「(番組名)に(人名)が出る」に対する返しが「オレも毎週見てる」のところ、“話し言葉”としての台詞の自然さの妙が、マジ簡潔で美しいしすごいよねほんと。あれほんと芸術だなと思ってます。
樹の言葉に対する忍の返し、語順から無意識下に判断した自分の受け取りかたを無自覚の内に正解だと思っているナイフエッジな気質が超~~~忍で、危うさがマジでいいなと思います。あそこ、忍の人柄がすごく出てますよね。そしてこれこそが、樹に「時限爆弾と恋人」という感覚を抱かせた、忍の危うすぎるピュアさのうつくしさが瞬間瞬間にかがやいているという体感で。もろくて硬質な氷の刃が樹を瞬時に惹きつけた、その鋭い刃先が樹の胸に刺さって永劫溶けないそれだと思うんですよ。
私も樹の語順だと話題の比重が番組名になると感じるので、とっさに『普段見ている番組に次は誰々が出る』の意で取るけど、それを確実とは思わないので、私が忍の立場だった場合、まず事実確認のために質問をするところから始めるように思います。加えて、この語順での樹の発言には、別の文意の可能性として、『あの有名番組に次は誰々が出るのかぁ、それなら気になるから次回は見よう』と感じている、というパターンもあって。後者のパターンの場合、番組も人も、普段から見ている必要がなく、相乗効果でたまたま気になる、というケースもあるのです。つまり、より精確に発言者の文意を知りたい場合には、
…というか、たぶん、前者で解釈してもそうなんですけど、たいていの場合、樹の言葉を受けたら、『番組と人、どちらかを普段から見ているのか? 番組と人、どちらに関心があるのか』の確認をまずするんじゃないかと思うんですよ。『妖怪もテレビを見るのか』という驚きがあったにしても、だいたい、とっさに『好きなのか?』って返しになりません? それをすっ飛ばして「オレも毎週見てる」だけを簡潔に返すのが、もうね、めちゃめちゃ忍の人柄の鋭い氷のナイフエッジを光らせていて最高なんですよね!!
そしてそれを受けた樹も、忍の受け取り方がもし自分の文意と違ってもなんか黙ってそうだけど、ふたりの運命の符合的に、合ってたのかなーと私は解釈してて、でも違ってもいいな~と、どちらにも取れるのがいいですよねずるい。私の場合、“はなから文意が簡潔のままですとんと伝わり合う符合の運命性、運命的出逢い性のバディ”の解釈をしていて、でも、“初めましてがこれだったけれど、ここからさき伝わり合う伸びしろがすさまじいのもイイヨネ”のきもち。
以下、番組名をA、人名をBとして、語順と文意解釈についてもう少し述べます。ここでは、『番組名Aに人名Bが出る』と『人名Bが番組名Aに出る』の差異について扱います。
語順が『番組名Aに人名Bが出る』の場合、話の主題はA。よって、とっさには『よく見ているAに、次回はBが出るようだ』の意になりやすいように感じますが、これは、『なんとあの有名番組Aに、いつも見ているBが出る!』の意で用いられる語順でもあります。どちらも、日常的に実際に遭遇する用例です。前者の意の場合には、発言者の関心程度として番組A>人Bと受け取れます。忍もこれで解釈してるように感じます。ですが、用法として、発言者の持つ背景+互いについて承知している条件付け次第で、後者のケースもあるのです。そして忍は、自分の解釈以外の文意も生じることをあんまり想定していないように感じさせます。
日頃から気にかけている著名人Bが居る場合に、『あのBが今度はAに出るようだ』という話題を出す際、『人Bが番組Aに出る』の語順を選びやすくなるかと思いますが、実際の背景や条件によっては『番組Aに人Bが出る』のパターンも用います。
つまり、発言者自身の関心度合いが人B>番組Aであっても、下記のような例だと、『番組Aに人Bが出る』の語順を無意識に選ぶケースも生じると感じさせます。
