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美味いものは冷めても美味い.zip
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責任取ってよね
⚠️風邪を引いた人とキスする描写があります⚠️
主人公が風邪を引いたほのぼの(?)出所後主足
ある日の朝。
まだ完全には覚醒しきらない頭の奥で、妙に静かだな、という違和感だけが先行していた。
その理由が何なのか分からないまま、足立は久々に自分で淹れたコーヒーの入ったマグカップを口元へ運ぶ。
「うわ、まっずいなぁこれ」
舌に広がる輪郭のぼやけた苦みに、思わず眉が寄る。味わいも何もあったものではない、ただただ苦いだけの液体を仕方なく飲み下しながら、淹れ直すほどでもないかと諦めるように息をひとつ吐いた。
あの男ならこんなことにはならないし、そもそも迷わず淹れ直すのだろう、などとどうでもいい方向へ思考が滑り、そのまま視線もテーブルの端へつられるように流れていく。
そこに置かれている、見慣れたもうひとつのマグカップ。
いつもなら当たり前のように二つ並んでいるそれが、今日はそこに取り残されたままだった。
「
……
あれ?」
そこで足立はようやく違和感の正体に気がつく。
この家の主である鳴上悠が、まだ起きてきていない。
普段なら、足立がリビングへ来た時点で淹れたてのコーヒーの香りに迎えられ、席に着けば見計らったようなタイミングで朝食が運ばれてくる。うんざりするほど爽やかな挨拶と笑顔付きで。
それが今朝は、綺麗に抜け落ちていた。
もっと早く気づいていてもよかった。
目を覚ました時、いつもならとっくにいないはずの気配が、まだ隣に残っていたこと。
規則正しい寝息を立てながら布団に収まるその姿を、ぼんやりと眺めていたこと。
寝ている姿すら隙がないなんてムカつくな、などと内心で悪態をつく余裕すらあったこと。
違和感はいくらでも転がっていたはずなのに、今の今まで気づかなかったのは、眠気のせいだろうか。
「
……
ほんとに寝坊?」
あの鳴上悠が、寝坊なんて人間らしいお茶目なことをするとは到底思えない。
スマートフォンを手に取って確認するまでもなく今日は平日で、鳴上は予定が変わるのなら律儀に報告してくるタイプだ。
それがないままこの状況ということは
——
考えたくはないが、ただの寝坊で済まない可能性が浮上してくる。
「
……
まったく、世話が焼けるなぁ」
今まで何度彼に起こされ寝坊を回避できたかは棚に上げ、足立はわざとらしく肩を竦める。
まだいつも家を出る時間までは猶予はある。疲れているのならもう少し寝かせてやっても
……
とも考えたが、この同居生活が始まって以来のイレギュラーに嫌な予感がした。
苦いだけの液体を飲み干したマグカップをテーブルへ置く。
ただの寝坊でありますようにと、柄にもなく祈りながら、足立は寝室へと向かった。
◇◇◇
未だカーテンが閉じられたままの寝室は薄暗く、ひんやりとした空気が肌に触れた。
視線を奥へ向ければ、案の定ベッドの上では鳴上がまだ眠っている。
「
……
おーい」
軽く声をかける。本来ならこれだけで目を覚ますはずだった。
鳴上は気配に敏感で、足立がそっとベッドから抜け出すだけで意識を浮上させるし、そっと戻っても待ち構えていたように抱きしめ直し、安心してからすやすやと寝息を立て始める。そんなことが当たり前になっていた。
それなのに、今日は反応が鈍い。
少し待っても目を覚ます気配がない様子を見かねた足立は、ベッドの脇に腰を落とし、肩へ手を伸ばす。
触れた瞬間、じわりと熱が掌に移ってきて、ほんのわずかに指先が止まった。
「
……
悠くん?」
軽く身体を揺すれば、ようやく瞼が持ち上がる。
焦点の定まらない視線がこちらを捉えたまま、何も言わずに固まっている。認識しようとしているのに処理が追いついてないような、妙に間の抜けた鈍さ。
「ん
……
あだち、さ
……
?
