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千代里
2026-04-26 20:38:28
10741文字
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千影とシリルの話
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【オリジナル創作】ネモフィラの話・5話【千影とシリルの話】
自分の考えは甘かった、と千影は内心で己の甘さを責めた。
昨日と同じように、夜の見回りを兼ねて燭台を片手に屋敷中を見回る。それだけで十分だと、思い込んでしまっていたのだ。
もし、妖精がメアリーを連れ出そうと企んでいても、屋根裏部屋の彼女の部屋から出入り口や裏口まで相当距離がある。どの出入り口を使ったとしても、寝静まったこの屋敷に扉の開閉音が響けばすぐに気がつくはずだ。
だから、いつも以上に何度も玄関ホールや裏口を行き来しておけば問題ないと、千影は鷹を括っていた。
――
その目算が甘かったと、程なくして彼は知ることになる。
「一体、いつの間に外に
……
?!」
夜も更け、そろそろ日付が変わろうかという頃。昨日と同じく、窓の向こうに一瞬見えた人影に、千影の眠気はあっという間に吹き飛んでいった。
しかし、千影が目に留めたその人影は、昨日の超然とした女性のものではない。それは、彼にも見覚えのあるハウスメイドのものだった。
状況を理解した瞬間、千影はすでに走り出していた。シリルには申し訳ないが、彼に合図を送っている暇はなかった。
「まさか、彼女の方を呼び出すなんて
……
っ」
もしメアリーを連れ出すならば、妖精の方が自ら赴くだろうなどという考えは、所詮は人間の尺度で見た物の考え方に過ぎなかった。彼女は、人が想像もしないような手法でメアリーを誘い出したらしい。
昨日と同じように階段を降り、外へと飛び出る。昨晩の草木すら寝静まったような静かな夜とは打って変わって、今日は一際強く吹き渡る春風が、千影の耳朶を打った。
風に押し負けないよう、千影はカンテラを掲げて、メアリーの姿を探す。彼女の姿は、庭木に囲まれた散歩道の、更に向こう側へと消えようとしていた。
「メアリーさん!!」
間違いなく、メアリーの身には何らかの異常が起きている。彼女は、こんな夜中に屋敷を抜け出すような人ではないのだから。
どこへ向かっているのか、メアリーもわかっていないのだろう。夜の闇にぼんやりと滲む寝巻きの白だけが、便りなさげにゆらゆらと揺れていた。
見失わないように、目を凝らして千影も彼女の後を追って駆け出した。ともすると、吹き荒ぶ風に煽られてメアリーから目を離しそうになる。
だが、もし一瞬でも彼女を見失ったら、もう彼女は戻ってこない
――
理由はわからないが、千影にはそう確信できた。
草木が生い茂る散歩道を抜け、庭に造られた門にメアリーの手がかかる。通用口の役割を果たす小さな鉄柵は、すぐにメアリーを通した。
刹那、彼女の姿が千影の視界から消える。瞬き一つの間に、彼女の存在がこの世界から抜け落ちたように消失したのだ。
「メアリーさん!?」
慌てて、千影も彼女を追い、門をくぐる。
同時に、彼は我が目を疑った。
「
――――
」
夜に包まれた散歩道の向こうには、草原が広がっているはずだった。
オールディス家の敷地として、延々と広がっているはずの開けた草地は、今は見る影もない。代わりに千影の視界を埋め尽くしているのは、まるで大海を思わせる深い青。どこまでも続く青の花畑からは、微かに鈴を振るような音が響いていた。
「ここは、どこだ?」
一瞬唖然としていた千影は、しかし自分の前方に見える、只管に前へと進む女性の姿を目にして、声を張り上げた。
「メアリーさん、行っちゃだめです!」
このままメアリーが行ってしまったら、本当に彼女は戻ってこない。ここがどこかは分からないが、自分たちの居るべき場所ではないということだけは、千影にも分かった。
千影の言葉がメアリーの目を覚まさせたのか、彼女の歩みが止まる。ハッと頭を上げた弾みで、波打つブロンドが背中の上を小刻みに揺れ動いていた。
