ひさね
2026-06-06 00:00:00
8836文字
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ghoti

ハチ視点。ニア誕生日短編。
存在しても語られない話。

 数歩先で金色のツインテールが軽やかに揺れている。黒いストラップシューズの踵が軽い音を立て、黒いスカートに付いた意味のない装飾の布も微風をはらんで時折ひらめいた。
 履き潰したスニーカーの踵を直す間もないまま、自分はそんなニアさんの後をひたすら追っていた。
 暗い石畳の道も街門もすっかり抜けて、土が踏みしめられた道を進む内、外灯と外灯の間隔は段々と広がっていって、今ではすっかり、ぽつねんと黄色が溜まった地面にすらすれ違う事もなく、いつの間にやら木々も茂っていて一段と暗い所に居た。

「海って久し振り。旅の時以来かな」

 こつりこつり、と足音と声が、月影も遮られるような道にはおよそ似つかわしくない軽やかさで跳ねていく。その発端であるニアさんは、珍しく外に飛び出ている赤くて先に八面体が付いた悪魔らしい尻尾を垂らして「あの時は」とあたかも当然なように――実際当然であるべきだったのだが――世界から影も形も失われた所の過去を口にする。

「シオンとケントもいたね。パジャマと薄着のコンビでさ! 面白かったな。冬だったのに」

 ねえ、と上擦った声に、薄く空いた口から深く息を吐く。

……あれもニアさんが急に訪ねて、有無を言わせず引っ張ったんでしょう。ケントさんはいつも通りなので置いておいて、シオンさんには同情しますよ」
「あはは。そうだっけ?」
「ええ、間違いなく」

 分かっているでしょうに、と駄目押しで付け加えれば、ニアさんは心底可笑しそうにきゃらきゃらと笑って、微かに肩を竦めた。
 彼女の顔は前を向いたままで、ツインテールが揺れる。出会ってからの年を片手で数えても指が余る程の付き合いだが、それでも表情の予想はつくもので、きっと気の向くまま振り回すのが心底楽しいと言いたげな、実に悪魔らしい笑顔をしているのだろう。出来事ばかりが濃かったあの時と変わらず。

「ハチはどう? 海」
「自分も変わらないですよ。ニアさんに連れられたきり、大体一年振りです」
「で、またあたしの相手をして赴く訳なんだけど。実に一年振りに」

 仰々しく語尾を伸ばす彼女に肩を竦めて、自分の尾もふらふら揺れた。
 高々一年。自分もニアさんも人間というジャンルではないから、存在している歴からすれば相対的に、高々と括っても差支えがないような気がした。

……やたらと時間を強調していますけど、なんでですか? 悪魔なんですし、毎日楽しく人を引っ掛けているんですから、その程度瞬きの間でしょうに」
「すっごい偏見。まあ、退屈してないのは本当なんだけど!」

 赤い尻尾がくるりと回る。尻尾の先の八面体が自らの重みで、振り子みたいにゆらゆら揺れている。

「でも、一年はちゃんと長いよ。長すぎるぐらい!」

 彼女はころころと笑い声を上げて、華やかにうねった金髪を、毛先まで緩るかにはためかせて振り返る。にぱりと睫毛に縁取られた目を閉じて、反面ぱっかり無邪気に開けて笑う口を隠さない。
 可憐だった。可憐と言うべきなのだろう。ニアさんの仕草はそういうもので出来ている。
 全く辺りは暗いというのに、自分の目は多少は猫らしく夜目が効くもので、彼女の表情も仕草も良く見える。
 とたったっと軽やかな後ろ歩きで傷一つない靴を鳴らすのも、白い瞼から赤くて丸い宝石のような瞳が現れて小首を傾げるのも、さらりと顔の前に躍り出た髪の毛数本すくい上げて耳に掛ける仕草も、そのすらりと伸びた指先も、僅かに曲がった薬指と小指の先すらもしなやかな撓みに変換されて、可憐そのものが目に映る。くるりと飛び出した尻尾が人間でない証左だが、それすらアクセントだろう。
 人の印象に疎い自分でも感じ取れる程度に徹底されている。
 常に誤読をさせないひとだった。
 自分の肩からずり落ちる白衣をまた直す。
 ニアさんは摩訶不思議なひとだ。笑みを絶やさず、神出鬼没で、軽やかに現れては手近な誰かを振り回す。
 それは、と頭の中で時間を遡る。きちんと履けていないスニーカーが自分の踵にぶつかって、は、と鼻から短く息を抜いた。
 それは、太陽がまだ沈んでいて単に目を覚ましただけの意味での今朝も相変わらずだった。
 自分が部屋ですやすやとベッドの上でひっくり返っていれば、鍵が開く音も足音もなく、文字通りどこからともなく彼女は現れて、そうして躊躇いなく自分の薄い毛布を容赦なく引き剥がした。

