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mt19ssgz
2026-04-30 00:23:29
10281文字
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きみはわんこ 第2話
「アンタ、何言ってんの?」
「何って合鍵です。必要でしょう?」
「いらねえよ。俺、出てくから。アンタにも迷惑かけて悪かった。これ、さっきの診察代と昨日泊めてもらった礼。これしか手持ちなくて悪いけど、残りは昨日の飯と相殺して」
「出て行く? その子はどうするんですか。三日後に再度診察を、と言われたばかりですよ。あなたも聞いていたはずだ」
机に上に置いた金をちらりと見てから、杉木は鈴木に再度目を合わせた。その子、というのは当然鈴木が抱えている子犬のことだ。鈴木の腕に収まった子犬は昨日からずっと、ただでさえ小さい身体をさらに小さく丸めている。
「別に、関係ねえだろ。なんとかする
……
保健所に行かせたくはねえし」
差し出された合鍵を片手で再度押し戻して玄関へと向かう。動物病院だって鈴木の家から車を使えば通えない距離ではない。車の運転は今の鈴木の身体には負担がかかるが、ちゃんとこの子犬が元気になるまでの間に保護団体を回ってみて、ちゃんと大切にしてくれそうなところを探せばいいと鈴木なりに筋道を立ててはいる。
「なおさらでしょう。僕一人だけでもあなた一人だけでも限界はある。あなたにだって仕事があるはずです」
「
……
今、無職みてーなもんだから。金はないけど自由はあんの。元々生活はギリギリの上、先行き怪しい俺がコイツの命に責任持てなかったから拾おうとか育てようとは思わなかったけど、こうなったら話は別だろ」
「それは、その足の怪我と関係が?」
「アンタにそれ話す必要ある?」
「あります。この子を拾ったのはあなただけじゃなくて僕もでしょう。僕も拾った以上、この子を無責任に保健所に連れて行きたくありません。ただ仕事があるので、里親を探すにしても定期的に病院に連れて行くにしても、都合がつかない時は出てきます。そもそも仕事中はどうしても部屋の中で留守をさせておくことになる。その間にこの子を頼める人が欲しい。
……
もし今あなたに自由な時間があるというならこれ以上のことはありません」
まっすぐに伝えられれば、出て行こうとした足が鈍る。杉木と鈴木の声に反応したのか、鈴木の腕に大人しく収まっていた子犬がもぞもぞと動いてぴょこりと顔を出してきた。くぅん、と小さく鳴いてからどこか水分量の多い目で鈴木を見つめてきてうっと慄く。
いや、俺はお前をまた捨てに行くとかそういうことをするんじゃなくて。
ただ、この毛玉にとって拾ったのが鈴木だけでなく杉木もだという認識なら、鈴木によって杉木から引き離されるという認識になるのだろうか。
「この子も、あなたにたった半日でここまで懐いているようですし。
……
どうでしょう、とりあえずはあなたが仕事に復帰されるまででも」
「ホントに、アンタ正気? 初対面のしかもずぶ濡れで、無職とか言ってるような男を住まわせるって?」
「本当に怪しい人間は、そんな風に言わないんですよ
……
了承と取ってよろしいですか?」
「
……
仕方ないから。それが一番コイツにとっていいなら、俺が仕事復帰するまででいいんでしょ。あぁでもお節介だけどさ。アンタが今雇ってるハウスキーパー、変えてもらうか契約解除した方がいいんじゃない」
とんでもねーやつ、と思いながらリビングへと戻っていけば、してやったりと口角を上げた杉木の顔が見えた。改めて渡された合鍵はズシリとどうにも重い気がしながら子犬を下ろせば途端にとたとたと歩き、最終的に昨日のバスタオルと鈴木のタオルが丸まった上に腰を下ろす。鈴木の言葉に眉を動かした杉木はどうやら続きを促しているようだった。偉そうな態度にムッとしたもののここで言い争っても仕方ないと溜息をついてから口を開く。
「冷蔵庫のタッパー、なんかここに来てるハウスキーパーの個人的な連絡先貼ってあったけど。何かお困りならご連絡くださいってご丁寧にさ。
