酔拳
2026-05-04 22:12:14
8585文字
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ドムサブ🎈🌟 小さな嫉妬の話


2025/9/6-7開催のWEBオンリーにて展示していたものです。加筆修正などはありません。
続きのR18パートを付け足して支部に投稿するつもりでいましたが、完成するかどうか不透明なので当日展示していた全年齢部分のみこちらに再掲します。





駅前のスーパーまでひとりで買い物に行った帰り、司はその現場を偶然見かけてしまった。
今日は司だけがオフだった。類は仕事の打ち合わせがあって朝から外出していて、その間に溜まっていた洗濯物や部屋の掃除を済ませ、夕飯は唐揚げにしようかと鶏もも肉を買い込んで店を出た矢先に、それは偶然視界に飛び込んできた。
道路を挟んださらに先のところで、ひとりの若い女性が肩で大きく息をしながら泣いている。ジーンズを履いているとはいえ、この暑い日に灼熱のアスファルトに膝をついて座り込むなど普通ではない。本能的に、おそらく彼女はsubだろう、と思った。ハンドバッグは道端に放り出されて、縁にフリルのついたかわいらしい日傘が転がっている。紐の細いキャミソールを着た華奢な肩が震えていた。夏休みの大学生か、下手をしたら未成年かもしれない。思春期のダイナミクスは目覚めたてなこともあってひどく不安定になりやすく、ああやってたまに街中で発作的にそのバランスを崩してしまうこともある。幸いにして司にはそんな経験はなかったが、中学生のころ、第二性が発覚した直後に病院でもらったリーフレットにはそのような注意事項が書いてあったはずだ。
それなりに人通りの多い駅前を、なにも見ていない、知らないというような顔をした他人が足早に通り過ぎていく。彼女はまだ泣き止むそぶりを見せない。ああなってしまっては自分だけでは止められないだろう。誰か、domがいなければ。彼女と同じくsubの司は、その苦しみを理解することはできても救い上げることはできないのだった。──それでも、落ちた荷物を拾って、そばに寄り添うことくらいはできる。
生ものの入った重たい買い物袋を握り直し、駆け寄ろうとしたときだった。駅のほうから黒いリュックを背負ったすらりとした長身が走ってきて、即座に彼女に向かい合うように膝をつく。距離があるために内容までは聞こえないが、半ばパニックになっている彼女を宥めるように優しく声をかけているのがわかった。特徴的なあの髪色は──まぎれもなく、類だった。
類はそっと彼女の肩に手を置き、穏やかに笑いかける。こちらまで声は届いていなくても、大丈夫、怖くないよ、落ち着いて、という優しい声が脳内に再生された。いつもそうやって、類は司にコマンドをくれるから。
自分のパートナーが赤の他人にコマンドを出してケアを施しているところを遠くから眺めるという経験は初めてだった。なんだか不思議な気分だ。そして、心がざわついた。自分も傍に行って助けようと思ったのに、足が動かなくなった。逆に、ずり、と一歩下がる。何故か咄嗟に、この光景をこれ以上見たくないと思った。エコバッグの中身ががさがさと喧しい音を立てるのにもかまわず、そのまま踵を返して自宅のある方向へ一直線に走った。


*****


家に着いても、心のもやもやは晴れなかった。ウォーミングアップもなしに重たい荷物を抱えて全力疾走したからだろうか。心臓がいつまでも気持ち悪いくらいに脈打っていて、冷蔵庫に肉や卵を入れる手にはうまく力が入らなかった。これはなんなのだろう。弱っているsubを見て、自分もあてられてしまったとでもいうのだろうか。そこまで弱いつもりはなかったのだけれど。
最後のミニトマトを野菜室に収めて、ぱたんと扉を閉じる。エコバッグを畳む気力もなく、そのままずるずるとしゃがみ込んだ。まだ、胸の辺りが気持ち悪い。駅前であれを見てからだ。類が、自分以外のsubに、コマンドを。それが、何故だかすごく嫌で、見ていたくなくて。類は正しい行いをしていたのに、それを受け入れられない自分が嫌だった。あの場に類のような優しいdomが現れなかったら、あの女性はもっと苦しむことになっていただろう。最悪の場合、subdropに似た症状で救急車を呼ばなければならなかったかもしれない。類は悪くないのだ。優しい類が起こした正しい行動を、受け入れられない己が異常なのだった。
どうしてこんなことを考えてしまうんだろう。あの場でひとり苦しんでいたのが司だとしても、類は同じ行動をとっただろう。相手が若い女性であっても、司であっても、年上の男性であったとしても、おそらく類は同じことをしたはずだ。そして、司が逆の立場だったとしてもそれは同じだった。困っている人がいたら、助けようと思うのが普通だろう。それなのに、今日の自分は彼女を見捨てるどころか、助けようと行動を起こした類にすら拒否感を覚えてその場から逃げ去った。正しい行動を取れなかったのは自分だ。自分の中の良心と正義感が、己のとった行動をちくちくと内心で責め立てる。少し、息が苦しい。無意識に張り詰めていた呼吸を少しずつふ、ふ、と吐き出した。

