もうそろそろ20時を回ろうかというタイミングで入った、少人数用の会議室の扉を後ろ手に閉めた後、どういう言葉で話を切り出すべきか迷って日向は口元を歪めた。対する狛枝はそそくさと片側のソファに着席し、こちらをじっと見上げている。
彼の方から口を開く様子は無い。当然だ。話したいことがあると彼を連れてきたのは日向の方なのだから。
「…………」
「…………」
扉の向こうの執務室も完全に人が出払っており、二人が互いに口を閉ざしていると耳が痛くなるくらいの静寂が室内を支配した。その底に流れる焼けるようなノイズに背中を押されて、言葉がまとまらないままではあったが日向は意を決して狛枝の向かいへと腰を下ろした。
「正直言えば……こんなの、無理に頼むことでもないんだろうけどさ。……みんなの前だけでも良いから、お前の態度、もうちょっと何とかできないか?」
日向たちの試行錯誤の末、新世界プログラムから目覚めてから、狛枝凪斗の態度は周囲の想定、否、危惧よりずっとまともなものだった。ただしそれはたった一点、日向創に対するもの以外については、という注釈がつくことになるが。自分たちと同じように絶望の残党となっていた過去を持つ同級生たちへの態度は徐々に折り合いをつけられるようになっていったものの、日向に向ける眼差しや言葉だけはどれだけの時間が経っても和らぐことはなかった。
数か月前に静養とリハビリの期間を終え、未来機関で日向と同じ所属へ配属されることになった後も、依然として日向への態度は変わっていない。日向自身が特段それに参っている訳では無いのだけれど、問題は周囲への影響だった。執務室内で毎日滲む不和に気を揉む者も少なくないし、自分に向けられていなくとも強い言葉や威圧的な雰囲気を感じ取るだけで委縮する者もいる。実際、日向がこうして狛枝を呼びつけたのは何人かに裏で懇願されてのことだった。当事者である日向に頼むのはどうかという話ではあるのだが、既に他の77期生を始め、苗木や霧切が狛枝の説得を試みたもののそれが実を結ぶことはなく、状況が悪化するリスクを加味してでも一縷の望みをかけてといった具合に日向自身にお鉢が回ってきたことを考えると拒むことは難しかった。
こんな状況であれば本来ならばふたりの所属を離してしまうのが最良なのだけれど、日向の頭の中に残った才能が狛枝の持つ波の大きい幸運に干渉して比較的なだらかなものにしていることが判明した以上、そうもいかないというのが現実だった。
狛枝は何を言うことも無く、殆ど変わらない目線で真直ぐ日向を見つめるばかりだった。感情を消してひたりと見つめてくる鈍色からは思わず目を逸らしたくなったが、それはきっと不誠実だろう。だから日向は努めてそれを正面から見つめ返した。
「お前は器用な奴だし、人目がある場所で取り繕うくらいはできるだろ? 別に俺の事を好きになってくれって訳じゃないんだ。お前が俺の事を……許せないなら、それはそのままでも良いから、」
「知ったような口をきくのはやめてくれない? 別に、ボクはキミの事を許せないなんて思ってないよ」
「え?」
唐突に日向の言葉を遮った狛枝の声は不自然なくらいに平坦だった。その内容に対して日向が端的に疑問を音にすると、彼の冷えた眼差しが少しだけ細められる。
「ただ、気に食わないだけだから」
「……それは何が違うんだ?」
「違うよ。キミの言った『許せない』っていうのは、例えばキミが才能が無い癖して厚かましく才能を求めたこととか、自分の頭を売ってまで希望と呼べるような才能を得ておきながらあっさり絶望に協力したこととか、そういう過去についての話でしょ?」
彼の疑問符は半ば確信じみたものでこちらの返答を期待しているようではなかったが、日向は躊躇いがちに頷いた。日向のそういった部分が彼の人生で強固につくられた信念からしたら許容できないものだから、日向創という存在そのものが受け入れがたく攻撃的になるのだと、日向はそう理解していた。
けれど狛枝は、首を横に振ってそれを否定した。
「ボクが気に食わないのは、過去のキミの愚かしさじゃなくて今のキミの態度なんだよ。……ねえ、日向クン。今のキミは、先の見えない未来を指針としているよね」
「……それが?」
「ねえ、キミは本当に未来ってものに目を向けているの?」
ふ、と狛枝が口の端を歪めて笑む様な息を落とした。それは薄いながら、明らかに嘲笑のかたちをとっていた。
「もういない人間からの借り物の思想を振りかざしてるだけのキミが、過去じゃなくて未来を見てるって?」
「…………!」
――それは、日向にとっては唯一の触れられたくない傷で、同時に誰も触れたことの無い感傷だった。目を見開く前、瞬きをした一瞬の瞼の裏に、やわらかな花弁に似た色を伴う輪郭が過る。
指先に怒りに似た熱が灯るのを感じた。それはある種の防衛本能かもしれない。日向の胸の内を支えるそれが崩れることが無いように、思わずぎゅうとシャツの胸元を強く握りしめる。