「ここは
……
どこ?」
やはり、メアリーは自分がどこにいるのか自覚していなかったようだ。だが、目覚めたのも束の間、メアリーの視線は再び花畑の奥に向けられる。
千影は、足にまとわりつく青の花々をかき分けるようにして、彼女へと駆け寄った。
「あなたは、この屋敷を出るのでしょう。あんなにも、嬉しそうに語っていたじゃないですかっ」
千影を引き留めようとしているのか、執拗に足に絡みつく花々を蹴散らすようにして、漸くあと数歩のところまで辿り着く。その間にも、彼は声は張り上げ続けた。
けれども、メアリーの視線は動かない。その先には、あの女性が
――
人ではない何かが人の形を模ったものが、メアリーが辿り着くのを待っている。
「それが、あなたの望んだ未来じゃないんですか! それが、シリルに仕えたあなたが、次に進むために選んだ道じゃないんですか!」
引き止めなければ。
このままでは、メアリーはあの妖精の手を取ってしまう。
そうしたら、全てが白昼夢の如く消えてしまうだろう。妖精が足跡も残さず消えたのと同じように。メアリーもまた、この屋敷から、この地から、世界のどこからも、消えてしまう。
だというのに、もっと近くに行きたいという抗いがたい魅力をあの妖精は放っている。だから、メアリーも何かおかしいと思っていても、彼女から逃げようと思えないのだ。
「メアリーさん
……
!」
必死の呼び声がようやく通じたのか、ゆっくりとメアリーが振り向く。彼女が「どうして」と言ったのが聞こえる。
ようやく、こちらに意識が向いてくれたと安堵した、その矢先。
『お前には関係ないと、言ったはずだ』
冷水そのものの如く冷え切った声が、千影の喉を停止させた。
メアリーの向こう側に屹立するのは、昨晩と全く同じ姿をした女性
――
否、妖精だった。まとめられたブロンドには、風がさらった青の花びらが飾りのようにまとわりついている。
寝巻き姿でブロンドヘアを下ろしたメアリーと並ぶと、彼女たちは確かに母娘のようにも見えた。
「
……
会いにきてくれたの?」
メアリーの問いかけに、初めて妖精は表情を緩めた。微かに浮かんだ微笑は、人のそれよりも遙かに純粋な慈愛に満ちていたい。警戒心を強めていた千影ですら、一瞬心を許しそうになったほどだ。
『幾度目の月が昇った頃のことか、お前は随分と遠くに行ってしまった。だから、お前がどうしているのかと心配だった。こうなると知っていたのなら、お前が幼子のときに連れていけばよかったと、何度も後悔したものだが
――
』
メアリーには思い当たることがあったのか、妖精の発言に目を見開いていた。
『漸く戻ってきたお前は、幼子の頃と変わらず、楽しそうにしていた。お前がここで笑顔で暮らしているのなら、それでいいとも思っていた。だが、今のお前には笑顔がない』
案じていると一目でわかるほどに、妖精の表情が曇る。それに釣られるようにして、メアリーの顔にも翳りが走る。
『私は、お前が幸せだというから、お前をこちらに残した。だが、お前がそうではないというのなら、私はもう躊躇しない』
「待ってください。それは、あなたが決めていいことではないでしょう」
問答無用でメアリーの手をとろうとしていた妖精の手を、千影は間に立って払いのける。千影の手が触れたはずの妖精の肌は、花びらのように柔らかく、人のそれとは思えない歪さがあった。
手指の先からぞくりと違和感が全身を駆け巡るが、それをずっと堪えて、千影は妖精に向かい合う。
「新しい生活を迎えることは、誰だって不安なものです。俺だって、ここに来てから戸惑うことはたくさんありました。でも、それを乗り越えるために、メアリーさんも、彼女の旦那さんとなる人もお互いに協力していくんです。その可能性を、あなたの意見だけで切り捨てていいはずがない」
千影の言葉は、ごく当たり前の一般論だ。
自分が語る未来と同じくらい、不安でたまらないという気持ちを大きく感じる者ものいるだろうと、言っている本人もわかっていた。
とはいえ、この妖精とて、やっていることは千影と同じだ。
未来への希望という可能性を敢えて見ないように、彼女は不安を煽る言葉ばかりを選んでいる。そのような言動は、メアリーを誘うという意味では公平とは言い難い。
