二月十四日の朝、世はバレンタインの話題一色だ。朝に視聴したテレビでもインターネットの広告でも否応なしに話題を突き付けられる。だが、大倶利伽羅はそんなことはお構いなしに通勤電車を降りた。勤め先は製菓会社などでもないし、自社品の売り上げに大きく影響する日ではない。毎年そうだった。エレベーターに運ばれて、目的の階に辿り着く。オフィスの扉を潜り、自分の席に腰掛ける。いつも通り――のはずだった。
「……なんだ?」
机上に見慣れない小さなものが置かれている。前日までは確かに存在しなかった何かだ。形は丸く、ピンク色の包装が目を引く。指がこつん、と当たってしまった。机をわずかに転がっていき、止まる。とりあえず仕事の準備をしようとノートパソコンに触れた所で、何者かの気配を背後に感じた。
「おはよう、伽羅坊」
「あんたの仕業か」
声を掛けてきた男の名は鶴丸国永と言う。一年ほど前この会社に転職してきた。年齢は一つ上だが、大倶利伽羅の方が社歴は長いという訳だ。同じ部署、同じ営業職として業務を教えたり切磋琢磨したりしながら過ごしてきた。
「仕業だなんて、心外だな。ちょっとした驚きにはなっただろ」
雪のように白く美しい彼は大袈裟に肩を竦めるだけで様になる。
「そうだな、驚いた。これで満足か」
淡々と零したが、非日常の要素に少々面食らったのは確かだった。
「んー、もう少しリアクションが欲しかったけどまあ及第点だな」
「何故これを?」
「バレンタインだからに決まってるだろ」
当たり前のことを言わせるな、と添えるように溜め息を床に落とす。
「いつもより早く来てチョコを置いておいたのさ。ちなみに、きみだけ特別じゃないからな。この部署の方々には全員だ」
本当だったら営業所の全員に渡したいぐらいだけど、と微笑んだ。そういえば、鶴丸が入社してからバレンタインを迎えるのは初めてである。もしやこれから毎年驚かされるのだろうか。大倶利伽羅は少しはらはらした。
「あっ、まさか伽羅坊、もっと違う種類のものが欲しかったのかい。悪いなあ、気付かなくて」
「要らん」
恐らくわざとおどけてきたので、切れ味鋭く断っておいた。鶴丸がくく、と笑う。特に堪えた様子はなさそうだった。
「きみ、甘いものはお嫌いだったか? 一つだけだから許してくれよ」
「……嫌いとは、言っていない」
そうかい、そうかい、と満足そうに頷かれた。決して見栄を張ったのではなく、甘味はたまに口にする機会がある。
「今日、疲れたときにちょっとつまんでくれたらいい」
ぽん、と大倶利伽羅の肩を叩き去っていった。体温の名残を感じながらようやく自席に腰掛ける。甘いものは嫌いではない。――好きな相手に貰ったものならば、尚更だ。
鶴丸は大倶利伽羅にとって同僚であり、思い人である。ほとんど一目惚れに近かった。転職者として鶴丸が入社した春の日を忘れないだろう。目を思わず細めなければならないほど眩しかった。それは、白銀の髪の毛やまつ毛がきらきらと光っていたからだけではない。瞳だ。琥珀のようなそれは大倶利伽羅と同じような色合いをしていた。似ている、とまず思った。しかし、その考えはすぐに覆される。彼の瞳の方が格段に煌めいていた。全て見透かすような、あるいは達観したような凛々しい視線も大倶利伽羅の肌を震わせる。金の閃光が脳裏に焼き付いて業務中も離れなかった。この時点でもう惹かれていたと言わざるを得ない。その後、彼の鮮やかな仕事ぶりや、日々の生活において驚きを求める快活さに段々と惚れ込んでゆき今に至るのだった。何を気に入られた故なのか、伽羅坊とか言う独自のあだ名で呼ばれることには子ども扱いされるような歯痒さがあるが、惚れた弱みも相まって結局受け入れている。
「……ふ」
大倶利伽羅のあまりにもさりげない微笑は誰にも気付かれなかった。机上に置かれたままの量産的なチョコレートを見遣る。他の人々と同じ内容のだとわかっていても、恋慕う男から初めて貰った贈り物には間違いなかった。
◉
