Hnyanko
2026-05-07 23:47:04
7691文字
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烏天狗🏹と出会ってしまった🧡の悠アキ

例のアレの続きです

 山の道は、いつの間にか道ではなくなっていた。

 足元にあったはずの踏み固められた土は、深い苔と湿った落ち葉に覆われている。木々の根が蛇のように地表を這い、歩くたびに靴先を引っかけた。振り返れば、来た道はもう薄闇に溶けている。

 おかしい。

 そう思ったのは、一度や二度ではなかった。

 けれど、どこからがおかしかったのかが分からない。花に目を留めた時か。風の音に足を止めた時か。あるいはもっと前、この山に入った瞬間から、すでに何かの内側へ踏み込んでいたのかもしれない。

 アキラは立ち止まり、ゆっくりと息を吐いた。

 焦るな、と自分に言い聞かせる。焦れば視野が狭くなる。視野が狭くなれば、選べるはずの道を見落とす。パエトーンとして、幾度も危うい状況を抜けてきた。それなのに今、自分の心臓は妙な速さで鳴っている。

 ここは、ホロウではない。

 けれど、似ている。

 地図があてにならず、空間の感覚がずれていく。見えているものが真実だと信じきれない。何かに見られているような感覚だけが、皮膚の上に残り続ける。

……いるんだろ」

 さっきより低い声で、アキラは言った。

 返事はない。

 だが、沈黙の質が変わった。山全体が息を潜めたように、葉擦れさえ遠のく。こちらの言葉を聞き取った何かが、考えている。そう感じた。

「僕を迷わせてるのが君なら、目的を言ってくれ。金品なら大したものは持ってない。情報なら、内容による。……命が目的なら、交渉の余地は少ないけど」

 自分でも、ずいぶん可愛げのないことを言っていると思った。

 けれど、脅えて震えるよりはましだ。相手が人間であれ妖であれ、言葉が通じる可能性があるなら、まずは話す。話して、観察して、隙を探す。

 そうやって生き延びてきた。

 風が吹いた。

 真正面からではなく、頭上から。

 枝がしなり、黒い影がひとつ落ちてくる。音もなく、羽ばたきの気配さえほとんどない。けれど、地面に足をついた瞬間、周囲の空気がふ、と沈んだ。

 アキラは一歩も動けなかった。

 目の前に立ったものは、青年のかたちをしていた。

 年の頃は自分とそう変わらないように見える。黒に近い髪、夕闇を吸ったような衣、その背に畳まれた大きな羽。人ならざるものだと、一目で分かる。けれど完全な異形ではない。むしろ整いすぎていて、どこか絵巻の中から抜け出てきたような奇妙な現実感があった。

 そして、目。

 金色の瞳が、面白そうにこちらを覗き込んでいる。

「命が目的なら、って」

 青年はくすりと笑った。

「人間って、すぐそういう物騒な話するよね」

「山で道を消されて、頭上から知らない誰かが降ってきたら、大体の人間は物騒な想像をすると思う」

「僕、まだ何もしてないのに」

「迷わせた」

「勝手に迷ったんでしょ」

「見てたくせに」

 言い返した瞬間、青年の目がわずかに細くなった。

 アキラはそこで、失言だったかもしれないと思った。相手が何者で、どういう理屈で動いているのか分からない。領域に踏み込んだ時点で、こちらのほうが圧倒的に不利だ。刺激しないほうがいい。

 けれど、青年は怒らなかった。

 むしろ、楽しそうに笑った。

「勘は悪くないんだ」

 その言い方が妙に癪に障った。

「褒めてる?」

「うん。今のところは」

 今のところ。

 その一言に含まれた含みを、アキラは聞き逃さなかった。

 青年は近づいてくる。ゆっくりと、獲物を驚かせすぎない速度で。背の羽がわずかに広がるたび、夕闇が一枚ずつ濃くなるように見えた。

 アキラは下がらなかった。

 下がったら、相手はおそらく追ってくる。そう直感した。逃げるものを追う。鳥でも獣でも、そういう本能はあるだろう。目の前の青年がどちらに近いのかは分からないが、少なくとも人間だけではない。

「名前は?」

 青年が聞いた。

「先に名乗るのが礼儀じゃないかな」

「礼儀。君、こんな状況でそういうこと言うんだ」

「こんな状況だからこそだよ。得体の知れない相手に、先に名前を渡すほど不用心じゃない」

 青年は、また笑った。

 笑っているのに、視線はずっとアキラの目から逸れない。

 奇妙だった。

 顔全体を見ているのではない。表情を読んでいるのでもない。ただ、瞳だけを見られている。まるでそこに何かがあると信じて疑わないように。宝石の鑑定でもするように、熱心で、無遠慮で、どこか危うい。