がちゃり、ドアノブが回る音がした。類が帰宅したのだろう。今日司がオフで在宅していることを知っているから、「ただいま」と玄関の方から声がする。この声が、彼女にもコマンドを出したのだ。類のパートナーは、オレだけなのに。

「あれ、司くん、どうしたんだい」

キッチンに座り込んだままの司に、大きなリュックを下ろした類が近づいてくる。いつも「いい子だね」と褒めてくれる大きな手のひら。それが、さっき彼女の華奢な肩に触れていた。──無意識に、いやだ、と思った。

……なんでもない」
「こんなところに座り込んで、なんでもないってことはないだろう。どこか具合でも悪い?」

自分でも制御できないくらい、正体不明の黒い感情が胸の内をぐるぐると回る。気を抜いたらすべて悪態に変換して吐き出してしまいそうだった。この醜い感情は、なんだ。

……なんでもないって、言っているだろう」
「なんでそんなに怒ってるの。何かあった? ……『教えて』」
……!」

よりによって今、コマンドを出すのか。彼女にも同じようにしたんだろう。オレというパートナーがありながら、他のsubと playをしたその口で。

……嫌だ。言いたくない」
「はあ? どうしたのさ、勝手にむくれて」
「なんでもない。言うことは、なにも、無い」

本当は言いたい。コマンドに従いたいに決まっている。駅前で知らないsubにコマンドを出したんだろって、オレのdomなのに、なんであんなことするんだって、全部ぶちまけてしまいたい。それでも、頭ではわかっているのだ。類がしたことは善良な行いで、責められる筋合いなんてひとつもないのだと。何故かひとりで勝手に傷ついて、コントロールできなくなっている自分だけがやはりおかしいのだと。だから、なにも言えない。ひとつこぼしたら全部出てきてしまいそうだったから、なにも言わない選択をした。

……ふうん、じゃあいいよ。ずっとそこに居れば?」

自分も大概だが、今日は類のほうもだいぶ導火線が短かった。外は真夏日だというのに、ふたりの周囲だけすっと温度が下がった気がする。類はそのままキッチンを離れ、自室に入っていってしまった。経験上、こうなるとなかなかすぐに出てくることはない。文字どおり「壁」を作られてしまったのだった。
部屋の冷房は適温に設定されていたはずだが、嫌な汗が背中を伝った。それなのに、手足の末端は冷たくなってゆく。

司はあまり嫉妬することがない。自分より巧い役者に出会えばそれを超えられるように努力するまでだし、恋人が他の人間とより親密にしているとの噂を聞けば振り向かせるべく自分を磨くのみ。マイナスの感情で誰かを責める前に、自分の糧として昇華させてしまうことがほとんどだった。
だからこそ、今自分の中に渦巻く感情をうまく処理しきれずにいた。類が彼女を助けた事実と、それがdomとして正しい行動であることはわかっている。しかし自分のパートナーは類ただひとりで、それは類にとっても同じ。パートナーとしてだけでなく、恋人として類が自分を愛してくれていることだってもちろんよくわかっていた。類のことは信頼している。自分を捨ててどこかへ行ってしまうような、そんな薄情な人間ではないときちんと理解しているのに、自分以外のsubと playしているところを見ただけでこんなにも心が揺れて、苦しい。こんな気持ちを抱いたのは生まれて初めてだった。自分の感情を自分で理解できず、うまく対処できない。どうしたらよいのか、さっぱりわからなかった。胸の中で今も燻り続ける黒い靄には、戸惑いも多分に含まれているのだった。
部屋に籠る前に類が吐いた言葉はコマンドではない。けれど、司の身体は床に縫い止められてしまったかのようにうまく動かせなかった。このまま類が部屋から出てこなかったら、きっと永遠にここに座り込んだままかもしれない。エアコンに冷やされた空気が溜まる床の上で冷えた指先を摩って、きゅっと握った。


