n8h7z
2026-04-27 20:51:18
4438文字
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精神科医の雑トさんと患者の伊サクくんの雑伊

Xで投稿していた精神科医の雑トさんと患者の伊サクくんのお話の続きです。
まだ完結はしてませんが、ちょっと筆が折れそうなのでかけているところまで公開させてください。
完結したらpixivに投稿予定です。

「その後、体調はどう?」
「落ち着いています」
「それは良かった。夏休みでも学校はあるんでしょう?」
「はい。七月いっぱいは課外があって」
「大変だねぇ」
 金曜日の午後、伊作はいつものように雑渡の診察を受けていた。といっても、つい二日前にも雑渡に会ったばかりだから、一週間ぶりという気はしない。ここ最近の診察は、ほとんど雑談のようになっている。
「夏休みは何か予定があるの?」
「友達の部活の試合を見に行くのと、花火大会に行きます」
「へぇ、楽しそうだね」
 どうやら仙蔵の友人も野球部に所属しているらしく、それならと一緒に試合を見に行くことになった。ここで勝てば次は準決勝らしい。さすが強豪校だけあって、順調に勝ち進んでいるようだった。
「花火大会って、あの河川敷のやつ?」
「そうです」
 こちらは留三郎と一緒に行くことになっている。二人で出かけるのは久しぶりで今からとても楽しみだ。
「浴衣とか着るの?」
「そのつもりです」
「いいね。伊作くんの浴衣姿、見てみたいな」
「じゃあ写真撮ってもらってきます」
 伊作がそう言うと、雑渡は目を細めて微笑んだ。
「楽しみにしているよ」
 
 
 八月に入り、猛暑はさらに威力を増していく中、伊作は夕方の河川敷を留三郎と並んで歩いていた。今日はずっと楽しみにしていた花火大会の日だ。毎年行われるこの花火大会は伊作の住む地域では一番規模が大きく、まだ打ち上げの時間まで二時間あるというのに既に歩くのも大変なほどの人混みだった。
「伊作、大丈夫か?」
「うん。でも、僕もスニーカーでくればよかったな」
 せっかくだから浴衣を着ようと言い出したのは留三郎だ。食満家では毎年浴衣を着て家族で夏祭りに行くのが恒例らしく、伊作もせっかくの機会だからと浴衣を買ってもらった。
 淡い灰色のベースに白いストライプの入った生地で、帯は炭のような濃い灰色だ。浴衣を買った時にセットで付いてきた下駄を履いてきたのだが、履きなれないため歩きにくくて仕方がない。留三郎は歩幅の小さくなる伊作に合わせるようにしてゆっくりと歩いてくれていた。
 花火の打ち上げは二十時からで、今はまだ十八時を少し回ったところだ。昼間よりは随分と日差しが柔らかくなったものの、まだ蒸し暑い。
「何食べる?」
「とりあえずかき氷食いたいな」
 そう呟く留三郎の首元にも汗が浮かんでいた。
 かき氷に、たこ焼きに、焼きそばに、祭りといえばといったような料理が手元に並ぶ。りんご飴は食べるのが難しそうだという理由で買わなかった。
「伊作、早く食べないと氷が解けてるぞ」
「わっ、本当だ」
 手に持ったかき氷のカップから、氷がひとかけら落ちようとしていた。伊作は慌てて噛り付く。口の中に甘酸っぱくて爽やかなレモンの風味が広がった。
 伊作たちは花火の打ち上げ場所に近い河原の端っこに座ってのんびりと食事をしていた。
「夏祭りとか来るの久しぶりかも」
「そうなのか?」
「うん。うちのお母さん、人が多いの好きじゃないから」
 昔、母の実家の近くでやっていた祭りに行ったことがあるくらいだ。小さな神社の中で、出店も数件しか出ていないような、地元の人たちだけで成り立っている祭りだった。花柄の可愛い浴衣を着せられ、歩きにくくて、ぐずって母親を困らせた記憶がある。
