かづき
2026-04-28 20:56:30
4695文字
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ふれた、そのさき(イルンズ♀)

お付き合い始めてまだそれほど時間が経っていない、一線を越えていない二人の話。

 初めて触れた恋人の手は、想像していたよりも小さかった。
 イルーガへ手のひらを向ける形で差し出されたフリンズの左手に、こちらの右手を重ね合わせ、隙間なくぴたりと密着させてまず思ったのが、それである。
 とはいえ、より正確に表現するならフリンズの手はイルーガのものより若干大きかった。あくまでも考えていたより小さいというだけである。手のひらの大きさは殆ど変わらないが、指先はフリンズの方がいくらか長く、しなやかだ。
 イルーガよりもほっそりとした女性らしい指は、傷一つなく滑らかで、傷だらけのイルーガの手とは全く違う。細くて、骨の形がわかりにくくて、本当に長槍を片手で振るっているのかと疑問に思うほど美しい手である。
 どの指もイルーガより一センチ前後長い。ただ、指自体が細いので大きいことは確かなものの、想像していたよりも小さく感じる。
 そう思ったのは、比較対象が部下だからかもしれない。イルーガが率いる分隊は、というよりライトキーパーは女性よりも男性が多く、必然的に周囲は殆ど男性ばかりになる。後方支援部隊になれば女性も増えるが、それでも全体の数として男性に偏っている組織だ。だから、他者の手を見る機会は圧倒的に同性のものばかりになる。
 フリンズと同じくらいの背丈を持つ隊員の手を知っているが、彼の手はイルーガよりも一回りは大きかった。身長が高いと手も大きいものなので何もおかしくはないが、驚いた覚えがある。
 男女に性差というものが存在していることは、知識として知っていた。だが、女性の手というのはこれほどまでにほっそりとしているものなのか、と。初めてまともに触れた異性の手の華奢さに驚いてしまう。
 同じ形をしているはずなのに、触れるとその事実に疑いを持ってしまうほど手のつくりが違うように思える。フリンズの血色の悪い肌から想像したとおりの少しひやりとした手は、細くて柔らかくてどこまでも滑らかで、つくりものめいた様子を漂わせていた。
「それほど熱心に見つめられると、どう反応していいものか悩んでしまいますね」
……すみません」
 初めて手袋に覆われていない恋人の手を、落ち着いた場所で見る機会を得たのだ。それだけでなく、遠慮なく触れることを許されている。その喜びと、初めてまともに触った異性の手の感触の違いに、思ったよりも長く眺めてしまっていたのかもしれない。
 少々古めかしい、夜明かしの墓に随分と前からあるらしいソファに腰掛け、向かい合う形で手に触れることになったのは、イルーガがそれを望んだからだ。
 二月ほど前にイルーガからの決死の告白を受け取って恋人になってくれたフリンズは、常日頃から殆ど肌の露出がないくらいに着込んでいる。
 だから、触れてみたいと思った。友人では許されない距離感も、恋人なら問題はない。少なくともキスは拒絶されなかった。口づけるために頬に触れることも、許可を取った上で抱きしめることも許されている。
 しかし、それ以上のことはまだ何も出来ていない状態だ。知識として知っている行為を、どこまで望んでもいいのだろうか。初めての恋人との距離を、どうやって詰めるべきかがわからない。
 わからないまま、イルーガが更に関係を深めるための第一歩として選んだのが、手に触れることである。手袋に覆われていない手に触れてみたい、という望みをフリンズが当然のように受け入れてくれたのが、つい先程のことだ。
「謝るようなものではありませんよ。ただ、そんなに凝視されるとは思ってなかったので。何か興味を惹くものでもありましたか?」
「手が……
「手が?」
「思ったよりも小さいな、と」
 フリンズはイルーガよりも十五センチほど背が高い。ナド・クライの平均的な成人男性よりも高い身長を持つ彼女だから、当然手も大きいだろうと考えていたのだ。
 しかし、初めてまともに見る手袋で覆われていない彼女の手は、想像していたよりも小さい。それだけでなく、細くて柔らかくて、骨の気配が薄い。男性によくある関節のごつごつとした感触とは無縁の、美しい手だ。
「小さい、でしょうか? 僕くらいの背丈なら、このくらいの大きさが平均値だと思うのですが……
「フリンズさんの考えがたぶん正しいんだとは思います。ただ、僕はこうして女性の手をまじまじと眺めたことなんてこれまでなかったので……部下は男性が殆どですし、彼らと比べるとどうしても小さいなって」
「性別の差でしょうね。同じ身長であっても、男性と女性では一回りほど手の大きさが違うそうですし」
「それは知っていたんですが、ここまで違うとは思わなくて……
 妻子や恋人がいる隊員が女性の体は柔らかくて、と言っていたことを思い出す。確かに見た目から男性に比べて華奢だなと感じることはあれど、今ほど実感を伴ったことはこれまでなかった。
 かといって、これまで全く女性に触れた経験がないというわけではない。ただ、そのどれもが護衛対象を守るためだったり、怪我人を治療したり、安全地帯へ運ぶためだったりと、緊急事態である場合が殆どだった。
 そんな中で感じる性別の違いなんて、臓器の差異と筋肉や骨の仕組みによる丈夫さの違いくらいなもので。今、恋人に触れているように、細さや柔らかさをまざまざと感じるなんて余裕など欠片もなかった。
「そんなに気になるようでしたら、もっと触っても構いませんよ」
「いいんですか?」
「ええ、どうぞ。嫌ならそう言いますので」
