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いわくら
2026-04-27 20:27:28
3295文字
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Parolibre
雨の日の放課後になんやかんやする海城☔️
※身内に献上したもの
「このような素数の組み合わせのことを、互いに素、と呼ぶのです。ですから、」
教師の言葉は、どれも聞き飽きた単語の上を走っていた。二と三。一五と二二。数字というものには普段飽きるほど触れているからか、耳に入る感触は言葉よりも澄んでいた。
シャープペンシルの尖った先を見つめる。昼の雑踏は既に姿を隠し、瞼を閉じる者、手を動かす者、板書を見つめる者と、それぞれがすべきことを果たしている。それらが過ぎ去っていく室内は、俺にとって全く興味のないことのように思えた。
雨が降っていた。水蒸気の羅列が窓のふちを撫で、滑り落ちていく。ふと昨晩の夢を思い出した。ビニール傘の下で目を伏せた彼の輪郭は、どこかぼやけたまま曖昧だ。雨粒をくすぐるように、ただしずかに、その記憶を思い返していた。
***
教室の扉を開けた後、つい先ほどまで座っていた場所は先客に占拠されていた。視界の先には亜麻色が広がり、その顔は伏せられたまま外を向いているようだった。
渡り廊下を通った後の室内履きが床と擦れ、不快な音を立てる。そのまま、先客の前の椅子へと腰掛けた。老朽化が進む校舎の備品はどれも埃くさく、古ぼけたそのどれもが嫌いだった。
彼の眠りは深く、俺が鞄を床に置いたことも、そこから物を取り出したことにも気付く気配はない。一定に上下する背中は普段見かけるそれよりも狭いように思えた。まるで馬鹿な英雄が息たえるときのような、滑稽で惨めな、そして静寂に包まれた眠りだ。
雨は一日中降り続いていた。手にした書類にそれほど重量はなく、左上に留められたホチキスの上には、順に頁が積み重ねられていく。手持ち無沙汰な左手を彼の頭上にかざし、文字と数字の海原へと旅立った。
雨粒を纏う硝子を見つめるように、その亜麻色をひかりに透かしてみる。思ったよりもやわらかい指先の肌ざわり、そして呼吸の機微を、海の隙間から眺めながら。
最後にこれほど静謐な時を摂ったのはいつだろうか。いつだって忙しなさと責務に追われていたからこそ、俺は未知数のこの事象を未だにくすぶっている。彼の頬に手を伸ばせれば、彼のまぶたのかたちを自身に焼き付けてしまえればと、何度思ったことだろうか。悟りたくなかった。憎いほどに人間らしいその欲望を抱くことを、そしてそれを受け入れられたことへの、少しばかりの歓喜の感触を。
左手が揺れ、先客が身じろいだ。唸る声とともに、机上に広がっていた亜麻色は翻ってしまう。睫毛がひとつ揺れた後、合わない焦点が俺を捉えた。
「おまえ、おわったのかよ」
彼を待たせたのはこちらだった。退屈な授業時間が終わり、帰宅しようと席を立った背を呼び止めたのは三〇分前のことだ。しかし、その直後に久々の登校だからと教師に呼び止められ、彼を置いてこの部屋を去ったのだった。
寝起きの姿はやはり間が抜けていて、少しばかり普段の威勢が抑えられている。だが数十分の間彼を放置していたことも、原因の一つなのだろう。
「別に、お前が忙しいのは知ってんだから、何も言わねーけど」
俺が言葉を発する前に、彼は口を開いた。
なんてことない休日の、それでも俺たちにとっては馬鹿らしいくらいに陽射しに満ちた朝のことを思い出す。彼はカフェオレを口にしながら、「意外と喋んねーんだな」と、どこか満足そうに呟いていた。その隣でレースカーテンが靡いた瞬間から、彼は彼なりに俺を気遣っているようだった。
欠伸を噛み殺したまま、曲がった口端は再び窓の方を向こうとする。それがどうも気に食わず、指先で頬に触れ、こちらへと強引に誘った。夏服に衣替えされたばかりのカッターシャツは少しごわついていて、皮膚の柔らかさとその無機質との硬さには、どこか現実味がなかった。
触れたくちびるは乾いていた。この空間とはかけ離れた行為であるはずなのに、曇天の湿った空気と、停滞して籠った息の流れは、ぴったりとくちびる同士を繋いでいる。
制服の袖を引かれ、それを名残惜しく離す。作家が珈琲を手放せないように、貴族が紅茶を求めるように、俺は彼を欲しているようだった。
「
……
寝ていないのか」
少し深い栗色が見開き、差していたひかりが揺れる。これで俺に背けなくなるだろう、と満たされた気分だった。
「早朝バイト。いつもと変わんねえよ」
彼と俺の一般的には相反している境遇を慮ることは、きっと宇宙がこのかたちをなくす瞬間まであり得ないことだ。ただ一つだけ、俺たちは子供でしかないということだけは互いに理解していた。俺が彼を欲することだって、きっと。そう思うことでしかこの感情に終止符を打てない馬鹿らしさを、自分だけが理解できればいい。
「凡骨は凡骨らしく、生産性のないことだけを繰り返していればいい」
少しの苛立ちを込めて、呟いた。ふたりだけの教室は普段よりも広く、そして外で降りしきる雨粒たちを静寂とともに受け止める。俺たちがこうして存在や言葉を交わすことさえも、隠して、なかったことのようにしてしまう。
「うっせー」
――
でも、まあ、ありがとう?