「僕、ゴミ捨ててくるね」
 伊作は食べ終わったかき氷のカップと、たこ焼きの入っていたパックを持って立ち上がった。
「一人で大丈夫か?」
 留三郎が心配そうに訪ねてくる。
「大丈夫だよ。トイレにも行きたいし」
「分かった。気を付けて行って来いよ」
「うん」
 来る途中で近くのゴミ箱とお手洗いの位置は確認している。迷ってもスマホがあるから電話をかければいいのだし、大丈夫だろう。
 伊作は歩きにくい下駄でえっちらおっちらと土手を上り、人混みを掻き分けるようにしてゴミ箱に向かった。ゴミを捨て、近くにあったトイレで用を足し、留三郎の元に戻ろうと歩き出す。
 伊作のすぐ目の前には、高校生と思われるカップルがいた。楽しそうに話しながら歩く後姿を見て、雑渡とこうして花火大会に来ることができたら……なんて妄想までしてしまって、慌ててその考えを打ち消すように首を振る。きっと雑渡は浴衣だって格好よく着こなしてしまうのだろう。
 そんなことを考えていたからか、少し先に雑渡に似ている人を見かけた気がして、伊作は足を止めた。数メートル先に、他より頭一つ抜けたように背が高く、体格の良い男の人がいた。こんなところにいるはずがないのだからきっと似ているだけの他人だろう。そう思って近くを通り過ぎようとしたとき、その男が伊作の方を振り向いた。人混みの中で何かに引き寄せられたかのようにバチリと目が合い、その瞬間息が止まる。
「伊作くん?」
 そこにいたのは雑渡に似た誰か、ではなく、正真正銘雑渡本人だった。傍らには小柄で可愛らしい女性と、まだ小学校にも入学していなさそうな小さな子どもが三人。
「あ」
「そういえば伊作くんも来るって言ってたね。お友達は?」
 雑渡は隣にいた女性に何かを伝えた後、伊作の方に歩いてくる。伊作はその質問に答えるどころか、無意識に雑渡に背を向け、走りだしていた。
「ちょっ、伊作くん!?」
 雑渡が慌てたような声を上げるのが聞こえた。
 伊作は人の間を縫うようにして走った。雑渡が後ろから追いかけてくる。走りにくい下駄では追いつかれるのも時間の問題だろう。
「伊作くん待って!」
 雑渡の手が伊作の腕を掴もうとする。その時、伊作は何かにつまづいて、思い切り地面に倒れ込んでしまった。その衝撃で下駄の鼻緒が切れ、遠くに飛んで行ってしまう。
「大丈夫?」
 走っているうちに少し遠くまで来てしまったようで、辺りはさっきまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。雑渡は転がっていった下駄を拾い、伊作の前に手を差し出す。
……大丈夫です」
「本当? ほら、怪我してないかみせてごらん」
 伊作は雑渡の手を借りて立ち上がると、片足で跳ぶようにして近くのベンチまで行き、そこに腰かけた。雑渡は伊作の前に跪くようにして、怪我をしている場所がないか調べてくれる。幸いにも、足の甲を少し擦りむいたくらいで、大きな怪我は一つもなかった。
「どうして逃げたの?」
 そう尋ねられ、伊作は言葉に詰まって俯いた。
 伊作もなんで逃げ出してしまったのか分からない。恋人がいないと前に話してくれたのが嘘だとは思わなかった。きっと雑渡が一緒にいた女性は友人かなにかなのだろう。もしかしたら親戚で、子どもたちは甥っ子や姪っ子だったのかもしれない。
「一緒にいたのは友達の奥さんだよ。子どもが多くて大変だからって子守に駆り出されたんだ」
「分かってます。雑渡先生が嘘をつくような人じゃないって。でも……
 頭ではそう分かっていても、自分の知らない雑渡の一面に、大きく動揺してしまった。
「ああもう、泣かないで」