……
まぁ、そこまではやってねえと思うけど、あのおかずも何入ってるか分かんねえじゃん」
「
……
あぁ、またですか。ありがとうございます。もったいないですがおかずは全て処分して、契約も解除します。あなたに折角合鍵を渡したのに、鍵も変える必要がありますかね」
「また? アンタ前にもやられてんのに放置してたの? 危機感どうなってんだよ」
「いえ、そうではなくて。
……
僕は、昨日くらいの時間に帰ってくるのが通常というか、大体終電で、または会社の近くのビジネスホテルに泊まることも多いんです。なので、家のことはあまりできないからハウスキーパーをお願いしていたんですが」
「アンタどんだけ社畜なわけ」
「ですが、その
……
頼む度に、相手のハウスキーパーに好意を持たれてあなたが見たように連絡先を渡されたり、帰宅時間まで待っていて迫られたり
……
契約を解除した後に待ち伏せをされたりと、まぁ色々ありまして」
「待って。それどのくらいの確率? いやちげえわ、問題がなければ変える必要ねえんだから100%ってこと? 惚れられたり、最悪ストーカーになったりすんのが?」
「
……
会社を変えたり、絶対に既婚者にしてくれと言ったり、色々したんですが。本当は頼むのも嫌ではあるんですけれど、そうしないと家のことは何も回らなくなってしまうので」
改めて鈴木は苦笑いというか、どこか諦めている杉木の姿を上から下までつい、と眺めてみる。鈴木のいる業界は皆見た目に気を使う。当然外見だけで決まるわけではないが、生まれ持った資質が必要な世界だ。そして杉木は、そんな世界に身を置く鈴木から見ても美しい男だった。大理石の塊を「神の御心のままに削っていったらこの形になった」と言われればそうかと頷くことができる。「彫刻は最初から正解の形が決まっていて、ただその通りに削りだしていくだけだ」という誰かの言葉を思い出すような、そんな姿かたちをしていた。すらりと高い身長に、均整の取れた身体にはしっかりと筋肉がついている。涼やかな顔に清潔感のある佇まい。女にモテるな、という方が難しいのかもしれないと内心男としての嫉妬のようなものさえ鈴木は感じるが、とはいえ彫刻のような美貌の弊害を聞いては同情せざるを得ない。
「仕事として金払って頼んでんのに、そんなことされたら堪ったもんじゃねえわな。お疲れさん」
「
……
すみません、少し驚きました。人によってはからかい交じりに羨ましいと言われることもあって」
「プライベート脅かされてるし、何入ってるか分かんねえ飯とか普通に怖いだろ
……
それならさ、一個相談があんだけど」
「相談、ですか?」
あまり、鈴木にとっては堂々と言いたい話ではない。ないものの、背に腹は代えられない。自然と眉間に皺が寄ったがそのまま杉木へと向き直る。
「俺さ、さっき言った通り今はほぼ無職みたいなもんだから、住むにしてもこんないい場所の家賃の半分は毎月払えねえわけ」
「あ、いやここは」
「とりあえず人の話は最後まで聞け。だから、金がないなら身体で払うしかねえじゃん? この感じ的にハウスキーパーに家事全般任せてたんだろ。代わりに俺がやるから、それで家賃の足しにしてくんねえかな」
それでも足りねえと思うし、それはちゃんと働けるようになったら返すからと続ければいや、あのと驚いた顔をした杉木が口をパクパクとしていた。混乱している間に、と鈴木はさらに言いつのっていく。
「食費は月の上限決めてくれればその中でアンタの朝晩と、あと毛玉の分まで作れる。あまりは俺も貰うけど。掃除も多分ルンバみたいなのいただろうし。洗濯もアンタが着てるもの多分クリーニングじゃないといけないのも多いだろ。そういうの、どうせ俺家にいるからやっとくって言ってんの。俺も食べるものに変なものは入れねえし、嫌々ハウスキーパー頼むより安上がりだし、よほどいいだろ」
これ以上部屋に知らねえ奴入れたくねえんじゃねえのアンタも、と言えば遂に杉木が黙り込んだ。何を悩んでいるのかが鈴木には正直よく分からない。確かに鈴木は家事のプロではないものの、少なくともストーカーよりはマシな自覚はある。逆にそれが嫌なら鈴木をこの家に置いておいてどうするつもりだったのか。