……
あ」
眠気の残るあどけない響きでそうこぼした後、遅れて状況を把握したのか、鳴上は勢いよく上半身を起こす。
そのまま立ち上がろうとした瞬間、身体がぐらりと揺れたかと思えば耐え切れなかったかのようにベッドへ座り込み、そのままマットレスへ仰向けに倒れ込んだ。
一瞬で元通りの姿勢に戻る。
あまりにも急な出来事に、足立はただ一連の動きを見ていることしかできなかった。
そして、何が起こったのか分かっていない顔の鳴上の方へゆっくりと身を乗り出し、覆い被さるようにして距離を詰める。
自分でも何をしようとしているのかはっきりしないまま、いつの間にか自分の額を鳴上の額へ軽く押し当てていた。
先程掌越しに感じたものよりも直接的な熱が、じわじわと額越しに伝わってくる。
「
……
あーあ、風邪でしょこれ」
思っていたよりも熱い。
こういう確かめ方を非効率だと内心で切り捨てていたはずなのに、実践してみると妙に分かりやすかった。案外馬鹿にできないな、なんてどうでもいい方向へ思考が逸れかけながらも、足立はまだ離れない。
吐息がぶつかる。呼吸をする度に微かに揺れる互いの身体の動きが妙に鮮明に感じられて、触れている部分だけがやけに熱く、その境界が曖昧になっていく。
鳴上はまだ理解が追いついていない顔をしていた。視線がこちらに固定されたまま、時折思い出したように瞬きをする。
何か言いたげな気配はあれど、出力まで至らないような、不自然な停滞。
(
……
ああ、処理落ちしてる)
分かっていながら、足立は動かない。離れようと思えば離れられる距離なのに、そのきっかけが見つからないまま、ただ触れ続けている。
「
……
あ、あだち、さん
……
?」
掠れた声が落ちる。先程までの眠気を含んだ響きとは違い、わずかに緊張と焦りを帯びた響き。
「あ、あの
……
」
続くはずの言葉は出てこない。呼吸がわずかに乱れ、視線が泳ぐ。頬の赤みが濃くなったように見えるのは、熱のせいか、それとも別の理由か。
判別するまでもない分かりやすい反応に、足立は思わず口角が持ち上がる。
「
……
なぁに、その反応」
呆れたように鼻を鳴らしながらも、距離はそのまま保たれる。むしろ確かめるようにほんの少しだけ位置をずらし、再び額を触れさせて熱を拾う。
「普通に熱あるじゃん」
そう言って額を離す。触れていた場所に熱が残り、空気がわずかに冷たく感じる。先程までの距離をなかったことにするように、足立は視線を逸らして軽く肩を竦めた。
「
……
休めるなら、休みなよ」
言い方はあくまで軽く。押し付けるほどの強さは乗せない。妙なところで真面目で頑なな鳴上のことだから、少し渋るだろう
――
そんな見込みでの、逃げ道を残した言い方。
鳴上は逡巡するようにほんの一瞬視線を逸らし、黙り込む。
「
……
そう、ですね」
案外あっさりと頷いた。
拍子抜けするくらい素直で、長引くと思っていた足立の方が、わずかに反応が遅れる。
もっとこう「いえ、大丈夫です」と何の根拠もない根性論を突き通してくるものだと思っていたのに、予想が外れた。
熱で判断力が鈍っているのか、それとも単に自覚があるのか。どちらにせよ、素直に引き下がるのは珍しい。
鳴上は一度だけ小さく息を吐いてから、枕元に置いてあったスマートフォンへ手を伸ばした。指先の動きはやや鈍く、画面を開くまでに一拍かかる。
「
……
連絡、入れます」
短くそう告げて、通話画面を開く。数回のコール音のあと、すぐに相手が出たらしい。
「
……
おはようございます、鳴上です。
……
すみません、本日なんですが
――
」
声は掠れているのに、言葉の選び方だけはいつも通り整っていた。先程まで熱とそれ以外の要因で頭が回っていなかったはずなのに、こういう時だけは崩れない。
