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史加
2026-05-01 23:58:59
13526文字
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原神(ルカキリ)
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Nocturne Just for You.
ルカキリ/5月5日スパコミ無配
※Dom/Subユニバース
※Domファルカ×Switchフリンズ
※もしかしたら長編にするかもしれない話の冒頭です
※すべて捏造、なんでも許せる方向けです
※2026年5月スパコミの無配。6/13-14開催ルカキリWebオンリー「春風が揺らす愛しき燐火」にて全体公開に切り替え済
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ぱちぱちと爆ぜる篝火を囲み、酒を飲んで歌う騎士たちを遠くに眺めながら、ジョッキになみなみと注がれたアップルサイダーを煽る。炭酸がしゅわしゅわと弾け、林檎の瑞々しい香りが口の中に広がると普段は爽やかな気分になるものだが、どうにも今日はすっきりとしない。胸に靄のかかっているような、思考のぼやけるような、言い表しがたい不調を抱えるファルカは目を伏せて、ひっそりとため息をついた。
調子が悪いと言っても風邪や怪我、疲労によるものではない。どちらかというと精神的なものだ。こんなときに限って素面当番とはまったくツイてないなと、味気なく感じるアップルサイダーを手持ち無沙汰にまた煽って唇を噛む。せめて酒を飲んで酔っ払えれば誤魔化せそうなものだというのに、今晩はこのまま上手いことやり過ごすしかないらしい。有事に備えなければならない以上、近くで夜回りをしているライトキーパーに同行して身体を動かすことも出来ないからとにかく不便だ。普段はたいして意識もしない「それ」に気を揉んでしまうのも、不調のあらわれと言えるだろう。
あっという間に空になってしまったジョッキを置き、ファルカは空を見上げた。
冬国スネージナヤの南端にあるナド・クライは雪に覆われてこそいないものの、厳冬に近い位置にあるためモンドと比べると平均的に気温が低い。そのぶん夜空は澄み渡っていて、星と月が冴え冴えと美しく輝いて見える。今日は雲ひとつない晴天だから明日の朝はいつもより冷え込むだろう。騎士たちが静かになったら、泥酔してそのへんで寝落ちしているやつがいないかを確かめて、適当に宿舎に運んでやらないといけない。それが終わったらどうせ今晩は眠れないのだから溜まっている書類でも片付けようか。そうすれば明日は気分転換にナシャタウンへと出かける時間を捻出出来る
――
否、今の状態を考えるとあまりひとの多い場所へ行くのは控えるべきか。
少しでも気を紛らわそうとこのあとのスケジュールを組み立てて、また行き詰まり、今度は盛大にため息をつく。せめてフラッグシップに行って飲めたらと思ったが無理だ。あそこは他人の多い場所だし、おそらく今のファルカが出向けば「そういった」目的で近寄ってくるやつもいる。己の自制心を疑ったことはないが、万一がないとは言い切れない。しばらくは砦で大人しく過ごすべきだろう。
持って生まれたものに辟易とするのは久々で、ファルカはぐしゃりと前髪を掻き上げる。これは良くない兆候だ。落ち着け、と己に念じて目を閉じ、呼吸を深くする。全身に酸素を行き渡らせるように息をゆっくりと吸って吐き、周囲を流れる風に精神を寄り添わせる。精神統一は騎士の基本だ。戦いに赴く前のように、雑念を捨てることに集中する。
すっかり肌に馴染んだナド・クライの冷たい風がさらさらと吹き抜けて、不快な熱を持ち始めていたファルカの身体を冷ましていく。草木が揺れ、遠くに広がるアームスヴァルトニル湖の水面が波打ち、夜行性の動物が駆け抜けていく足音が聞こえた。自らの心に生じていたノイズを鎮め、自らの意識をうすく伸ばして張り巡らせていくように風と同調し、息を細く、長く吐き出す。
