鼻歌を歌いながら鍋の中のクリームシチューをゆっくりとかき混ぜる。バターとたっぷりの野菜が溶け込んだ甘い香りに包まれて、心が満たされていく。
表面がふつふつと沸いてきたタイミングで、洗面所の方からドライヤーの音が聞こえてきた。よし、ちょうど良い頃合いだ。
あっちゃんが出勤前に夕食用のシチューを仕込んでいたので、それなら自分はバゲットを用意しておくと話していた。
執筆作業がひと段落したところで馴染みのパン屋に向かい、その足で酒店に立ち寄ってシチューに合うと勧めてもらった白ワインを購入した。
今日は二月十四日、土曜日。
決まった休みが無い私にとってはなんでもない日だが、あっちゃんは休日出勤で、帰りが遅くなりそうだと言っていた。
彼はどれだけ忙しくても時間を作って副菜を作り置きしたりと自炊を欠かさない。
たまに宅配を取ったり外食をすることもあるが、「もう若くないから」と普段は栄養バランスの取れた食事を考えてくれている。
あっちゃんの負担が大きすぎるのでは、と分担制を提案したが、料理を作っている時間が無心になれて好きだと言って聞かないため、今のスタイルに落ち着いた。
明日は休日だから今夜は華やかに乾杯して、疲れているあっちゃんを少しでも労ってあげたい。
食器棚からスープボウルを2つ取り出して並べていると、風呂上がりでスウェット姿のあっちゃんがキッチンに来た。
「あ、シチュー温めてくれたんだ。ありがとう」
あっちゃんが作ってくれたものを温め直しただけで感謝されるほどのことはしていないのだが、毎度このやり取りをしているので素直に受け取ることにした。
隣に並んでバゲットを切り分けるあっちゃんに「ありがとう」と伝えると、「え?」と不思議そうな顔をしていて可笑しかった。
「あっちゃん、今日ワインを買ったんだ。冷やしてあるから一緒に飲もう」
「やった!今日は飲みたい気分だったんだ」
******
「ご馳走様でした」
「美味しかったー!お腹いっぱいだよ」
「良い食べっぷりで、見ていて気持ちがよかった」
「おかわりしすぎちゃった」
あっちゃんがお腹をさすりながら困ったような笑顔を見せる。
コクのあるシチューと軽い口当たりの白ワインのマリアージュが完璧で、あっちゃんも気に入ったようだった。おかげで心も身体もぽかぽかだ。
「あ、そういえば」
そう言いながらあっちゃんは立ち上がり、ラックに掛かった鞄からゴソゴソと小袋を取り出して、それらをテーブルに広げた。
「これは?」
「今日バレンタインデーだったでしょ」
「あぁ、そうか」
たしかに行く先々でバレンタイン関連の商品が置かれていたが、あまり気に留めていなかった。
学生時代は学内外から届く膨大な量のチョコレートの運送手配に奔走したものだが、成人してからは無縁のイベントになっていた。
「俺もすっかり忘れてて、職場に着いてから気づいたんだ。毎年よくやるよなぁ」
「社内のバレンタイン文化を規制する企業があると何かで見たけれど、上が言わなければ失くならない慣習なんだろう」
個包装の菓子の山を見ながら、同僚に配り歩く女性陣の姿をぼんやりと脳内に浮かべる。誰が渡した渡してないだのチョコ一つで評価が変わるなど馬鹿らしいが、
小事 が
大事 を生むと割り切るしかないのだな。
「お返しはするのか?」
「うん。社交辞令だとしても一応ね
……周りは何もしない人が多いけど」
「ふぅん
……」
あっちゃんの性格上その辺はきっちりしている。ギブアンドテイクは円滑な人間関係に大事な要素だと思う。いや、無論。当たり前に。
ただ何というか、あまり優しさを振り撒かないでほしいというか。あっちゃんにその気が無くとも相手が本気だと勘違いして受け取ってしまうかもしれないし、好意をはっきり断れずに執着される可能性だってある。
「それなら、連名で渡すのが良いんじゃないか?」
「連名?」
「その、男性職員一同という名目で用意すれば角が立たないだろ。面倒事も起きないし」
「うーん、確かにそうかも?今度相談してみようかな」
あまりピンと来ていないような顔に見えたが、それが一番無難な策だろう。
「いっぱい貰ったからきんちゃんも食べていいよ。糖分補給してね、先生」
