それなりの歴史、つまりは経年劣化のあるドアが音を立てて閉まった。後ろ手に鍵をかけてから明かりを付けて、すぐに脱いだコートをハンガーにひっかける。どの動作も丁寧とは言い難く、それは家主の青年――リュートにしては珍しいことだった。
教員宿舎として機能している家屋は街中にあるようなアパートメントハウスと異なり一棟一棟が独立していた。二階建てで縦には長いが幅はそこそこ。小さいながらバックガーデンがあってリュートは趣味の魔界植物を育てている。過去に監査と指導が入ったおかげで周辺への害はない。
教員が住むその通りには紋切り型の家屋が並んでいる。中には備え付けの調度品や収納棚がいくつかと、古めかしいベッドが一つ。退去時に魔法で完全な修繕を行うことを条件として、内装は自由にしてよい。世間一般を鑑みても十分に贅沢な待遇であった。スフォルツェンド魔法学校の教員であれば、新人だろうが若造だろうが学都に我が城を手にすることが出来るのだ。
廊下を奥に進みながらパーカーから腕を引き抜くと、くたりと揺れた袖から砂が落ちて床に薄く溜まった。今日の最後の授業は実戦演習だった。生徒が使った魔法が校庭の砂を巻き上げた際の土産が服や髪に残っていることに気づいて、慌てて玄関に戻る。体中の砂を落として片足立ちで靴まで脱ぐと、案の定そこからも砂がさらさらと落ちた。
玄関の姿見には魔法の風や砂に曝されてくたくたになった姿が映っていた。とにかくこれから身だしなみを整えなくてはいけないというのに、これではいけない。
「とにかく、シャワーだ」
すくと背中を伸ばすと、どこに潜んでいたのやら、またしても服のあちこちから砂がこぼれた。あんまりなことだ。リュートは空気が抜けたように笑った。
宿舎のシャワーは温度調節が難しい。熱すぎた、冷たすぎたを数度繰り返してからリュートはやっと体を濡らした。少し熱いくらいの温度が心地よい。一気に血が巡ってむずがゆい肌の表面を撫でている間に、やがて全身がその熱さに慣れていった。
――汚れを落としたら着替えて髪を整えて、それからお茶の用意を……。ああっ、部屋を暖めてからバスルームに来ればよかった! でも魔法でなんとかなるかな? えっと……それから……。
それからの続きを考えようとして手の平で石鹸をこすりながら、リュートはしばらく上の空だった。ぼうっとして作りすぎた泡を贅沢に体の上に滑らせていると、鼓動がどんどん早くなっていく。この後のことを考えるとのんびり落ち着いた心地ではいられなかった。
今日はクラーリィがリュートの部屋を訪ねてくる予定だ。借りていた本を返しにくるという。使いを出せば事足りる用事のために、それでも自ら行くと言ったのだ。そうと言われたわけではないがリュートはすっかり逢瀬のつもりで顔が熱くなった。
――だけど、本当に本を返しにくるだけかもしれない。玄関先で本を渡し終えたら帰ってしまうかも。「ゆっくりしていきませんか」と勧めてはみるつもりだけど、お忙しいだろうし。後ろ姿をいつまでも見送ることすらできないんじゃないだろうか。きっと理事長は魔法を使って、ふっと消えるみたいに移動してしまうから。
慕わしく思う分だけ、想像すると残念で胸が痛んだ。恋人の部屋を訪ねるといえばリュートは睦まじく穏やかなひとときを期待したが、クラーリィも同じように思っているかどうかが分からない。
シャワーを止めると気化熱が一気にリュートの体温を奪いにかかる。思わず肩を震わせて、悪い想像で固まっている場合ではないと気を取り直した。タオルで水気を拭き取って手早く衣服を身につける。少しだけ気を張った白いシャツのボタンを留めながら、スリッパを引っかけてリビングを兼ねる客間に急いだ。もしもクラーリィを招き入れることになった時のため、暖炉に火を入れておかなくてはいけない。短い呪文を詠唱して指先を向けると、あっという間に薪が積み上がってそこに炎が発生した。こういうときに魔法は便利だ。
椅子に置きっぱなしにしていた普段使いのブランケットを回収して、廊下へ出たリュートの急ぎ足は今度はキッチンへ向かう。ポットとカップ、それからたっぷりの湯を用意した。あれこれと行き来しているうちに乾かしきれていない髪から水滴が床に落ちて、慌てて頭にタオルをかぶる。そうして、ああもう、と焦れた声を漏らしながら床拭きの布をクロゼットから取り出していると、ノックの音がした。
時は来たれり。リュートは恥ずかしさを飲み込んで玄関へと走った。ここまできたら体裁よりもいち早い出迎えが大切だろうと思ったのだ。リュート自身も、気が逸っていた。
「クラーリィ理事長っ。すみません、お忙しいのに訪ねてくださって。ありがとうございます」
「……オレが行くと言ったんだ、それはいいんだが」
クラーリィは怪訝そうに眉を顰めそう前置きした。外気を招いている扉を閉めて再度リュートに向き直ってみるが、もちろんその一瞬で彼の格好がきっちりと整っているはずもない。すいぶんと慌てていたのだろう、ということはよく分かった。
「来るのが早すぎたか」
「いえ。その、ちょっと事情がありまして……」
気恥ずかしくて俯いた頭からタオルがずり落ちようとしていた。クラーリィはそれを押さえて、額から頭の形を確かめるようにリュートを撫でつける。硬質な手の動きにつられて顔を上げた先に敬愛する人の困ったような表情が見えて、リュートは顔を赤くした。もっと格好良く出迎えるはずだったのに、恥ずかしく思わずにいられない。
「どんな事情でそんなに慌てたか知らんが、冷やして風邪をひいたりするなよ」
子供をかわいがるような手つきで頭を撫でながら、クラーリィはもう一方の手でリュートに本を手渡した。されるがままにそれを受け取ったが、今日の本題があっさりと終わってしまいそうな気配にリュートは焦る。
「あのっ。もしよかったらお茶を用意するので、あがってください」
「いいのか? おまえ、なんか忙しそうだが……」
この国一番の多忙を極める男にそう言わしめる人間はそうはいないだろう。無論、恋人のためにそわそわと浮き立つ心には忙しいよりも適した形容があるだろうが、二人はそれにたどり着きそうもない。
「忙しいなんて、全然そんなこと……。でも、今日の授業は大変だったんです。砂、砂、砂で……聞いてもらえますか?」
頼りなく眉を下げた相好がかわいくて、クラーリィも表情を和らげる。「ああ」と返事をするとリュートはぱっと笑って案内のために先を歩き始めた。どこか自慢らしく見えるのは、リュートがこのひとときをうんと喜んでいるからだろう。
暖炉の炎は順調に部屋を暖めていた。何から話し始めようか、「えっと……」と切り出したリュートの頬がオレンジ色にあたたかく染まっている。クラーリィはそれを、夜の中の陽光だと思って眺めていた。
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