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ぶんどき
2026-05-06 14:30:28
4216文字
Public
一次創作
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私の世界とあなたの世界
初めて人に恋をした話
私は生まれて初めて家出をした。
雨が降っていた。傘なんてもちろん持っていない。そもそもこの身一つで家を出てきたのだから何も持っていない。お金も食べ物も温かい毛布も何もかも持っていない。そんな私の事情には知らん顔で雨を降らせ続ける天神様にそろそろ文句の一つでも言いたいところだ。ずぶ濡れになった身体を、水を吸って鉛のように重くなった身体をなんとか動かし雨宿りが出来る場所を探した。今まであまり家の外に出たことがなかった私には行く当てなど無い。もちろん友達もいない。家出なんてしなければ良かった、なんて家出早々にして弱音を吐きたくなるが後悔はしていない。元々あの家とは相性が悪かったのだ。実際には血が繋がっていない私を家族同然に扱ってここまで育ててくれたことには大いに感謝をしている。しかし、それとこれとは話が別なわけで。秋の終わりの冷たい空気は風雨と共に確実に私の体温を奪っていく。このまま死んでしまうのだろうか。それならそれも運命だったと受け入れよう。
そんな時だった。ピタリと雨が止んだのだ。いや、止んだのではない。辺りは相変わらず雨粒がアスファルトに打ち付け。顔を上げると優しそうな二つの瞳と目が合った。傘だ。私の頭上に広げられた透明なビニール傘が風雨を凌いでくれているのだ。お互いの視線がぶつかるとその人はにこりと微笑んだ。
「そんなところにいたら風邪を引いてしまうよ。もし行くあてが無いようなら家に来る?」
育ってきた環境のせいか、生憎私には男の人の耐性がない。こんな初対面の男の人にほいほい着いていってしまって良いものなのか。わからない。しかし、その人の笑顔に邪気は感じない。
既にずぶ濡れな私に傘を向けてくれたのはあなただけだった。冷たい雨をものともしない温かな笑顔にすぐに心を許してしまう。この人になら着いていっても良いのかもしれない、そう思ってしまうほどに男の人の笑顔は冷えきった私の心にじんわりと溶かしていったのだった。私はこの人に着いていくと決めた。
男に連れられてやってきた先は高い高いマンションだった。入り口のところで目に入ったのは「ペット可」の張り紙。もしかしてこの人も何かペットを飼っているのだろうか。そうでなければわざわざこのようなマンションに住む必要もないと思うが。
男は私にふかふかなタオルと温かい食事を与えてくれた。私はすっかり警戒心を忘れ、泥のように眠った。
男は自分のことを『ハルト』と名乗った。ハルトは私のことを『アキ』と呼んだ。黒くて真っ直ぐな清潔感のある髪。垂れ目がちで優しげな瞳。好青年という印象だ。
ここ数日の観察でハルトについてわかったことがいくつかある。甘いものが好きだということ。特にプリンが大好物らしくて二日に一回くらいのペースで食べている。甘いものを食べているハルトの顔は本当に幸せそうだ。あと、ハルトは散歩以外では滅多に外に出ない。何をしているのか詳しくはよくわからないが『家でも出来る仕事』をしているらしい。一日中パソコンに向かっていることも珍しくない。
基本的に温厚でお人好しすぎるほどに優しいのだが、意外とずぼらでめんどうくさがりな一面もあった。朝は「寒い」と言ってなかなか布団から出てこなかったり、ひどいときは買い物でさえ「めんどくさい」だ。散歩をするのは好きなので外に出るのがめんどうくさいわけではなさそうなのだが。こんな調子で今までよく一人暮らしなんてしていたな、と呆れると同時にそんなハルトに私はいつの間にか惹かれていったのだった。
それが私の初恋。
季節は巡り、木の枝から葉は姿を見せなくなり冬がやってきた。
私は生まれて初めて恋をした。毎日が楽しかった。朝は一緒に布団の中でごろごろし、昼は天気が良ければ一緒に散歩。夜は仕事をしているハルトの邪魔にならないようにそっと見守っている。厳しい寒さの夜はこっそりハルトの布団に潜り込む。温めるためだ、と自分のなかで言い訳をする。本当は少しでも近くにいたい、という私の矮小なエゴでしかないのだが。
毎日、かわいいよって私の頭を撫でて。私があなたの一挙一動に心を動かしていることを知らないあなた。「アキに似合うと思って」と、わざわざ買ってきてくれたかわいいリボン。結局恥ずかしくなってつけられなかった。「俺の癒しはアキだけだよ」仕事に疲れていたハルトが放った一言になんだか照れくさくなってそっぽを向いた。この天然タラシは大層な罪作りのようだ。
でもわかっていた。その言葉の数々にそれ以上の意味がないということには。
ハルトが彼女を連れてきたのはある寒い冬の夜だった。
彼女の名前は『フユミ』といった。ぱっちりと大きな瞳、濃すぎない化粧。膝丈のスカート。動くたびにふわりと甘い香りが漂う。軽くウェーブした栗色の髪の毛は肩よりも少し長い。フユミはまるで『理想の女の子』を具現したような人だった。とんだ強敵が現れたと焦った私は彼女の粗探しを試みようと、しばらくハルトとのやり取りの様子を観察していたが無駄に終わった。フユミは外見だけでなく人柄としても申し分なかった。世話焼きで、ちゃんとご飯を食べているのか、コンビニ弁当ばかりではないかとハルトの食生活を気にかけていたり、相手のことを尊重しつつも自分の意見をしっかり持っていたり。彼女みたいな人は少し頼りないところがあるハルトにはピッタリだと思った。むしろ、変に粗探しをしようとしている私の方が情けない。これだけ出来た彼女ならハルトが惚れるのも無理はない。完敗だ。
そもそも二人は私がハルトと出会うずっと前から付き合っているわけだから元々私が入り込む隙なんてどこにも無かったのだ。
「ハルト、新作できた?」
「全然。書けたら真っ先に君に見せるって」
「そっかぁ。ふふ、嬉しいなぁ
……
楽しみ!今はどんな話を書いてるの?」
「今はそうだなぁ
……
家出した女の子を拾った男の話、かな」
私は知らない。新作? 話? フユミは私が知らないハルトのことをたくさん知っている。
「へぇ、面白そう!
