虫甬
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過去を思い返すホンルの話

25年の冬ぐらいに放置していたものを突貫工事ばりに書き足しました。このまま手直しもすることはない気がするので、ここだけの公開。

昔。ああ――どれくらい昔だろう。彼は目を瞑る。具体的に覚えてない。流しすぎた過去は沈殿してしまい、混ざっている。感情の水面に手を落とす。冷たくも熱くもない。底を掬おうとしたら全身まで浸かっていた。仄暗くて重たい。水底の過去には届かない。無数の何かが彼を見る。見る。手を伸ばす。触れようとする。構わないと肺を水で満たしかけ――目覚めた。
パチッと両目が見開いて、緩やかに閉じ、起床。もうあまり意識しなくなった囚人部屋を進んで、着替え、朝のルーティンをこなす。
鏡の前で彼は笑う。
自分自身に、笑う。
ホンルはそこにいる。生きている。ふう、と息をついて髪を結った。


今日は何をするのだろう。同じような繰り返し――鏡ダンジョンの周回――だとしてもホンルにとって眩いのだ。が、夢の中で探そうとしていた過去を、ふと触れてしまった。騒がしいカジノ。凍てついた城。死体の山。何気ない要素が相まった。不快ではない。嬉しくもない。この感情はなんだろうか。そうこうするうちに黄色の花びらが散る。

「それでは、僕は部屋に帰りますね〜」

業務が終わる実感を得るためにホンルは声を発した。他の仲間達は疲れた顔をしたり、遊び足りない顔をしたり、標準を変えなかったり様々。観察をして笑みを浮かべつつ、自室では表情を解き、目を瞑る。
今なら過去を思い出せる。思い出したかった記憶に触れたい。その場で座り込む。

(ふふっ。こんなこと……地べたに座って扉に背を預けるなんて……無防備でだらしがないって怒られたなぁ……

それは、誰に。
知っている。背が高くて。僕たちの――正確にはあの子を見守っていた、哥哥。哥哥。今も哥哥と呼んでしまう。それ以外の呼び名が思いつかない。何となく。ふうぅ、と肺の空気を絞り切る。


「ねぇ聞いてよバオユ哥哥。この間さ、おやつを食べてたらカスを落とすなって言われたんだ。でも無理だよね? 溢れちゃうのに」

「えっと。怒られたって、誰に?」

膨れっ面が柔らかく持ち上がる。あの子の黄金色の瞳は爛々と輝いた。

「哥哥に!」

耳たぶをくすぐる声は弾んでいた。バオユはつられてクスクス笑う。些細なことで叱られても喜んでるその子が微笑ましくて羨ましかった。例の哥哥は二人の話を聞かないような距離で見守っている。きっと穏やかな目をしているのだろう、とちょっとだけバオユとその子は視線を動かす。やっぱり温かな瞳をしていた。キャッ! と身を寄せて声を上げる。哥哥は知らないふりをした。

「バオユ哥哥は丁寧に食べれる?」

「ううん、ちっとも」

「だよね。……ねぇ。少しお行儀悪いことしない?」

……うーん。それはダメだよ。ダイユに怒られると思うし」

「えーっ。でも、でも……そうだよね」

「ダイユは……しっかりしてるから」

「あーっ!! 二人して何話してるの?」

砂浜を蹴る彼女の足取りは同年代の男の子よりも力強かった。そうして他愛のない話をした記憶が、ホンルの中にある。その後のことはあんまり覚えてない。幸せな記憶ほど抜け落ちていることが悔しかった。

「お菓子の食べ方についてだよ」

静かにバオユが返すと、ダイユはお菓子?と繰り返す。少しだけ視線を反らして口元を沈ませた。この年頃の子供は大抵お菓子が大好きだ。三食のご飯が全てお菓子なら良いのにと言う子もいるぐらいだ。ご、そのような考えと甘さでは鴻園を生きていけない。
バオユは傍らのファンにどうしようと目で聞く。可愛らしい黄色の瞳はパチパチと瞬いてニィッと笑う。

「大人だけが食べて良いお菓子があるんだって!見たんだよ、哥哥が食べてるところ!」

「へぇ。俺が夜更けに菓子を齧っていたと?」

わぁ!とファンが肩を跳ねさせた。見下ろす笑みは少しだけ怖いけれど包み込む優しさが、彼の弟弟に向けられていた。視界にバオユとダイユは入っているが――少なくともファンしか見ていないとバオユは感じる。