千影の言葉に思うところがあったのか、メアリーは女性へと差し出しかけていた手を、改めて自分の元へと引き寄せる。
彼女が今思いを馳せているのは、どのような未来だろうか。できれば、続く明日に期待を抱けるようなものであってほしいと、千影は心の内で祈る。
『
……
そういうお前も、立ち止まりたくてたまらないのだろうに』
不意に、妖精は千影へと視線をやって、言葉を投げ放つ。瞬間、メアリーを見守っていた千影の体が、ぴくりと震えた。
妖精の言葉は酷く淡々としていた。しかし、それと同時に、一切の嘘を許さない頑ななさがあった。
『自分で自身を縛り付けているような有様で、一体どうして他人に希望を語れる』
「
……
それは」
『何のことだと嘯くのなら、お前はとんだ愚か者だ。自分が何者かも知らずに、何に囚われているかも自覚せぬままなのだから』
喉の奥が、ぐっと詰まったような感覚に襲われる。まるで、見えない手で誰かに首を絞められているかのようだ。瞬きすら忘れた瞳の奥が、ちりちりと痛む。
「
……
あなたが何を言ったとしても、メアリーさんを連れて行くのが正しいなんて、俺は思わない」
『お前に私の行動を指図される謂れはない。どちらにせよ、道が閉じればお前たちはここに残るしかない。メアリーも、そしてお前も』
妖精は、一歩分千影に歩み寄る。その分だけ、彼は一歩後ずさる。
妖精の微笑みは女神の彫像もかくやという美しさなのに、身に纏う気配は明らかに人のそれではない。
伸びた手が千影の頬を撫でる。全身に寒気が走るのに、なぜか千影は彼女の接触に安堵していた。気持ち悪いと拒絶する心と、受け入れたいという相反する衝動が同時にぶつかり合い、彼は立ち尽くすことしかできずにいた。
このまま、この美しい青い花畑にとどまれば、何も考えずに過ごせるのではないか。
そんな淡い期待に、一瞬とはいえ心が囚われかけたときだった。
「そういうの、やめてもらえる?」
――
パンッ。
空気を鳴らす、乾いた音。
その音が全てを押しのけたかのように、青い花畑の光景が瞬きの間に消えていく。
体を撫でる春の夜風も、周囲を包む夜の空気も、どこからか響く生き物たちの気配も、全てが一度に千影たちの元へと戻ってきた。
いや、この場合、戻ってきたのは千影たちの方か。
パンパン、と乾いた拍手が響く。遅れて、先ほどの破裂音は、新たにきた何者かが手を叩いた音だと気づく。
音の主は一体誰なのか。発生源へと視線をやった千影は、今日何度目になるかわからない驚きに襲われた。
「シリル
……
?」
普段は一つに結んでいる髪を下ろし、身に纏う服は白の寝巻きだけ。およそ外出するには適切とは言えない格好で立っていたのは、千影の友人であるシリルだった。
千影は、目を見開いたまま唖然としてしまった。
それは、シリルの服装に驚いたからでも、何も伝えていないのに彼がここにやってきたからでもない。
何よりも違和感として千影が、そして困惑しているメアリーが驚かされたのは、
「シリル様、足が治ったのですか!?」
メアリーがあげた歓喜の声が、全てを物語っていた。
寝巻き姿で外に出るなど、今夜の諸々の出来事に加わる新たな異常事態だとはわかっている。それでもなお、千影たちは、驚きと喜びに胸を沸き立たせてしまった。
「シリル、歩いて大丈夫なのか?! 痛んだり、しびれたりはしていないか?」
「それよりもシリル様、どうして靴を履いてきてないの!? って、それを言うなら、私も素足でこんなところまで来てしまったみたいだけど」
シリルを案じる二人が騒ぐせいで、先ほどまでの幻想的な空気は、あっという間にかき消えてしまっていた。
消え失せた花畑とは別に、この地へと残された妖精だけが、苦々しげにシリルを見据えている。
そして、残された異変は妖精だけではなかった。千影たちが呼びかけるのも無視して、シリルは軽やかな足取りで妖精の前へと歩み寄り、
「ここは、私が目をつけた大地なの。あなたみたいな、小さな子に荒らさないでもらいたいわ」
声は、シリルのものと変わらない。なのに、千影は強烈な違和感に苛まされていた。
(あれは、本当にシリルなのか
……
?)