と、不意にひとつの気配を察知した。人間に近く、しかしどこか異なる雰囲気を持つ清らかなそれ。闇に浮かぶ鬼火の燐光が脳裡に浮かび、ファルカはまぶたを持ち上げる。
「おや、ファルカさんでしたか」
「フリンズ」
砦の入口からファルカの元へと静かに歩み寄ってくる人影の名を呼んだ。
星空の下で風になびく髪は世界に降りた夜の帳によく馴染む色をしていて美しい。右手に持つランプの中で燃える蒼い炎に照らされた顔はつくりもののように整っていて、色の白さが雪原を彷彿とさせる。厳かな黒衣に包まれた身体は細く見えるが、一方で並大抵の人間では揺らがせることなど出来ないと思わせる威圧感に似た強靭さを備えていた。
この男の前ではそこまで気を遣う必要もない。そう判断したファルカの緊張がほどける。
しかし一体こんな夜遅くに何の用だろうか。パハ島の北部にある孤島を拠点とするフリンズは、基本的にナド・クライの中でも南部に位置するナシャタウンを中心に、近隣の島々を持ち場として巡回していることが多い。マスター・ライトキーパー直々の任務や野暮用でピラミダを訪れることはあるが、それよりもさらに北にある西風の砦まで来ることは珍しかった。ましてこの時間帯の訪問となると、緊急事態が発生した可能性がある。だとしたらうっかり気を緩めている場合ではない。
「珍しいな、こんな遅い時間にどうした。急用か?」
平然を装って尋ねると、じ、と金のひとみがファルカを見つめてきた。頭のてっぺんから足のつま先までを視線でじっくりとなぞられて、背筋がぞわりと粟立つのを感じる。フリンズを相手に警戒心を抱く必要などないというのにまいったものだ。
胸中に暗雲の立ち込めてゆくような感覚がして、汗ばむ手のひらを握り締める。そのファルカの動きさえも逃さず見ていたフリンズは慎重に一歩分の距離を詰めると、わずかに目を細めた。
「
……
顔色があまり良くありませんね」
「そうか? それより質問の答えになってないぞ」
内心ぎくりとしたが、たとえ相手が気心の知れた酒飲み仲間であるフリンズだとしてもあまり知られたいことではない。
動揺を表に出さぬようつとめて指摘すると、フリンズは訝しむような視線を向けたまま口を開く。
「失礼しました。先にあなたの質問にお答えすると、別に急用ではありません。そこについてはご安心ください」
「ああ。それで?」
「僕はここ数日クリフサイド・キャンプに駐在しているライトキーパーたちに休みを取らせるため、手伝いに行っていました。その帰りにこの近くを通りかかったら何やら気配を感じたものですから、様子を見に来たのです」
「気配?」
「ええ。過緊張状態の戦士の気配と言いますか
……
有り体に言ってしまいますと、抑え切れず漏れ出ているグレアを、ですね」
「
――
ッ、」
グレア、という単語にファルカはぎくりと身体を強張らせてしまった。もちろんフリンズの視線は未だファルカに向けられている。聡い彼は今ファルカの身に走った衝撃に、確実に気付いただろう。
「Domのどなたかが何か問題に巻き込まれたのではと思い、グレアを感じる方向へと足を進めたらあなたがいました。単刀直入にお聞きしますが、ダイナミクスに関わることで調子を崩されているのでは?」
フリンズの言葉は的確だ。不調がダイナミクスに起因するものであるところまで見抜かれてしまっていては、もう隠すことも出来ない。
降参だというようにファルカは深く息を吐き出した。自分では何とか抑え込んでいるつもりだったが、周囲にグレアを放ってしまっていたことへの情けなさもあるし、知られてしまった以上フリンズの前で取り繕うのが億劫になったというのもある。それにDomとしての欲のあらわれのひとつであるグレアを真正面から浴びても平然としているフリンズなら、ファルカの影響を受けるおそれがないという安心感もあった。
男女性とは別に授けられることのある、ダイナミクスと呼ばれる第二の性。人間に限らず、心を持つ近縁の種であれば生まれ持つ可能性のあるそれは、どれほど鍛錬を積もうとも克服することの出来ないファルカの悩みのひとつだ。
「
……
