その一本の電話が届いたとき、オレはどんな間抜けた顔をしていたのだろうと思う。どれだけ王やら神やらと崇められていたとしても、オレはこの世界で生きることを選んだ一人の人間でしかなかった。だからこそ、どこまでも盲目でいられたのかもしれない。
スイッチを押したばかりの珈琲マシンは豆を挽き始める。騒音として認識されるそれは伝達される内容を曖昧にして、どろどろとかき混ぜていくようだった。
遊戯が――で、今、――にいて。
公衆電話を伝う何本かのケーブルはオレの頬を切り裂きながら、病室に横たわる彼へ酸素を繋いでいた。その先に目を凝らしても、脳内の彼は瞼を閉じたまま、こちらを見つめることはない。それが何よりも怖かった。これまでに経験したすべての事象をひっくり返してみても、この感情を表す言葉は見つかりそうになかった。
珈琲の完成を知らせる電子音が響く。それが終わりを迎える前に、上着を掴んで玄関へ走った。傘を差す意味などないくらいに激しい雨がアスファルトを打ちつけ、前髪が重さを持って額へと貼り付いている。
改札を抜け、電車に飛び乗る。車窓に叩きつける水滴の一粒が去っていくたび、激しい痛みが胸を覆った。目的地までは、残り三十分だった。
***
海沿いの雨風は普段よりも勢いを増し、一つ足を進めるだけで着実に体力を奪っていった。ビルの角を曲がるたびに向きを変えるそれは革靴を腐食させ、荒くなった呼吸は口端から漏れる。肺から気管まで、気色の悪い血生臭さが覆っていた。
最後の路地を通り過ぎ、やけに新しい外観の扉の前に立つ。十階は裕に超えるだろうか。すぐ近くに見える空は暗い灰を流し、流れる雨が真白なコンクリートを染めていた。
奥を覗き込んでも、ソファや受付テーブルの上には日曜日特有の静寂が横たわるのみだった。普段はきっと足跡でまみれた場所であるはずなのに、不気味なほどに音がない。
本日の診療は終了いたしました。かろうじて作動する自動ドアを抜け、その羅列だけを示した看板たちを抜けていく。オレが電車を降りたとき、丁度電車は運転を見合わせたようだった。梅雨前線の影響。強風の影響。それらを永遠に繰り返す駅構内には、現実感がなかった。辿り着く手段がないのだから、人ひとりいないことにも納得ができる。
かつての同胞からの着信は、彼が今朝退院したこと、しかし未だ自室には帰っていないようだということを淡々と伝えた。その二つの、やけに質素でやけに彼らしくない内容は、まるで硝子越しに会話が交わされたような錯覚を脳に与えた。そんなはずはない。こんなことがあるはずがない。そう定義付けてしまえればと思う心は、あの日々を駆け抜けた自分よりも、よっぽど弱く、滑稽だった。
「遊戯」
名前を呼ぶ。ずっと、彼に返したかった名前。そして、それが叶った時のこと。忘れられるはずもない、確固たる決意の中に隠していたはずの痛みを反芻する。胸の左側では足を動かすたびに心臓が跳ね、彼と身体を違えたことを証明していた。それがどうしても今は憎らしかった。どうしても嫌だった。だからこそ、オレは人間だったのだ、きっと、どこまでも。
「……アテム?」
内科、小児科、整形外科。あの日々の中でも目にしたことのある名前を抱えたプレートたちは、全身の血管を締め付けるように痛みをもたらす。あの時だって、結局全てから守ることはできなかったのだ。
中庭に続く大きな窓の側、バルコニーのようにくり抜かれたその内側に、彼は独り佇んでいた。その声を耳にした瞬間に歩みを止め、彼の足元の影を見つめながら、唇を噛む。
「アテム、来てくれたの? みんなに一人でも帰れるって言った――」
言葉の端が伝わる前に、彼の身体に腕を伸ばし、全てを覆う。帰って来た日に抱き締めた時だってその小ささに驚いたものだけれど、今はそれよりもさらにほそく、こまかく思えた。体格の話ではない。心の部屋にいた時にはすぐ側に感じられていた、彼を構成する部品たちのことだった。
「ごめんね、心配かけちゃって。せっかく君が戻って来たばかりだっていうのに。こんな姿じゃ、君にもみんなにも顔向けできないね」
痛々しいその言葉の響きは、オレの鎖骨を撫で、窓の表面と診察室の並ぶ廊下の床を通り抜けていく。果てしなく続いていきそうなその先には、雨粒ばかりが流れ続けていた。
「無理、してたんだろ、ずっと」
数分前に目にした彼の姿を思い出す。この場所も、この天気も、その表情も、オレが見たことのない、否、見ぬふりをしていたものに過ぎない。相棒には笑っていてほしい。その祈りはいつしか彼を縛る呪いへと変化していたのだろうか。
「ちょっと働き過ぎちゃっただけだよ。無理とか、そういうのじゃ――」
ないから。きっとそう続くであろう言葉を、次はくちびるを塞ぐことによって拒絶した。子どもの頃交わした、生半可でやさしいものなどではない。戸惑って震えた口端から舌を滑り込ませ、変わってしまった一つ一つの部位を確かめる。あまいケーキを味わうように、角度を変えながら彼を捕食した。奥に仕舞われた彼の舌を自分のものと絡ませると、次第に体重がこちらに預けられる。雨は降り続き、籠るばかりの湿った音はすぐに蒸発してしまうように感じられた。それが名残惜しく、余すことなく口内を食べ尽くした。
