朝の気配に意識が浮上し、自然と目が覚めた。かすかに明るい朝ぼらけの中、起き上がってぐっと身体を伸ばす。長年馴染んだ様式であるベッドでの眠りは、前日の疲れを充分に癒してくれた。渡った世界によってはやむを得ず野宿をすることもあるが、可能な限りこうした環境を用意できればと改めて思う。成長途中の少年のことを考えればなおさらだ。
運良く借りられた仮住まいは静まり返っていた。それぞれ別の部屋で身体を休めている彼らは、まだ眠りに就いているのだろう。窓を開け換気をして、昨晩考えていた朝食のメニューを確認しつつ着替える。すっかり身支度を終えたところで、ファイはささやかな違和感に気づいた。
体調が悪いわけではない。むしろ再び魔力が戻ったこの身は、仲間内の誰よりも頑丈だと認識している。それにもかかわらず、自分が傷つくのを頑なに良しとしない人もいるのだけど。無為に傷を負う気は全くないが、状況によっては少しくらいは見逃してほしくもある。もっともこれが贅沢な悩みであることくらい、ファイにだってよくわかっていた。
首元に触れる。よくよく確かめれば普段よりわずかに体温が高い気もするが、高熱の予兆である倦怠感や響くような全身の痛みもない。あくまで平熱の範囲だろう。極端に気分が高揚するでも消沈するでもないのだが、やはりどこか落ち着かない気がした。
そうこうしている間にも時間は進む。このあとはすぐ近くとはいえ、カフェでの仕事の予定が入っている。ファイは潔く思考を切り替えて、朝食の準備を始めることにした。
誰も見ていないのをいいことに、キッチンで朝食を摂る。一緒に下準備を済ませた夕食用の鍋の火加減を見ながら、手早く食事を終えた。味覚にも特に問題はない。区切りの良いところまで調理を進め、出かける準備を整えたところで小狼とモコナが起き出してきた。
「おはよー」
「ファイおはよー!」
「おはよう。すまない、少し起きるのが遅かったみたいだ」
「オレの出る時間が早いだけだから気にしなくていいよー、お父さんなんてもっとお寝坊さんだしねぇ」
寝室の方向へ視線を向けながら言うと、小狼が困ったように笑った。モコナは即興で黒鋼が起きてこない歌を口ずさんでいる。本人が居れば即座に鷲掴みにされていただろう。
不調とも言いがたい状況を彼らに伝えるか少しだけ迷ったものの、ひとまず黙っておくことにした。今日一日過ごしてからでも遅くはないはずだ。
「朝食は用意しておいたから、みんなで温めて食べて」
「ありがとう、いってらっしゃい」
「ファイお仕事頑張ってねー!」
一人と一匹に見送られつつ、ファイは温かな気持ちで仮住まいを出た。
早朝から働いていた分、終業時間は早い。図らずも仕事先で渡されたお土産を手に帰途につく。
どうやらこの国では数日後、親しい相手へクッキーを渡すイベントがあるらしい。その影響で店内での飲食に加え持ち帰りの客が増えており、勤務先はこじんまりとした店ながら日に日に忙しさを増していた。世界各地を巡る旅の途中偶然立ち寄った、というあながち嘘ではない設定で折良く繁忙期前から働き始めたファイに対して、店主夫婦が折角だからといくつかのクッキーを持たせてくれたのだ。一般的な種類だけでなく、チーズやバジル、ブラックペッパーといった甘いものが苦手な相手向けの商品もある。これなら黒鋼でも無理せず食べられるだろう。
勤務中も体調に変わりはなかった。気のせいだったのかもしれないと考え直しつつ、少し休憩してから家の仕事を済ませる。しばらくして先に小狼が、それから少し経ったころに黒鋼が帰ってきた。
手にしていたレードルを置いて、彼を出迎える。こちらに気づいた黒鋼は、ごく自然にファイが想定していたよりもずいと距離を詰めた。自分とは全く違う、それでいて馴染んでしまった相手の存在を間近に感じる。声が、匂いが、体温が、無警戒に近づいたファイの感覚を一気に揺さぶった。
意識するより先に、身体が動く。小さく一歩後ずさったファイを見て、黒鋼の瞳が見開かれた。
彼の行動に他意はなかったはずだ。もしかすると、朝起きてからこれまで一度も顔を合わせることのなかった自分の様子を気にかけてくれたのかもしれない。けれどファイの身体は至近距離まで近づいた黒鋼に反応して、ひとりでに夜の記憶を思い出した。不調かと疑っていた違和感の原因にやっと気づく。おそらく自分は無意識にあの行為を求めていて、彼を目の当たりにしたことで条件反射的に興奮したのだ。