「家賃や、生活費のことは気にしないでいただいて構わないのですが」
「俺が気にすんの。なんであんたのヒモやんなきゃいけないわけ? やれることはやる、そんだけ。これ受け入れてもらえないならまた出て行く出て行かないの話になるけど」
「分かりました。すみませんがよろしくお願いします。ただ、家賃はかかっていないんです。祖父が僕にと譲ってくれたマンションなので。いや、まだ存命なので祖父名義の部屋に住んでいる形なので税金もかかっていない状態で。あなたの家事は、生活費の折半ということにしてください」
「
……
アンタ本当に育ちいいんだな。じゃあそれでいいよ。俺今から一回帰って、最低限の荷物取りに行く。そのまま車出すから、当面この毛玉に必要なもん買いに行こ」
「分かりました。ちなみに
……
短期間になるかもしれないとはいえ、流石に名前も決めていないのはよくないのでは」
杉木がちらりとタオルの上で丸くなった毛玉に視線をやる。名前なんか付けたら愛着がわく、と断りたくなったが杉木の言うことにも一理あった。これからまだ病院にも何度か連れていくだろうし、散歩も行くだろう。誰かに名前を聞かれた時に「つけていない」などいったらそれこそ動物虐待を疑われる気がするとその後に起こりえそうなことを考えて鈴木は背筋が震えた。
「名前っつったって
…
」
「そういえば段ボールにはわんこって書いてありましたよね」
「あれって単に犬をそういう感じに呼ぶってだけじゃ
……
」
かたん、と小さな物音がして鈴木と杉木が振り向けばとてとてと小さな毛玉がこちらへと歩いてくる。思わず鈴木がしゃがみこんで下から手を出せば、毛玉はそっと鈴木の手に擦り寄ってきた。
「
……
わんこ?」
「くぅん」
「これはもう確実に自分をわんこだと認識していますね」
そうやって、前の飼い主に呼んでもらえてた時期が少しはあったのかもしれない。この犬にとって前の飼い主との記憶がどういうものかは分からないものの、それならこれから鈴木と杉木が呼んでいけばいいのかもしれないという気持ちにもなる。
「わんこ、ちょっと待ってろよ。わんこがここで暮らすために必要なもの買い揃えに行くから」
うりうりと撫でればわんこも気持ちよさそうに目を細める。怖がらせる意図はないとすぐに撫でるのを止めてから今度こそ出かけようとしたところで再度杉木に呼び止められた。内心うんざりしていることがものの見事に表れた声に、杉木に眉を顰められるが鈴木としては知ったこっちゃない。
「何、まだなんかあんの?」
「連絡先、交換しておかないとでしょう」
杉木の手にあるスマートフォンは普段見ているものよりも随分と小さく見えて、それが杉木の手が大きいのかとどうでもいいことを考えながらポケットから自分の携帯電話を取り出した。少しだけ目を開いた杉木の反応は鈴木にとっては見慣れたものだった。
「スマホじゃないと駄目?」
「あ、いえ
……
久々に見たので」
「まだ使えるし、電話とメールできればいいじゃん。ほら、早く番号でもアドレスでも教えろって。俺の住んでるとこ、こっから遠くはねえけど別に近くもねえんだから」
「犬の面倒みるために住み込みで金持ちの男のハウスキーパーになったぁ⁈ いや、まぁ信也がいいならいいんだけどさ
……
どのくらいで動いていいって?」
「1か月くらい様子見ろだと。まぁ次の大会のエントリーの時期にはある程度戻ってんだろ。出れるレベルなら結果は変わらねえんだから問題ねえよ」
「ストレッチくらいはちゃんとしときなさいよ」
「してる。だから暫くこっちに戻ってこねえ。動けるようになったらまた来るから、それまで色々任せた」
「りょーかい」
「わんこ、ごはん
……
あーそっか。雨は嫌だよなぁ」
子犬用のフードボウルに動物病院の獣医から聞いた今のわんこにおすすめのフードを水でふやかした上に、少し鈴木がアレンジを加えた特製ごはんを持ってリビングに向かう。いつもなら名前とごはんの言葉に反応してとことこ歩いてくるが、今日はその姿が見えない。ぐるりとリビングを見渡せば、雨の音に反応したのかわんこが部屋の隅で丸まり、いつの間にかお気に入りになっていたらしい鈴木のタオルを咥えて震えていた。