「
……
はい、申し訳ありません。
……
ありがとうございます、失礼します」
必要最低限のやり取りで通話を終える。無駄に引き延ばすこともなく、言うべきことだけをきっちり伝えて切るあたり、どこまでもスマートで、やっぱりムカつく。
通話が切れて数分後、画面にいくつか通知が溜まる。盗み見るつもりはなかったが、ちらりと目に入った文面はどれも体調を気遣うような内容だった。
ホワイトだな、と思う。
ちゃんとしている会社だ。
ちゃんとしている人間関係だ。
ちゃんとしている言葉が、ちゃんと並んでいる。
それなのに、何となく面白くなかった。
別に僻んでいるわけではない。それは鳴上なりに上手く生きてきた結果なのだから。
……
だとすれば、この気持ちは一体どこから来たのか。
足立は深く考えない。考えるまでもない気がした。
「
……
いいとこ勤めてるね」
皮肉のつもりはなかったが、声色はどうしても不機嫌な響きを帯びてしまった。
鳴上は小さく頷くだけで、スマートフォンの画面を伏せた。画面を見る元気もないらしい。
そのまま力を抜いて枕に頭を預ければ、呼吸が少しだけ深くなる。
その後、慣れないながらも用意したお粥を鳴上に振舞い、サイドボードに飲み物と眠っていた常備薬の中から発掘した風邪薬を置いた。
「じゃあ僕、部屋で仕事してるから。
……
何かあったら呼びなよ」
足立は返事を待たずに、寝室を後にする。
◇◇◇
部屋に戻り、パソコンを立ち上げる。
いつも通りのことなのに、家にはまだ鳴上がいると思うとなんだか不思議な感覚だ。
しかし、そんな感覚も画面に映る文字列に集中しているといつの間にか忘れていて、足立は仕事に没頭していた。
背後で、かすかにドアノブが回る音がする。
キーボードを打つ指が一瞬だけ止まり、そのまま中途半端な位置で宙に浮いた。
「
……
足立さん」
呼ばれてようやく振り返ると、そこに立っていたのは先程寝かせたはずの男だった。
「飲み物、切れてませんか」
手にはマグカップがひとつ。鳴上は何でもないように差し出してくる。
確かにそろそろ淹れ直そうと思っていた頃だが、問題はそこじゃない。
先程まともに立ててもいなかった男が、当たり前のようにここへ来ていること。
それ以上に
――
その視線が、ずっとこちらに向いたまま外れないこと。
「
……
あのさぁ」
鳴上は不思議そうに首を傾げる。
その動きだけで眩暈でもしたのか、わずかに顔を顰めるが、それでも目だけは逸らさない。
「病人って自覚ある?」
足立は椅子から立ち上がり、まずはマグカップの安全を確保するように受け取って机へ置く。
「寝てなって言ったでしょ」
そっと頬に触れると、やはり熱い。なんだか彼の側にいるだけで室温まで上がったんじゃないかと錯覚するほどに。
「大丈夫です、これくらい
――
」
「大丈夫じゃないから言ってんの」
言い訳をさせる隙を与えないようにわざと言葉を被せる。足立はそのまま鳴上の腕を軽く引くと、鳴上は抵抗せず引っ張られていく。
その途中で、一度だけ足が止まる。
「
……
」
何か言いかけたように口が開きかけて、ほんの一瞬だけ視線が揺れる。けれど結局言葉にはならず、そのまま閉じられた。
「ほら、戻るよ」
素直についてくる足取りは頼りなく、途中でわずかに身体が寄ってきては離れていく。やはり無理をしていたのだろう、と足立は内心呆れっぱなしだった。
寝室に戻しベッドへ座らせ、そのまま倒れ込むのを見届けてから布団を引き上げる。
「ほら、ちゃんと寝てなって」
雑にかけた布団の下で、鳴上の呼吸が少しだけ深くなる。
「
……
すみません」
掠れた声が落ちる。その表情は妙にしおらしく、何だかこっちが悪いことをしているような気分にさせられる。
