レゾンデートルに赤い糸 プロローグ

誓汝×雪砂
なれそめ本編

 波風を立てないように。
 誰の邪魔にもならないように。
 そして何より、嫌われないように。


 それが、いつの間にか雪砂ゆきさに身についていた生き方だった。

 少しでも間違えれば、あっという間に居場所はなくなる。
 だから、拒まない。逆らわない。ただ静かに、従順に微笑んでいればいい。

 ……そうしていれば、きっと、大丈夫だから。



 真新しい制服に袖を通して、ネクタイを整える。まだ硬い布地が肌に馴染まず、借り物のようでどこか落ち着かない。
 鏡の中に佇む少年は、心細いほどに淡く、頼りなげに映った。

(今日から、新しい学校か……

 胸の奥がわずかにざわつく。期待ではない。うまくやり過ごせるかどうか、それだけが気にかかる。
 雪砂は鞄から古びた手帳をそっと取り出した。擦り切れた革の表紙に指先を滑らせる。

 それは、自分をこの世界に繋ぎ止める、唯一の錨のようなものだ。そこにある「体温」の残滓だけが、今の彼を支えていた。

……ねぇ。ボク、高校生になったよ」

 返るはずのない言葉を、誰にともなくこぼす。
 しばらくして、小さく息を吐いた。いつものように手帳を鞄の奥底にしまい込む。
 ドアノブに手をかけ「行ってきます」と呟いてみても、当然返ってくる言葉はない。ただ、明かりの灯っていない静かな部屋に溶けるだけ。

 誰も見送ってくれる人はいない。

 それは、昔からの当たり前だった。


 アパートの階段を降りると、春特有の湿った土の匂いが鼻腔をくすぐる。
 通りのあちこちでは、鮮やかな笑い声が弾け、朝の挨拶が軽やかに交わされていた。誰もが当たり前のように誰かと繋がり、同じ時間を分かち合っている。

 雪砂は、その流れの端にそっと身を寄せた。自分の存在を薄めるようにして歩く。
 ふと、前を歩く親子の姿が視界をよぎった。小さな掌を包み込む、大きな手。固く結ばれたその指先を、瞬きも忘れて追いかけた。

……誰か)

 胸の奥で、小さく何かが軋む。

(せめて、ひとりでいいから)

 思いかけて、ぎゅっと唇を噛む。それ以上は、考えないように。
 願ったところで、どうにもならないことを知っているから。

 視線を落とし、足を前へ運ぶ。

 今日もまた、昨日と同じように。
 誰の邪魔にもならず、誰にも嫌われないように。
 無難に、静かに、やり過ごせればいい。それで十分だと、自分に言い聞かせながら、駅へと続く坂道を下っていく。

 ──けれど。

 この日、あの場所で。
 凍りついた自分の世界を跡形もなく溶かしてしまうような、熱を帯びた出会いが待っていることを。

 今の雪砂は、まだ知らない。