「ッ、お前は、俺が未来を創ろうとしてるのが俺自身の意志じゃないって、……ただあいつの面影を探してるだけだって、そう言いたいのか」
「まさか違うって言うつもり? 流石にそこまでおめでたい人間だとは思ってなかったけど」
「……っ、」
ぴしゃりと言い放った狛枝の言葉に、日向は息を詰まらせた。……未来という暗闇に手を伸ばし、それをかたどろうとする行為が、あの時彼女から受け渡された選択肢だと言うのは否定のしようのない事実だ。日向がそれを選ぶことができたのは彼女が背中を押してくれたからだということも忘れていない。忘れられる筈がない。時折自分の視線があの時から逸れてしまっていないかを省みる時、あの春の色を思い返して胸が痛むこともある。
……けれど、そんなことが一体何だというのか。と、いっそ開き直るように日向は狛枝を睨み据えた。
「借り物って言葉を否定するつもりはない。あいつのことをこういう形で忘れないままでいるのが健全じゃないってことも、分かってる。……でも、だからって俺のやろうとしていることは全部張りぼてで意味が無い、なんてことにはならないだろ? お前はこれだけ間違えてきた俺に、空元気だけで前を向けって、根本的に健全になれって……そう言いたいのか?」
分かっている。今の日向の在り方は過去に縛られている様なもので、きっと彼女はそんな風に意志を託したかったのではないのだと。それでも、日向は憧憬と、それからその先にある痛みを伴った、はっきりとした輪郭を伴わないやわいなにかで自分の背を縛り付けないと正しく立っていられないのだ。
だって。
「俺が! ……俺が縋れるものなんて、もうこれしかないのに……っ」
壊れかけた、否、自分が壊しかけた世界で、自分の罪から逃げず前を向くために。どれだけ惨めでも、自分にはそうする他にない。もう戻ることの無い彼女の幻影の手に縋りでもしないと、日向は前を見つめることができない。突き詰めてしまえばその視線の行き着く先が過去にしかならないのだとしても。
「――――、」
やっとのことで吐き捨てた日向の言葉を僅かな沈黙の間に飲み込んで、そして狛枝は表情を大きく歪めた。ただし、それは日向が予想していたような苦々しいものではなく、痛みを堪える様な、明らかに傷付いたことを示すようなものだった。唐突に示されたそれを見て取った日向は、思わず呆気にとられた。
「狛、枝……? お前、何で、――ッ!?」
その意味を追求しようとした日向を無視して狛枝が立ち上がる。そのまま身を乗り出した彼は、シャツを握りしめていた日向の手ごと胸倉を引っ掴んで、そして勢いのままに唇を重ねてきた。……正確には、噛みつかれたと形容した方が良いかもしれない。口唇の端に微かな痛みが走って、それから口内に鉄の味が伝っていった。
目を白黒させる日向の視界には、狛枝の鈍色だけが広がっている。傷を付けられたのはこちらの筈なのに、隠すことなく痛みを訴える虹彩を見つめているとまるで自分が加害者になっているかのような感覚に陥った。
触れて、塞ぐだけの口付けがどれだけ続いたかはよく分からなかったが、息苦しさが胸を詰まらせた辺りで狛枝の温度は離れていった。狛枝の行動の意味を掴めないまま、唖然として彼を見つめることしかできないままの日向に向かって、彼はそれまでの冷えたものとは様変わりした生ぬるさをその声に滲ませて呟いた。
「……どうしてキミは、何も分かってくれないの」
途方に暮れた、迷子の子どもの様な。そんな様子の狛枝凪斗を見たのは、これが初めてのことだった。
狛枝は力なく笑みを浮かべる。その虹彩に揺れる痛みの奥に、なにか、焼けつくような激情を滲ませて。
「ボクが、……他でもないキミに、健全でいてほしいだなんて思うわけないのに」
彼が続けた言葉は呼気に滲ませた微かなもので、これだけ静かな部屋の中でも日向の耳に届いたのは辛うじて、といった具合だった。そしてその後珍しく言葉に迷うように狛枝は口元を揺らめかせたが、結局それ以上何かをかたちにすることはなく、彼は会議室を出ていった。
そんな彼を引き留めることもできず取り残された日向は、身動きが取れないままただ立ち尽くしていた。
最後に彼が見せた、熱を伴うなにかが喉の奥へと落ちていく。その正体を日向の感情は探ろうとしたが、日向の理性がそれを拒絶した。知るべきじゃない。知りたくない。きっと理解してしまえば取り返しのつかないことになる。何も分からないでいる癖に、けれどどうしてかそんな警鐘が頭を支配した。
――けれどきっと、いつか自分はその正体に辿り着こうとするのだろう。だって、いつだって自分は彼を理解をしようとする衝動を止めることができないのだから。
ただ、その衝動に対してこれまでに覚えたことのない、冷たい波の様な不安が次第に胸を締め付ける。その感触を振り払うように小さく零した、七海、という呼びかけには、勿論答えが返ってくることはなかった。
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