「おはよう。いい朝……の未明だね」

 なんとも軽々しい挨拶と共に、離れていく毛布を追いかける自分の腕も無視して、ニアさんは全てを床に落としてしまった。まだまだ眠る時間と決めていたから眠っていたかったのだが、すうすうと冷たい外気と彼女の執拗に真っ直ぐな視線に体が晒されて、もうどうしようもないからと目を開ける。
 怪訝な視線を送れど、赤い瞳はそれを右から左に受け流して、開口一番に彼女は「海、行かない?」と笑った。いつも通り、気まぐれな思い付きと共に、とびきり可憐に。
 反面、ベッドの外に出ていた腕を掴む手にはしっかりと力が込められていた。
 今の閑散とした道路と数十分前の部屋との遷移を頭の中で反芻しながら、正面で変わりなく笑っているニアさんにまず一番に聞くべきだったことを漸く尋ねる。

「どうして急に海なんですか」
「えー、それこそ分かってるでしょ?」
……行きたくなったから、ですか」

 返答代わりに置かれた問いに、去年と同じ言葉を引用すれば、彼女は「その通り!」とウインクを一つして、肩を竦める。

「それ以外に理由があるって捉えたのかな?」

 そして、持って回った言い方が続く。まるで誤読を正解へ誘導するようで、しかしそこに咎める調子はない。至って平板な声で、言い換えれば実に無頓着にニアさんは笑っている。
 自分は元より下がっている眉を更に下げるしかない。

「どちらでも変わらないでしょう。捉えても捉えなくても、自分から出た解釈であればどちらでも良いんでしょうから」
「大正解! 良〜く分かっているね」

 答えを聞くなり、ひらり、とまた進行方向へと身を回して、彼女は歌うように続ける。

「せっかく頭があるんだから、各種各様、自由闊達に語ってくれなくっちゃ! その解釈の内にあるものの全てが正解なんだから」
「誤りも正解になるんですから、相変わらず滅茶苦茶ですね」
「悪魔だもの、滅茶苦茶でなくっちゃ!」

 すっぱりと言い切った彼女に苦笑を零した。
 ニアさんが言う正解は、個々人の解釈どころか、解釈とは名ばかりの誤読の温床すら包容する。
 彼女曰く、解釈に価値があるのであって、正しさに付加価値は全く存在しない。認識一つさえ通せば、誤解も誤認も、存在する事実を超越して存在しない行と行の間を見出しても、全て誤読ではない。各々の主観で作り上げるのが解釈なのだから、それを個々人に丸投げしてから集計すれば、AでありAではないといった明らかな論理破綻が発生するのも想像に難くないが、彼女に言わせればそれは破綻に陥らないし、Aであることも、Aではないことも、それぞれの解釈がそれぞれの形のまま正しくなる。
 要するに彼女について語られた全てが正解なものだから、あらゆる誤読も矛盾も正解という始末だ。その中に本当の正解があったとしても、他の解釈と等価値にしかならない。一般的な論理の尺度も真理値も全く使い物にならないし、彼女の意図は存在していても正解として語られることはなく、ただ解釈の種として示されるだけで、結局聞き手はその存在を真意と信じても嘘と断じても良かった。
 彼女について語るのはナンセンスな言葉遊びやジョークのようなものだ。故に彼女自身が推奨して誘導する先は常に、誤読のしようがない無法地帯だった。
 結局、彼女自身が語る事、誘導する先は恣意的なナンセンスに他ならない。語られずに存在する意図は論理が存在しない方向を示している。
 悪魔らしいひとだ、と思う。自分には測り切れないし、測り切る必要もない。測り切れるとも思わない。
 踏み出した足に合わせて、またひとつ息を吐く。

「息切れしちゃった? ずっと歩いているし」

 ニアさんはこんな仕草すら目敏く拾い上げた。誤解や正解を前にしたときと変わらず、心底楽しそうだ。
 何と答えようか、と長い袖をだぶつかせながら首の後ろを押さえる。んー、と助走のような声も漏らした割に手近なフレーズも出てこなかったので、結局真正面な言葉を選んでいた。