かっと耳が熱くなる。けれどこの場で今の状態を正直に伝えるわけにもいかない。ファイはなんとか笑みを浮かべると、不審げな顔を隠さない黒鋼を見上げた。彼には今更作り笑いなんて通用しないだろうけれど、それでも体面くらいは取り繕いたい。
「ファイ?」
黒鋼の肩に乗っていたモコナが無邪気に首を傾げた。笑顔を崩さぬまま、なんとか言い訳を試みる。
「実はオレ、今日焼き立てのあまーいクッキーがいっぱいある中で仕事してきたから、少し匂いが残ってるかもしれないなーって」
「そうなの?」
ぴょんとこちらへ飛び移ったモコナは、ファイの後ろにまとめた髪の匂いを嗅ぐと「ホントだ!」と嬉しそうな声を出した。黒鋼を避けた原因としては正しくないが、甘い香りの中で働いていたのは事実だ。
「……さっさと風呂入ってこい」
「準備しちゃったから先にご飯でーす。みんなの分のクッキーももらったし、紅茶でも淹れてデザートにしよっか」
「わーい!」
モコナも居る手前、とりあえず誤魔化されてくれるらしい。不機嫌そうな顔も、黒鋼の苦手な甘い菓子の話題によるものに見えるだろう。もっともファイにとっては、「後で覚えておけよ」という最後通牒にしか見えなかったが。
気づいていなかったとはいえ、小狼相手にこの異変を報告しようか迷っていた自分を思い出すと、羞恥に身悶えそうになる。ファイはかろうじて平静を装いながらリビングへと進んだ。後ろから感じる視線が痛い。身から出た錆としか言いようがないが、夕食後のことを思うとあまりにも気が重かった。
食事のあとに少しだけクッキーを楽しみ、入浴を終えて子どもたちが部屋に帰っても、黒鋼は黙ったままだった。思ったよりも機嫌を損ねてしまったらしい。酒の用意をするか決めかねて、結局何も持たずに彼の元へ向かう。
こういったことに不慣れだという自覚はある。何をどう伝えればいいのだろう。そもそもこれは素直に言っていいものなのだろうか?
ソファに座る黒鋼の隣に腰を下ろす。男はちらりと横目に見るだけで、相変わらず何も言わなかった。そのことに少しだけほっとする。
ファイは一つ息を吐くと、決意を固めて袖を引いた。背を伸ばして口づける。窺うように乾いた唇を舐めると、性急に舌が入ってきた。自分のものより分厚いそれが咥内を嬲る。無意識のうちに待ち焦がれていた刺激に背筋がぞくぞくと痺れた。勝手に目が潤んで視界がぼやける。でも、まだ足りない。
「ふぁ……♡」
「……いつもより口ん中が熱ぃな」
「そ、なの……? 自分じゃよくわかんない……」
「そうか」
何がおかしいのか、黒鋼は低く笑った。なんとか唾液を飲み下し、自身の望みを口にする。
「あの、黒様……」
「なんだ」
「オレ、その……、したい、んだと思う……」
「んなの、帰ってきて物欲しそうな顔されたときから知ってる」
「…………えっ!?」
「声がでけぇ!」
思わず口を抑えて耳を澄ます。子どもたちが起きた様子はなく、一旦安堵に胸を撫でおろした。こんなことで安眠を妨げようものなら、今度こそ自己嫌悪で立ち直れなくなる。
黒鋼は大きな舌打ちをすると、気もそぞろになったファイを簡単に自室へ運び込んだ。自分が整えておいたベッドの上へ転がされながら、必死に頭を動かす。
「え、えっ……? 最初から黒たんはわかってたの? だってオレ、あのとき初めて気づいたのに?」
「おまえが鈍すぎるだけだろ」
「うぅ~……」
「何唸ってんだ」
「だって、こんなの恥ずかしすぎる……!」
色々と考えたいのに、服の下に滑り込み好き勝手に動く両手がそれを許してくれない。望んでいた熱と匂いと体温に、身体の力が抜けてしまう。指の腹が肌をなぞるたび、下腹がはしたなく疼いた。
すっかり組み敷かれつつあるが、一応誘いをかけたのはこちらだ。他にも何か伝えた方がいいのかと一応口を開いてみたものの、結局言葉にはならないまま、覆いかぶさってきた黒鋼に残さず食べられてしまった。
--------------------
windfall:風で落ちた果実、意外な授かり物、「たなぼた」
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.