①たとえばその番組が“徹子の部屋”のように、特別な格式があったり、出ることの誇らしいような特別な番組である場合は、『なんとあの番組Aに! Bが今度出る!』の文意が出てくる。
②あるいは誰でも知っているような有名番組全般の場合にも、『へぇ、あの番組Aに、次回は自分の好きなBが出るんだなぁ~!』という文意となる。
③話す相手も確実に知っている番組であり、なおかつ相手におけるその著名人への関心レベルがさほど高くないことを承知している場合、『ねえねえ聞いて欲しいんだけど、今度、番組Aに、自分の好きなBが出るんだけどね、』といった文意となる。
④否定的な文意として、『苦手な番組Aに人Bが出る、信じらんない
……』の意であることもある。
これらなどの場合に、日常会話では、発言者の関心が人B>番組Aであっても『番組Aに人Bが出る』の語順を無意識に選ぶ場合も多く生じると感じています。これらの時、重きを置きたい話題が“(今度Bが出る)番組A”であるか、あるいは、人Bに重きを置いても相手には意味がないためです。
逆に、もちろん、『人Bが番組Aに出る』の語順であっても、『いつも見ている番組Aに、なんと、あの人Bが出るのか!』の意や、『へぇ、人Bが今度は番組Aに出るのかぁ、気になるな』の意になることもあります。つまり、『人Bが番組Aに出る』の語順であっても、必ずしも普段から人Bを見ているとは限らないのです。
ただ、初対面同士で『人Bが番組Aに出る』の語順が出た場合、発言者が相手に与える印象は、“発言者はよっぽどBを好きなんだろうな”というものになりやすいかなと思いますし、あるいは、相手は、“発言者がより共通で認知していそうと感じたのはB>Aなのだろうな”、とも感じるのではないでしょうか。即ち、逆の語順の時よりも、条件付けがより人名寄りに傾いでくるように思わせます。
加えて、この『人Bが番組Aに出る』の語順を用いる場合って、よほど人Bを好きでとっさに出る以外だと、相手との間にある程度の交流があったり、相手について情報がある前提になってくるように思います。つまり、下記のようなときに用いやすいと感じます。なお、下記では好きと嫌い、否定と肯定とを置き換えたパターンでも同様なのですが、以下では逆パターンは省略しています。
①互いに人Bに否定的ではない同士と承知している。
②自分が人Bを好きであることを相手が知っており、自分は、相手がそのことに特段否定的でないことも承知している。
③相手が人Bを好きであると知っているため、共通の話題として出す。(自分は人Bは好きでもふつうでも語順に関係ない)
④互いに人Bも番組Aも特別に好きというわけでなくても、雑談として出すにあたり、何となくの知名度や関心度合いなどが人B>番組Aであることを何となく認識している。雑談としての『今度、人Bが番組Aに出るんだってね~』程度であり、『今度、番組Aに人Bが出るんだってね~』とほぼ同じ比重だが、関心や共通認知などもろもろのウェイトで無意識に使い分ける。
⑤“番組Aの話題を出したいけれど相手が番組Aを知っているかは分からない。人Bならば知っているだろう”と感じており、相手に想定する認知度が人B>番組Aである。
⑥自分の好きな番組A、というのを相手が承知しているものについて、『好きな番組Aに、今度はなんとあの人Bが出るんだよ~~(肯定でも否定でも可)』のつもりで述べたい。
これらなどのときに、共通の話題、あるいは自分の聞いてほしい話題として人Bの名を出すときに特に、『人Bが番組Aに出る』の語順を用いやすいのではないでしょうか。
要するに、『人Bが番組Aに出る』の場合、『番組Aに人Bが出る』よりも、AとBどちらに関心が高いのかのパターンが少し限られてくるように感じさせます。つまり、樹の語順である『番組Aに人Bが出る』は、よりいっそう、多様な条件や背景を想定できるマジカルな最高芸術なのです。