ここ数日、抑制剤を切らしちまってな」
思っているよりも弱々しい声がこぼれ落ちる。ここは幸い砦の入口に近く、今はファルカとフリンズ以外にひとの姿はない。篝火の前で宴を開く騎士たちもみな酔っ払っていて、わざわざ素面当番をしているファルカの元へ絡みに来る者もいなかった。
「抑制剤
……
そういえば以前に仰っていましたね。任務に支障をきたさないよう、普段から使用していると」
顎に指を添えて記憶を思い返すフリンズに、ファルカは頷く。
第二性は個人情報の一種であるが、相手と健全に仲を深めたいと思うのなら互いのダイナミクスが何であるかを把握しておくことは、のちのトラブルを避けることにつながる。ゆえにフリンズと酌み交わす三度目の夜に、ファルカは自らがDomであることを打ち明けていた。フリンズははっきりとダイナミクスを口にするのに抵抗があるのか、自分が何であるかとははっきり言わなかったものの、代わりにライトキーパーという組織は元々の決まりとしてSubを隊員として受け入れていないという話をしてくれた。
それは第二性差別によるものではなく、ライトキーパーという組織の信念と、彼らが戦う相手のためだという。アビスの侵蝕という性質は、言ってしまえば心身への支配であり、征服にひとしいものだ。元来の役割として被支配者にあたるSubとの相性がからきし悪い。要するにSubであるというだけでアビスの侵蝕の影響を受けやすく、ワイルドハントとの戦いに関して言うのなら糸に操られる対象となりやすくなるのである。
ワイルドハントとの過酷な戦いを強いられる戦場にSubが存在すると、それだけで命取りとなるおそれがある。ゆえにライトキーパーはどれほど戦いの意志を強く持つ者であっても、Sub性であると認めれば自他両方の安全のため組織内部には受け入れないことを鉄則とした。そういう話だった。
その話に則るのなら、ライトキーパーであるフリンズもDom、もしくはどちらにも該当しない者ということになる。ファルカにはそれさえ分かれば十分だったから、それ以降フリンズと第二性の話をすることはほとんどなかった。
抑制剤の話をしたのはそれからしばらくして、昼間にスペランザで食事をしていたある日のことだ。ファルカが食事を終えて薬を飲もうとしたタイミングで、買い出しのためナシャタウンを訪れていたフリンズが偶然通りかかった。ばっちりと抑制剤を服用するところを見られてしまったのである。適当に怪我の痛み止めだと言って誤魔化すことも出来たが、フリンズには以前にも月の狩人との戦闘で負った傷が癒えていない状態で指揮を執っているのを見抜かれたことがある。ゆえに隠そうとすれば不要な心配をかけるかもしれないと思い、正直に打ち明けた。
DomであれSubであれ抑制剤を服用するのは珍しいことではない。なのであのときはそれ以上言及されることはなかったが、今はどうだろうか。
「
……
騎士団の他の方は知っていらっしゃるのですか?」
ファルカを見つめたまま、フリンズは静かに尋ねてくる。月光の下に立つ彼の声だけは今のファルカの耳にもやけにはっきりと、透き通って聞こえた。
「抑制剤の処方を頼んでいる医者だけだな」
「そうですか。抑制剤が届くまであとどのくらいかかる予定で?」
「一週間だ。だからそれまではなるべく人の多い場所を避けて過ごすつもりでいたが、グレアを抑え切れていないとなると早いところ手を打たなきゃならん。すまんが、ナド・クライで抑制剤を扱っている医者に心当たりはないか」
「ライトキーパーが懇意にしていただいている医者なら何人かいますが、長年抑制剤漬けになっている人間相手に効く薬を彼らが持っている可能性は低いでしょう。そもそもこの無法の地では、薬に頼ってでも我欲を抑えようとする者のほうが珍しいですから」
この短い間に、フリンズはファルカが抑制剤を服用している期間が相当長いことまで見抜いているようだった。ひとの心の機微に敏感で、頭の回転も速い男だ。今のファルカの状態と過去にもたらされた情報、そして今までの付き合いの中で見てきたファルカの人となりを繋ぎ合わせて、もしかするともうファルカがずっと胸の奥に抱えている抵抗の存在にも気付いているのかもしれない。
