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11833文字
Public ヌヴィリオ
 

ウィーピングウィローの約束

XXXX歳と17歳のヌヴィリオ🌧⛓️(転生現パロ風味シリーズ第2弾)

真夏の夕暮れは、昼間の熱をそのまま閉じ込め、どこまでも遠く空を照らしている。
街の喧騒から離れた海岸沿いの道路を駆け抜ける、黒塗りの車体。湖畔へ続くその道を静かに走らせながら、ヌヴィレットはハンドルを握る己の手に、知らず知らずのうちに力が入っていることに気がついた。
外界と隔絶されたような車内は、空調によって適切な温度に保たれ、騒がしさとは無縁なはずなのに、なぜか落ち着かない。
理由は明白で、言語化する必要もなかった。
逸る気持ちに連鎖するように無意識で上げていた速度を落とし、心を落ち着けるため、握りすぎた手を緩めて息を吐く。
一連の行動で緊張を解こうと試みたが、それでも内側には、明確な感情の揺らぎが消えずに残った。
昨日から今日へ。
時計の針がてっぺんを指し、ただ一日が過ぎただけにすぎない。
龍にとっての一日など、本来であれば呼吸や瞬きよりも意識遠いものだ。
にもかかわらず、その一日が持つ意味を、過剰なまでに気にかけている。
十七。
十六歳から十七歳になること。
文字通り、幾星霜を経てようやく邂逅した待ち人がその年齢に到達した今日。
数字としては、ただ一つ増えただけのことで、それ以外に意味はなかった。
だが​、ヌヴィレットにとって、その〝一つ〟は決して軽いものではない。
この一年、そして、あと一年。
たった一年。
その事実が、これほどまでに日々の心を占めるとは思ってもみなかった。
一ヶ月だとか、一日だとか。秒単位ですら、数字として明確な形で提示されるその事実を、ヌヴィレットは常に指折り数え続けている。当初は理性的な判断に基づく行動であったはずが、結果としてそれは、待望という形の感情へと変質してしまっていた。
遠い昔から、龍としての本能はすでに充分すぎるほど彼を番として認識している。
だが、人の社会における規範、法、そして倫理。それらを無視することは、今のヌヴィレットとリオセスリには許されない。ゆえに、会うのは年に一度。この日だけと自らに課したのだ。
欲望が理性を上回る事態を回避するための措置であり、極めて合理的な判断。絶対的に必要な選択である。
しかし同時に、その代償がいかなるものか、その選択がもたらす渇きがいかに苦しさを伴うものかも、充分に理解していた。
波立つ心を鎮め、今日という日を無事乗り越えるためには、なにより自制が大切だ。
信用できない自分自身を落ち着かせると、ようやく目的地の湖畔が視界に入ってきた。できるだけ静かに速度を落とし、例年と同じ位置に車を寄せる。エンジンを切った瞬間、外界の音がわずかに強まった。風が木々を撫で、水面がさざめき、遠くで鳥が鳴く。そのすべてが、自分に「今年もこの日が来た」と告げているように聞こえて仕方がない。
吸い寄せられるように視線が木陰へと向かう。
瞳に望むものを捉えた途端、心臓が大きく脈打った。
普段の法廷とは明確に別種の緊張を孕み、心拍がわずかに速まる。
時刻は約束通りで、誤差はない。
昨年と同じ場所。
そこに、当然のように先に待つリオセスリがいる。
前回とわずかに異なる姿。去年より背が伸びたように見えるのは錯覚ではないだろう。
低い石の縁に腰掛け、片膝を立て、手にした教科書に視線を落としている。制服のシャツは幾つかボタンが外され、記憶の中の彼と同じように緩く結ばれたネクタイは風に揺れていた。時折強く吹く風がページをめくりそうになるのを指先で押さえ、何事もないように読み進めているその姿は、ひどく静謐で、そして​――
どうしようもなく、「十七歳」だった。
また 期末テストと被ってるんだ、と電話越しに笑っていた声が思い出される。
未成年。学生。保護されるべき立場。
数千年という時間を経ても変わらない、人の社会の規範。その中心に、彼は今もいる。
