mt19ssgz
2026-04-26 20:57:09
5232文字
Public
 

きみはわんこ 第1話


 夜も更けた時間に、冷たい雨が降り続いていた。雨が傘を打つ音を聞きながらゆっくりと鈴木は誰もいない道を歩いていく。病院の帰りに一杯飲んでいたら随分と遅くなってしまった。電車ももう残っていないが、大通りに出ればタクシーの一台くらいは捕まるだろうとゆっくりと歩を進めていく。こんなことなら、さっきのバーで誘ってきた女とそのまま夜を共にしてしまえばよかった、と思ったが今は「できない」事情があることをすぐに思い出す。ただ、家にも帰りたくはなくて、捕まえたタクシーの運転手に告げる行き先を頭の中で探していた。
 何もかも、全部上手くいっていない。歯車がひとつ壊れたことでそれ以外の全てがダメになってしまった。やっと手にできそうだったものも、それ以外も、全部。くさくさとした気持ちのまま歩いていた鈴木の進行方向の、電柱と昔ながらの電灯の下に何か置いてあるのを見つける。こんなステレオタイプな、と雨でふやけて崩れそうな段ボールの中に、びちょびちょになって何の役割も話していないタオルと、ふるふると震えて小さく丸くなる小さな毛玉が一つ。段ボールにはインクが滲んで、「わんこです。かわいがってあげてください」とマジックで書かれた文字が雨で泣いているようにも見えた。

 捨てたくせに、かわいがってあげてなんて随分傲慢だよな。

 段ボールの前に立った鈴木は、そっとしゃがみ込んで傘を傾けた。そのまま持っていたカバンから大判の吸水性のいいタオルを取り出す。この前大会の時に入れたやつ、そのままだけどあんまり使ってねえからこれで勘弁して。段ボールの中のびしょ濡れのタオルを取り出して固く絞ってから横に置き、取り出したタオルでそっと毛玉のような子犬を下から包み込む。暴れるほどの元気もないのか、弱弱しく呼吸する子犬をタオルで拭けば、あっという間にタオルは水を吸って重くなった。ガサゴソと鞄を漁ればもう一枚似たようなタオルが出てくる。濡れたタオルを段ボールに敷いて、子犬を数度撫でてから新しいタオルで包み、そっと元に戻した。

「俺もお前も、同じひとりぼっち。誰かいい飼い主見つかるといいな」

 鈴木が拾えればいいが、この命に対する責任が取れるほどの余裕はなかった。せめて、と傘をそのまま段ボールの上に置いて、ゆっくりと立ち上がる。途端に鈴木の身体を雨が濡らしていくが、その内コンビニでも見つけたら傘を買えばいいと後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。
 歩き始めて少ししたところで徐々に雨脚が強くなる。叩きつけるような雨に遮るものを失った鈴木の身体はすぐに髪や服から水が滴るほどに濡れた。服はどんどんと重くなり煩わしいことこの上ないが、鈴木の頭の中では濡れる不快感でも上手く歩けない苛立ちでもコンビニが見つからない煩わしさでもなく、たった今置いてきた小さな命のこと。
 この雨じゃ、立てかけただけの傘ではすぐに倒れてしまう。包んだタオルも、水を吸ってしまえば逆に子犬から体温を奪ってしまうかもしれない。そうしたら、ただでさえ弱っていて息も絶え絶えだったあの子犬は。
 気付けば、来た道を今の鈴木ができる全速力で戻っていた。大した距離は進んでいない。すぐに戻れるはず、と思ったが身体の冷えが鈴木の体を蝕み足取りを重くして、片足を引きずりながら戻る。

「っアンタ何してんの! もしかして、その犬捨てた人? 生き物飼ったなら最後まで責任持てよ!」
「は? いや、僕ではないです。あなたこそ……あなた、この傘を?」
「んなことはいいから。なぁ毛玉は?」
「毛玉? あぁ、この子なら……まだ、なんとか」

 戻った場所には、身なりのいい男が一人、これまた高そうな傘を差してなんとか最初の状態で立てかけられたままの傘と段ボール箱を眺めていた。まさかコイツが、と声を荒げれば目を見開いてから鈴木を見て眉を顰められた。そのまますぐに子犬の様子を聞けば、鈴木がさっき見たままの状態で毛がべしゃべしゃになった子犬が小さく丸まっている。思わず抱え上げれば冷たい身体がそれでも僅かに動いている。鈴木の様子を見ていた男が、固まった鈴木にゆっくりと言葉を発した。