*****


帰宅したとき、類は確かに疲れていた。電車の遅延で打ち合わせに遅刻するわ、打ち合わせ先で予定にないアポイントを勝手に入れられていて、ビジネスの匂いしかしないよくわからない肩書きの人間から小一時間ほどおべっかを並べ立てられるわ、何かとツイていない日だった。おまけに、最寄り駅を出たところでひとりパニック状態に陥っているsubに出会った。苦しんでいる人が目の前にいるのに、誰もが見て見ぬふりをして通り過ぎていくことにも腹が立った。司ならこんなこと、絶対にしないだろうに。司なら、ビジネスだとか金目のことは一切考えずに真っ直ぐに人を褒めるし、たとえ自分が急いでいたとしても困っている人を道端に見捨てたりしない。人目も憚らず泣きじゃくっている彼女に駆け寄って、昼間の熱い日差しをたっぷり溜め込んでじりじりと熱を放つアスファルトに膝をついた。
subに対するケアというのは案外気を遣う。見ず知らずの相手ならなおさらだ。本来playというのはお互いの信頼の上で成り立つ行為であって、そういったことを生業としているプロや医療行為として行われるものならともかく、普通は他人となんの準備もなしに始められるような軽い行為ではない。乱暴なコマンドを出されたのかそれともコマンド不足なのかもわからないうちからむやみやたらにコマンドを出せばいいというものではないし、subによって domに求めるものは異なってくる。強めのコマンドに隷属することが好きなsubもいれば、体質的にそれに耐えられないsubだっているからだ。
今日助けた彼女はかなり錯乱していて、playの好みやらパニックに陥った原因やらを聞き出せる状況では到底なかった。悪い方向に刺激してしまうことだけは避けようと、つとめて優しく声をかけ続けて、やっと普通に話せるようになるまで落ち着かせることができた頃には、類もかなり精神を磨耗していた。類の必死の介抱に気づいた人が救急車を呼んでくれていて、あとは医療機関に任せることができたのが幸いだった。専門医のいる病院できちんと処置を受ければ、無事に元どおりの生活には戻れるだろう。
そういった事情があって、たった数時間の外出だったとはいえ、類はかなり疲れていた。ダイナミクス絡みで起きた精神面の疲労はパートナーに癒してもらうのが一番だ。司は一日オフだし、今日はきっと腕によりをかけて類の好物を作ってくれるに違いない。ふたりで夕食を食べたら、たっぷり司を甘やかしてダイナミクスを満たしてもらおう。そう考えながら帰宅したのだった。

類の予想に反して、司の態度はなぜか冷たかった。キッチンの床に座り込んでいたから心配して声をかけたのに、意地を張って言い返される。帰路で考えていたプランは実行できそうにない。精神的な余裕がなかったこともあって、売り言葉に買い言葉のような形で、類も司を突き放した。

部屋にこもって少し仕事をしていたら、徐々に脳が冷静さを取り戻してきた。出先で購入したペットボトルの麦茶の、すっかりぬるくなった残りを飲み干す。司は大丈夫だろうか、と考える余裕が出た。明確な理由もなく、あのような反抗的な態度を取られたことは今までの記憶にない。疲労により心の余裕をなくしていた帰宅時の自分と同じように、司にも何らかの事情があったのではないだろうか。司はわけもなく誰かを攻撃するような人ではない。自分よりもずっとずっと優しい心の持ち主で、だからこそ、類はそんな司が好きなのだ。
司に謝ろう。ちゃんと司の話を聞いて、自分も今日あったことを伝えて、仲直りのplayをしよう。空になったペットボトルを部屋のゴミ箱に投げ入れて、類は席を立った。