ヌヴィレットは一度、深く息を吸う。肺の奥まで満たし、ゆっくりと吐き出す。視界にあるのは、記憶を共有する相手であり、精神的には断絶のない存在だ。それでもなお、この社会における年齢という概念が視覚的事実として突きつけられれば、胸の内では何かがきしむ。
再度、気を引き締める必要があった。
己が何者であるか。どのような立場にあるか。そして何より、この関係がどれほど繊細な均衡の上に成り立っているか。
手袋を外し、素手を握り込む。その動作だけで、理性は十分に整えられる。そうでなければならない。
車のドアを開けると、外気が流れ込んできて熱を含んだ空気が頬を撫でる。
足音を殺して近づく必要はないのに、自然と歩調を抑えてしまう。木陰へ差し掛かった時、リオセスリの指がページをめくる動きを止めた。視線を上げるよりも先に、気配で察したのだろう。
「やぁ。ごきげんよう、ヌヴィレットさん。一年ぶりだな」
顔を上げ、わずかに笑う。その表情は柔らかで、警戒も、距離もない。ただ自然にそこにいることを受け入れている。
「待たせてすまない、リオセスリ殿」
「いや、俺も今ちょうど区切りがついたところだ」
閉じられた教科書には、試験範囲を示す付箋がいくつも貼られている。現実的な生活の断片は、まざまざと二人の立場を明確に突きつけた。
彼が今、この社会の枠組みの中で「学生」として存在している事実は、どれほど記憶が連続していようと無視できるものではない。
ヌヴィレットの視線が、ふと彼の腕へと落ちる。
そこには、去年渡したブレスレットがあった。細い銀の輪が、日差しを受けて静かに光っている。何度も使われているはずなのに、手入れが行き届いているのか、ほとんど傷も見えない。
胸の奥がざわめく。
意識せずとも、その感情の正体は理解できる。愛着、安堵、そして​――所有に近い衝動。
「それは……
思わず言葉が漏れる。
リオセスリは視線を落とし、自分の手首を軽く持ち上げた。
「ああ、これか。気に入ってるから毎日つけてるよ、寝る時もな」
軽い調子で言われるが、その実、彼がこれを日常的に身につけている理由など考えるまでもない。
ヌヴィレットは目を伏せ、感情を整える。
「そうか」
それ以上は言わなかったが、内側では確実に何かが満たされていた。
「試験は順調かね」
話題を変えるように、教科書へ視線を向ける。
「ああ。明日が最終日だ。これが終われば一応一区切りってところだな」
「学業を疎かにしていないようで安心した」
「おいおい。教師みたいなことを言うなよ」
肩を竦める仕草。その軽さに救われる。
だが同時に、視線は無意識にその首元へと引き寄せられていた。
傷ひとつないなめらかな首筋を汗が一筋伝い、鎖骨から大胆に開いたシャツの内側、胸元へと滑りて落ち消えていく。夏の暑さに茹だるその白い肌には、見るからに熱がこもり赤みがさしていて、いまだ記憶に残る彼との鮮やかな日々を思い起こさせる。
ひどく喉が乾き、強引に目を逸らした。
……危険だ。
明確な警告が脳裏を走る。ここで感覚を許せば、本能が顔を出すに違いなかった。
「車に乗るといい。まだ日差しが強い」
やや早口でそう告げると、リオセスリは一瞬だけ意外そうな顔をしたが、すぐに立ち上がった。
「そうだな。さすがに暑い」
何の疑いもなく助手席へ向かうその無防備さに、神経を削られる心地がする。
素早くドアを開け乗り込んだリオセスリは、シートに身体を預けた瞬間、空調の効いた車内の冷気に包まれて気持ちよさげに息を吐いた。
「はぁ……涼しい」
短く言い、ネクタイを完全に抜き去る。その動作で、先ほどの汗の軌跡がわずかに残っているのが見えた。
「冷えた水も用意している」
「さすがだな。助かるよ」
声は平静を保っているが、その内側でどれほどの抑制が働いているかは、本人にしか分からない。きっと、彼には〝いつも通り〟に映っているのだろう。
ヌヴィレットが渡した冷たい水でリオセスリが一息ついた頃を見計らって、さっそく懐から小さな箱を取り出す。去年と同じく簡素だが、無駄のない包装。
「誕生日おめでとう、リオセスリ殿」