今日で杉木の家で奇妙なふたりといっぴきの生活が始まって一週間。買いそろえた犬用ベッドに、トイレトレーにペットシーツ。首輪については杉木と割と真剣に悩んで色を決めた。この環境にも多少慣れたのか、わんこもリラックスとは言わないまでも強いストレスを感じているようには見えなかった。鈴木もこの家にいたハウスキーパーたちが使っていたであろうあれこれと買いそろえられた掃除用具を使って掃除をしたり、予想通り多かったクリーニングを出したり残りを洗濯機で回したり、朝晩の食事を作ったりと好き勝手にハウスキーパー業を行っている。わんこの世話や散歩もその一環で、ゆっくり歩いているにせよ歩幅が違う以上いつものとことこ歩きより少し、いや早歩きどころかジョギングくらいの速さでついてくるわんこに和まないと言えば嘘になった。
杉木が勤めている会社は鈴木でも知っているほど日本どころか世界でも指折りの大企業で、かつもう部下がいる立場らしい。エリートだとは思っていたがレベルが違ったし、忙しいことも理解できる。
そう、この一週間、鈴木は杉木とまともに会話をするどころか顔も合わせていなかった。初日は流石に家主を差し置いて寝こけるのも、と思い出勤時には起きていようと思ったし、帰ってくるまで起きていようと思っていたが他でもない杉木から釘を刺された。
「気にする必要はありません。食事の用意だけいただければ十分です」
「いや、でもさ」
「家のことをお願いできているだけで助かっていますから」
聞く耳持たず、とはこういうことを言うのだろうと思うくらいには杉木は頑なだった。他でもない杉木自身が言うならと鈴木も待つのはやめてわんこが寝たのを確認したら宛がわれた客間に戻るようにしていた。いつ帰ってきていていつ出て行っているのかも定かでないが、その割にわんこも杉木に怯えている様子はない。鈴木の知らない時間に、わんことコミュニケーションを取っているのかもしれない。
この家に来た時よりも強い雨が窓を濡らしている。カーテンを閉めても聞こえる強い雨音は鈴木にもどうにもできないが、とりあえずそばにいようとわんこに向けて一歩踏み出した瞬間に足に痛みが走る。鈴木も、雨の日はまだ痛めた足が上手く動いてくれない。片足を引きずりながらわんこの傍に座り込んで、手を出せばちらりと鈴木を見たわんこがそのまま擦り寄ってくるのを抱えこむ。
「雨、早く止むといいな。俺もわんこも、早く元気になりたいもんな」
ただその日は、大雨で交通機関がどうなるか分からないからと杉木もこの一週間で最も早く帰ってきた。それでもわんこは寝てしまっているし、恐らく世間一般のサラリーマンと比べれば遅いものの、鈴木が明日の朝食の支度をしようと起きている時間に帰ってくる。
「おかえり。嫌味じゃないけど、早かったな。夕飯しまうギリギリ前でよかった。あっためなおして出せるから、シャワー浴びて来いよ」
「
……
ただいま。いや、僕のことは」
「いーからさっさと行ってこい。どっちみち俺明日の仕込みするからキッチンまだいるわけ。酒飲む?」
「あなたは?」
「飲むなら付き合うけど」
「
……
それなら、少しだけ」
ワインばかりの中にあったビールを冷やしておいてよかったと取り出し、俺もこれでいいかとグラスを探す。夕食は杉木が食べる時間を見越して基本的には和食にしている。杉木からリクエストを聞けるほど会話をしていなければ、文句も聞かないために多分問題はない。あの感じだし、恐らく杉木は食事に興味がないとさえ思っていた。
「いただきます。今日も、美味しそうです」
そのため、手を合わせた杉木がわずかながらに顔を綻ばせて味噌汁を飲んでいることに鈴木は純粋に驚いた。思わず杉木のことを凝視してしまい、杉木が茶碗を置いてから小首を傾げる。
「何か?」
「いや
……
アンタがちゃんと飯食べてんの始めて見るから。正直、食えればなんでもいいのかなと思ってたんだけど」
「以前、と言ってもそこまで昔ではないですが。確かに、以前はそう思ってましたよ。今でもあなたが作った以外の食事
……