また、よく見ている番組Aであったり、あるいは見てなくても誰でも知ってるような番組Aであるときに、『次回はBが出る』ことを肯定的・否定的どちらでとっているのかが、次回Aを見たいか否か、どちらにもそれぞれ作用し得るんですよね。Bに否定的でもゴシップ的な野次馬マインドや怖いもの見たさで見たがる人もいれば、いつも見ている番組でもBが出るなら見たくないというひとも居る。同時にこれは、よく見ている著名人Bの場合に、番組に対し否定的なケースも肯定的なケースも、見る動機としてともにあり得る。更には、“AにもBにも日頃高い関心がなくともA+Bの組み合わせが気になるからたまたま見てみようかと思っている(感情として肯定的・否定的どちらもあり得る)”という場合もある。“番組Aの次回を見ようと思っている”人の背景には、ほんとに、色んなパターンがあるんですよ。だから、たいていの場合、樹のコンパクトな発言を聞いたとき、ましてや初対面で相手の情報がないとき、“この相手はAとBどちらかが好きなのだろうか? Aならば自分も普段から見ているけれど。どちらを好きで見たいのかが気になるな
…”と思って相手から情報を引き出そうとするように思うんですよね。けど、忍はそれをしようという発想を恐らく持たなかった。ここに、自らの感じるものが正解であると盲目的に信じる極端なまでの忍らしさ、忍の危うい極端さをメッッチャメッッッチャ感じるのがほんと好きで。だから彼は、“信じるものを信じ込んでいる”→“信じ込んでいたものに裏切られた(と感じたことをまるまるすべて信じ込んでいる)”という、二元論を通り越して一元論の域でしか生きられない、不器用なまっすぐさをいびつに有していて。そのピュアなたましいこそが、現実に傷つくさまのただの観客席を、樹に選ばせて。ほんっっと最高でメッッチャいい
………泣ける
………
樹の発言は、語順だけで文意を確定はしきれない、ものすごく可能性に満ちたものです。ですが、忍は、樹の『番組名Aに人名Bが出る』から、『よく見ているAに、次はBが出るのかぁ』の意と取りました。そして、それが正解である前提で言葉を返したように思わせます。
更に加えると、樹の『番組名Aに人名Bが出る』って、AやBに肯定的であるか否定的であるかだったり、AやBへの関心の程度を、いかようにも想定出来るんですが、忍って、“樹がAには肯定的、Bにも特段否定的ではない”で受け取ったんじゃないかな。
樹のコンパクトな一文、あの語順美と、それに対する忍のシンプルな返しとが生む芸術性の至高ぶりって、“本来であれば互いに対する共通理解や情報ありきのシンプルさなのにもかかわらず、初対面でそれが対話として成立している独自の関係性が既に在ったこと”にあるんですよね。
あの会話って、ふつうだったら、下記のような、互いに対する情報や互いにおける条件を前提とするじゃないですか。
発言者自身の内因的な理由/
・c-1:世間での認知度や評価について、自分がどう認識しているか。
・c-2:自分における関心や好き嫌い。
外因の要素が強い、内因的な理由/
・d-1:自分と相手との関係性。
・d-2:互いの関心度合いや互いにおける認知度合い、互いの好き嫌いについての情報(相互理解・相互認識)。
つまり、あれは本来ならば発言者が、“相手についての情報や理解”ありきで用いるシンプルさなんですよね。初対面の相手だったら、たとえばですが、『毎週番組Aを見ているんだが、次回は人Bが出るから楽しみにしているんだ』って補足しながら話すんじゃないかなと思うんですよ。けど、樹はものすごくコンパクトに話したし、忍にはそれでじゅうぶんだった。
