返すと、ギンチョウは口をもごもごさせ、しばらく言葉を捏ねてから、
「母さんも父さんも、あたしが潮風亭で働くのに反対してたから。機織りの修行もしないで、外で働くなんてって。指を怪我したらどうするんだって」
ギンチョウの不満げな様子は、目の前のユキハネに向けてではなく、実の母親に対するもののようだった。
これまで、刺々しい態度をとるギンチョウに、どう答えたらいいものかと悩んでばかりだったユキハネは、そんな彼女の姿に、何やら親近感を抱いた。叔母に自分の仕事を反対されたものが、奇しくもこんなところにもいたのだ。
「私も、冒険者の仕事を辞めた方がいいと叔母さんに言われました。そこは、ギンチョウさんと同じですね」
「冒険者?」
「依頼を受けて、依頼主の護衛をしたり、魔物を討伐したり、様々なお願いを聞いてあげる人たちのことです」
「ってことは、あんた、魔物と戦えるの?」
「はい。これまでも、何頭も討伐してきました」
頷く瞬間、ユキハネは誇らしさが胸いっぱいに広がるのを感じた。
「でも、確かに母さんが嫌いそうな仕事だ。それで、あんたはこの家に残るの? 母さんに言われたとおり、冒険者って仕事を辞めて?」
だが、胸の中を満たしていた誇らしさは、目を向けないようにしていた問題が突きつけられ、あっという間に萎んでいく。
「……それは、まだ決められていません」
「そう。とにかく、あたしは、あんたが家にいるのに反対ってのは変わらないから。あんただって、やりたいことがあるなら、こんな家に帰ってくるより、そっちを優先した方がいいんじゃないの」
言うだけ言うと、今度こそギンチョウは自室に向かって行ってしまった。
残されたユキハネは、一人廊下に佇み、言葉の残響をぼんやりと角に響かせていた。
ーーやりたいことがあるなら、そっちを優先した方がいいんじゃないの。
それは、自分にとって一体何を指すのだろうか。
(今までのように、冒険者で居続けること?)
自問したものの、答えとしては何か違う気がする。
その拙い自問自答を見つめて、ユキハネはふっと自嘲混じりの笑い声を落とす。
「そんなの、最初から決まってるじゃないですか」
目を瞑らなくても鮮やかに思い出せる、一人の男の背中。フェリキシーの背を追って、彼の隣にいたい。自分に立ち上がり方を教えてくれた彼の側がいい。
ただ、それだけなのに。
「それなのに、お師様は、ここが私の家だと言うんです」
彼にとって、ユキハネとのこれまでの日々は、帰宅に至るまでの長い寄り道に過ぎなかったのだろうか。
着替えに皺が寄るほど、きつくそれを抱きしめる。
強く握りしめていないと、そのままどこか深い穴に落ちてしまいそうだった。冷たい木の廊下に立っているはずなのに、底なしの沼に浸かってしまったかのようだ。
そこに落ちないように、ユキハネは着物を抱き抱える腕に力を込める。まるで、この着物が命綱であると思っているかのように。
だが、無慈悲にも、それを断ち切るように、シャキンと澄んだ音がする。実際に聞こえているのではなく、角の奥で響く幻の音。
鋏で綱を断ち切る音。布を断ち、心を断ち、何もかもを断つ音がーー。
「!!」
角に響くリリリという着信音に、ユキハネはハッとする。これは、リンクパールの着信音だ。
「まさか、お師様が……?」
いつもの何倍も早く、リンクパールに指をかける。受信のために生じる、小さな空白の時間が通常よりも何十倍も長く感じられた。
『ユキハネ、聞こえる?』
「ケイさん……?」
フェリキシーでなかったことに小さな落胆を感じたが、知り合いと話せた喜びが、先ほどから沈みっぱなしだった心に光として差し込まれていった。
「どうしたんですか?」
『あー、実はさ。明日、ユキハネの家に行っていい?』
「え?」
ユキハネの家という呼び方に、ちくりと胸の端が痛む。それは、彼にすら、自分は『家に帰った』と思われているのかという、ささやかな反感だった。
「それは、荷物を持ってきてくれる、ということですか?」
『そういえば、ユキハネは泊まるつもりで出かけてなかったから、荷物がこっちに残ってるんだっけ。うん。それも持っていくよ』
できれば、そっちに残しておいてほしい。そうしたら、家を出る理由ができるからーーなどと、言うわけにもいかず、素直にユキハネは頷く。
先だっての手入れ道具の件もそうだったが、どのみち、荷物に入れた品々は日常生活にも必要なものだ。自分の我儘で手放していいものではないのだった。
「荷物のことでなかったら、何か私に用があるのでしょうか」
『うん。ちょっと、俺の都合で、今はクガネの織物について調べてるんだ。お殿様に献上されるぐらい、立派なやつ』
「はあ……」
ケイと織物という部分に繋がりが感じられず、ユキハネは曖昧に頷くしかなかった。そういえば、今日出かける直前に聞こえた話では、ケイたちは織物の商人の護衛をすることになったらしい。その関係で、織物を調査しているのだろうか。
『ユキハネの親戚の人は、機織りの職人さんなんだよね。よかったら、話を聞きたいって思うんだけど、叔母さんたちに話を通してもらうことってできる?』
「わかりました。後で聞いてみます」
友人からの依頼だからだろうか。今まで鬱々としていた心に、ピンと一本糸を張ったような心地よい緊張が走る。やらねばならないことがある、というのは今のユキハネには大事な芯となってくれた。
用事はそれだけだろうかと思っていると、
『それとさ。叔母さんたちとの話が終わったら、俺と一緒に出かけない?』
「出かけるのですか?」
『うん。クガネの案内をしてくれるって話だったからさ。ミィハは護衛の仕事で一日忙しくなりそうだから、実はちょっと暇なんだ』
「そういうことでしたら、ぜひ」
ケイの申し出は今のユキハネにとって、渡りに船だった。このまま叔母に勧められるままに家にいても、気が伏せるばかりだっただろう。
それなら、気の置けない仲であるケイとクガネを散歩する方が、いくらか気は晴れそうだ。
『じゃあ、明日また連絡するね。おやすみ、ユキハネ』
「おやすみなさい、ケイさん」
通信が切れて、ユキハネはほうっと息を吐く。新たにできた予定は、明日が来なければいいと思っていたユキハネの気持ちを、確かに上向かせてくれた。
「ケイさんが連絡してくれたみたいに、私からお師様に連絡をとることもできるのですよね」
顔を合わせなくても、声を聞くことはできる。彼の真意を問うことだって、自分の気持ちを伝えることだって、リンクパールを使ってフェリキシーへと呼びかければ今すぐにでも可能だ。
リンクパールに指をかけ――だが、そこでユキハネは止まってしまう。
連絡に出たとして、自分はフェリキシーに何を言うつもりなのだろう。家にいたくないと駄々をこねるのか。彼の隣で冒険者を続けたいと主張するのか。
(だけど、もう私の居場所が彼の隣になかったら……)
リンクパールにかけていた指が、ぱたりと膝に落ちる。不確かな希望は、今はどんな現実よりもユキハネの心を抉る。それぐらいなら、最初から希望など抱かなければいい。あやふやなままにしておけば、まだ彼の背を追っていていいと思えるから。
シャキン。
また一つ、何かを断つ音がする。鋏で断たれたようなその音が、ユキハネの角の奥で何度も何度も響いていた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.