やまだ
2026-05-07 00:25:01
2261文字
Public 無双オリジンズ
 

No title

孫権と無名 夜中の雑談の話

 眠ることができずに庭を眺めていた孫権の頭上から、夜の塊が音もなく降ってきた。草や砂利を踏む音すらなかったので、孫権は実は自分はもう夢の中にいるのだろうかと疑わなければならなかった。
……殿」
 にゅうっと回廊の下から生えてきた黒い塊から見知った者の声がする。聞き慣れない呼び名は無視し、それまで詰めていた息を盛大に吐き出した。
……無名か! 一体どうしたのだ、このような時分に。化生の類かと思ったぞ」
「公瑾に用があったのだが、降りる屋根を間違えてしまった。申し訳ない」
 かさかさと草を踏んで孫権の手燭の下に現れた無名の頬に泥が跳ねている。欄干に手燭を置いて彼の状態をさっと改めているうち、孫権はなまぐさい錆の臭気を嗅ぎとった。
 旅の武芸者だったこの男を孫家に引き入れたのは孫権ではない。黄蓋や周瑜らが亡父孫堅の時代から熱心に彼を誘いつづけ、招いたのだ。亡兄孫策も重用していた。いずれ孫権もそうなるのだろう。……なれるだろうか、本当に?
「無名。周瑜に何を命じられたのだ」
「揚州北部を不審な集団が移動していた。その排除を」
「負傷しているだろう。上がって手当てをしていけ」
 夜であり、衣も黒いためにわかりにくいが、これほどの臭気を放つほどの返り血を浴びているようには見えない。無名自身に傷があるだろうことはさすがに孫権にも察せた。
 手をさしのべたが、無名は少し顎を引いて上目遣いに首を振る。うしろめたいことがあるときの尚香に似ている仕草だった。
「殿の手を煩わせるほどのことじゃない。それに、医者なら邸にいる」
 また、殿だ。
 眉間に皺が寄るのを止められなかった。無名に向けていた手を力なく下ろし、欄干に置く。たよりない燭火に照らされるおのれの手のたよりなさときたら、吐き気をおぼえるほどだった。
……殿?」
……私に、おまえたちからそう呼ばれる資格があるのだろうか」
 無名の瞳が火灯りを受けてきらっと輝いた。揚州でも見かけたことのない美しい蒼は、今の孫権にははるか遠く感じる夜明けの空と同じ色だ。
 偉大な父に続き敬慕する兄まで喪ってしまった。この喪失は孫権や尚香だけのものにするにはあまりに大きい。孫策は、孫権に国ひとつを遺していったのだ。兄の死は国主の死だった。
 重すぎる責が突如として孫権の背に乗せられた。これまで父や兄の陰で安穏と過ごしていた身ではとても耐えられない。日夜息苦しく、あらゆるものがおそろしい。地上のすべてが孫権を試しているような気がする。兄は、孫策は、どうしてあれほど快活に笑えていたのだろうか。つくづくと孫策の偉大さを思い、翻って自己を省みては嫌悪に沈んでいくことを繰り返してばかりいる。
「仲様」
 はっ、と顔を上げる。覚えている。まだ孫策が江東平定に向けて走りだしたばかりのころは、無名からそう呼ばれていた。
 困ったように眉を下げた無名がうっすらと微笑んでいる。
「今だけ、ご容赦を。……仲様は、伯様を信じていないのか」
「兄上を……
「昔よく言っていただろう。伯様のようになりたいと。そしてそのたび、伯様から仲様には仲様の長所が、仲様だからこそできることがあると言われていたはずだ」
 突然つらつらと語りだした無名が珍しく、つい返事もせず聞き入ってしまう。
「伯様はその場しのぎの慰めを口にするような方だったか。本当に認めたものだけを腹の底から賞賛する、そういう方だったと俺は思っているが」
「それは……そうだ。私もそう思う」
「だったら」
 無名の瞳が火色を弾いてきらめいた。
「仲様は、どうして伯様が信じていた仲様をいつまでも信じてやらないんだ」
 怖いからに決まっている。孫権は唇を噛みしめた。
 何もかもが怖いのだ。おのれの力不足も、諸将の期待も、兄の信頼に応えられないかもしれないことも、すべてがだ。
「仲様が一番仲様を信じていない」
 囁く無名はただ不思議そうだ。
 彼は、孫権が立派な国主であれば不要だったかもしれない偵察で傷を負ったとは思わないのだろうか。
 訊いてみたいが、そうだと答えられたら今度こそ孫権は立ち上がれなくなるかもしれない。怖い。
「公瑾も俺も、あなたはできると思っているよ。だから、仲様という虎が身を起こして駆け出すときに邪魔になりそうな枝を払っている」
「私は、虎だろうか」
「あなたは孫文台のお子で、孫伯符の弟御だ」
 うっすらと無名が笑った。
「今ではないのかもしれないな。だがきっといつか、仲様は天が驚くような咆哮を上げる。あなたの爪牙で天下に挑む日が来るだろう」
 無名の声が託宣めいて響いたのは、手燭ひとつしかない暗闇に呑まれたせいかもしれない。不思議な感触で胸に落ちてきた言葉を、孫権は戸惑いつつ受けた。
「私の爪牙? ……おまえたちのことか?」
「仲様のそういうところ、とても好きだ」
 その時が来たら任せてくれ、と言った次の瞬間には無名の姿は孫権の視界から音もなく消えていた。血の匂いと香の残滓だけが中庭の闇に漂っている。
「今度こそ公瑾の所に行く。殿、もう休んだほうがいい。あなたは俺と違って戦場以外でもずっと忙しい」
 昼夜問わず戦いつづけている男はそう言い残して完全に気配を消してしまった。今度こそ屋根を違えずに周瑜のもとへ辿りつければよいが、と、手燭を取りあげながら苦笑する。
 実に数日ぶりの笑顔であったことを、本人含め誰ひとり気付かぬまま、朝に向けて深まる夜の中へ向かっていった。