 落ち着かない。

 アキラは意識的に瞬きをした。

 その瞬間、青年の眉がほんの少し動いた。

「閉じないで」

……は?」

「目」

 彼は平然と言った。

「見えなくなる」

 ぞわり、と背筋が粟立った。

 言葉の内容もおかしいが、その声があまりに素直だったことがもっとおかしい。命令というより、惜しむような響きだった。玩具を取り上げられた子供にも似ている。けれど、目の前にいるのは子供ではない。人間でもない。

「君は、僕の目が見たいの?」

「うん」

 即答だった。

「綺麗だから」

 あまりにもまっすぐ言われて、アキラは一瞬言葉を失った。

 警戒していた。殺意、敵意、悪意。そういうものを探していた。けれど返ってきたのは、あまりにも単純な欲だった。

 綺麗だから見たい。

 それは純粋に聞こえて、だからこそ怖かった。

……それは、どうも」

「人間にしては珍しいよ」

「褒め方がだいぶ失礼だね」

「褒めてるんだけどな」

 青年は首を傾げる。その仕草は軽いのに、視線だけが重い。アキラの瞳を、奥まで覗き込もうとしてくる。

「翡翠みたいだ」

 ぽつり、と彼が言った。

「でも石じゃない。水でもない。光るだけなら、いくらでも拾えるのに」

 青年の指先が伸びた。

 アキラは反射的に身を引こうとした。だが、それより早く、風が背を押した。強くはない。ただ、下がるという選択肢だけを封じるような、ごく柔らかな風だった。

 指先が、目元のすぐ下に触れる。

 冷たくはなかった。

 それが、余計に気味悪かった。妖なら冷たいものだと、勝手に思っていたのかもしれない。けれどその指は人と変わらない温度をしていて、しかもひどく丁寧だった。壊れものに触れるみたいに、目元の皮膚をなぞるだけで、決して強くは押さえない。

……触らないで」

 声は思ったより平静だった。

 青年は指を止める。

「嫌?」

「当たり前だよ。初対面で目元を触られて喜ぶ人間は多くない」

「そうなんだ」

「そうなんだ、じゃない」

「ごめん」

 謝罪は軽かった。けれど、指は素直に離れる。

 そのことに、アキラは少しだけ驚いた。

 こちらの拒絶が通る。

 少なくとも、まったく話が通じない相手ではない。ならば交渉できる可能性はある。恐怖に飲まれかけていた頭の中で、現実的な考えが少しずつ戻ってくる。

「僕はアキラ」

 名乗ると、青年は目を瞬かせた。

「言うんだ」

「先に名乗らないなら、こっちから渡したほうが早いと判断した。君は?」

 青年は楽しげに目を細めた。

「悠真」

「悠真」

 その名を口にした瞬間、青年の羽がわずかに揺れた。

 名前を呼ばれ慣れていないのか。それとも、人間に呼ばれること自体が珍しいのか。分からない。けれど、反応があった。

「烏天狗?」

「へえ。知ってるんだ」

「一般教養の範囲では。山に棲む、飛ぶ、人を惑わす、鼻の高い天狗とは別系統の鳥の姿をした存在。……実物を見るのは初めてだけど」

「実物の感想は?」

「思ったより話が通じる」

「ひどいな」

「褒めてるんだけど」

 先ほどの言い方をそのまま返すと、悠真は一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑った。

 山に似合わない笑い声だった。

 軽くて、若くて、人懐こそうで。けれど周囲の木々はそれに合わせてざわめき、彼の笑いひとつで、この場が彼のものであることを思い知らされる。

「アキラくん、面白いね」

 くん付け。

 ほんの些細な距離の詰め方だったのに、アキラは警戒を強めた。

「僕は君を面白がる余裕はないんだけど」

「でも、怖がってるだけでもない」

 悠真は一歩、距離を詰めた。

「怖いくせに、ちゃんと僕を見る。逃げたいくせに、考えるのをやめない。人間って、もっとすぐ濁るものだと思ってた」

 その言葉に、アキラは眉をひそめる。

「濁る?」

「ああ、そこは分からなくていいよ」

「分からなくていいことを、わざわざ口に出さないでほしいな」

「ほんと、口が回るね」

 悠真は愉快そうだった。

 けれど、その金色の目の奥にあるものは、笑みほど穏やかではない。観察している。見定めている。試している。こちらがどこまで踏み込めるのか、どこで怯え、どこで怒り、どこで折れるのかを。