万感の思いを込めて差し出したそれを、彼は静かに受け取った。
「ありがとう。開けてもいいかい?」
「構わない」
包装が解かれる音が、やけに鮮明に響く。
箱に収められていたのは、腕時計だ。
装飾は控えめだが、精密な作りであることは一目で分かる。薄水色の盤面には蒼く輝く石が嵌められており、針の動きは滑らかで、全体に水の流れのような意匠がさり気なく施されている。
リオセスリは手に乗せたそれを色んな角度から細見して、すぐには言葉を発しなかった。
この選択に込めた意味を、説明するつもりはない。説明せずとも、彼ならば理解する。そう判断しているからだ。
時間を贈る意図。
共有する時を、明確に区切り、刻み、意識させ、否応なく突きつけるもの。
過去も未来も、全てがヌヴィレットの手中になければならない。
重い意味を持たせている自覚はある。それでも、他の選択肢は存在しなかった。
やがて、リオセスリは小さく息を吐き、口元に緩やかな笑みを浮かべた。時計を手に取り、光にかざすように角度を変える。
「まさしく、〝あんたのもの〟って感じだ」
軽く言ってから、ヌヴィレットの方へ体を向ける。
……ありがとうな、ヌヴィレットさん」
その言葉には、余計な装飾がない。
しかし、柔らかに感謝を述べる唇とは裏腹に、視線は交わらなかった。
ヌヴィレットは違和感に目を眇める。
車内に落ちる沈黙は、決して気まずいものではない。ただ、互いに言葉を選んでいる時間が、わずかに長くなっているだけだ。
リオセスリは受け取った時計を手首に当て、サイズを確かめるように軽く動かした。去年のブレスレットと並ぶ位置に収まるそれは、あまりにも自然で、初めからそこにあるべきものだったかのように見える。
「去年といい、今年といい……あんたは、こういうのを選ぶのが上手いな」
感心したように言いながら、クラスプを留める。その仕草は無駄がなく、慣れている。すぐに腕を軽く振ってみせた。
「ほら、違和感もない。最初から揃いで作られたみたいだ」
ヌヴィレットは頷く。
傷のないその手首には銀の細い線が二つ並んでいて、過去と現在が視覚的に接続されたような光景だった。ここに未来を加える算段はとうに立ててある。
「よく似合っている。毎日でも着けられるように、君にとって扱いやすいものを選んだ」
「毎日か」
リオセスリはその言葉を繰り返し、小さく笑う。
「俺に、これを毎日着けてほしいって?」
指摘に対し、ヌヴィレットは否定も肯定もせず、ただそっと目を伏せた。
その様子を見て、リオセスリの表情がわずかに曇った。軽い調子の裏に、ほんの少しだけ探るような色が混じる。
……なあ、ヌヴィレットさん」
呼びかけはいつもと同じだが、声音はやや低い。
リオセスリは背もたれに深く身体を預け、窓の外へ視線を向けた。湖面が夕陽を受けて赤く染まり始めている。
「なぜ、誕生日しか会わないんだ?」
突然に投げられた問いは直截で、ヌヴィレットはすぐに答えられなかった。
予測していなかったわけではない。いずれ問われるかもしれないとは考えていた。それでも、このタイミングで出されると、言葉の選定にわずかな遅延が生じる。
……私的な理由だ」
慎重に口を開いた。
「その理由ってのは、俺が聞いちゃまずいのかい?」
「そのようなことはない」
「じゃあ聞いてもいいんだな」
……
「答えないってことは言えないわけがあるんじゃないのか?……例えば、なにか俺の預かり知らぬ龍としての制約だとか」
軽く言われるが、その実、半ば本気でそう考えていることが伝わる。
ヌヴィレットは目線をわずかに動かし、彼を見た。
「違う」
即答する。
「私の意思だ」
短く、明確に。
リオセスリは一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく息を吐いた。
……そうか」
納得したようでいて、完全には腑に落ちていない声音。
沈黙が落ちる。
ヌヴィレットはその間に、言葉を組み立てる。
「君に接触する頻度を制限しているのは、私自身の問題だ」
「へぇ……。あんただけ?」
その一言で、空気がわずかに変わる。