投げかけられた疑問詞に反応を返すことなく、重なった指の爪先を揺らす。少しの合間のあと、彼の珍しく小さな笑い声が耳に入った。
なぜ笑う、と問えば、おもしれーから、と肩を震わせた。先ほどまで触れていた口端は緩んでいて、どことなく居心地が悪い。仕方なく書類に戻ろうと目線を外した、その時だった。
「バイト代で適当に買ったやつだから、それ。適当に使えよ」
何かが机を叩くような音がして振り返ると、そこには見慣れない箱があった。正方形、白、重量はそれなりに。材質は段ボールで、直径十センチほど。観察したそれを見つめていると、顔を背けた彼が伏目がちにこちらを窺っていた。
「いつも眉間に皺寄せながら珈琲飲んでんじゃねえか」
寝起きであるからと思いたいくらいに、髪の隙間からこぼれる頬と耳は色づいていた。俺もどこか曖昧な思考を持て余しながら、その物体を手のひらの上に乗せてみる。外装を剥いだり、直接触れたりすることもせず、中身の形状や質感を想像した。陶器か硝子か、ハンドルはあるのか、それともないのか。
そしてその先の、再び起きるかもしれない朝の出来事を、一度だけ思い浮かべる。彼は朝に弱い。平日は太陽が昇らない時間から動いているくせに、休日だけは息たえたように眠る。俺が届きもしない場所へ、旅立つように。それが嫌いだった。何もかもが違う俺たちをさらに分つようで、怒りとも表せない虚しさに包まれるのだ。
「
……
お前の分もあるんだろうな」
その不快感を突きつけるように、指先を丸めた。硬い感触を一つずつ壊すように、外箱を握りしめる。それは祈るときによく似ていた。どこにも行き先のない、一方通行のこの感情を目の前の人間が受け取ることなど、期待すらしていないというのに。
「あると思うのかよ。一個買うのだって小っ恥ずかしかったに決まってんだろ」
いらねえなら返せ、と差し出された手のひらを、俺のそれで捕えた。彼の透きとおった髪先と、瞳孔の奥底が揺れている。そのまま強引に引き寄せ、帰るぞ、と吐き出すように呟いた。
彼の鞄はいつだって教科書や参考書が入っているとは思えないくらいに軽く、あちらこちらがほころびている。もう一方の手で、それを奪うようにさらった。唐突な行動に慌てている彼の顔は、眠気の覚めた馬鹿らしい表情をしている。
それでいい、と思った。箱の中身に珈琲を注ぎ込み、苦いと顰める顔が視界に入るだけで、十分だった。神も祈りも必要ない。どうしようもなく滑稽な眠りを妨げるのは俺だけであるべきだと、当然に手を引いて証明してやればいい。
雨は降り続いている。送迎が苦手だと喚く彼のために用意した二本の傘は、既に互いの手に収まっている。夢の中で見た彼の姿と酷似した横顔を視界に入れ、歩みを進めた。靴先に雨粒が触れるまで、残り数秒だった。
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