「考え事をしていました。滅茶苦茶な事を理解しようと思って」
「おや。ハチが悩むなんて珍しい」
「謎掛けに言葉遊びは専門外なので、意外に珍しくないですよ。ニアさんとの間なら尚更」
「つまり?」
「貴方のせいで悩んでいます」

 正直な答えを聞いたニアさんは驚くでもなく、鈴のようにころころと笑った。

「ひどーい、あたしはいつも通り過ごしているだけなのに」
「なら、いつもが摩訶不思議ということですね」
「あはは! もっと酷い!」

 抗議は字面だけで、彼女は上擦った声を更に弾ませる。足取りも軽やかに、馬車のための道を躊躇いなく踏んでいく。
 そして、尻尾の先をくいっと持ち上げた。小首を傾げるように、先端が一定の角度で傾いている。

「ねえ?」
「なんですか」
「ハチって、海に初めて行ったのっていつぐらい?」
……研究が研究だったので、海のすぐ側に住んでいましたから、意識が出来て割とすぐだと思いますよ。一日後とか、二日後とか、それぐらい」

 出し抜けな問いに答えつつ、自分の耳がぴくりと震える。なんてことのない世間話の一環。そう示すように、ニアさんは自分の答えに軽く頷いて続ける。

「あたしはねー、結構最近。こうなってからだよ」
「こう、とは?」
「悪魔になってから!」
「これはまた多義的ですね」

 言い切ってから、ふと彼女の足元に目線を落とす。
 傷のないストラップシューズは常識的な小ささで、よって窮屈なものではなく、自重を支えられる足が収まっていた。それから自分の頭の中に彼女について過る事実があって「ああ」とのんきな声が漏れた。

「いいや、今回は一意ですね。珍しく」
「そうかもね~」

 語尾を緩るかに伸ばしてニアさんは続ける。

「内陸産まれなもんで、生前じゃあ一目見られる可能性すらなかったから。箱入り娘も良い所だったし?」
「じゃあ後宮に入ったら尚更ですね」
「その通り! まあ、全く退屈はしなかったけど。やりたい事はちゃんと全部やったもの!」

 こつり、と軽い足音と共に小石が弾かれた。ニアさんは小石を蹴った足を何事もなかったように下ろし、軽いステップで先を行く。
 後宮とは古典でしか聞かず、言い慣れない言葉を口にした。それをニアさんが自然に受け取る度に、自分との間に空いた時間を僅かでも意識する。
 木々を悪戯に吹き抜ける冷たい風が耳をくすぐって、ぴるりと動いた。

「それにしたって、こうなるとは思ってもなかったよ。今や行きたい所に行き放題! 予後もまだまだ退屈しないね」

 弾んだ声と尻尾に合わせるように、小気味よく踵を鳴らし続ける。数十分歩いてきた今ですら、浮気で気ままなステップに乱れはない。
 悪魔らしく羽もあるのに仕舞い込んで、両足を使い倒すのはニアさんの常だ。飛んでしまえば小石も避けられるのに非合理だとも言えそうだが、ニアさんが合理的であろうとした試しはないのだし、空は飛べない自分からすれば歩調を合わせやすいので、結局それ以上は不要だった。

「あーあ! 神秘様々だね。お陰様で自由だ!」

 伸びやかに宣って、くっくっと声を殺して笑って、ニアさんは呟いた。心底楽しそうにも見えれば、何かを含んでどうでも良さそうにも、含んだ何かも含めて全てが白々しくも見えた。軽々と、抜け目なく解釈の余地を残している。

「あと少し遅れていたら、科学がぜーんぶ剥がして取り上げちゃってたから。神秘殺しも良い所だよ、全く」

 ね、と半音上げて、ぴたりと立ち止まり、彼女が立ち止まるとは露ほども予測していなかった自分は一歩進む。
 爪先が横並びになった。
 遅れて自分が止まって右を見下ろすと、ニアさんの赤くて丸い瞳は微塵も動かずに、じっと自分の顔を映している。どうやら一歩先に自分の顔を見ていたらしかった。鏡みたいに周りを映し込む瞳で自分の顔の正面を捉えると、彼女は尖らせた唇を今度は三日月型に形を変えて、暗い木々の下には相応しい細い囁き声で続けた。

「でも、その科学が正に生み出したものは好きだよ」

 彼女はあどけなく首を傾げて、金色の髪がさらりとそれに従う。宵闇が差すところでも金色がいやに明るい。
 自分のだぶついた袖の中で指が小さく跳ねて、それから笑うようにふす、と鼻から息を抜いた。内側から黒い指先を露出しないように白衣の袖を摘まんで猫の耳を伸ばす。