試すような問いに、ヌヴィレットは首肯する。
ためらいはなかった。
「去年のような軽い接触であれば問題ないと判断していた」
言いながら、記憶が自然と呼び起こされる。
夕暮れ、湖畔、触れた唇。
あの時は確かに制御できていた。
「だが、現時点では同じ保証がない」
リオセスリは器用に片眉を上げる。
「保証、ね」
軽く繰り返してから、ふっと笑った。
「検証してみるかい?」
冗談めかした口調のわりに、その瞳はどこか真剣だった。
ヌヴィレットは束の間、逡巡する。
本来であれば否定すべき提案だ。だが、彼の纏う雰囲気に押され、完全に退けることができない自分がいる。
……軽度であれば」
結果として、そう答えていた。
そっとシートから身体を起こしたリオセスリが、こちらに乗り出すようにして距離を詰める。
去年と同じように、自然な動作で近づきながら、前髪が触れ合った。
その瞬間、ヌヴィレットの内側で何かが強く反応し始める。
心拍があがり、狭まる視界に、浅くなる呼吸。
――近い。
触れる前から、明確な危機信号が走る。
体温が感じられるほどの近さ。
もう、あと薄紙一枚の差で、あの柔らかで瑞々しい感触に届いてしまう。
そう感じた瞬間、ヌヴィレットは反射的に身を引いた。
「無理だ」
咄嗟に口をついて出た言葉は、硬質な鋭さを持って車内に響いた。
触れかけていた距離が戻る。
ヌヴィレットはいつの間にかリオセスリの頬へと伸ばしかけていた手を降ろしたが、眼前のリオセスリはただじっと動きを止めたまま、しばらく何も言わなかった。
その沈黙は先ほどまでのものとは質が違う。
いっとき経って逸らされた視線が、シートに落ちる。
やがて、ぽつりと零れた言葉。
……なるほど」
平坦な声。それから、息だけで薄く笑う。
「やっぱりな」
声色だけで、何かを切り捨てたような潔さが滲んだ。
ヌヴィレットは眉を寄せる。
「何を――
「いや、いい」
遮るように言い、リオセスリは深く座り直すと窓の外へ視線を向けた。
夕陽はほとんど沈みかけていて、水面の赤がゆっくりと濃くなる。
「あんたの俺への興味が薄れたとしても、責める気はない」
あまりにもあっさりと言われたその一言に、空気が凍った。
ヌヴィレットは即座に否定しようとするが、その前に言葉を続けられてしまう。
「あれから何千年も経ってるわけだしな」
あの頃と同じように軽く腕を組んでこちらを見上げる表情は凪いでいて、声音も穏やかだ。だが、その奥にわずかな諦めが見える。
「嫌なら、距離を置いてもいい」
「私が君を嫌うことはない」
努めて冷静に返したが、うっすらと作られた物分りのいい笑みが崩れることはない。
「そりゃそうだ。無関心と嫌悪は似て非なるものだからな。無理に会おうとしなくても構わない。年一で顔を合わせるのだって、別に義務じゃないしな」
その言い方はあくまで合理的で、相手を責めるものではない。
だがそれゆえに、決定的に誤解していることが明白だった。
「違う」
即座に鋭く否定する。
――保証がないと言ったはずだ」
声に、わずかな熱が混じる。
リオセスリは疑わしげに目を細めているが、このような状況は耐えられない。
湖畔の夕陽はすでに傾ききり、フロントガラス越しの光は赤から群青へと移り変わりつつあるが、その変化をヌヴィレットは感知していなかった。
意識の大半は、隣に座る少年へと向けられている。
いくらなんでも有り得ない。
言葉足らずがもたらした勘違いに、勝手に納得されては困る。
口巧者で弁駁も容赦ない相手にはしっかりと本音で語らねば、どこがどう隙とされるかわからない。
一切の綻びも嘘も目移りもなく、一途に通い続けた墓前にだって証拠があるのに。
助手席のシートにかけた指が、ギチギチと音を立てて食い込む。
皮を突き破りそうなその音に気付いたリオセスリが、ぎょっとしたように身を引いた。
窓の奥の湖面がざわざわと波打っている。
「リオセスリ」
再会してからこの数年、会わないまでも、遠くから見ることはあった。
誰といるか、どこにいるか、理不尽な目に遭っていないか。