「謝る元気があるなら寝てなよ」
それだけ言って、視線を外す。そのまま背を向け扉に手をかけたところで、わずかに気配が動いた気がした。
鳴上は呼び止めるでもなく、ただじっと足立の背中を見つめていた。
◇◇◇
足立が部屋に戻ってからしばらくは、今度こそ何事も起こらなかった。
キーボードを叩く音だけが規則正しく続き、画面の中の文字列も順調に並んでいく。ついさっきまでのやり取りが嘘だったように、何も変わらない時間が戻ってくる。
それでも完全に切り替えられているわけではなく、意識の端にはどうしても先程のやり取りが残っていて、それがぐるぐると頭の中で反芻されていく。
意味のない用事を作ってまでここへ来たこと、そのくせ、あっさり戻されたこと。そのどれもが妙に引っかかり、無視しきれない分タチが悪い。
(
……
流石に寝たかな)
そう思い気を取り直しかけたそのタイミングで、部屋の外から物音が聞こえる。
一瞬手が止まり、そのまま指先が宙で静止した。今日何度目か分からないため息が落ちる。
椅子から立ち上がる動きにはもう迷いがなかった。半ば予想していたと言わんばかりの足取りで部屋を出て、そのまま音のした方へ向かう。
キッチンの奥で、鳴上の背中が見えた。
コンロの前に立っているが、火は点いていない。手元は妙にぎこちなくて、包丁を持つでもなく、まな板の上に置かれた食材を押さえたまま、次の動作へ移れずにいるような中途半端な状態だった。
「
……
何してるの」
声をかけた瞬間、鳴上の肩がびくりと揺れる。
振り返る動作も緩慢で、一度視線が泳いでから、ようやく目を合わせる。
「昼食を
……
」
鳴上はそう言いかけて、止まる。何を言っても足立に叱られると悟ったのだろう。そのまま視線が下に落ちる。
「何もしないのも、その
……
落ち着かなくて
……
」
一瞬だけ様子を窺うように視線が上がるが、そこにあるのは呆れと苛立ちの混じった顔だと分かった途端、叱られる子供の様にバツの悪そうな顔をして、すぐに逸らす。
「寝てなって言ったでしょ」
ため息を隠そうともしないまま、足立は鳴上へ歩み寄る。
そのまま手を伸ばしコンロのつまみに触れ、まだ火が点いていないことを確認するように軽く回してから、手を離す。その一連の動作が、言葉よりも「させない」という意思を示している。
「火、使う気だった?」
問いかけるようにそう言うと、鳴上は詰められているように感じたのか、視線を逸らしたまま素直に頷く。
「
……
はい」
怒られるのは分かっているし、自分が無理をしているのも分かっている。それでも来てしまった、そんな様子だった。
「ほら、戻るよ」
そう言って足立は鳴上の手首を軽く掴み、そのまま引く。
触れた瞬間に伝わる体温が確実に高くなっていて、思わず指先の力がわずかに緩む。
歩き出すと、鳴上の身体が妙に寄ってくる。支えるほどではないが、無視できるほどでもなく、気づかないふりもできるような曖昧な重さ。
「
……
重い」
「あ、すみませ
……
」
ぼそりと零した言葉に、鳴上は慌てたように身体を引く。
「いいって。もう無茶しないでよ」
被せるようにそう言い切って、そのまま寝室へ向かう。
鳴上を再びベッドに座らせると、今度はほとんど間を置かず、そのまま自分から倒れ込むように横になった。
呼吸は少しだけ荒く、先程よりも余裕がないのが分かる。
「
……
すみません」
言葉の終わりが曖昧にほどけて、そのまま呼吸に混ざる。
鳴上の顔は、血の気が引いているはずなのに、熱のせいで妙に色づいて見える。無理をして動いた分、余計に熱が上がっているのかもしれない。
「二回目ね、それ」
布団を引き上げる足立の手つきは、無意識に先程よりも丁寧になっていた。