 感情が纏まらなくて、いつの間にか溢れた涙が頬を伝っていた。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。ほら、顔上げて」
 伊作が顔を上げると、雑渡がハンカチで涙を拭ってくれる。雑渡の前では泣いてばかりだ。
「落ち着いた?」
「はい」
「伊作くん、お友達は?」
「場所取りしてます」
「戻らないと心配しているんじゃない?」
 伊作は慌ててスマホを取り出した。花火の打ち上げまではもう五分を切っている。今から戻るとメッセージを送ろうとして、電波が悪くて繋がらないのに気づく。
「場所は覚えてる?」
「はい」
「じゃあ送っていってあげるよ。乗って」
 雑渡は伊作の前に背を向けてしゃがみ込んだ。
「で、でも……
「鼻緒切れてたら歩けないでしょう?」
 それはその通りだ。伊作は大きく深呼吸をしてから雑渡の背中に乗った。雑渡が歩き始め、振り落とされないように首に手を回してしがみつく。雑渡の首筋からは汗と煙草と香水の入り混じった何とも形容しがたい大人の匂いがした。決して不快なものではない。むしろ、その色気ある香りに伊作はいっそうドキドキしてしまう。きっと密着した体では、この心臓の音もバレてしまっているだろう。
「浴衣に合ってるね。髪型も素敵だよ」
 今日の伊作は髪をハーフアップにしている。一度は短くなった髪も随分伸びてきて、もうじき一つにまとめて結ぶことができるようになるだろう。
「ありがとうございます。雑渡先生は着なかったんですか?」
「うん。まあ、子どもたちの世話をするとなると動きやすいほうがいいし」
「確かにそうですね」
 背の高い雑渡に背負われてみる景色はいつもと少し違って見えた。
「いつも伊作くんに渡してたキャラクターのシールとかあるでしょう?」
「はい」
「あれはあの子たちからもらったものなんだよ」
「そうだったんですね」
「私が遊びに行く度にくれるんだけど、使い道もないから溜まるばっかりでね」
 段々と人通りが多くなってきて、雑渡の声が聞こえにくくなる。伊作はその声を聞き洩らすまいと、一層体をくっつけ、雑渡の肩に顔を埋めた。
「どの辺?」
「あそこの電柱の辺りです」
 伊作が指さした方向に雑渡が顔を向ける。ちょうどその瞬間のことだった。
 ドォンと地面を揺らすような轟音が響き渡り、濃紺の夜空に鮮やかな花が咲き誇った。
「花火、始まっちゃったね」
 周りを歩いていた人たちがまるで時が止まったかのように一瞬足を止め、再び歩き出す。次々に夜空を彩る大小様々な花たちに、あちらこちらから歓声があがっていた。
 留三郎が待っている場所まであと数十歩。今ならば花火の音にかき消されて聞こえないだろうか。
「好きです」
 伊作は小さな小さな声で呟いた。周囲の雑音に紛れて消えてしまうくらいの声で、空に花開くタイミングを見計らって。
 雑渡はほんの一瞬だけ歩みを止めて、何事もなかったかのように歩き出した。伊作の告白がその耳に届いていたのか、それは分からない。きっと、雑渡は伊作が告白しても困った顔をするだろう。でも、今なら花火の音がうるさくて何も聞こえなかったという言い訳ができる。
「留三郎、待たせてごめん」
 伊作が声をかけると、振り返った留三郎がホッとしたような顔をした。
「いつまでも帰ってこないから心配したんだぞ」
「ごめんね。途中で下駄の鼻緒が切れてしまって」
 伊作は雑渡の背中から降りて留三郎の隣に座る。
「その人は?」
「僕が通っている病院の先生で、さっきたまたま会ったんだ」
 留三郎が雑渡にペコリと頭を下げる。
「私も友人が待っているから戻るよ」
「はい。あの、ありがとうございました」
「楽しんでね。じゃあまた」
 雑渡の後ろ姿が雑踏の中に消えていく。伊作は花火も見ずにその背中を見つめていた。