部屋から出ると、トントン、と包丁の音がしていた。司が夕食の準備をしているらしい。リビングに足を踏み入れて、カウンターキッチン越しに様子を伺う。類の足音に気づいた司が顔を上げて、目が合った。いつもよりぼんやりとしていて、あまり元気がなさそうだ。

「──っ!」

がたがた、とカウンターの向こうで音がする。司は手元を押さえているようだ。慌ててそちらへ回り込むと、まな板の上からころころとミニトマトが転がり落ちていた。シンクに向けられた司の手元から、鮮血がぽたりと落ちる。どうやら、包丁で指を切ってしまったらしい。

「大丈夫かい!?」

トマトよりもはっきりと赤い液体が滲む指先を強く握って、水道水で傷口を洗い流す。蛇口のレバーは確かにお湯ではなく水の方向に思い切り捻ったが、咄嗟に掴んだ手は流水にさらす前から冷えていた。いつもなら、司のほうがいくらか体温が高いのに。

「包丁を握っているときによそ見をしたら危ないだろう」
……すまん」

手元に視線を落としたまま、頼りない声で司が呟く。一緒に住み始めた当初の類でもあるまいし、元々料理の心得が多少なりともあった司がこんな初歩的なミスをするなんてありえない。やはり、何かがあったのだ。
血が止まったのを確認して絆創膏を巻く。キッチンのあちこちに転がっていたミニトマトをなんとか拾って、切ったのとは反対の手を引いてリビングのソファへ誘導した。

「大丈夫?」
……すまん」

司はまた同じトーンで謝罪した。大きな怪我ではなかったのだし、そこまで悲愴な顔をして謝るほどのことではないのだが、司はまだ謝り足りないといった様子に見える。

……司くん、」
……類、」

話し出すタイミングが被って、一瞬の間が生まれる。司はきょとんと目を開いたが、意を決したように話し出した。

……さっきはすまなかった。少し、混乱していて……自分の気持ちがうまく整理できていなかったんだ」

司は指先に視線を落とした。絆創膏に血は滲んでいない。人差し指なので少しの間不便かもしれないが、一週間もあれば綺麗に治るはずだ。余計な相槌は打たずに、司が続きを話し始めるのを待った。

「夕方に買い物に出たときに、駅前で女性が泣いているのを見た」
「え……

時間帯も場所も、類には覚えがあった。あの場所に、司も居合わせていたというのか。

「助けようと思ったときに、お前が走ってきた。あの子はsubだったんだろう?」
「うん、そうだけど……
「類と──オレのパートナーと、知らない人がplayしていると思ったら、見ていられなくて。……オレは逃げた」

まさか、あの現場を司に見られていたなんて。自分の恋人兼パートナーが、非常事態だったとはいえ赤の他人をケアしているところを見て、司はどう思っただろう。

「類も、あの子も、誰も悪くないのはわかっている。むしろ善いことをしたのだから、胸を張るべきだ。でも、オレは……
「司くんは、どう思ったの?」
……っ」
「隠さなくていいよ。司くんが感じたことを、全部教えてほしい。僕は司くんの気持ちを知りたい」

司は唇を噛んで目を伏せる。自分の中の良心と戦っているようにも見えた。

……すまん。嫌、だと、思ってしまった」

声のボリュームが一段階下がって、静かな懺悔が部屋に落ちる。その声は、罪悪感を必死に堪えているようだった。

「類はdomとして当然のことをした。あの子だって、好きでああなったわけじゃない。きっとすごく苦しかったはずだ。それなのに、……類が知らない人に触れて、コマンドを出すのが、嫌で、……だって、類は、オレの、なのに」