オレの唾液を飲み込んだことが彼の喉の動きでわかったところで、くちびる同士繋がっていた呼吸を止める。か細い上下運動を繰り返す彼の胸を、再び自身の身体で覆った。
「アテム、おこって、る」
「……怒ってない」
「だってボク、こんな、こんなキス」
「誰かとしたことあるのか?」
耳に、熱が籠ったままのくちびるを寄せて呟く。その答えはわかっていたはずなのに、こうして燻った感情は彼を追い詰める。相棒のことは知り尽くしているから。そう生意気に宣言できたあの時とは、きっと何もかもが変わってしまった。
「そんなこと、わかってるくせに」
彼の身体を抱き寄せ、近くのソファに座らせる。こうして向き合うことは、あの日々の終わり、道を違えた一瞬から、ずっと避け続けていた行動だった。温度を持った彼の身体に触れることも、まるで何千年を超えた行為のように思えた。身を焦がす、どうしようもない熱さだった。
「――ボクね、君に会いたかった」
その熱を持て余したまま、オレは彼の声に耳を澄ます。この声が好きだった。声帯に流れる空気の圧力、肺から流れる酸素、それらを運ぶ細胞。どれもこれもが、苦しいほどの愛しさをもたらした。
「ううん、ずっと、一緒にいたかった。でも、ボクたちは選択して、それを受け入れた」
彼の制服は大人びた服装へと変わり、横顔は冷たさを携えていた。何かを必死に守っているようだった。過去であるのか、未来であるのか、それとも今であるのかわからない何かを守っていた。だからこそ、オレはその頬に手を伸ばすことに躊躇した。
「ああ」
春から夏へと季節を変える前線は、オレたちをどこかへ連れ去るように包み込む。まるで、今は二人だけでいていいのだと、しかしこれが過ぎ去った後の結末を告げずに、他人事のように雨を降らす。
「だから、ボク、そんな君に見合うようにって。帰ってきてくれて、かみさまにありがとうって言いたいくらい嬉しかった。でも君はやっぱりかっこよくて、前を向いていて。ならボクだってって、張り切っちゃった」
差し込んだ車のヘッドランプが彼の頬をゆっくりと撫で、滑り落ちていく。彼は笑っていた。何も面白くないというのに、何も満ち足りた結末ではないというのに、口の端を緩め、目を伏せて、慈しむようにオレの指先を触る。
「相棒」
彼と名前を共有していたときの呼び名を口にする。緩やかな動きでこちらを向いた相棒の瞳には、何よりもうつくしく、何よりもいとしい色が映っている。
今度は相棒がオレの袖を引いた。やわらかな頬に触れ、こちらから口づけを落とす。先程のような激しさを持たない、オレの胸から流れるどうしようもない涙を伝えるような、格好の一つもつかない口付けだ。
「あのころと同じように、呼んでくれ」
王の名ではない。神の名ではない。たった一人の恋に落ちた人間から呼ばれた言葉を、その喉から発してほしい。
「もうひとりの、ボク」
「……もう一回」
「…………もうひとりの、ぼく」
ずっと、そう呼ばれたかった。オレは涙を見せずにそう伝えたはずなのに、相棒の瞳はゆるみ、ぬるい温度がオレの頬を流れていった。足元に掛けたままの傘先からこぼれる雨粒が水溜りをつくり、廊下をきらきらと縁取っていく。
「オレが立ち上がれるのならば、それは相棒のおかけだ」
指先を伸ばし、相棒の赤くなった目尻に触れる。くすぐったそうに震える頬にいつまでも触れていたい。いつだって、そのつよさとやさしさと、そしてオレに向けられるほほえみだけが、オレの全てだった。だからこそ、
「あのころと同じように、オレの前で笑っていてくれるだけで、それだけで」
いいのだ。オレの喉はこういう時にだけ臆病で、相棒は振り向きながら、そんなオレをただ笑って見つめる。王の器とか、三千年とか、冥界とか、そんなことはもうどうでもいい。オレはこの、どうしようもなくいとしい恋人と、再び出会いたかっただけなのだから。
「もうひとりのボクは欲張りさんだね」
――でも、ボクも同じ。
どうしてこんなにもうつくしい存在を、オレは一度手放してしまったのだろう。
迎えにきてくれてありがとう。そう呟いた相棒の前髪がほどけ、湿度とくちびるはかき混ぜられたまま、オレの胸を満たす。
雨が上がり始めているのを、相棒の紫にかかる陽射しによって知った。それはどんなひかりよりも眩しく、たしかにオレの背を照らしている。
***
「明日から、全日出社は禁止」
「海馬くんに怒られちゃうよ……」
「朝晩はオレが送る」
「もうひとりのボクの家、ボクの家から遠いでしょ?」
「引越しの準備はもう手配してある」
聞いてないし、と呟きながら窓の外へ向く視線が気に食わず、指先を掴む。それに気付き、ふわりと頬を上げる相棒はあの頃よりもやはり少し大人びて、身に纏ったシャツを風に揺らしている。だがそのどれもが変わっていないことを、オレだけが知っていればいい。
運転が再開したばかりの電車は相棒とオレだけを乗せ、ハッピーエンドのその先へと連れていく。目的地まではあと十五分。相棒の目元にひとつ光った涙の欠片を掬いながら、地平線の先を見つめていた。
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