「私は、君に対して抑え難い衝動を抱いている自覚がある」
危険はないか、不便はないか。
常に見ていた。
見張っていた。
精神はどうあれ、体力がそれに伴わない幼い彼が、いわれの知らぬ者に掠め盗られやしないかと。
当時よりは弱者に優しい国になるよう努力してきたが、人の悪意には際限がない。
この世には、その身に手を這わす、下劣であさましい存在などいつ現れてもおかしくない。
なにせ、ここにひと龍、存在しているのだから。
長い審判の経験で、劣情の眼差しはそこかしこから向けられるものだと知っていた。
「ようやく幼体を脱しようかという君にだ」
彼には思いも及ばぬ言動だろう。
「軽い接触であっても、それを起点に制御が破綻する可能性は高い。それを防ぐため、接触頻度を制限している」
「よ、幼体って……
リオセスリの表情が、引き攣ったように固まる。
「私の言動が至らないばかりに、君に誤解させたようだ」
畳み掛けるように淡々と続けた。
「客観的に見れば、私は未成年に対して欲情している大人と映るのは君も知っての通りだ。本能に従うならば、先程の距離の近さだけで、今ここで既に君を喰い散らかしている」
一拍置いて、単純な言葉を選んだ。
「会わないのは、興味がないからではない。そうしなければならないからだ」
これなら明確で、疑いようもないはず。
沈黙が落ちる。
リオセスリは数秒、何も言わずにヌヴィレットを見つめ、それから俯いた。
……十七はほぼ成体だろ」
眉を寄せ、苦々しそうに呟く。
「君はまだ成長するはずだ」
「いや、そういう意味じゃなくてだな……
呆れたようにため息を零し、胡乱げに腕を組む。
「触れなくとも、見ているだけで危うい」
「あんたからするとまだ亜成体ですらないんじゃなかったか」
リオセスリの突っかかるような物言いに、ヌヴィレットは喉の奥で静かに笑みを漏らした。
「そうだ。幼体の番相手に性的興奮を覚え、環境さえ揃えば所構わず盛る龍だと思ってくれて構わない」
「は?」
リオセスリの声が一瞬、間の抜けたものになった。
その取り繕われていない反応はヌヴィレットの胸の奥を甘くざわつかせる要素でしかないというのに。
何も知らない彼は、年上の『彼氏』に対して無防備だ。
「私には、常に君を蹂躙したいという欲がある」
もっと警戒したほうがいい。
強調して丁寧に説明すると、リオセスリの瞳が動揺するように揺れた。
数千年もの間、待ち続けていた再会。
それが叶ってしまえば、脳内を埋め尽くすのは、あの頃の甘く激しい記憶ばかりだ。
リオセスリの声、息遣い、肌の感触――今もすべてが、ヌヴィレットの内側を甘く疼かせる。
今はまだ柔らかく変化する体を、ゆっくりと押し倒して隅々まで味わいたい。
頸動脈へ唇を這わせ、甘く歯を立てながら、皮膚の表面を丁寧に辿り、舐め上げたい。
成長の途上にあるその体を、自分の熱で満たし、執拗に刺激しながら、意識が遠のくまで何度も注ぎ込みたい。
十七という数字など、ヌヴィレットの長い時の中ではほんのわずかな刻みに過ぎない。
十七だろうが三十だろうが同じようなものだ。
リオセスリの声も、視線も、息遣いも、今のヌヴィレットにとってはすべてが甘く疼くものに映った。
「思い出すまでもなく鮮明に記憶にある」
会話を続けながら、徐々に瞳孔が開き、喉が鳴るのが自分でも如実に感じられた。
「君の痴態を忘れたことはない」
覆い被さるように、隣のシートへと迫る。
「善がり狂って、泣いて縋る姿を」
「わかった。わかったから……言葉を選ぼうな、ヌヴィレットさん」
「私が君への興味をなくすことも、嫌うことも、未来永劫ない。この一年、君の成長を心待ちにしながらも、私は君と情痴の限りを尽くすことを幾度も夢想した。どれほど詳細に思い描いたか、具体的に話してもいい」
「い、や……遠慮しておくよ……なぁ、近い。ヌヴィレットさん、離れてくれ」
触れてはならないという言葉を受けて、リオセスリはヌヴィレットを押し返すこともできずに、ずるずるとシートに沈んでいる。
ここまで詳らかに話せば、さすがの彼にも伝わるだろう。
「理解しただろうか」