「それ、自分に言いますか?」
「だって神秘にそっくりだから! ハチに言わずしてどうするって言うの?」

 間髪入れずに、躊躇いもなく彼女は高らかに言い切って、再び歩き出す。今度は自分もその歩調に合わせて、横並びで進んでいく。
 木々は段々と密度を落としていって、隣接する幹から次第に伸びて擦れ合う枝葉の合間から黒い空が透けて見えた。明かりといえば微かな星だけで、電気に毒された生活に馴染んだ身体にはその光すら捉えにくい。
 よって四捨五入して全くの暗闇の中で、ニアさんは「科学って」と歌うように続ける。

「秩序立った因果のためにって真面目な顔した裏で、命の複製に始まって縫合、混合、融合に、絶対あり得ない機械だって生んでる。全く良い娯楽だよ、眺めてて全く退屈しない」
「一応全部絶対的な禁忌なんですけどね。結局発展性がないので」
「あはは! そこで倫理って言わないところ、本当に最高!」

 きゃらきゃらと弾けた明るい声を上げる度に、彼女はツインテールを揺らす。自分は揺れ動く髪を反射で見つめながら、何も答えない。
 ニアさんは無視を気にせず、歌うように、軽やかに、彼女の鈴のような声に良く似合ったテンポの良さ、気取った口調で滔々と続ける。

「でもちょっと前までは応用できないかって夢想してたでしょ? 確か二百年ぐらい前は」
「それはそうですけど」

 ため息を吐いて袖で頭を押さえれば、くすくすと実に楽しそうな笑い声が上がった。

「夢見る心は人に何をさせるか分からないものなのだね。夢も願いも、あれが欲しい、これを叶えたいなんて、具体も抽象も関係なく、大前提手元にないものばかり強請るから。気が狂った所業、禁忌の発端になるのも致し方ないとも」
「随分楽しそうですけど、タブーが好きとは物好きな人ですね。相変わらず」
「じゃなきゃ神秘が好きなんて言えないでしょ?」

 すかさず軽やかに切り返されて、自分は、はは、と笑い声を零した。その通り、と頷くしかない。

「ニアさんって本当に古いひとなんですね」
「確かに。もう千年経っているから、モダンとは言えないか」
……千年って、改めて聞けば聞くほど、凄みがありますね」
「国が一つ滅んで、忘れられるも語り種にされるも、十分な時間ではあるからね。凄いでしょ?」
「そうですね、本当に」

 彼女のぷらぷら揺れる尻尾を視界の端で捉えながら呟く。
 千年も前の存在が今ここに居る理由は極単純で、極めて奇怪だ。
 神秘のせいである。
 遠い昔、それこそ千年以上も遡った世界では、神秘と呼ばれる現象があった。今の常識では論理的にあり得ず、あり得ないが故に淘汰された現象だった。科学が齎したパラダイムシフトの被害者だが、例えば台風が去ったからと言って壊れた家並みが元に戻りはしないように、神秘による産物は残っている。
 それがニアさんという存在だった。元は人間で、今は悪魔――正確には怪異に近しい。人間と世界の認識に依存する存在に非常に良く似ている。
 どんな理由があれ人間が全く別の種になるのは今ではあり得ないが、千年も遡ればそんな嘘みたいな現象が確かに起きた。証人がいる以上覆し難い事実だった。
 とは言っても、何の理由もなく人間が別の何かになった訳ではない。変身譚と呼ばれる物語があるが、大抵戯れか罰かで神なり外部の何かが介入する。何かしらの訳は必要とされていた。
 では何故、彼女は人間から変身したのか。答えは拍子抜けするほど単純だ。
 誰かが彼女を人間ではないと解釈した。
 誰かが吹聴して、誰もがその物語を信じた、乃至消費した。
 神秘においてはそれだけの事が重要で、それだけが必要で、客観的事実などどうでも良い。
 解釈があるべき事実を塗り替える。他者の認識が全てにおいて優先される。
 それが神秘の業だった。
 全くこの世界は容易く事実を捻じ曲げる現象が多すぎる。
 思考を回しながら道を踏む。
 こんな不条理な構造の世界だから、ニアさんの他者の自由な解釈に任せる態度には別の文脈が乗り得る、と常々思うのだ。
 彼女のツインテールが風に流れては自重で戻って、可憐に微笑む度に、そこに用意された解釈の余白を感じ取る度に、考える事がある。
 畢竟、彼女に関する正しい答えは全て、彼女だけが握っている。
 受け手である我々には真偽の判断は不可能なまま、事実に掛かったベールを剝がせないまま、外側から好きに語るしかない。それが彼女の存在の定義を補強し、本当の事実は彼女の独占を崩さないまま埋もれていく。
 結局我々が彼女について語った所で、還ってくるものも判明するものも存在しない。思索する時間とエネルギーを彼女の存在様式に供するばかり、彼女の掌の上で踊らされるばかりで、我々には何の見返りもない。
 彼女は実に軽やかに、実に難儀に、悪魔をやっている。
 尻尾を揺らして、ふ、と鼻を鳴らす。