雑に掛けるだけのつもりだったのに、肩の位置に合わせて整え、首元に余計な隙間ができないよう指先で押さえ、そのまま少しだけ手を残してしまう。
離す理由を探すように、指先がほんの一瞬だけ留まる。
その動きを自覚した瞬間、足立は思わず眉を顰めたが、何も言わないまま手を離した。
「僕がお昼作るから、ちょっと待ってて」
「
……
ん」
返事ともつかない音だけが返ってきた。もう鳴上の目は閉じられている。
呼吸がゆっくりと落ち着いていく。どこか無理に整えていたようなそれが、ようやく力を抜けたように、少しずつ深くなっていく。
それを確認してから、足立はようやく視線を外した。
◇◇◇
昼食を食べ終えて、再び家には静けさが戻った。
今度こそ本当に寝たのだろう、そう思える程度には。
足立は一瞬だけ寝室の方へ視線をやりかけて、すぐに逸らす。確認しに行くほどでもないと自分に言い聞かせるように、そのまま部屋へ戻り、椅子に腰を下ろした。
画面を開き、仕事に戻る。今日は何度か中断させられたせいか、思考が少しだけ鈍い。それでも指を動かしているうちに、キーボードを叩く音が少しずつ一定のリズムを取り戻し、遅れて意識も引き戻されていく。
今度こそ何も起きないはずだという根拠のない確信が、形になりかけていた。
「
……
ん?」
ふと、指先が止まる。
理由は分からない。ただ、先程まで気にならなかった静けさが妙に耳についた。
視線は画面に向けられたままなのに、意識だけが少しずつ扉の向こうへ逸れていく。
床の軋みなのか、布の擦れる音なのか、小さすぎて判別もつかないそれは、聞き間違いで片付けるには中途半端で、確信にするには弱すぎる。
今度はしっかりと意識が扉の方へ向いた。
けれどノブは動かないし、開く気配もない。ただ、そこに誰かがいるような気がする気配だけが、扉越しにじっと留まっている。
しばらく様子を窺っても状況は変わらなかった。入ってくるでもなく、消えるでもなく、ただ気配だけがそこに残る。
(
……
もしかして)
足立は痺れを切らしたように椅子を引いて立ち上がる。そのまま足音も隠さずに扉へ近づくと、そのまま勢いよく扉を開けた。
そこにいたのは、案の定鳴上だった。
扉の前で立ち尽くしたまま、急に開けた視界と足立に驚いたのか、ほんのわずかに目を見開いている。逃げるわけでもなく、ただバツが悪そうにこちらを見ていた。
「ねえ、ほんとになんなの」
声は自然と低くなる。呆れと苛立ちと、意図の分からない不可解さが混ざった声音だった。
鳴上は答えない。口がわずかに開きかけては、言葉を探すように数秒固まり、そのまま何も言わずに閉じられる。視線が泳ぎ、それでも逸らしきれずに中途半端な位置で止まる。
「さっき寝てたよね」
少しだけ語気を強める。責めているつもりはない。ただ、単純に意味が分からなくて気持ち悪かった。ここまで繰り返されれば、流石に無視もできない。その思わせぶりな動きが妙に遅くて、余計に苛立つ。
「
……
なにそれ」
呆れが先に出る。ここまで来て何も言わないのか、と、そんな感情がそのまま声に乗る。
「言ってくれないと分かんないんだけど」
また寝室まで引っ張っていかなければならないのか、とため息を吐きながら手を伸ばしたその瞬間、鳴上の手が伸びてきた。
一瞬だけ迷うような素振りを見せるも、引っ込めることはなく、そのまま足立の服を掴む。距離を詰めるように身体ごと寄せてきたと思えば、次の瞬間ほとんど抱きつかれるような形になっていた。
「
……
は?」
突然のことに思考が遅れる。足立を包むその体温は、はっきりと高い。呼吸も浅く、一定じゃない。完全に無理をしている身体のそれだった。
「ちょ、な、なに急に
……
」