「アラサーには堪える量だからな。ありがたく頂こう」
「同い年なんだけどなぁ」
「ふっ」
最近自分たちの年齢を
揶揄 する会話が増えた気がする。内容は年不相応だが。
永遠なんて無いけれど、いつまでもこうして笑い合っていたい。子供の頃から変わらない、私の願いだ。
菓子用の小さなカゴをキッチンに取りに行こうと席を立つと、チャックが開いたままの鞄に目が行った。
紙袋の持ち手が外に飛び出ており思わず覗いてしまったが、これはおそらくバレンタインギフトだ。
「これって」
「え?あーっとそれは
……」
こちらから指摘するのは良くなかったか。あっちゃんの言い淀む口振りに自省した。
袋の中には真っ赤なハート型の紙箱が入っていた。Gから始まる世界的チョコレートブランドの商品だ。
もしかして、もしかすると
……
「同僚に貰ったんだ」
あぁ、そっちか。
胸に抱いた淡い期待は一瞬で打ち砕かれた。
感情の波が静まるように息を深く吐く。
まぁ私ほどになればベネズエラへ赴いてカカオ豆から厳選し、日本のトップパティシエに最高品質の一粒をオーダーするが
……
庶民の感覚にしてみれば特別な物だという事は嫌でも明らかだった。
「きんちゃんには見せないようにしてたのに、詰めが甘かったね」
あちゃーという感嘆詞がぴったりな表情で、首に手を当てている。
「
……僕が拗ねるから?」
「そりゃあ、まぁ
……」
「何か言われた?」
「何かって?」
「だから、告白
……とか」
苛立っていると誤解されぬよう、あくまで冷静に努める。ただその先の答えは聞きたくなかった。
「
……何も言われてないよ」
嘘だ。僕を傷つけないために嘘をついている。ずっと一緒に生活しているから、言葉の機微がわかる。
「そうか」
しかし深くは追求せず、額面通りに受け取る。だからこれ以上あっちゃんを疑う事もしない。
そういや昔あっちゃんが由布院に手作りチョコを渡しているという噂を聞いた時、ひどくショックを受けた事を思い出した。
……いや、噂ではなく有馬から聞いたんだったか。何でもかんでも報告しなくていいと叱責した覚えがある。
知らぬが仏と言うけれど、自分に都合の良いものだけを信じるのも狡賢い大人の処世術だ。
あっちゃんに流されているわけではない。
……決して。
エアコンの音が部屋の静寂を際立たせ、ひりついてしまった空気を中和させるかの如く稼働している。
曲がりなりにもプロの作家として活動している身でありながら、気の利いた一言すら思い浮かばないとは。信条に反するが、こうなったらパワープレイしかない。
箱の蓋をかぱっと開けると、味と形が異なる5種類のチョコレートが入っていた。繊細なデザインなどお構いなしに、それら全てを口の中に勢いよく放り込んだ。
「ちょっ、何してるの?!」
あっちゃんは大きな瞳を丸々とさせて、突然の奇行に焦った声を上げる。
「ふぉいひぃ」
「何言ってるか全然わかんないよ」
いちごのチョコレートにねっちりとしたキャラメルガナッシュ、ピスタチオのような香りもするし、それをホワイトチョコレートが上書きしていく。もう滅茶苦茶な味だ。
「へぇんぶ
……ゴホッ」
「あーあー、全部飲み込んでから喋りなよ。お茶入れるね」
「ふぁりがふぉう」
「もう
……ほら、口ついてる」
親が子を世話するようにウェットティッシュで口元をそっと拭われると、「指も拭いて」とそれを手渡された。
呆れながらも笑いを含んだ声色に安堵して、熱で少し柔らかくなったチョコレートの塊を噛み潰した。
******
ソファ横のフロアライトの暖色が、部屋全体を柔らかく包み込む。ローテーブルの上に並んだペアのワイングラスは、テレビの光を受けてチカチカと反射している。
画面に映し出されるは、私が動画配信サービスのバレンタインデー特集から適当にセレクトした洋画である。イベントに
託 けて"そういうムード"に持っていきたいという邪な気持ちでしかないのだが、あっちゃんもその様子を見ていたから大方察しはついているだろう。
チョコレートのように甘ったるいラブストーリーは、夢見がちな少年少女の憧れを詰め込んだ空想の世界だ。