……あなたが、連れて行かれるんですか?」
「っ」
 鈴木に、この子犬を育てられる自信も余裕も今は全くない。家にすら帰りたくなく、そもそも、と飼えない理由ばかりが頭に浮かんでいく。でも、だからと言って保健所に連れて行ったところで、その先を考えれば、コイツは。

……飼い主、探すから。疑って悪かった。じゃあな」

 動物病院、はこんな時間でもやってんのかな。どこか、まずはどこにあるか調べて、いくらかかるんだろ、いやでもなんとかしないと。足を引きずりながら片手に子犬を抱えて、もう片手で今更無駄かもしれないが傘を手に持って歩き出す。

「待ってください。あなた、怪我して」
「別に。なんでもねえから。俺なんかよりコイツを」
「僕の家に来てください。まずはこの子も、あなたも温まる方が優先です。その間に動物病院を探しますから」
「なんで、見ず知らずのアンタが」
「乗り掛かった舟です。子犬を助けたいのに、僕に暴力も振るわなければ盗みもしないでしょう。ほら、あなたが悩んでいる間にもその子犬は弱っていきますよ」

 慌てている鈴木とは裏腹に、目の前の男はどこまでも冷静なのが気に障った。ただ、男の言葉がどこまでも正しいことは分かっている。気に食わない男だろうが、なんだろうが。

「分かったよ。行けばいいんだろ……こんな怪しいやつ連れて帰るとか、おかしいんじゃねえのアンタ」
「いいから。肩は貸しますか。それなら僕の傘に入ってください」
「いらねえ、早く連れてってよ。アンタの家どこ」


 見るからに高そうなマンションのエントランスを抜けて辿り着いたのは、シンプルと言えば聞こえがいいが本当に人が住んでいるのか分からないほど生活感のない空間だった。モデルハウスを見ているようで、本当に住んでいるのはこの部屋ではなく、やはり何か危ないことに巻き込まれるんじゃないかとギュっと震える子犬を抱え直す。

「まずは、あなたが温まらないと。シャワー使ってください。その間に僕は深夜診療をしてくれる動物病院を探しておきますから」

 あ、タオルはここです好きに使ってください。中のものもご自由にどうぞ。とグイグイと押されて気付けば鈴木は浴室に押し込まれていた。
 あまりの押しの強さにされるがままになったが、いつまでも浴室にいても仕方ない。手早く膝を濡らさないようにシャワーを浴びて冷え切った身体を温める。これも置いてあったシャツとスウェットを借りてからリビングに戻れば、ちょうど電話を終えたらしい子犬を抱えた男がこちらへと目を向けた。

「一番近い動物病院が夜間診療をやっているそうなんですが、今緊急で手術をしているそうで。状態を説明したらまずは水分を取らせてしっかりと寝かせて、明日の朝一で来てほしいとのことでした」
……そう」
「とりあえず、何も用意がないので水分だけでも用意しますね。あと、タオルドライだけでなくしっかりと乾かす必要があるそうです。人間用のドライヤーはあまりよくないらしいのですが、手持ちはこれしかないので」
「とりあえずさ、アンタ着替えてシャワー浴びてきなよ。……その格好的に仕事帰りってことは飯もまだなんだろ」
「食事は冷蔵庫にハウスキーパーの作り置きがあるので。あなたは?」
「俺はもう食べてる。……もし俺がキッチン触っていいなら飯の準備くらいするけど。アンタ、ソイツをシャワー浴びせるのと乾かすのよろしく。家主なんだからさ、いい加減着替えろよ」

 流れとはいえ深夜に家に上がり込んでいるのだから、お客様でいるわけにもいかない。当然鈴木のことを信用できるわけもないだろうが、それでも家主が着替えることもないままの状態でいさせるのも気が引けた。せめて、と男は迷ったような顔をしたが結局鈴木の申し出に頷いて男と子犬が浴室へと向かっていく。その間に冷蔵庫を開ければ、おおよそ今からの時間で食べるには重たいであろう食事があれこれとタッパーに詰められて並んでいた。