現にフリンズは、これほどまでに不調をきたしているDomが本来取るべき行動を提案せずにいる。
「
……
Subとプレイをしろ、とは言わないんだな」
心のよどみを吐き出すようにファルカは言った。それはかかりつけの医者以外、ほかの誰にも打ち明けたことのない己の不調と秘密を知られてしまってもう隠す必要がないと判断したからなのか、それとも相手がフリンズだからなのかはわからなかった。
沈んだファルカの声に、フリンズは動揺のひとつも見せない。
「そうするのが嫌だから、抑制剤を服用していらっしゃるのでしょう。そんな人に専用の娼館でプレイをしてこいなどと言って追い詰める趣味はありませんよ。僕が言わずとも、医者から口を酸っぱくして言われているでしょうし」
普段通りの態度で、けれどファルカの心を汲み取り慮ってくれる彼にひどく安堵する。
フリンズの言う通り、ファルカは生粋のDomでありながらSubとプレイをするのが苦手だ。ファルカがプレイをするとしたら、それは至急ケアをしてやらなければ命に関わりかねないSubが目の前にいるときだけで、自らの欲を満たすためのプレイなどほとんどしたことがない。風の国に生まれ、自由を愛する男は、第二性の特性上しかたのないことだとしても相手の制御権を預かり支配するという行為に忌避感を抱いている。DomとSubの間で交わされるプレイは欲の発散を目的とするだけでなく、相手との信頼を築くためのものでもあると理解してもなお、自らがだれかを支配するのには抵抗があった。
それにもし特定のだれかをパートナーとして迎えたとしても、ファルカは大事が起これば一個人よりも国を優先する騎士だ。一番傍にいてほしいときに傍におらず、自分のケアもしてくれないDomなんて、Subにとってはひどいパートナーでしかないだろう。下手をすれば国を救う代わりに、そのSubを救ってやれない可能性だってある。だったらDomとしての欲は別の方法で抑え込むのがだれも傷付かなくていい。ファルカはそう思って、薬を頼る道を選んだ。
若い頃は相当思い悩んだ。第二性欲が発露したばかりの頃なんてひどいもので、欲を抑え切れず周りに当たってしまったのは今でも苦い記憶として残っている。だが気持ちのひとつひとつに折り合いをつけて結論に至ってからは、Dom性が自分の自由を束縛するものだとは思わなくなり、安定した日々を過ごせるようになった。今こうして不安定になっているのは薬が切れてしまっただけで、別にこの苦しみをだれかにわかってほしいと思ったわけではないのだ。きっと、おそらく。
己のらしくなさにファルカは自嘲しそうになって、堪えるように空を見上げる。フリンズは何も言わなかった。
沈黙が場の空気を支配する。晴れ渡る夜空には相変わらず雲ひとつなく、空気が澄んでいるから星影がはっきりと見えて綺麗だ。吹き抜ける夜風が隣からフロストランプの微香を運んでくる。今の不安定なファルカでも、孤島を拠点とするフリンズに染みついた清廉な花の香りを不快に思うことはない。むしろ荒れて波立っていた心が徐々に安らいでいくのを感じて、肩の力が抜けていく。
しばらくして、フリンズがファルカの隣に腰を下ろす気配がした。
「まだ夜は長いですし、よろしければ気分転換に付き合いますよ。
……
実を言うと、僕もすこし話をしたい気分でしたので」
「
……
フリンズ?」
静謐な夜を体現したような男の、どこか覇気のない声にファルカはわずかばかりの心配を覚える。先ほどまでは普段フラッグシップや街中で会うときと同じだったフリンズの気配がなんだか急に変わった気がした。たとえるなら輪郭をかたちづくる線が細くなり、だれかがなぞり直してやらないとそのまま薄くなって消えてしまいそうな、そんな雰囲気だ。
それにはなんだか覚えがある。けれど脳裡を過ぎった記憶は疑わしく、気のせいかもしれない。ただ焦燥に似た何かが胸のうちがわから込み上げてくるのはたしかで、ファルカはフリンズの顔を見たいと思って首を動かす。
しかし深くうつむくフリンズの横顔はその長い髪に覆われていて、よく見えなかった。