せっかくの記念すべき品ではあったが、ただの小さな菓子であることは変わりない。午前中にさっさと食べてしまった。もしも勿体ぶって食べずに置いていたら、面白がった鶴丸に「俺からのチョコがそんなに嬉しかったのか」とにやにや迫られるのは目に見えている。なんなら、周りの社員達に言いふらす可能性だってあった。鶴丸からのチョコレートが嬉しいのは事実でも、本人にばれるのはなんとなく癪だ。大倶利伽羅の裡にもそれなりの意地が秘められている。
チョコレートは当然甘かった。絶対に忘れない――とまでは過言だが、記憶に残る味となりそうだ。一つしか食んでいないのに、甘さがまだ舌先に残っている気がする。
仕事の疲れが鶴丸の差し入れにより少し和らいだ所で昼休みに入った。出社前の時間で適当に買っておいたものを食べていたら、スマートフォンの画面が通知で光った。仕事用の端末ではなく、私的に使っている方である。
『今日飲もうぜ〜』
眉根にきゅ、と皺が寄った。唐突すぎる誘いの差出人は鶴丸だ。彼から二人きりの食事に誘われるとき、何故か毎回当日の約束をしようとするのだった。気分次第で声を掛ける流れなのだろう。この急な誘いを毎回大倶利伽羅も断らない。互いに突発的な外出予定などが入ることもなきにしもあらずなので、結局お流れになる場合も多々あった。それでも、初めからはね除ける態度は取らない。無下にする気はないのだ。そして、どうせ他の者にもこうやって気まぐれで投げているのかと思いきや、本人曰くどうも大倶利伽羅に対してだけらしかった。
「そもそも、誰かと一緒に飲む趣味はあんまりないんだ」とは彼の言である。意外だった。鶴丸は他者とわいわい卓を囲む方が好みだろうと決めつけていたからだ。
「こっちから誘うのはきみぐらいさ」
その言葉を信じる他あるまい。とはいえ、鶴丸が駆け引きだとか大倶利伽羅をよいしょするために嘘を吐くとは考え難かった。彼は色々な言葉で大倶利伽羅を翻弄するが――不要な嘘は使わない。営業の仕事においても誠実だ。そういった点が取引先からも信頼されていた。
さて、此度の飲みの誘いである。承諾を返す前にURLが送られてきた。開いてみれば、会社からほど近い距離に立つ飲食店の情報が表示される。要するにこの店舗に行きたいのだろう、と納得した。大倶利伽羅がすぐに承諾したことに対して嬉しそうなメッセージと、笑顔を浮かべる鳥のスタンプが立て続けに来た。
『絶対残業しないで早く退勤しないとな!!』
鶴丸の声が聞こえてきそうな文章だ。まるでその辺を飛び跳ねるかのごとく嬉しそうである。この度々発生する食事会は、大倶利伽羅にとって恋い焦がれる相手と二人きりで交流できる唯一の機会だった。雑談も交わすし、距離はだいぶ縮まったような気もするが互いの家で飲むだとか休日まで一緒に遊ぶことはない。なんとなく、踏み出せずにいた。あと一歩、足を前に出すだけなのだろうが。誘いは今の所途切れていないので、鶴丸も二人きりの食事を彼なりに楽しんでいるはずだ。
――確かに、残業は御免だな。
せっかくの時間が減ってしまう。午後の業務で予想外のトラブルが起きませんように、と藁にもすがる思いで祈った。こればかりは大倶利伽羅自身でどうにも出来ないからだ。
◉
「伽羅坊、こっちこっち」
定時から数十分後、大倶利伽羅は会社ビルの入り口で鶴丸と落ち合った。流石に定時ぴったりの退勤とは相成らなかったが、このぐらいの遅れは互いに充分許容範囲だ。昼休みに願ったことが無事叶い、胸を撫で下ろした。キンと冷える空の下に繰り出す。革靴の足音が軽快に響いた。鶴丸がはあ、と吐き出す息は彼本人と同じように白い。大勢が吐き出す息と同じ色のはずなのに、より清らかに見えるから不思議だった。
「楽しみだなあ」
遠足前の子どものように声を弾ませる。
「そうだな」
捻くれるなどはせず同意した。大倶利伽羅も退勤後の食事を心待ちにしながら働いていたからだ。
「おっと、素直な伽羅坊だ。いつもそうだったら可愛いんだがな」
「……ふん」