出勤時のお昼は適当に済ませてます。でも、あなたの作るごはんが美味しくて、いつも優しい味がするので。和食が多いのも、僕のことを気遣ってくれているからでしょう」
「早くてこの時間に飯食う奴に重いもんなんか食わせられるかよ」
「そういう心遣いがありがたくて。和食はあまり食べてこなかったのですが、本当に美味しいです」
箸使いにまで育ちが現れているなとグラスに注いだビールを飲みながら杉木の話を聞いていれば、和食はあまり食べてこなかったと今杉木は言っていた。こうしてダイニングで向かうことなど当然これまでにはない。どうにも落ち着かないものの、落ち着かない姿を見せたくないと話を振る。
「アンタ、和食食べ慣れてないの? 美味いって言ってんの疑う気はねえけどさ、慣れてる味があんならそっちのがいいんじゃねえの」
「僕、大学まではイギリスにいたんです」
「イギリス?」
「ええ。日本食をちゃんと食べるようになったのは就職してからなんです」
「
……
ふーん」
そういうことは先に言っておけと喉から出かかったが、あくまでこれはわんこの飼い主が決まるまでの暫定的な同居でしかないことを鈴木は思い出して、そのまま酒と共に飲み込んだ。お互いのことなど大して知らなくていい。
「明日の朝、なんか食べたいもんある」
「この前のサンドウィッチ、凄い美味しかったです」
「あー
……
ツナとたまごでちょっと和風に寄せたやつ? じゃああれにするわ。あとそれ。急がなくていいからゆっくり食えよ。それとさ、俺あんまり分かんねえけど、アンタみたいなデカい会社なら家で働くのもやってんじゃないの。俺とわんこが邪魔ってんなら昼間はどっか出てくから、会社行くの負担ならそういうのも考えてみれば」
グラスが空になったことで鈴木はゆっくりと立ち上がった。やはり痛む足を引きずりながらキッチンへと戻っていく。ゆで卵のために鍋に水を入れ、ツナ缶を探していた鈴木は杉木かその姿をじっと見ていることには気が付かなかった。
「わんこ、おいで」
二週間目。わんこはよく食べよく寝るようになった。動くことが好きなのか、散歩のためのリードを見せれば尻尾を振って竹鈴の足元をうろうろする。杉木は杉木で、帰ってくる時間が少しだけ早くなったり、休みの日はわんこを散歩に連れて行っていて、わんこのいる生活が鈴木と杉木の中で当たり前になっていくことに少しだけ鈴木は焦ってしまう。保護団体は一つだけ見に行った。優しい職員に話を聞いたが、どうしてだか踏ん切りがつかず、帰宅した杉木にたまたま出くわした時にも「なんか、違う気がして」とだけ伝えた。杉木も見てきたというが「なんでしょう。あなたが言っていたことは分かります。環境は間違いないのに、最後の一歩が出ないと言いますか」と鈴木と似たようなことを伝えてくる。
日が落ちた頃からざあざあと降り始めた雨に震え不安げにリビングをうろうろとするわんこを呼び、抱え込で一緒に小さく丸まった。大丈夫大丈夫、一緒に頑張ろうな。雨は止むから。言葉の意味が理解できるとは思っていないが、自分自身に言い聞かせた言葉でもある。わんこを不安にさせないようにゆっくりと撫で続ければこちらを水気の多い目で見ていたわんこの瞼が徐々に落ちていき、すやすやと安定した呼吸に変わる。
「
……
寝ましたか?」
「うわ、びっくりした。お帰り、足音くらい立てろって」
「すみません。あなたがわんこを寝かしつけてくれていると気付いたので。あとちょっといいですか」
「何? というかアンタ着替えただけじゃ
……
って何そのお湯」
「足、出していただけますか」
「へ?」
いつの間にか帰ってきていた杉木は、なぜかお湯の入った洗面器を持っていた。ほかほかとした湯気が上がっているのを鈴木が追いかければ、床に洗面器を置いた町杉が鈴木の手元からそっとわんこを持ち上げてベッドへと下ろし、数度撫でてから戻ってくる。洗面器にはタオルが一枚沈んでいた。床を濡らさないようにしつつ絞ったタオルを、言われるがままに足を伸ばした鈴木のスウェットをまくり上げ、シャワーを浴びた後で包帯もサポーターもまだしていない剥き出しの膝の上にのせる。
「雨の日は痛むんでしょう。ハーブチンキが入った温湿布ですから、悪いものではないです。消炎作用があるので、少しはマシになるかと思って」