独白が涙で詰まり始める。最後のほうは、よく耳をすましていなければ聞こえないほど尻すぼみになっていた。最後にもう一度、すまん、と小さな謝罪。

……司くんは、嫌だと思ったんだ?」

司は瞳を潤ませたまま、こくりと頷く。──「オレの」、か。

「うおっ!?」

なにかを考えるよりも、言葉を発するよりも早く、身体が真っ先に動いた。ぎゅうぎゅうと抱き潰してしまいそうな勢いで、司を腕の中に閉じ込めていた。

……うれしい」
「?」
「司くんが嫉妬してくれたことが、うれしい……

司は滅多に嫉妬をしない。類が女性と親しくしていても、仕事に没頭しすぎて司との触れ合いが減っていても、類や相手の女性を責めることは今までに一度もなかった。他意がなくとも傍からそう見えるような接し方をしていたり、恋人兼パートナーを仕事にかまけて放っておいたりした類がどう見ても悪いのに、そういった視点から司に咎められた記憶はないのだった。いつものように百二十デジベルを響かせながら怒ってもよかったのに、むしろ邪魔にならぬように一歩引くか、類の健康を心配してくれる。普段あれだけ元気だというのに、こういうときだけやけに慎ましやかになるのだ。
だから、司が涙声で絞り出した謝罪を、不覚にも嬉しいと思ってしまった。さっきまでの疲労感はどこへやら、今からフルマラソンでもできそうなくらいに浮き足立っている。どうしよう、ものすごく嬉しい。

「お、オレは、嫉妬、していたのか……?」
「今気づいたのかい?」
「だって、こんなの、初めてで……

じわじわと司の頬が赤くなる。さっきのミニトマトよりも、滴る血よりも、なによりもかわいい赤。

「いま、キスしてもいい?」
「へっ!?」
「キスするかplayするか選んで。もっと司くんに触れたい」

ああ、今日はもうだめかもしれない。疲れていたせいか、嬉しすぎたせいか、はたまた司がかわいすぎるせいか、普段ならもう少し自制できているところが今はこの有様だ。それでも、類は司になら見せてもいいと思っている。司なら絶対に受け止めてくれるという信頼があるからだ。信じ合っているという自信が、パートナーとしても、恋人としても、ふたりの絆を強くする。

「ねえ……

返事すら待ちきれなくて、熱を持った頬に手を添えた。司が小さく息を呑む。顔を近づけようとしたそのとき、電子音のメロディが部屋に響き渡った。今までの雰囲気はどこへやら、はっと我に帰った司がソファから立ち上がる。

「夕飯が先だ!!」
「ええー……?」
「ご飯が先に炊けてしまったではないか! それに早くしないと、唐揚げ用に漬けた肉がしょっぱくなってしまう!」

司は良くも悪くも切り替えが早い。すっかり夕飯の支度モードに入ってしまったらしく、渋る類をソファに置き去りにして冷蔵庫を開けている。さっきまでのことを綺麗さっぱり忘れてしまったかのようだ。

「類も早くしろ! 今日は唐揚げパーティだぞ!」

屈託のない笑顔でそう呼びかけられては、キッチンに向かわざるを得なかった。お揃いで買ったエプロンを身につけてから、シンクに置きっぱなしだった包丁を洗って片付ける。ついでに作りかけのサラダを脇に寄せようとして──流石に気付かれた。

「こら、少しくらいは食べろ」
「バレたか」
「バレたか、じゃない。かわいい顔をしても許してはやらんぞ」
「司くんのほうがかわいい顔してるけどなあ」
「おだてても無駄だ。それにオレはカッコいいだと何回言えばわかるんだ」

ボウルに片栗粉と小麦粉を混ぜ、油を用意する。大きめのポリ袋には下味を付けた鶏肉がたっぷり入っていた。確かにこれはパーティと言えそうな量だ。残ったら明日の朝にお弁当箱に詰めようか。
お前も手伝え、と差し出された菜箸を手に取る。温度が上がった油に衣をまとった肉を投入すると、じゅわじゅわと食欲をそそられる音がした。これがパチパチと弾けるような軽い音に変わったら揚げ上がりだ。

「司くん」
「んー?」

キッチンの換気扇と肉を揚げる音がやや騒がしい中、炊飯器の中身を混ぜている背中に呼びかける。

「ご飯食べたら、もう一回やり直してもいい?」

わずかな沈黙。聞こえなかったかな、ともう一度口を開こうとすると、ほっぺたに柔らかいものが一瞬だけ触れた。

……え、」
「ご飯を食べて、歯を磨いてから、な?」

硬直している類をよそに、司は何食わぬ顔でほら揚がったぞ、と茶色の塊たちを次々と皿に上げていく。視界に映る耳の先はかわいい赤色をしているけれど。
本当に、僕を喜ばせるのがうまい人だ。今夜はお返しとばかりにたくさん褒めてあげなければいけないな、と緩む頬をこらえながらも箸を動かした。