「チビ共。帰る時間だ」

えぇー?と駄々をこねつつダイユはまた元気に駆ける。無邪気な足跡が砂地に刻まれてゆく。遠ざかる彼女に追いつけない。
バオユはとぼとぼ歩いて、目の前の兄弟の後ろにつく。
大きな手が小さな手を握っている。
羨ましいな。言葉にせずバオユは歩みを進める。振り返ったのはファンではなく彼の哥哥から。やんわりと緩む瞳はしっかりとバオユを射て、彼は空いている手を差し伸べる。
その手を握っても良いのだろうか。隣にいても良いのだろうか。引っ込んでいるとファンが気付いて何か声をあげた。
一歩、また一歩。ようやく隣に並んで恐る恐るバオユは手を重ねる。
暖かい。固い。大人の手。強張りながら指を丸めるが、哥哥は強く締めずに受け入れた。
大人だ。
じんわりとバオユの大きな瞳が濡れる。慌ててゴシゴシ擦ると「目にゴミでも入ったか?」静かに問いかけられた。責めるでもなく深く心配するわけでもない。実に不思議な距離感であった。バオユの反対側にいるファンには届いていない。
髪を左右に揺らし大事と示すなり、ぶえっくし!と大きなくしゃみが鳴った。間近で銅鑼を鳴らされた衝撃と近く、バオユは目を見開いて肩をピョコンと跳ねさせた。

「鼻は啜るんじゃあないぞ?」

「うーっ……わかってるってぇ」

哥哥はバオユに後頭部を向けている。コッソリとバオユはファンを見つめた。あの子は鼻元を真っ赤にしている。利き手ではない方の手でハンカチを使ったらしく、どこか身ぶりもぎこちない。

「ねーぇ!!早く来てよぉ!」

ダイユは跳ねながら待っていた。アレのせいか?という怪しむ声は哥哥からだった。同意も否定も出来ずバオユは頬を緩めていた所、ファンはダイユの言葉を聞くなり走り出そうとした。子供とはいえ全力の力は大人を振り回す。真ん中にいた哥哥は表情も崩しながら体勢を傾けてしまう。だが、バオユに衝撃は全く来ない。引力すらもない。

「ファン」

……あっ。ごめんなさい……哥哥……それにバオユ哥哥も……ごめんなさい」

短くも冷たい叱咤の声で、ファンはおとなしくなる。偉いなぁ。ほんの数秒間の出来事に関心してしまう。あの子は哥哥だけでなく、バオユにも謝罪を示した。周りを見ているのだろう、きっと。
哥哥はやれやれと言いたげに弟弟へと額をくっつける。撫でる代わりに。寂しさを抱えながらバオユは手の力を緩めたが――離してもらえなかった。
僕の手なんか繋いでないで、ファンくんを撫でてあげればいいのに。
そう言いたくても言えやしない。ちょっと偉そうな言い方かもしれないから。

……羨ましいなぁ」

代わりに出た言葉は、二人に届いてしまったのではないか。塩っぽい口を塞いでバオユは俯いてしまう。
幸いなことに聞こえてはいなかった。待ちきれなくなったダイユの声にかき消されたのだ。
そこから哥哥はダイユに小言を呈して、ダイユはダイユなりに受け取って、皆で仲良く帰る。
明日も、明後日も。バオユは続いていってほしいと願った。僕たちを見守る大人の哥哥は色んなことを教えてくれて、遊んでくれる、と。

流れゆく過去をホンルは眺めていた。大人しく席に着いて、手は両膝の上に置き、上機嫌な笑みを張り付ける。少し前の彼ならばそこで終えていた。だが、向き合えた今は違う。熱くなる目頭が脈打つ。溢れてくる涙を抑えきれない。どれだけ手を丸めても痛いだけで、流れる涙をどうすればいいか分からなかった。
昔。あの人は言っていた。必ずハンカチを持っておくように、と。手を拭くだけではなく座るときに敷ける。汗を吸わせたり怪我をしたときにも使える。そして決して手放してはならない、奪われることのないように。
かけられた言葉は厳しかったのに、手つきは優しかった。
寝間着の袖を見つめ、両目を閉ざす。暗い世界に誰の影も映らない。軽く、ほんの軽く、腕を目元に押しつけ擦った。ちょっと気持ちいい。癖になりそうな心地を引き留め、そうっと帳を開くよう現実に戻る。
ふふ、と笑みが溢れる。

(随分と俗に染まったかもしれない。哥哥の言うように、ニオイも変わったのだろう。……良いんだ、これで。僕は)

次に会うときはせめて自分らしく居れるだろうか。子供のように身を丸めてホンルは重苦しい心を撫でた。怖がり震える自分に「大丈夫」と囁く。