温くなったと思えばすぐに洗面器に戻して温め、何度も鈴木の足に温湿布を杉木は施した。バレていたのか、と鈴木がじっと膝を見れば、先週の雨の日に普段よりも足を引きずっていたので気になってと聞いてもいないのに杉木から答えが返ってくる。理由は聞いてこなかった。聞かれたところで素直に鈴木が答えないと思ったのかもしれないが、淀みのない手つきに、鈴木の口から出てきたのは雑談のような言葉だった。
「
……
慣れてんね」
「肩や首にも効くと、イギリスにいたときの隣人に教えてもらったんです。手入れはしているつもりでも職業柄、どうしても肩や首が凝るので」
「あー
……
そういやこの前休みの時、首回してたアンタから凄い音してたわ。人間から出る音じゃねえと思って驚いた」
「でしょう。サボるとすぐ凝ってしまって」
「んー、おつかれさん」
温湿布の後、わんこの夜ご飯は終わっていたものの鈴木もまだ夕食を取っておらず、初めて二人で夕食を食べた。先週から少しずつ汁物を味噌汁からスープにしたり、リゾットにしたりと少しずつ洋食も作り始めていた。今日はポトフにしていたが、どうやらお気に召したらしいと顔がこころなしか優しい表情の杉木をちらりと見ながら鈴木もポトフを口に運ぶ。
「あの、先週あなたが家でも働けばいいと仰ったじゃないですか」
「うん」
「
……
ずっと、ハウスキーパーが出入りする中での仕事は捗る気がしなくて出社していたんですが、今状況が違うことにあれでやっと気付きまして。今週会社でリモートをするためにあれこれ仕事の進め方を相談してきたので、来週から少しずつ在宅での仕事の日を入れる予定です」
「分かった。じゃあ俺とわんこはその時どっか外出てればいい?」
「いてもらって構わないですから。仕事は書斎で行いますので、書斎に入る時だけノックしていただければ問題ありませんし、そもそもあなたとわんこがいても邪魔にはなりません。それより、あなたに昼食をお願いするかもしれなくて。負担が増えてしまうのですが
……
」
「今だってテキトーだけど自分の昼飯は一応作ってんの。負担もなんもない」
「在宅になれば朝の時間に余裕ができますから、わんこの朝の散歩は僕が連れて行きます。それに、あなたの通院の日も、ちゃんと教えてください。先週も今週もきっとありましたよね」
「
……
それは、助かる。ありがと」
「いえ、むしろ配慮が足りずすみません」
買物や、通院で外に出る時、わんこを連れて行って外で待たせるのがどうにも憚られて、多めの餌とおやつと共に部屋に残したまま向かっていた。帰ってくると、毎回わんこは玄関で鈴木を待っていた。鈴木の姿を見てからてくてくと寄ってくるわんこを見ると、置き去りにされたと不安になったのかとわしわしと撫でながらも鈴木は罪悪感を感じていた。杉木がいる時と通院日を合わせて、その上で買い物をしてクリーニングも出すか回収かしてしまえばわんこをひとりぼっちにしてしまう時間が減るから鈴木としてもありがたい。
「てことは、夕飯も早く食えんだろ。なんか食べたいものあったら言えよ」
「
……
リクエストまで受け付けてくれるんですか、サービスがいいですね」
「毎回綺麗に食べてくれるからな。俺が作れるものなら特別」
雨の音を聞きながら、決して言葉数が多いわけではないものの会話をする。ただ途切れた会話の空気感が不快にならない。それどころか静寂の中で聞こえるわんこのすぴすぴとした寝息を二人して聞いてお互いに笑う程度には居心地が良かった。
「ご馳走様でした。片付けは」
「いーよ。俺がやっとくから。折角早く帰ってこれたんだからさっさと寝ろって。
……
おやすみ」
「
……
おやすみなさい」
在宅の日は、朝に時間があるらしい。その日は鈴木も少しだけ早起きして、出来立てのベーコンエッグでも食べさせてやろうと、そう思いながら綺麗に食べられたポトフの皿を洗う。いつもより動きを阻害しない膝の調子も相まって、洗い物をする鈴木の口元がほんの少しだけ緩んでいたことには、鈴木自身も気付いていなかった。
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