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やまだ
2026-05-04 10:12:54
2216文字
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無双オリジンズ
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無名と貂蝉のない話
ただ一日、それも貂蝉から乞うてともに街を歩いただけの男のことを、明けても暮れても思っていた。他の男の腕の中でさえだ。
彼を思うと凍えた体に血が巡り、彼の名を耳にすれば胸が弾んだ。そして直後、日の当たらぬ場所で薄汚く生き繋いでいるおのれを顧みて自嘲するのだ。もはや住む世界は明確に分かたれた。朝焼けの空を瞳に閉じこめた、あのすがすがしくも寂しい人のもとへ駆けていく資格が貂蝉にはない。そんなものは初めからなかった。
紫鸞は乱世の空高くを太平の御世に向かって羽ばたく瑞鳥で、貂蝉は暗闇に潜み権謀の隙間を渡り歩くけだものだ。前途洋々たる彼は眼下の物陰にそんな汚らわしい生き物がいることを知らないだろう。そもそも貂蝉のことなど忘れているかもしれない。それなら、そのほうがいい。彼の人生に貂蝉という名の綿埃を絡めてしまいたくはなかった。
本気でそう思っていたのだ。
「俺と生きてほしい」
青空を覆うようにとめどなく舞い落ちる桃の花弁の下、紫鸞はそう言って貂蝉の手を握りしめた。初めからこうしておけばよかったと囁く唇が乾ききって痛々しい。頬が少しこけ、目元の隈も濃い。
「
……
紫鸞様」
乾燥してひび割れた指先は爪が割れていた。垢じみた黒衣はあちこちが焦げ、裂けて、泥もこびり付いている。
「紫鸞様」
まさか、と思い至って貂蝉の唇がわなないた。
この春が訪れるよりも前、長江が燃えた。中華北部の覇王曹操を、江南の孫権と仁君と名高い劉備が合力して打ち破ったのだ。その程度はもう貂蝉の耳にも届いている。がむしゃらに情報をかき集めたのだ。紫鸞は曹操の股肱だった。
「濮陽へお戻りになられずに、こちらへいらしたのですか」
「北上するうちに桃が咲いてしまいそうだった。あなたとすれ違ったらと思うと気が気ではなかった」
瞠目する。戦が始まる前の春に貂蝉が告げた言い訳めいた約束を、彼は覚えていたのだ。
「あのような戯言のために、こんなお姿で
……
」
「見苦しくて申し訳ない」
「そうではございません。そうではないのです」
もはや紫鸞はこの地へ足を踏み入れはしないだろうと考えていた。この先春が来るたび、輝かしい未来が待っている人を思いここで時を過ごすことだけは許してほしいと、本当に貂蝉はそれだけを願っていた。
会いたいなどと思ってはいけない。地を這う獣が天を行く瑞鳥に寄り添えるはずがないのだから。
唇の隙間から細く息を吐く。これまで貂蝉をきつく戒めていたはずの自制が決壊してしまいそうだった。
「紫鸞様」
声が震えたが、紫鸞にぴたりと包みこまれたままの手へはそれが伝播することはなかった。
「お怪我は
……
」
「大したことはない。こうして旅ができる程度のものだ。
……
そんなことよりも、あなただ、貂蝉」
ここには桃の古木と貂蝉と紫鸞しか存在しない。ほかのすべてはかつて焼き尽くされ、そして青草に覆い隠された。過去を摘み取られた貂蝉と過去を忘れずには生きられなかった紫鸞の故郷には、手を取りあうふたりの影が落ちている。若草が揺れると影も揺れた。
「俺は戦うことしか知らない。気の利いたことも言えないし、身の周りの整頓もできずよく元化に叱られているろくでもない男だ。正直、人に誇れるものを何ひとつ持っていない」
それは過小評価が過ぎると思ったが、低くゆっくり語る紫鸞をただ見つめつづける。彼の声音に飢えていた。
「そんな俺が、あなたと生きる未来を望むのは難しいことなんだろうと思う。後悔させてしまうこともあるかもしれない。
……
ただ、それでも、あなたがいないと俺は寂しいんだ」
呼吸どころか心の臓が止まったと貂蝉は信じた。ただ目を見開く貂蝉に、頭上に広がる春の空よりも静かに澄んだ夜明けの空が近い。
「もう離れないでほしい。この距離にいてほしい。俺の手が届く場所に」
決壊する。わななく唇が吐き出す言葉は見苦しく震えていた。
「
……
わたくしで、よろしいのですか。本当に」
貂蝉の心は前回の再会時に渡してある。だから答える代わりに、あらゆる意味を含めた確認を口にした。過去をひとつでも諌められたら簪で喉を突くつもりだった。
必死の貂蝉を見下ろす紫鸞のまなざしはやわらかい。
「俺は、貂蝉、あなたでなくては嫌だ」
ついに貂蝉の瞳から涙があふれた。水であるくせに、随分と熱い涙だった。
「
……
ひどい方ですね。紫鸞様」
こんな女のために、紫鸞は敗戦の疲れも癒さぬまま南方から春を供に旅してきたのだ。ふたりで生きようと、ただそれだけを告げるために。
「幼いころから、どんなことがあっても泣いたことなんてなかったのに
……
」
涙は次々に顎を伝って春の野へ散る。紫鸞が慎重に拭ってくれるとき、傷んだ肌がざらりと頬を滑った。
「怪我の手当てをしましょう、紫鸞様。お体を清めて、ゆっくりとお休みになってください。そうしてお目覚めになったら、どうか
……
」
その荒れた手がこの世の何よりも愛おしい。貂蝉は自らそこへ頬を寄せた。瞬くたびに涙が押し出されて滲む視界に、紫鸞がいる。
「どうか、貂蝉と再び街歩きをしてくださいませ。簪を選んでいただきたいのです」
視界が悪いせいで貂蝉にはよく見えなかったが、彼は微笑んで頷いてくれたらしかった。
だから濮陽のとある邸に身を寄せた貂蝉の化粧箱には、夫と外出するたびに美しい簪が増えていく。
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