 そして、欲しがっている。

 それだけは、分かってしまった。

 何を、と問われれば答えられない。目かもしれない。魂かもしれない。あるいは、もっと漠然とした「アキラ」という存在そのものかもしれない。

 けれど、目の前の烏天狗は、明らかにこちらを欲の対象として見ている。

 その事実に、アキラの手のひらが冷えた。

「悠真」

 あえて名前を呼ぶ。

 羽が、また少し揺れた。

「帰り道を教えてほしい」

「嫌だって言ったら?」

「理由を聞く」

「理由があれば納得するの?」

「内容による」

「じゃあ、綺麗だから」

 アキラは黙った。

 悠真は悪びれもせず続ける。

「綺麗なものを見つけたら、すぐ手放したくないでしょ」

「僕は物じゃない」

「うん」

 その返事は、思いのほか早かった。

「そこが困ってる」

 悠真の声が、少しだけ低くなる。

「石ならよかった。水晶でも、翡翠でも、硝子でも。そういうものなら、拾って帰って隠しておけば済む。なのに君は動くし、喋るし、僕を見るし、怒る」

 彼は不思議そうに、それでいてどこか苛立たしげに眉を寄せた。

「だから余計に欲しくなる」

 息が詰まった。

 その言葉は、告白ではなかった。恋情と呼ぶにはあまりに未分化で、所有欲と呼ぶにはあまりに熱を持っている。妖の本能が、人間の言葉にうまく変換されないまま零れ落ちたような、歪で正直な響き。

 アキラは、目を逸らしかけた。

 その瞬間、悠真の声が飛ぶ。

「逸らさないで」

……命令?」

「お願い」

 嘘だ。

 ほとんど命令みたいなお願いだった。

 それでも、悠真は本当に惜しそうな顔をしていた。アキラの視線が外れるだけで、その光を失ったみたいに。

 変な妖だ、とアキラは思う。

 恐ろしい。危ない。こちらの常識が通じない。けれど、残酷になりきれていない。奪える力があるのに、拒めばいったん手を引く。閉じるなと言いながら、無理やり瞼をこじ開けることはしない。

 その半端さが、かえって目を離せなくさせる。

「悠真は」

 自分でも、どうして続けたのか分からなかった。

「綺麗なものを集めるのが好きなの?」

 悠真はしばらく答えなかった。

 風が吹く。黒羽が揺れる。金の目が、アキラの顔をなぞる。

「好きだよ」

 やがて、彼は言った。

「でも、君はちょっと違う」

「何が?」

「目だけじゃない」

 悠真は言葉を探すように、ゆっくり瞬きをした。

 不思議な沈黙だった。烏天狗が人間に説明を試みている。そのこと自体が、少し不釣り合いに見える。

「君の目が綺麗なのは、たぶん色のせいじゃない」

 アキラの胸の奥が、微かに軋んだ。

「奥にあるものが、光ってる」

 声が出なかった。

 魂、という言葉を、悠真はまだ使わなかった。けれど言わんとしていることは分かった。分かってしまった。目に見えるはずのない、自分自身ですらうまく扱えない何かを、勝手に覗き込まれたような気がした。