……あの感じ的に、今日たまたま遅いってわけでもなさそうなのに」

 年齢は恐らく鈴木と同じくらい。濃い味付けや若干重いものが好きなのだろうかとも思ったが、結局冷凍された白米と鮭の切り身を見つけ、グリルは流石にとフライパンでちゃっちゃと焼いて身をほぐし、レンジで温めた白米と菜箸を探した時に見つけた炒り胡麻と混ぜ合わせて茶碗に盛る。ちょうどよく胡麻と同じ場所にあった刻みのりを出しておき、適当に開けた場所で見つけた出汁パックで出汁を取って別の器に注いだところで、ドライヤーの音が聞こえてくる。ちょうどテーブルに並べて片付けをしているところで、子犬を抱えた男がリビングへと戻ってきたところに声をかけた。

「なぁ、冷蔵庫の中のおかずこの時間に食うには重そうなもんばっかだったから勝手に出汁茶漬け作ったけど食べれる? おかずの方が良ければ今からあっためるけど」
……これを、あなたが?」
「俺の作ったモン無理って可能性あったか、なら俺が食べるから」
「あ、いえ。……あまりに美味しそうで。実はあまり食欲がなかったのですが……頂いても?」
「もちろん。その毛玉、アンタの腕の中で寝てる?」
「疲れたのか、安心してくれたのかは分かりませんが。任せても?」
「ん。あとそこに俺の免許証置いてあるから。写真撮るんでもなんでもして。アンタさぁ、もうちょっと危機感持った方がいいよ」

 男から子犬を受け取って、ギリギリ男の視界に入るであろう床に座り込む。ドライヤーが気持ちよかったのか、小さく丸まりつつもどうやら寝ていることだけは分かった。

……おいしい」
「あっそ。片付けもやるから流し置いとけ。寝るの、そこのソファ借りていい? 明日病院行ったら出てくから」
……客間のベッドを使われては。メイキングはされているはずです」
「いーよ別に。客じゃねえし」
「あとあなた、僕と同い年で名前が一文字違いで誕生日も一日違いなんですね」
「は?」

 杉木信也、というのがこの男の名前らしい。同じように見せられた免許証の生年月日は確かに鈴木と一日違いだった。変な偶然もあるもんだな、と思いながらバスタオルで作った簡易的なベッドに子犬を寝かせる。杉木が片付けは自分でするというから鈴木はそのままぼんやりと、外で地面に雨が打ち付ける音を聞いていた。

……別に、何も盗みやしねえよ」
「いえ、そんなことは」
「考えてねー方が問題だって言ってんの」

 再度客間か、リビングのソファかとひと悶着あったが客じゃない、と言い張ったことで結局毛布だけ借り、高身長の部類に入る鈴木が横になっても余裕のあるソファで眠りについた。

「連れてきてくれてよかった。多少時間はかかるかもしれませんがちゃんと元気になりますよ……このまま、お育てに?」
「それはまだ、何も決めていなくて」
……そうですか。昨日の夜に保護されたと聞きましたが、随分とこの子も安心しているようでしたので。お話しいただいた状況や見たところ現時点で飼い犬ではないようですが、感染症等の問題もありません。里親を探すか……見つからなければ保健所に連絡するか、保護団体に連絡するかになるとは思います」

 獣医の言葉に鈴木はそっと息を飲んだ。全てがそう、というわけではないことは分かっているものの、どうしても保健所と聞くと殺処分のイメージが付きまとう。とりあえず様子を見たいから三日後にまた来てください、と言われ診察が終わった。周囲には犬や猫、それ以外の動物をケージに入れてその飼い主が心配そうに、あるいは逐一自分の飼っている動物の様子を気にしながら座っている。どうにも場違いな気がして、気に入ったらしい杉木のバスタオルと鈴木のタオルにくるまれつつもどこか怯えている子犬の頭をそっと撫でれば子犬とパチリと目が合って、そっと指先を舐められた。保護団体、と獣医から貰った団体の名前が書かれたメモをポケットに仕舞い込んで会計をしている杉木をぼんやりと鈴木は眺める。今杉木が支払った金額は見えた。診察代と、昨日泊まらせたお礼くらいを合わせたくらいの金額なら今の鈴木の手持ちでもギリギリ払える。そうしたら、と考えたところで帰れる場所は一つしかないかと溜息をついた。正直、まだ帰りたくはない場所だが背に腹は代えられない。杉木の家に帰ったらちゃんと金を払って帰ろうと確かに鈴木は思っていた。

「あぁ、そうでした。これ合鍵です」
……は?」

 だから、帰って早々なんでもない顔で杉木から合鍵を渡されるなんて思ってもいなかったのだ。