「
……
、その、ファルカさん」
話をしたい、と紡いだ唇で、フリンズは言いよどむ。
不調を抱えるファルカに気兼ねなく話すのに躊躇いを覚えているのだろうか。たしかにファルカは今抑制剤を切らした影響で余裕をなくしているが、それでも大切な仲間であるフリンズの話に耳を傾けられないほどではない。何より急に様子の変わってしまった彼に心の奥のやわいところがざわついて、せめて顔を見せてくれやしないかと、そんなことを強く思う。
「どうした? 言ってくれ」
「
……
ですが、やはり」
「俺のことを気にしているなら遠慮しなくていい。俺の弱音を聞いてくれたんだ、今度はお前の愚痴くらい聞かせてくれよ」
意識せずとも優しさを帯びて丸くなった声で促すも、長い髪の隙間から覗き見えるフリンズの唇は噤まれるばかりだった。それがなんだかひどくもどかしい。心臓の裏側がざわざわとして、庇護欲に似た感情が込み上げてくる。
普段は遠慮なんてしないで話してくれるのに、どうして今になってそうやって口ごもるのか。外套に覆われた肩がなんだか華奢に見えて、胸の奥が軋みを上げる。目を見て、表情を確かめたい。遠慮なんてせずに頼って、話をしてほしい。フリンズはファルカの弱さに寄り添ってくれたのだ。ならばファルカだってフリンズを支えてやりたい。
純然たる想いが膨れ上がっていき、冷えていたファルカの指先が熱を帯びる。手を伸ばし、肩に触れるのをどうしてか止められない。
「なあ、フリンズ。こっちを《見てくれ》」
声に出した瞬間、ファルカははっと我に返った。
――
今、自分は何を言った。否、言葉に問題があるわけではない。
今、ファルカはフリンズに、何をした?
胸の中で困惑と焦燥、そしてそれを上回る欲望が複雑に絡み合う。いくら抑制剤切れで不安定になっているとはいえ有り得ない。友人でありSubではない男を相手に、半ば無意識のうちにコマンドを放つなんて騎士どころか人間として失格だろう。だがDomとして命令の意図を含ませてしまうくらい、フリンズのことが気掛かりで、こちらを見てほしいと思ったのも事実だ。頼ってほしい、そして出来ることなら甘えてほしいと思ったのだって。
びくりとフリンズの肩が震えるのが手のひら越しに伝わる。うつむきがちだった小さな頭がゆっくりと持ち上がった。強く吹き抜ける風が横顔を覆い隠していた髪を攫い、あらわになった顔が月明かりに照らし出される。
「
……
ファルカ、さん」
蜜色に染まるふたつの月が、ファルカをまっすぐと見つめて微笑んだ。白雪のような頬は淡く色付き、唇も桜色に染まっている。とろりと蕩けた甘い表情に、心臓が早鐘を打ち始めてうるさい。
ファルカの頭の中で声が響く。
こいつを守ってやりたい、と。
「
……
フリンズ」
震える手で頬を撫でると、フリンズは静かに目を閉じて、甘えるように擦り寄ってくる。
「
……
知っての通り、僕は基本的にひとりで仕事をしています。なので慣れない仲間と一緒に行動するというのは大変なことでした。イルーガの下で働いているだけあって皆さん仲間想いの良いひとばかりでしたがね」
「その口ぶりだとイルーガの手伝いで隊員の面倒を見てきたのか」
「ええ。ニキータが最近のイルーガの働きっぷりを頼もしく思うのと同時に、あまり休めていないようだと心配されていたので。久々に親子でゆっくり過ごせているといいのですが
……
」
「そうか
……
お前の大事なもののために頑張ったんだな」
「
……
そうですね。ライトキーパーが人々の平穏と幸福を願って戦うように、僕は僕個人として、戦いに身を置く彼らの幸福を願っていますから」
いつになく素直に言葉を口にするフリンズに、ファルカは胸のあたりを締め付けられるような感覚に苛まれる。
人々が幸せそうに笑う姿を見てフリンズが口元を緩ませている姿は今までにも何度か見たことがあった。ライトキーパーの中でも特にマスター・ライトキーパーとその義理の息子には深い思い入れがあるようで、戦友として義父となった男の決断を見守り、兄のように将来有望な青年の成長を見届けようとしていることも知っている。