店内での時間は穏やかに流れていった。やはりバレンタインは関係ない誘いだったと確信する。鶴丸の退屈しのぎに貢献できているなら光栄だった。黙々と酒を煽り、小皿の食事を口に運ぶ。
「美味いか?」
「ああ。あんたの見つける店は毎回美味い」
本音だった。彼もまた、奇を衒うことや嘘を吐くことはない。鶴丸が満足そうに自身のジョッキを傾けた。
「ふふ、何よりだ。これできみは、来年のバレンタインになっても俺とここで食べたことを忘れないな」
え、と思わずぽろっと零しそうになったが、食事を咀嚼している途中だったので声にならなかった。飲み込む音が嫌に大倶利伽羅の鼓膜を刺激する。まさか、と頭を過った。
「鶴丸、まさか最初からそのつもりで今日――」
「はは、流石にバレたか」
他の客達の声などがこだまする店内でも鶴丸の声はよく通る。
「ご明察だよ。やっぱりきみには何か他のものも贈りたくて、俺なりに考えたんだ。だから今日は俺の奢りな」
白い指先で一度だけ机をとん、と叩いた。彼の金色の瞳がさざ波のように揺れているのは、酒精の影響だろうか。
「……わかった。ありがたく受け取っておこう」
社内の会話と同じように不要だと突っぱねたら、今度はいやいやと食い下がられて堂々巡りになったに違いない。
「何故、他のものも、と思ったんだ」
大倶利伽羅の鼓動が馬鹿みたいに走り始める。問わずにはいられなかった。小さな菓子一つでも心は揺さぶられたのに、目の前の衝撃が受け止めきれない。
「ふうん。なんでだと思う」
まさかの返答に目を丸くした。箸を動かす手も止まってしまう。そう来たか、と唸りそうになった。とんだ策士だ。鶴丸も大倶利伽羅と同じ想いを抱いているから、と断言するのは早計だろう。しかし、それでもほんのひと匙分だけ自惚れることを許されたかった。
「……見当がつかないから訊いたんだ」
どうしても明確な言葉には出来ない。ずるいとは思うが、鶴丸の言葉が欲しい。当の本人が可笑しそうににやにやと破顔していた。
「じゃあ、考えておいてくれ。宿題なんて、学生以来だろう」
彼は余程愉快なのか、酒を飲んでも赤くならなかった頬が紅潮し始めた。先に大倶利伽羅が明かさなければ、本心を教えない魂胆かもしれない。充分にあり得る。大倶利伽羅は店内の賑やかな雰囲気には似つかわしい大きな溜め息を吐いた。
「鶴丸」
「ん、どうした」
鶴丸が余裕たっぷりの笑みを浮かべながら見つめてくる。今更ながら浮かんだ考えだが、この男は大倶利伽羅の抱えた胸を焦がすような恋情もお見通しなのではと訝しんだ。蜜をじっくり煮て固めたような金の瞳はあらゆる事象を覗き見る――そんな不思議な想像が頭を駆け巡る。
「来月は俺に奢らせろ」
今度は鶴丸が目を丸くする番だった。見惚れるほど長い銀のまつ毛が瞬く。来月、つまりホワイトデーのことだ。
「『宿題』とやらは……そのときに答えたいんだが」
いいか、と確認すると、一拍間を置いてから頷かれた。
「ああ、驚いた。お返しは正直ないものと思ってたから」
今夜食事を奢れたらそれだけで満足だったのだと言う。予想しなかったであろう台詞に動揺する彼は新鮮で、可愛らしかった。普段の仕事では何が起きても大木のように、あるいは穏やかな広い海のように動じないのだが。
「伽羅坊〜、三倍返しとかはしなくていいぜ。相当な金額になっちまう」
「安心しろ。あんたを焦らせることはしない。好きそうな店を探しておかないとな」
三月半ばとなれば、少しずつ春の足音が聞こえてくる頃だろう。鶴丸が好きなのだと、そして鶴丸も同じ気持ちなのか教えてほしいとその日に思い切って言ってしまおうと決心した。
「わかった、楽しみにしておくよ」
思い人は雪解けのように柔らかく顔を綻ばせた。まだ咲く時季は先のはずだが、まるで桜を思わせる笑顔だ。
「ああ」
楽しみだ、と大倶利伽羅も呟いたのだった。
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