引き剥がそうとするが、思ったよりもしっかりと抱きしめられている。本気で逃れようと藻掻けばすぐに逃れられるだろうが、鳴上が自分から離れる気配はない。
「
……
」
鳴上は何も言わない。言葉にできなかった分を行動で示しているつもりなのか、不器用に距離だけを詰めてくる。
そこでようやく、足立は鳴上の真意を何となく察した。察してしまったからこそ、逆にどう反応していいか分からなくなる。
「あー
……
もう
……
」
力を抜いて抵抗をやめると、今度は体重が少しだけ預けられる。それは今日一番分かりやすい甘え方だった。
「
……
甘えたかったの?ねえ」
問いかけても返事はない。ただ、抱きしめてくる力がわずかに強くなるだけで、それ以上は何も変わらない。言葉よりもよほど分かりやすい肯定だった。
「子供じゃないんだからさぁ
……
」
呆れたように息を吐きながら、それでも引き剥がさないまま、足立は抱きつかれた状態のまま寝室へ歩を進める。
「ほら、戻るよ」
今回も抵抗はなかった。まるで最初からそのつもりだったかのように、素直に歩を進めていく。
寝室まで連れて行きベッドに座らせると、最早慣れたように倒れ込む。いよいよ本当に限界だろう。大人しく寝かせるにはどうしたものかと、足立はぼんやりと考えていた。
「
……
」
鳴上の視線が一度だけこちらに向く。何かを確かめるように、ほんの一瞬だけ。
「
……
そのまま、」
そこまで言いかけて、言葉が途切れる。続ける息が足りないのか、それともただ言うのを躊躇ったのか、どちらともつかないまま唇だけがわずかに動いては止まり、そのまま沈黙が落ちる。
それでも、諦めきれなかったみたいに、もう一度だけ。
「
……
いて、ください」
それだけだった。
余計な言い訳も取り繕いもなく、その後には何も続かない。伝えたいことは十分伝えたとでも言うように、鳴上はただ返事を待つように、ゆっくりと目を瞬かせている。その目は逸らされない。
足立は一瞬だけ言葉を失う。先程まであれほど問い詰めても何も答えなかったくせに、今更こんな風に素直なられるとは思っておらず、思わず反応が遅れてしまった。
「
……
はぁ」
ようやく出てきたのは、気の抜けたようなため息。けれど視線は逸らさない。
逸らせば素直に打ち明けた鳴上の勇気を蔑ろにすることになりそうで、そして自分も逃げてしまいそうで、目を逸らすのは違うと思った。
「
……
寝るんでしょ」
わざと軽く言う。引き受けるでも拒否するでもない曖昧な言い方で逃げ道を残したつもりだったが、鳴上は小さく頷くだけで、今度は本当に目を閉じた。そして鳴上の手が、足立の服の裾を控えめに握る。
(
……
ああ、これ)
ここで離れたら、きっとまた起きてくる気だ。先程までの奇行を思い返せば、それくらいはもう簡単に想像がついた。
「
……
はいはい、分かったから」
仕方ないという調子を崩さぬまま、あくまで一時的に付き合ってやるつもりで、その場に腰を落とす。
距離は先程より少しだけ近い。触れてはいないけれど、手を伸ばせば届くくらいの位置。
鳴上はそれを確認するように一度だけ視線を上げて、それからようやくほんの少しだけ力を抜いた。呼吸がゆっくり落ちていく、その変化が分かる程度には。
「
……
あだちさん」
また呼ばれる。声は先程よりも小さく掠れていて、それでも止める気配はない声音。
「なに」
短く返す。返事が徐々に少しだけ雑になっている自覚はあった。こんな状況の鳴上がわざわざ再び声をかけ直してくるなんて、ろくでもない理由だろうと身構えていたからだ。
「
……
もうすこし、」
そこまで言って、また一度途切れる。言い切るだけの余裕がないのか、あるいは言葉を選んでいるのか、ほんのわずかな間が空く。
「
……
こっちに」