「神秘を知っているなら、近世とかでもないですね。中世の黎明期というか、古代の終焉というべきか。曖昧過ぎる」
「手厳しいね~。神秘の最期の時代とか言ってくれても良いのに」

 肩を竦める割にニアさんはにこやかだ。眉を潜めるところなんて見た事もないし、今もその経験測に反することはない。
 自分から言う事は何もなかったので、「そうですね」と曖昧に笑った。
 頭上の梢はすっかり疎らで、目の前に何の遮りのない真っ黒な空と道が開けている。鬱蒼とした木々を抜け、そうして開けた道を進む。
 先程まで会話の応酬が嘘のように、何も言葉を交わさずに歩いていた。こんな深夜に人目はないと分かっていたけれど、視界が開けると反射的に辺りを伺うように視線が右往左往する。何の変哲もない深夜で、すっかり街の外であり人がいる訳もなく、馬車や外灯の街にあるものの影は何も落ちていない。ぽつねんと自分達ばかりがいるようで、今歩いている道が余計に広く感じる。しんと静まり返ったここには靴音ばかりが溶けていく。
 ひたすらに進んで、緩やかな坂を下って、またしばらく歩いた。
 ひゅるりと冷たい風が耳や鼻先を撫ぜていって、幾分かしょっぱい匂いがした。耳を澄ませば、ざざんと波打つ音が聞こえる。坂を一歩一歩下りていけば、匂いは更にしょっぱく、波の音も大きくなっていった。
 足音だけ響かせて、到頭坂を下りきると、真っ直ぐ伸びた道の脇に階段が見えてきた。その先に砂浜が続いている。
 これが目的地に繋がる道だった。自分達はこれを目指して歩いてきた。道から離れ、階段を下る。
 最後の一段から下りると、さくり、と柔らかな感覚に足が沈んだ。踵を踏み潰したスニーカーでは、ぱかぱかと空いた隙間から砂が流れ込む。
 潮の匂いと潮騒の強いこと。真っ黒な波を前にして、靴に入り込んだ砂で歩き難くて靴も靴下も脱ぎながら、ほうっと白い息を吐く。

「やっと着いたね」

 はは、と笑ってニアさんはぱたぱたと駆け出す。海へと向かって、浜をさくさくと踏み鳴らして楽しそうだった。

「それで、何するんですか?」

 スニーカーに靴下を詰めながら、遅れて後に続いて尋ねれば、彼女は波打ち際の一歩手前で止まって、んーと声を漏らした。

「取り合えず遊ぼうかな。ここまで来たならそれぐらいしないと損でしょ?」

 彼女は鼻歌を歌いながら、右足を上げて靴の踵に指を引っ掛けた。すぽりと靴から足を抜いて、靴下のまま足を砂の上に下ろす。左足も同様に。
 そうして脱いだ靴を右手にまとめて、しかし靴下には一切触れないままで一歩進んだ。

「靴下、履いたままなんですね」

 ちゃぷん、と水を踏む音と同時に、自分の言葉が落ちた。
 彼女は自分の方を丸い目で見上げて、それから手を口元に添えた。
 そして返事代わりと言うように、ぱしゃりと波を蹴り上げた。飛沫が跳ねて、引いては寄せる波の元へと落ちていく。濡れた靴下はただでさえ不快で冷たいだろうに、彼女はころころと笑った。こちらを振り返って手招きをしている。
 乗らない理由もないので誘われるままに一歩踏み出す。ざざん、と足の甲が冷たい水で濡れた。それから引き摺ったままの白衣の裾のことを思い出して、持ち上げたがすっかり重くなっていてもう手遅れだった。しまった、と耳を倒し、そっと手離す。せめてまだ乾いている袖を捲って守ろうと思った。
 その時、彼女はともすれば波の音に飲まれるような声量で、そっと呟いた。

「遊びとは言え、はしたない真似はしないの」

 隣の顔を見下ろせば、彼女は淡く目を細めて、口の前に指を立てた。
 ああ、このひとは随分難儀なひとだ、と思った。