塩辛い現実を味わい尽くした齢二十八の男には立っていられないほどフワフワと浮ついている。人生経験が仇となり、作品を純粋に楽しめないのが玉に
瑕 だ。
ただこの年齢になっても、誰かと見るラブシーンは気まずさが勝ってしまう。どんな顔をしていればよいのかわからず、変に動じないようにと気を張って集中出来なくなる。
ミックスナッツをつまみ、ボリボリという咀嚼音で間を埋める。それでも意識が隣に引っ張られ、何気なしに目をやると、あっちゃんの顔もこちらに向けられていた。
「わっ、びっくりした」
「やっと気づいた」
あっちゃんはクッションを抱きかかえながらイタズラな笑顔を浮かべている。二人して集中力が途切れるタイミングが同じだったようだ。
距離を詰めてあっちゃんの肩にもたれかかると、体温がじんわりと伝わって力が抜けていく。
「きんちゃん、本当にリスみたいだったなぁ」
しみじみ言わないでくれ。頬袋にどんぐりを蓄えているリスは可愛いが、チョコレートを口内に詰め込んだ人間の醜態は滑稽でしかない。
「やっぱりきんちゃん、ヤキモチ焼いてたでしょ」
「別に焼いてない」
咄嗟に答えたが、少し間を空けて「そりゃあ
……少しは
……」と吐露した。
「義理とはいえ、恋人が誰かからチョコを貰っているのは複雑で
……あっちゃんと同棲して初めてのバレンタインデーだったから、余計に動揺してしまったんだ」
僕はあっちゃんにチョコ以上のものをたくさん貰っているのに、つくづく欲深い人間だと思う。
職場の人へのお返しだってしなくていいのに、そういう真面目なところが好きだなぁとも思ってしまうんだ。
「
……あっちゃんはなんでそんなに嬉しそうなんだ。僕の心はこんなに掻き乱されたというのに」
あっちゃんを怪訝な眼差しで見つめると、手で小さくシッと払い除けながら「そんな顔してないよ」と笑った。
「聞かれたら恋人はいるって答えてるんだ。結婚だの子供だの、色々聞かれると面倒だから言いふらしてはないけどね」
「そうなんだ
……」
自分の存在を完全に隠している訳ではないと知り、世界が少し広がったような感覚を覚えた。
「もっときんちゃんに信用される男にならなきゃな」
とクッションに顎をうずめ、力強く抱きしめた。
「ずるい」
あっちゃんからクッションを引き剥がして床に放り捨て、正面から膝の上に跨ると、腰に回された手が鍵を掛けるようにして身体を閉じ込める。
「クッションに嫉妬したの?」
「うん」
「かわいい」
あっちゃんの顔を手のひらで包み、
食 むように口を塞ぐ。唇を舐めて吸って執拗に纏わせる。
負けじとあっちゃんも舌を入れてきて、上顎をなぞるように刺激してくる。
「ん、んぅ
……」
身体が興奮しているのがわかる。
舌と舌を絡めて、くちゅっと淫らな音を立てると聴覚をも刺激して、感電したように腰がガクガクと震え出す。
もっと、もっとと首に腕を回すと、それに応えるように腰を強く掴まれる。あのクッションみたいに、あっちゃんに抱き潰されたい。ここは僕だけの場所だ。
******
映画はいつの間にか再生を終えていた。最後まで見られなかったが、まぁありきたりなハッピーエンドだろう。
「あのハートのチョコをくれた人に、美味しかったって伝えておいて」
「なに急に」
ソファの上で膝を抱えるように身体を丸め、ローテーブルを拭くあっちゃんの背中に話しかける。
「もし聞かれたら困るだろ。あっちゃんは食べてないんだから」
「きんちゃんもあんな食べ方して、味よくわかってないでしょ。あの高そうなチョコ、食べてみたかったな
……」
食べたかったんだ。やっぱり面白くない。
僕の気も知らず平気でそんな事を言うから、眉間に力が入る。
「僕がベネズエラへ行ってカカオ豆から」
「はいはい。ありがとう」
頭を優しくポンポンして
嗜 められる。また子供扱いして
……
そのまま髪を撫でつけながら「明日チョコレートケーキ作ろっか」と言った。
「当分チョコはいいよ」
「俺がきんちゃんに作ってあげたいんだよ。ね、いいでしょ?」
もう、わかってて聞いてるな。
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