鳴上は目を開けない。裾を掴む鳴上の手に力が入り、ぐいっと自分の方へ引き寄せるように引っ張ってくる始末だ。
足立は思わず天井を仰ぐ。
ここまで来て更に要求が増えるのか、と呆れ半分、素直に甘えてくる鳴上を見るのが面白いという気持ち半分でため息が漏れる。
「僕仕事中なんだけどなぁ
……
」
そう言いながらも、立ち上がる気配はない。
急ぎの案件でもない、今すぐどうにかしなきゃいけないわけでもない、そうやって自分で言い訳を並べている時点で、もう結論は出ている。
「
……
ちょっとだけだからね」
観念したようにそう言って、足立はただ腰かけるだけだった体勢をずらし、ベッドの上に乗り上げる。
あくまで隣に座るだけのつもりだったのに、布団の中へ半身滑り込ませた途端、鳴上に腕を引かれそのまま引き込まれる。
抵抗する間もなく距離が詰まり、熱い身体に抱きしめられ、身動きがとれなくなった。
「なにしてんのさ、ほんと
……
」
呆れた声を出しながらも、結局離れない。というより、離れようとするとまた何か要求を提示されそうで、それが面倒でそのままにしているのもあった。
鳴上は何も言わない。ただ、先程よりも明らかに呼吸が落ち着いてきていて、安心しているのだけは分かる。
(
……
まあ、いっか)
そう思った瞬間だった。鳴上の力が緩んだかと思えば、わずかに動いた気配に反応するより先に、そっと唇を重ねられた。
「
……
は?」
一瞬、何が起きたのか分からない。熱のせいでぼんやりしているのかと思ったが、次も同じように触れてきて、ようやく理解が追いつく。
「待って」
足立はようやく軽く押し返す。けれど、思ったより力が入らない。触れているところが妙に熱くて、離そうとしたはずの手がほんの一瞬だけ止まる。そのまま指先が引っかかるように残って、距離を取るきっかけを自分で逃していることに気づいて、わずかに眉を顰めた。
「僕にうつったらどうするのさ」
いつもの調子で流すつもりだった。しかし鳴上は一瞬だけ動きを止めるだけで、それ以上は引かない。
「
……
俺が、」
掠れた声が落ちる。熱に浮かされているはずなのに、その声だけはやけにまっすぐだった。逃げ道を作らないように、はっきりとした響きで。
「看病、します
……
」
息がかかる距離でそう言われて、足立は言葉を失う。
あまりにも筋の通っていない理屈なのに、言っている本人は大真面目で、その温度差に思わず笑いそうになる。それでも笑いきれないのは、その顔があまりにも余裕がなくて、取り繕うことすら忘れているように見えたからだった。
妙に素直で、妙に必死で、普段ならこんな風に崩れることなんてないくせに、今はそれを隠そうともしない。甘えるにしても、もう少しやりようはいくらでもあるはずなのに、それすら考えられないように、本能のまま触れ始めてきている。
(なんか可愛いかも)
ふと浮かんだその感想に、自分でも少しだけ驚く。
先程まで鬱陶しいと思っていたはずなのに、そのまっすぐさはあまりにも無防備で、足立の毒気を抜いていった。
「
……
あのね、そういう問題じゃ
――
」
言いかけたところで、再びキスを落とされる。
今度は先程より迷いがなく、触れている時間が長い。軽く触れるだけだったはずのそれが、いつの間にか押しつけるような動きに変わり、呼吸の逃げ場を塞ぐように重なってくる。
「
……
ん、ちょ
……
」
押し返そうとした手首を、今度は逆に掴まれる。強い力ではないのに、目の前の男から伝播されてしまったような熱のせいで判断が鈍っているのか、振りほどくこともできないまま、そのまま力を失ってしまう。
触れ方が、先程までとは違う。甘えるように縋りつくだけではなく、逃がさないように、位置を探るように、指先がじわじわと動く。