初対面の、ましてや自分を始末しようとしている、あの有名な仙水忍相手にあの簡潔な表現を使う樹さぁ~~~!!!!!のきもちでいっぱいになる。それがマジめちゃめちゃ樹で美だし、それをウワサの仙水忍に理解されるとは特段思ってなかった(理解されたいつもりで話しては全くいない)ろうし。対する忍の返しって、樹においても、結構なびっくりだったんじゃないかな。忍は忍で“妖怪もテレビをみるのか”ってびっくりしたと思うけど、樹は樹で、“あの仙水忍もテレビをみるのか。存外とひとのこだなぁ”って少しびっくりしたと思うんですよ。だからこそ、惹かれて、自身の余生をそこに決めて。
初対面であの表現をする樹も、それに対する忍の返しのパーフェクトさも、ほんと最高すぎてパーフェクトすぎて、似た者同士感がすさっっっまじくて。マジ。運命のバディの運命じゃん
………『(言葉足らず)』へのアンサーが『(言葉足らず)』で成り立っているところに、既にこの二人の関係性のはなから完成に在ったのを感じてメッッチャすき。
初対面でウワサの仙水にああ言える樹もすごいけど、それに対してとっさに『好きなのか?』じゃなくて一拍の間を置いての「オレも毎週見てる」が出てくる忍さぁ~~~不器用な真面目さというか!!! 小一時間の雑談で結果的には掘り下げたろうけど、なんか、こう、一拍の間があくにしてもそれだけがとっさに出る?!みたいな美
……
樹が忍に即座に感じた危ういまでの不器用な真っすぐさ、要するに「時限爆弾と恋人」という感想って、結局のところ、“1st返しが「オレも毎週見てる」だったところ”にめちゃめちゃメチャメチャ集束表現されてて。そんで、そうした集束ばかりが忍のすべてに在るところにあって。それが本当にスゲーーーー芸術で。ホント好き!!!!!
これさ、いかようにも想定できるのがほんと自由帳でいいよね。忍の気質・人柄と、ふたりの関係性の始まりと完成、あるいは永劫ことばたらずの未完成だったり、不足があっても成り立ってしまういびつな危ういもの特有の美、かもしれないし、いやいや透明なピースを含めて完成されている完全球がつくられているんだよ、それがはなからの場合もあとからの場合もあるけど彼らは透明ピースの答え合わせをしようとは特段思わないんだよ、だとか、どうとでも取れるんですよね。それってやっぱり、樹の語順が、『番組名Aに人名Bが出る』だったからこそよりいっそうになのかなと思うんです。AとBが逆の語順だったら、もう少し可能性の選択肢や条件が絞られてくるというか。どうとでも取れるジェンガなんですよねほんと。
樹の簡潔な言葉のうつくしさって、忍の受け取りかたが樹の意図したままだったならば“語順の妙だよねぇ美
…そんで文意が合致する同士なのマジ運命のバディの運命!!!”と思うし、忍の受け取りかたが樹の文意と違ったとしたら、“語順で重きを置くものが変わるため、とっさに受け取られやすい文意も変わるのっておもしろいよね~~~!!!それを活かした忍の危うさの表現マジ芸術!!!”のきもち。
ことば、特に話し言葉ってしばしば言葉が足りなかったり、ちょっとしたニュアンスが、互いの有する文脈や背景により生じ合うので、符合したりしなかったりして。たいていはその場でやりとりし合うことで調整していくんですけど、それがなくても通ずるのって互いをよく知っているかあるいはすごく波長が合うかなんですよね。初対面であの簡潔な受け答えで成立してる関係性さぁ~~~~~~~~~!!!!!!!!のきもちになるマジで。
漫画の台詞って、読者には書き言葉にも見えることがあるけど、当人たちにはあくまで話し言葉なんですよね。っていうのを、あの樹と忍にはめちゃめちゃ感じるのがほんと、すごい体験だなと思いますね。ほんと
……