そんな彼は人々に導きの手を差し延べることはあっても、彼自身の弱いところを見せることはほとんどしない。それどころか物腰やわらかで紳士的な態度と、他人の同情を誘うような振る舞いでどこか一線を引き、うちがわまで踏み込まれないようにしている。掴みたくても掴ませてくれない、霧の中に現れる鬼火のような男だ。
そんなフリンズが今、ファルカの前では鎧をひとつ外して、心のやわい部分を晒している。そこをファルカが理不尽に踏み荒らすことはないと信じてくれている。その事実を前に、胸の奥がじわじわと温かいもので満たされていくのを感じる。
立場上、ファルカは多くの人々から慕われ、信頼されて生きてきた。一方で西風騎士団大団長という立場を利用しようと付け狙う者も、強靭なDom性に惹かれて「ファルカ」を見ようとしない者もこの世にはごまんといて、そういった相手をいなしながらも歩き続けてきた。
人間としての最盛期は過ぎたが、未だにファルカには肩書と立場がある。今更ひとりの人間としてだれかから無償の信頼を預かることも、それを特別に大切にしたいと思うこともない。そんな諦念があったことは否定出来ない。
だから今こうしてフリンズから無償の信頼を差し出されたことで、自分の本能が渇き切っていたのだと思い知らされる。大地に水が染み込んでいくように、預けられた信頼が心地良い。今目の前で無防備を晒すフリンズをこの手で大切にして守ってやりたいと、ただのひとりのファルカとして願わずにはいられない。
「ライトキーパーに限らずあなたもですよ、ファルカさん」
いつの間にかファルカに体重を預けて寄り掛かっていたフリンズが、おもむろに手を握りながら呟く。
「国のため、目の前で困っている人のためと躊躇いなく手を差し延べて、希望を見失うことなく前へと進み続けるあなたの誠実さと強さを、僕はまぶしいものだと思っています。そのまぶしさが損なわれてしまうのは惜しいとも。なので、すみません。合意もなしに少々手荒な手段を取ってしまいましたが、ご気分はいかがですか」
ささやく声は甘い余韻を残しているが、ファルカを見上げてくるひとみは澄んだ金色をしていた。
一体何が起こったのか、ファルカはすぐに理解することが出来なかった。ただ先ほどまで不快な熱を孕んで乱れていた精神はすっかり元の落ち着きを取り戻し、むしろ心地良い温もりに満たされていて調子が良いくらいになっている。不調の原因はダイナミクスに起因するもので、これほどすっきりと解消する術はこの世にひとつしか存在しない。
しかしフリンズはDom、もしくはどちらにも属さないもののはずだ。ファルカは生粋のDomであるから、SubとプレイをしなければDomとしての欲を発散することは出来ない。なのにどうして今のフリンズとのやり取りで、こうも満ち足りた気持ちになっているのだろう。
いずれにせよ、まずは確かめなければならないことがある。そう思い、ファルカは口を開いた。
「ひとつ聞いていいか」
「ええ、どうぞ」
「手荒な手段を取ったと言ったな。きっとお前のことだからわかっているだろうが、俺はDomの中でも特にグレアが強い。並大抵のSubは簡単に影響を受けるし、同じDomですら不調を覚えることだってあるくらいだ。フリンズ、お前は今平気か? どこか具合が悪いとか、調子が悪くなったりとかはしていないか」
どういう仕組みで今ファルカとフリンズの間でプレイが成立したのかはわからないが、ファルカがプレイを忌避する理由のひとつには己のDomとしての力の強さがある。第二性欲が発露したばかりの、まだ自制のしかたがわからなかった頃、グレアを抑え切れなかったがために周囲のDomもSubも関係なく傷付けてしまったことがあった。周りの人々は若いうちはよくあることだといい、元々のファルカの善良さを知っているのもあってだれも咎めなかったが、それは今もファルカの中で棘となって刺さったままの出来事のひとつだった。
抑えが効かなくなりつつあるファルカの、半ば無意識から放たれたコマンドなんて、たとえ相手が同じDomだとしてもダメージを負いかねないものだろう。それをこんな至近距離で受けてしまったフリンズが苦しみを覚えていないか、それが気掛かりでしかたない。