「これ以上ないくらい理解した! だから、退いてくれ。俺だって、あんたを『被監護者不同意強制蹂躙罪』になんかしたくない」
上から迫られたリオセスリは降参するように両手をあげると、珍しくわずかに声を荒らげた。
「ふむ……私もだ」
考えすぎるところのある彼の誤解が確実に解けたことを確認し、ヌヴィレットはゆっくりと体勢を戻した。同じく、リオセスリも緩慢な動作で座り直す。
ひとつ間違えれば別れ話にまで発展したかもしれない重い空気が、ようやく霧散した。
「はぁ……
盛大なため息を吐き、疲れたように手で顔を覆ったリオセスリが、くぐもった声で唸った。
「まさかそんなことが原因だとは……
「君にとってはそんなことかもしれないが、私にとっては深刻な問題だ」
聞き捨てならない言い草に反論すれば、すぐに素直な謝罪で返された。
「すまない。俺が悪かったよ」
気まずげに向けられる眼差しは真摯で、そこに誤魔化しの色はない。
「あんたの気持ちそのものを疑ったわけじゃない……ただ……その……
「言いたいことは理解している」
彼が言い淀んだのは、いつか必ず来る避けようのない摩耗についての可能性だろうが、それは遥か未来の話だった。
そんなことよりも大切なのは、今この瞬間である。
「君に、浮気をするような不届き者だと思われていなくて安心した」
龍にとっての番は、ひとつ限りの宝玉だ。なにひとつ代わることはない。
「浮気というかな……いや、とにかく、勘違いならもう良いんだ」
そう言いいながらヌヴィレットの宝玉は再び大きく安堵のため息を吐いたかと思うと、次の瞬間、突然ハッとしたように顔を上げ、勢いよく背後を振り向く。
「そんなことより、シートは無事か?」
急な話題転換に、ヌヴィレットは瞬いた。
……なぜ急にシートを気にする」
「そりゃ気にするさ。俺の不用意な発言のせいで、家より高い高級車に穴が空いたかもしれないんだぞ」
慌てたように手で撫でさすりながら確認する姿は真剣そのものだ。
「問題ない。数千年ぶんの貯蓄がある」
あんな話をしたあとで助手席を気にする余裕があるらしい。
「すっ……あぁ、まぁ、そうか……
ヌヴィレットの返答に驚いたのか、脱力するようにするすると皮の上を滑っていたリオセスリの指先が止まる。
「うむ」
おかしな会話が途切れると、急に周囲の静けさが気になった。
夕暮れには賑やかだった鳥のさえずりはとうに消え、湖面はすでに濃紺の星空を映し出している。
いつの間にか点灯している街灯は、淡く水面に反射しながら帰宅時間を知らせていた。
「もうこんな時間か。君の門限に間に合うだろうか」
時計を確認しつつシートベルトを引き出すと、隣から伸びた手が、そっとヌヴィレットの動きを制した。
「ヌヴィレットさん」
律儀に触れないように浮いた手が、行き場なく握られている。
「まだ、やることがあるだろ」
どこかむっとしたような声で問われた。
「やること、とは」
戸惑いで返せば、リオセスリは思案するように視線を落とす。
それから、思いついたように膝の上に置かれたヌヴィレットの手を指さした。
「手を繋ぐくらいならできるんじゃないかって話さ」
「それは……
どうだろう。はっきり言ってわからない。
「一応、今日は俺の誕生日なんだが」
危ういような気もしたが、ダメかい?なんて追撃で、うかがうように上目遣いでのぞかれてしまうと、これで断れるような男がいるだろうか。
……わかった。検証してみよう」
まずは、シートに置いた指先同士が触れるか触れないかの距離。
「これくらいなら問題ないだろ」
ヌヴィレットはその指を見つめる。
唇ではないので、先ほどのような急激な反応は起こりにくい。――はずだ。と、思う。
わからないが、じわじわと指を伸ばす。
思い切って、ちょん、と指先を触れさせてみた。
かすかな接触。それだけで、確かな感覚が伝わる。
同時に、ぞわりと背中が粟立った。
記憶が呼び起こされそうになる。
……これでも、充分に問題だ」
低く呟く。
「そうなのかい?」
たったこれだけで?とリオセスリは目を丸くしているが、ヌヴィレットからすれば、あれほど言葉を尽くしてなお、こちらの欲を低く見積もっているほうが驚きである。