……
私、ハルトの書く話が大好きだからさ。それを一番に読めるなんて、一人のファンとしてとても光栄なことだって思うの」
「そんなこと。俺だって一番最初に感想をくれるのがフユミっていうの、実はけっこう嬉しかったりするんだよ?」
私にもわかった。ハルトの仕事。ハルトはお話を書く人なんだ。小説家。そしてフユミはそのファンでもあるんだ。ハルトのこと、もっと知りたい。しかしハルトとフユミは私が見えていないかのように二人で楽しそうに笑っている。その会話の輪に私は入ることが出来ない。私だけ世界から取り残された感覚だ。なんだろう、胸がちくりと痛む。どこも怪我なんてしていないのに。
フユミの手がハルトの手に触れるたび、ハルトが甘やかな声でフユミの名前を呼ぶたび、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。何か病気でも患っているのではないか。このもやもやとした薄暗い感情の正体に私は気が付くことが出来なかった。
あれ以来、フユミはたびたび我が家へやって来るようになった。フユミはしばらく旅行で海外をまわっていたようだ。おそらく旅行に出る前もこのくらいの頻度でハルトの家にやって来ていたのだろう。
私がハルトに甘えるようにすり寄っても顔色一つ変えない。それどころか、可愛い子だね、なんて私の頭を撫でて笑って。これはなかなかの強者だ。フユミの器の大きさに私の精一杯のハルト好きアピールはことごとく打ち砕かれたのだった。
私は知ってる。ハルトが私のことを家族としか思っていないこと。恋愛の対象としてあなたの隣にいることなんてできやしないって。わかっていた。そんなことは初めからわかっていたはずなのに。こんな恋は辛いだけだってわかっていたのに。
好きな人の好きな人は嫌いな人。それは案外間違ってはいないのかもしれない。私は嫌い、フユミのこと。可愛くて優しくて心も綺麗だけどハルトが好きな人だから。
ハルトが私のことをかわいいと言ってくれるのは嘘ではないのかもしれない。でも、その言葉にはそれ以上の意味なんて無いのだ。
どんなに私に勇気があっても、どんなに頭の中で素敵な愛の告白が思い付いても、それを言葉にして伝える術を私は知らない。だって私は、
「そういえばハルト、また飼い始めたんだね。前の子が死んじゃった時、もう二度と動物なんて飼わないって言ってたのに」
「そうなんだけどさ、アキを見てたらどうしても放っておけなくて」
「そこで拾ってきちゃうあたりすごいよねぇ」
猫だから。
向こうの言っていることは解るのに私の言葉は向こうに伝わらない。越えることの出来ない種族の壁はこんなにも厚く、強固なものだっただろうか。好きよ、好き好き。お願いだから私の目の前で女の人と仲良くしないで。ハルトは私の目なんて気にしていないのだろう。
人間の男に恋をしてしまった私はもう、猫の仲間とも呼べない。人間になることの出来ない私はなんて中途半端な生き物なんだろう。何度も願った。何度も神様にお願いした。でも私は人間になることはできなかった。もしも私が人間だったら。そんな妄想をもう何百回も繰り返してそのたびに虚しくなった。動物好きなハルトは猫である「アキ」のことが好きなのだから。
生きている世界が違う私はフユミと同じフィールドに立つことなんてできない。恋敵だなんて名乗る資格すら与えられないのだ。
私は生まれて初めて失恋をした。
初めから叶うことのない恋だった。それでも好きになってしまった。あの雨の日、私に向けてくれた傘とその笑顔、今でも忘れていない。鮮明に思い出せる。どんなにこの思いが伝わらないとしても「大好き」というこの気持ちは抑えることはできないから、せめて。
「にゃあ」
あなたの幸せを応援させて。あなたの傍で応援させて。フユミのこと、好きになれるように努力するから。叶わないならせめて、ハルトの幸せをこの目で見届けたいって思ったの。
終
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