ファルカに未だ寄り掛かったままのフリンズを見つめる。体温はあたたかく、見た限り顔色も悪くないようだ。だがダイナミクスの影響は精神に及ぶものであるから、外見に出るとは限らない。自らの視線に威圧が混ざらぬよう細心の注意を払いながらもつぶさにフリンズの様子を確かめていると、くすぐったそうに彼が笑う。
「そんなに心配なさらなくても大丈夫ですよ。フェイはたとえSubだとしても人間より丈夫ですから」
「そういう問題じゃないだろ。本当に大丈夫なのか? どこか苦しいとか、嫌だと感じていることとかはないのか」
まるで自分を道具であるかのようにフェイだというフリンズに心臓がつきりと痛んで、ファルカは顔をしかめる。ダイナミクスは身体ではなく精神に深く依存しているもので、種族の違いなど関係のないものだ。ファルカのためにフリンズの心が傷付くようなことだけはあってほしくなかった。
揺れるファルカのひとみから不安と心配を感じ取ったのだろう。フリンズは安心させるように握った手に力を込めて、ファルカに彼の温かさを伝えてくる。その温度に焦がれるような想いを抱きながらもフリンズの手を握り返してやると、望月のひとみがやわらかく細められた。
「あなたはきちんと僕にお話してくださったのですから、僕も正直に打ち明けましょう。ごくまれにですが、フェイの中にはSwitchと呼ばれる性質を持つものが生まれます」
「Switch?」
ダイナミクスに関わる単語としては初めて耳にするものだ。問い返すと、フリンズは頷いて言葉を続ける。
「DomにもSubにも切り替えられる、いわば第二性の両性具有のようなものです。僕は普段はDomとして生きていますが、今のあなたのようにプレイによる発散がままならずDomとしての抑えが効かなくなったり、ディフェンス状態に陥ったりしているDomを助けるときだけ、Subに切り替えているのです」
「なるほどな
……
? 今までに色んなやつに出会ってきたが、DomにもSubにも切り替えられるやつは初めてだ」
「かなり珍しいですからね。実際僕もほかのSwitchのフェイに会ったことはありません。もしかするとフェイ以外の種族にもいるのかもしれませんが、いずれにせよ個体数としてはかなり少ないでしょう。これでファルカさんの疑問にはお答え出来たと思いますが、ほかに何か聞いておきたいことはありますか?」
フリンズの言うことが本当なら、彼はファルカの不調に勘づいた時点ではDomだったが、深刻な状況であると判断してSubに切り替えてプレイをした、ということになる。DomがSubのケアのためにプレイをするのはよくある話だが、SubがDomのためにプレイを持ちかけるというのは珍しい。しかもフリンズのやり方はDomにSubを服従させるやり方ではなく、Domに信頼を預けて拾わせるやり方だった。おかげでファルカは無意識のうちにコマンドを放つまで気付かなかったわけだが、はたしてそんなやり方をして本当にフリンズは平気なのだろうか。
ファルカはまたもフリンズのことが心配になった。肩に預けられたままの重みと温もりがまだファルカから離れていく気配がないのも、不安をあおる一因だった。
「とりあえず気になっていたことはわかった。だが、本当に大丈夫なのか?」
「僕の身体のことですか? それなら先ほどもお伝えした通り、フェイは人間よりも丈夫ですから問題ありません。あなたのグレアを浴びただけでドロップする、なんてこともありませんよ」
「そうは言ってるけど、ずっと俺に寄り掛かったままだろ。本当は動くのもつらいんじゃないか? いや、むしろ今のお前がSubに切り替わってるなら、俺が近くにいるほうがまずいか
……
気付くのが遅くなってすまない。今すぐに
……
、」
もしかしたらファルカのグレアにあてられて、言葉を取り繕うのが限界で身体はまったく言うことを聞かなくなっているのかもしれない。そう思い立ち上がろうとしたファルカだがしかし、フリンズを見て硬直する。