「ひとつ許せば、先が欲しくなる」
正直に言うしかない。
「手を繋ぎたくなり、引き寄せたくもなる。そうなると、抱きしめたくなり、当然口付けもしたくなる。身も世もなく乱れてほしくなる。歯止めが利かなくなる可能性が高い」
リオセスリは一瞬だけ言葉を失い、それから顔を背けた。
……まだ、指が、少し触れてるだけなんだが……
ひとつのピアスすらない彼の耳がじわじわと赤くなっていくのが分かる。
「そうだな」
「これ以上、一瞬も無理だっていうなら諦める」
見ているだけでも危ういと警告したはずなのに、普段のポーカーフェイスが嘘のように首まで赤い。
そんな顔をされると崩壊しそうになる。
このまま手を握って、押し倒してしまえたらどんなに楽だろう。
そう考えるだけで、ヌヴィレットの指が震えた。
たった一本の指先が触れ合うだけで、かつて知っていた快楽の断片が火花のように脳裏を駆け巡る。
これ以上は危険だとわかっているのに、彼の体温が微かに伝わり、あの時代に何度も絡め合った指の感触が幻影のように蘇った。
――抱きしめたい。
――奥深くまで揺さぶりたい。
――全身で感じたい。
小さく息を詰めたヌヴィレットの異変に気付いたリオセスリが、指を引こうとする。
それを反射的に追いかけ、捕らえそうになって。
すぐに、理性が勝った。
パッと離れる。
「やはり、これ以上の接触は危険だ」
慌てて警告すると、驚きを隠せないといったふうに目を瞬かせたリオセスリが、呆然と呟いた。
……そうらしいな」
こうも儘ならなぬものか。
手を繋ぐどころか、少し指を絡めることさえ難しいとは。
もはや情けないという話ですらなく、龍の本能が人の範疇にないと改めて知れただけのことだった。
独り待ち焦がれる数千年と変わらないほど、目の前でされるほんの数年の〝おあずけ〟も過酷に感じる。
「あと一年だ」
ほとんど無意識に言葉が落ちた。
結局のところ、何もするにもやはり待つしか選択肢はない。
リオセスリがこちらに視線を向け、無言で首を傾げた。
「私は……一年、一ヶ月、日ごと。毎時間、数えている」
何事だと言いたげなリオセスリから視線を外さず、はっきりと宣言する。
「来年の今日、君が十八になれば、この世の全てから一切の邪魔なく私は君を抱けるだろう」
「え」
今日渡したばかりの時計を見遣る。
「毎日それを着けるたび、時間を確認するたび、その日を待つ私のことを思い出してほしい」
「は?」
直に肌に触れるのは厳しいので、冷風に揺れる前髪をひと梳きして我慢した。
「ヌヴィレットさんっ」
ようやく警戒を覚えた番が、大袈裟なほど後退る。
「覚悟しておくといい」
はっきりと言い切り、指に残る感触に唇を寄せた。
日に焼けてカサついた毛先がすでに恋しい。
リオセスリは数秒、呆気にとられたように無言だったが、すぐに憮然と腕を組んだ。
……あんたも、ずいぶん人らしくなったもんだな」
目を細め、じっとりとこちらを眺める。
「君は年相応になったように感じる時がある」
即答すると、リオセスリは一瞬言葉を失い、それからなぜか破顔した。
「ははっ!」
口元に手をやり、くつくつと喉をならしながら顔を上げる。
「じゃあ、今度は――
軽く肩を竦め、少しだけ悪戯めいた笑みを浮かべる。
「またホテル・ドゥ・ボールで、〝十八の俺〟のことをめちゃくちゃにでもする気かい?」
あの時は連日大変な目にあったからな、と続けて笑う。
なるほど、それはいい考えだ。
ヌヴィレットは一切迷わなかった。
「今日中に予約しておこう」
間髪入れずに返すと、リオセスリの笑みが一瞬で固まる。
……待て」
数秒の沈黙。
「いや、今のは冗談で――
「承知している」
なぜだろうか。十七の彼は、昔よりも隙が多いようだ。
リオセスリは額を押さえ、小さく驚愕の声を零した。
……墓穴を掘ったのか……?」
その呟きにヌヴィレットは何も言わず、ただ静かにエンジンをかけ、車を発進させる。
本格的に夜へと移りゆく世界の中で、二人の時間も確実に、ゆっくりと進んでいた。