 怖い。

 先ほどまでとは違う種類の恐怖だった。

 命を狙われる怖さではない。暴かれる怖さだ。自分が隠してきた疲労や諦めや、それでも手放さなかった芯のようなものを、異形の瞳に見透かされる。

 アキラは唇を引き結ぶ。

……そんなもの、ないよ」

「あるよ」

「決めつけないで」

「見えるんだもん」

 子供みたいな言い方だった。

 だけど、悠真の目は笑っていなかった。

「君、自分で思ってるよりずっと綺麗だよ。だから危ない」

「危ない?」

「僕みたいなのに見つかる」

 悠真はそう言って、少しだけ笑った。

 その笑みは、さっきまでよりずっと寂しく見えた。

「見つけたら、欲しくなる。欲しくなったら、隠したくなる。隠したら、たぶん君は曇る。……それは嫌なんだよね」

「矛盾してる」

「うん。困ってる」

 本当に困っているような声だった。

 アキラは、返す言葉をなくした。

 目の前の妖は危険だ。そこは揺らがない。自分の都合で人間を迷わせ、見つめ、欲しがり、帰さない可能性さえある。けれど、その欲の中に奇妙な躊躇が混じっている。

 壊したくない。

 傷つけたくない。

 でも欲しい。

 それは、人外の本能としてはひどく不器用で、あまりにも人間くさい。

……帰して」

 アキラはもう一度言った。

 悠真の表情が、わずかに曇る。

「今は?」

「今すぐ」

「僕が嫌だって言ったら?」

「困る」

「怒らないんだ」

「怒ってるよ。でも、怒って帰れるなら最初からそうしてる」

 悠真はまた笑った。

「賢いね」

「褒めてる?」

「うん。すごく」

 今度は、嘘ではない気がした。

 悠真はしばらくアキラを見つめていた。翡翠の目を惜しむように。視線が外れるのを恐れるように。それから、ふいに肩をすくめる。

「いいよ」

……本当に?」

「今日はね」

 今日は。

 その含みに、アキラは嫌な予感を覚えた。

 悠真は背の羽をゆるく広げた。闇を畳んだような黒羽が、音もなく空気を撫でる。すると、これまで見えなかった細い道が、木々の間にぼんやりと浮かび上がった。

 来た道、なのだろうか。

 アキラにはもう分からなかった。

「まっすぐ行けば麓に出る。振り返らないほうがいいよ」

「振り返ったら?」

「僕がいる」

「それは、振り返らなくてもいるんじゃない?」

「うん」

 悠真は楽しげに笑う。

「いるよ。君がこの山にいる間は、ずっと」

 アキラは何か言おうとして、結局やめた。

 言葉を重ねるほど、この烏天狗の中に自分の痕跡が残っていく気がした。名前を呼んだだけで羽が揺れる。視線を返しただけで金の目が熱を帯びる。これ以上何かを渡してはいけない、と理性が告げている。

 それでも、歩き出す前に一度だけ聞いた。

「どうして今日は帰すの」

 悠真は少し考えた。

「君の目が、曇りそうだったから」

 その答えに、アキラは息を呑む。

「閉じ込めたら、たぶんつまらない。欲しいと思ったものと違うものになっちゃう」

……勝手だね」

「うん。僕、妖だから」

 開き直ったような言い方に、アキラは思わず小さく笑ってしまった。

 失敗した、と思った時には遅かった。

 悠真が、目を見開いていた。

 まるで、今まで見た光の中でいちばん珍しいものを見つけたみたいに。

……今の」

「なに」

「もう一回」

「嫌だよ」

「笑った」

「笑ってない」

「笑ったよ」

 悠真の声が、ほんの少し弾んでいた。

 まずい。

 アキラは直感する。

 今の一瞬で、何か余計なものを渡してしまった。瞳だけで済んでいた興味に、表情という新しい餌を与えてしまった。驚いた顔も、怒った顔も見たいと言っていたこの妖に、笑った顔まで見られてしまった。

「帰る」

 アキラは踵を返した。

「うん」

 背後で、悠真が笑う気配がする。

「またね、アキラくん」

「もう来ないよ」

「それ、君が決められること?」

 足が止まりかけた。

 けれど、振り返らなかった。

 振り返れば、いる。

 そう言われたからではない。振り返ればきっと、あの金色の目と合ってしまう。そしてもう一度見られる。翡翠の瞳を。自分でも知らない奥の光を。笑った顔を。

 だからアキラは、振り返らずに歩いた。

 背中に視線が突き刺さっている。

 怖い。厄介なものに目をつけられた。そう思う。思うのに、どうしてか、胸の奥に残った感覚は恐怖だけではなかった。

 あの烏天狗は、恐ろしい。

 けれど最後に見せた顔は、ひどく孤独な子供のようでもあった。

 それが、いちばん厄介だった。

 山道を抜ける直前、風が一度だけ頬を撫でた。

 耳元で、声がした気がする。

「次は、もっと近くで見せてね」

 アキラは答えなかった。

 ただ、無意識に目元へ指を添える。

 触れられた場所が、まだ少し熱を持っているような気がした。

 その夜、麓へ戻ったあとも、アキラは何度も振り返りそうになった。

 山はすでに黒い影になっている。

 そこに金の目があるはずなどないのに。

 翡翠の瞳をした人間がいなくなった山の中で、悠真はひとり、太い枝の上に座っていた。

 手のひらには、何もない。

 持ち帰れなかった。いや、持ち帰らなかった。

 それなのに、指先にはまだ、あの目元の柔らかな熱が残っている。

……変なの」

 ぽつりと呟く。

 綺麗なものを見つけた時は、いつもなら手元に置けば満たされた。隠してしまえば安心した。誰にも見せなければ、それでよかった。

 けれど、アキラは帰した。

 自分でそうした。

 それなのに、胸の内側は少しも空にならない。むしろ、帰したことで余計に欲しくなっている。見えなくなったから、また見たい。声が遠ざかったから、もう一度聞きたい。笑った顔を覚えてしまったから、別の表情も欲しくなる。

 悠真は自分の羽に顔を埋めるようにして、低く笑った。

 これは、よくない。

 烏が光るものを好むのは本能だ。

 けれど、去っていった光の行き先まで気にするのは、きっと本能だけではない。

「また来るかな」

 答えるものはない。

 山はただ静かに、夜の気配を深めていく。

 悠真は目を閉じた。

 瞼の裏に、翡翠の色が残っている。

 目を閉じても消えない光なんて、初めてだった。

 だから、きっと。

 もう手遅れなのだと思った。