背中に回された手は、体温を確かめるように服越しに足立の身体を撫で、そのまま腰のあたりで止まった。
思考の奥で、遅れて警戒が浮かぶ。けれど抵抗する前に再び口を塞がれる。
呼吸の合間をわざと狙うようにキスを重ね、浅く繰り返すだけだったはずのそれが、少しずつ深くなって、離れる隙も与えない。
「
……
やめ、」
一度だけ、距離を取ろうとする。
けれど鳴上の方がわずかに早く、離れかけた分を追うようにしてまた距離を詰めてくる。その動きは考えてやっているというより、身体が勝手に選んでいるように見えた。
触れられるたびに、これまでの鳴上の奇行が頭の中で繋がる。
意味のない用事を作って部屋に来て、戻されて、それでもやめなくて、何度も同じことを繰り返して。
——
ただ、甘えたかっただけ。
そう思った瞬間、胸の奥で引っかかっていたものがすとんと落ちる。
苛立ちも、面倒くささも、どうでもよくなった。
呼吸が近い。触れているところが全部熱い。止めるべきだと頭では分かっているのに、もう身体の方がそれを選ばない。
振り払う理由よりも、このままでいい理由の方がずっと簡単に浮かんでしまった。
鳴上の熱のせいなのか、雰囲気のせいなのか。あるいは、ほんの少しだけ、許してもいいと思ってしまったのか。
自分でもはっきりしないまま、足立は小さく息を吐いて、そのまま目を閉じた。
◇◇◇
結局、風邪はしっかりとうつされた。
風邪の相手とあれほど接触していれば当然だと思いながらも、実際に熱が出ると面倒で仕方がない。
「だから言ったでしょ
……
」
「
……
すいません」
不機嫌を隠さずにそう言えば、鳴上は気まずさを誤魔化すように眉を下げて苦笑する。
そのくせ、やたらと甲斐甲斐しく世話を焼いてくるから始末が悪い。
「責任取ってよね」
嫌味のつもりで投げた言葉だった。せいぜい今日一日反省しながらしおらしくしていればいいと思っていたのに、鳴上はほんの一瞬だけ目を瞬かせ、ゆっくりと表情を綻ばせていく。
「
……
はい」
あまりにもあっさりとした肯定だった。それどころか、噛みしめるように小さく笑っている。
「なに笑ってんの」
思わずそう返すと、鳴上は少しだけ目を伏せる。けれど誤魔化す気もないのか、微笑んだまま「
……
嬉しいので」なんて、躊躇いもなく言ってくる。
足立は一瞬言葉の意味が理解できず、思わず思考が停止した。嫌味で言ったはずの一言を、まさか甘えとして受け取られるとは。
「あのねえ、責任ってそういう意味じゃ
——
」
訂正しようとして、途中で止まる。言い直したところでもう遅い気がした。目の前の男はすでに納得しきった顔をしていて、こちらの意図なんて最初からどうでもよさそうなのだ。
「ちゃんと取りますから、責任」
追い打ちのようにそう言われて、足立は小さく息を吐く。
呆れ半分、諦め半分。それでも差し出された温かいスープ入りのマグカップは素直に受け取ってしまうあたり、自分も相当絆されている自覚があった。
「
……
はいはい、好きにすれば」
投げやりにそう言って視線を逸らす。それでも鳴上は満足そうに頷いて、当たり前のように世話を続ける。
熱でぼんやりとした頭のままその様子をしばらく眺めていると、不思議と先程までの不機嫌も長くは続かなかった。先程まで鬱陶しいと思っていたはずなのに、同じ距離で同じように構われているだけで、どうでもよくなっていくのだから、自分も随分単純になったものだと内心で苦笑する。
(
……
まあ、いいか)
そうして目を閉じる。
結局そのまま、治るまできっちりと面倒を見られることになった。
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