 どうぞ、と差し出された手を受け取り、まずはその甲を見る。どこにも傷の気配がない、白く美しい手だ。人形のようだと思うくらいには整っている。
 一方で、血色の悪い肌から想像していた爪の色ではないことに少しだけ驚く。てっきり肌と似たような色をしているのかと思っていたが、実際は違った。仄かに淡く色づいた爪は綺麗な楕円形で、凹みの一つもなければ割れている様子もない。誰がどう見ても美しいと感じるだろうと思われるくらい、整いすぎている手だった。
「フリンズさんの手って、すごく綺麗ですよね」
 人差し指だけを持ち上げても、関節の気配は遠い。少し力を入れて掴めば骨の感触がわかるが、優しく触れた程度では硬さとは無縁だ。指の側面を挟み込むように持つと、漸く骨の形がはっきりと伝わってくる。触れば触るほど、美しい手だとしか思えない。
「そうですか?」
「綺麗ですよ。……傷だらけのみっともない僕の手で触れてもいいのかなって、思ってしまうくらいには」
「坊ちゃま」
 咎めるような響きの声が、耳に届く。またそんな呼び方をして、と咄嗟に返せないほどには鋭い気配があった。
 短く息を吸い、それからゆっくりと吐く。呼び声に従うように無意識のうちに下がっていた視線を少しだけ持ち上げると、感情に乏しい目にじっと見つめられる。
「そんなことをおっしゃらないで。あなたの手はみっともなくなんかないですよ」
 これまでイルーガの好きに触らせるまま一つも動かなかったフリンズの手が静かに動いて、思わず引いてしまいそうになったイルーガの手を掴む。
 ほっそりとしていて、柔らかい手だ。なのに、掴む力はその手の印象からは驚くほど強い。痛むほどではないが、逃げられないほどの力はある。
「そうでしょうか」
「少なくとも、僕は好ましいと思いますよ。あなたがこれまで生きてきた歴史が刻まれている、戦士の手です。こうして触れると、考えていたよりもしっかりしていて、男性らしい手だとも思います」
 イルーガの手は、フリンズとは違ってあちこちに細かい傷が存在している。義父に教わった狩りの手法、身を守るための技術に敵を倒すための手段。それから、実際の戦いの最中に受けた傷の名残り。
 爪もある程度は整えているものの、フリンズと比べれば不格好だ。あちこちに小さな凹みがあるし、爪先は全く整えられていない。深爪になっている指先もあれば、逆に伸びてしまっている指もある。
 そんなイルーガの手を、美しく整えられた白い指先がまるで宝物に触れるかのようにそっとなぞっていく。ひやりとした感触が皮膚に伝わっているというのに、どこか温かさを覚える不思議な感覚をどういなしていいかわからないまま、イルーガはくすぐったさに小さく息を吐いた。
……ありがとうございます。あの、その……抱きしめても?」
「? どうぞ」
 不思議そうに首を少しだけ傾けてから、フリンズは頷いた。その様子を見届けてから触れていた手を離し、僅かながらに存在していた距離を詰めて目の前の体を抱きしめる。
 そっと抱き寄せた体は柔らかい。本当に戦士なのだろうかと、一瞬疑うくらいに。フリンズの普段の格好からはわかりにくいが、彼女の体は女性らしい凹凸がしっかりと存在している。だからだろうか。柔らかくて、細くて、抱きしめるとぴったりと密着出来る。
 そうして隙間がなくなるほど体を寄せれば、恋人の胸の辺りから不思議な音が聞こえることに気づく。心臓が脈打つ音ではない。炎が燃えるような音だ。焚き火をしているとき、炎の勢いが落ち着いた状態で聞こえる、ぱちぱちと火が小さく爆ぜる音によく似ている。
 尋ねたところで未だに人間かどうかをはぐらかすフリンズだが、これが答えのようなものだ。人の体からはこんな音などしない。確信ばかりが深まり、答えだけが与えられない状態だが、彼女が踏み込んでほしくない領域ならそれに付き合うまでだ。そういう腹づもりを、イルーガは少し前から胸に秘めている。
「フリンズさんを抱きしめると、すごく落ち着きます」
 素肌に触れるとひやりとしているのに、こうして服越しに密着すると温かい。一体、どんな仕組みになっているのか。その上で穏やかな炎の音がするものだから、自然と気持ちが穏やかになっていく。
「それは……ありがとうございます」
「でも、同時に焦燥感のようなものが湧き上がるような気もして……少しだけ、困ってしまいます」
「困るんですか」
「少しだけですよ」
 ただ、それだけに終わらないのが、ここのところのイルーガの密かな悩みだった。
 落ち着くのは紛れもない事実で、出来ればずっとこうしていたいと思う。その一方で早く離れた方がいいかもしれない、という危機感のような感情も生まれて、どうにも忙しない。
 その原因がどこにあるのか。戦いばかりでその他の知識に疎いイルーガでも、流石に気づいている。キスして、抱きしめて――それだけでは満足出来ずにもっともっとと望んでしまう、そのわけを。
 イルーガがしたいと口にすれば、きっと叶うだろう。フリンズはもともとイルーガに甘いところがあり、恋人という関係に収まってからは更にその傾向が強くなった。だからきっと、断られることはない。そんな確信を抱いているというのに、何故か躊躇いを覚えてしまう。
 しかし、それはきっと悪いものではないのだろう。あと、もう少しだけ。ささやかな接触だけで過ごしたい。これ以上の喜びを知ってしまえば、そればかりを望んでしまうかもしれないからだ。
 そんなことを考えながら、イルーガは恋人を抱きしめる腕に力を込める。小さく名を呼べば、ソファの座面に載せられていたフリンズの手が静かに動いた。ゆるりと持ち上がった手が、静かにイルーガの背に回される。
 その拍子に小さく揺れた長い髪も、いつかは触れてみたい。新しく生まれた願いを胸の奥底に沈めながら、イルーガはフリンズの柔らかな胸元に顔を押し当てた。