普段は血色が悪い印象を受ける頬を真っ赤に染めた彼が、びっくりしたように目を丸くしてファルカを見上げているからだ。
「
……
ふ、フリンズ?」
急な発熱か、などと見当違いなことを思うほどファルカは鈍感ではない。フリンズが言葉を探して唇をはくりと動かし、視線を彷徨わせるさまを見て、満たされた胸の奥に浅ましい欲望が生まれるのを感じる。
「
……
その
……
すみません。無意識、でした」
やがて振り絞るような声で紡がれた言葉に、ファルカは目眩がした。
「Domの方にプレイを持ちかけるのははじめてではありませんが、だいたいはワイルドハントとの戦いの中で緊張状態が続き、ディフェンス状態に陥ったライトキーパーを一方的に救い上げるためでして」
「まさかとは思うが、それだと相手の理性を取り戻させるためにプレイをして、お前自身のケアはしてもらっていないってことにならないか」
「
……
ドロップする前に無理矢理切り替えてしまえば、どうにでもなりますからね。なのでお恥ずかしい話ですが、先ほどあなたが僕を褒めてくださったのが心地よくて、つい縋ってしまったようです。失礼しました」
今すぐ切り替えますので、と言って離れようとするフリンズにどうしようもなく胸が痛んで、ファルカは浮かせた腰を下ろす。そうしてフリンズの腰に腕を回し、自分のほうへと引き寄せた。
本人の自覚がまだ追いついていないようだが、あまり身体に力が入らないらしい。抵抗もなくすんなりとまたファルカに身を預ける格好になったフリンズに庇護欲が湧き起こる。
「まだ切り替えなくていい」
「ですが、ご迷惑では」
「俺がこうしたくてやってるんだ。
……
だめか?」
くったりと自分にしなだれかかりながらも、口先では抵抗を示そうとするフリンズが痛ましく見えて、ファルカははっきりとこれが己の望みであるのだと口にする。
心のやわい部分を見せてくれたように、ファルカのことをもっと信頼してほしいと思った。この想いにも言葉にも偽りはないのだと信じて、縋ることを覚えてほしいと思った。
人間のまばゆさに焦がれ、人間に寄り添い、人間のために力を尽くしているフリンズが、まるで自分を道具のように扱っているのも、自分を二の次にしていいと思っているのも、ファルカには放っておけることではない。彼が自分にさらけ出した心のやわいところを守る栄誉が欲しい。出来ることなら、こうして彼の心を守ってやれるのは自分だけがいい。
なんとも浅はかでおぞましい感情だ。それはDomとしてのものであり、ファルカ個人としてのものだとも言える。満たされたはずの胸に次々と込み上げてくる欲を、けれど煩わしいとも思えない。ファルカが諦観を抱いていたように、フリンズもおそらくは似た諦観を抱いて生きてきたのではないかと、そう思ったからだ。
ファルカを見つめたままの金色が、ほころぶように緩む。
「
……
いえ。本当はもう少し、こうしていたいと思っていました」
素直に言って遠慮なく預けられた重みが、たまらなく愛おしい。
己の胸に生まれた慕情を噛み締めながら、腰を抱く腕に力を込めてファルカはささやく。
「ならいいじゃないか。俺も慣れてるわけじゃないが、DomとSubのプレイはどちらか一方のためだけのものじゃいけないんだ。お前が俺に信頼を預けてくれて、本当に嬉しかった。だからきちんと大切にさせて欲しい」
「
……
ずるいひとだ。そこまで言うなら、もう少し褒めていただけませんか?」
「もちろんだ。《今までよく頑張ったな》」
「
……
ありがとうございます。ファルカさんも、ですよ」
甘く溶けた声でフリンズはそう言うと、唇を閉ざして黙り込んでしまった。
いつの間にか騎士たちの宴は終わり、酔っ払いたちはみな寝静まって、肌寒く深い夜が訪れている。夜明けはまだすこし遠い。だが夜の帳がふたりの立場を覆い隠している今だけは、こうして等身大の心を預け合っていたっていいだろう。
己に寄り掛かるフリンズの存在を全身で感じながら、ファルカは月を眺めた。
満ち足りた丸い月は、かつてないほどに美しく見えた。
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