話し言葉としての台詞が呼吸をし、いきているからこそ、だからこそ樹と忍のあれはほんと、話し言葉によってのみ生じる、“初対面なのに言葉足らずで会話が成り立つ”という不思議な距離感の完成性を表現されていて。それがほんとすきで。“初対面同士で伝わりきるのも伝わりきらないのもどちらもとうとい”だし、“初対面では伝わりきらなかった場合にそれを小一時間の雑談で深めることも出来る、そしてはなから伝わり合ってた急速の合致であれば、その小一時間ははなからものすごく近しくてふしぎなやすらぎとしてものすごくふしぎな濃密にてたのしめるものだった”というのも尊いし、“最初のあのすっ飛ばし会話の成立を小一時間続けることができたなら、その小一時間で交わす情報量って通常の25倍くらいじゃない?!最高すぎるしそのあとの10年強だって実時間より情報量が濃いんだよね、直接的にことばで交わさずとも”とも思うし、“これから知っていける時間が、忍が樹の延命を選ぶことにより生じ得るのだという尊さ”や、”これに始まって阿吽になる/あるいははなから阿吽だったバディのさ~~~~~~~~~~!!!!尊さだよね!!!!”の感情になるんですよね。いやほんと、とうといの語と、芸術!!!!!の語に尽きる。芸術の不発時限爆弾じゃん
…爆ぜるとも爆ぜないとも言えるシュレディンガーの時限爆弾を伴侶にしてるバディの芸術性に尽きるし、はなからそこに符合すべきためだけにいきてきた運命のバディじゃん
………あのひ出会うためだけにいきてきて、対話をシンプルにも濃い情報量で交わして、そんでそのままいきつづけるためにいきてたのがほんっっっとさ
………最高で泣ける
………………
冒頭にも記したんですが、樹って、忍の受け取り方がもし自分の文意と違ってもそれはそれで黙って自分の内に隠したままでいそう(8~9年経ったくらいで『実はあの時、』って言う可能性もあるし、なきがらに語るまでは隠してもいそう)だけど、バディとしてのふたりの運命の符合的に、私は、樹の文意は忍の受け取ったやつで合ってたのかなーと解釈してます。でも違ってもどちらもメッチャよくて、どんな解釈でもおいしくて。どうとでも取れるのがほんといいですよね。私の場合、“はなから文意が簡潔のままですとんと伝わり合う符合の運命性、運命的出逢い性、最初からツーカーな不思議な距離感と関係性が完成されていたバディ”の解釈をしていて、でも、“初めましてでは伝わりきらなかったけれど、ここからさきそれが伝わり合うようになる伸びしろがすさまじいのもイイヨネ”の感情ですね。
忍の返しが『AかBを好きなのか? AとB、どちらを好きなのか』という確認でなく「オレも毎週見てる」のひとことなのマジっっっっで美で芸術だよね!!!!!!! この文芸性の高さがほんと美なのって、そこに忍の人柄がすごく体現されているからこそで、そして、それこそが、樹に「時限爆弾と恋人」という感覚を抱かせた忍の危ういほどのうつくしいピュアさを、瞬時に解させたものだと思うんですよ。そんで、これが芸術なのって、すごくリアルな空間と時間との立体的な自然さが、すごく、大気ほどの空気感で、自然にリアルに、表現されているからなんですよね。リアルな自然さを伴う、現実的な偶然性の美のリアリティなんですよね。ほんと美だな~~~マジで!!!!!!!!! 忍のピュアな危うさがメッッッチャ出ててほんっっっとスゲーーー好き。忍が自らの解釈を疑わないところに、彼は自分の認知するものが正解と信じ込んでいるからこそ極端なんだろうな、と、その真っ直ぐすぎる危うさを感じてめっちゃ惹かれます。マジ時限爆弾すぎるし、マジ恋人なのほんとわかる。マジ最高のバディすぎるんよ
……………
つまり、先生のえがかれたあの受け答えのコンパクトさってマジで芸術ですごいよねほんと、それこそが仙水と樹という無二のバディをなにより体現している瞬間瞬間の象徴だよね、という話でした。
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