話している内容も、妖精と向き合う彼の表情も、千影の知っている彼のものではない。
今のシリルの仕草は、まるで悪戯を楽しむ少女のようにすら見える。なまじっか、シリルの顔が女性的だからこそ、少年に合わせるには不自然になるはずの仕草が不思議と噛み合っていた。
妖精へと踵を返して、シリルは千影へと歩み寄る。肩に軽く手を置き、ふっと見せた笑みは、やはり千影が知らないものだった。
「この坊やも、あっちの娘も、この子のお気に入りだから、勝手に持っていってもらっても困るわね。ねえ、あなたもそう思わない?」
友人の顔で、いっそ蠱惑的とも言える笑みを間近に向けられ、千影は震える唇で呟く。
「
……
あなたは、誰だ。シリルをどこへやった」
すると、シリル
――
否、シリルの顔をした誰かは、つまらなさそうに唇を尖らせた。
「あなたは、とても目がいいのね。まあいいわ。とりあえず、この子は返すから。あとはよろしく」
「えっ、いきなり何を
……
っ!?」
驚く間もなく、千影の肩に手をかけていたシリルの体から力ががくりと抜ける。咄嗟に支えなければ、彼はそのまま強かに地面に体を打っていただろう。
「シリル、大丈夫か」
軽く揺さぶると、寝起きの時のように小さな呻き声が返ってきた。
その音を聞いて確信する。今は、もう、シリルに『戻って』いると。
『厄介なものを連れてきて、そこまで私の邪魔をしたいのか』
淡々とした妖精の声音には、今度ははっきりと苛立ちが滲んでいた。
理由はよくわからないが、シリルの体と共にやってきた何者かは、彼女が作り上げた異質な空気や、この世のものとは思えない花畑を悉く排除していった。
それでも妖精本人は残り続けていたが、先だってまでの背筋が凍るような寒気はもう感じられない。
シリルは軽くかぶりを振って千影の手を借り、ゆっくりと立ち上がる。
「シリル。さっきのこと
……
覚えているか?」
「今は、その話は後にしてくれ。それよりも、あれが、千影が言っていた妖精か。メアリーを連れていこうとしてるっていう、あの」
「ああ。昼間に予想した通りだった。彼女は、メアリーがこの先の未来に不安を覚えて、笑わなくなってしまったから、連れていくことにしたと言っていたんだ」
自分のせいでシリルをこんな場所に連れてきてしまったと思ったのか、メアリーは悄然とした様子で項垂れていた。
シリルは落ち込んだ様子の彼女に視線を送ってから、自身を睨んでいる妖精を見つめ返した。
『お前もまた、そこの人間と同じことを言うのか。不確かな希望などという言葉を弄して、私の大切なものを奪うのか』
「別に、俺はメアリーにどうしろと言うつもりはない。俺が彼女に何かしてくれと頼んだら、それはメアリーにとっては命令になってしまう。だから、メアリーの好きにすればいいとオレは言う」
それは、彼が己の身分を自覚しているがための言葉だった。
「メアリーが心底から、お前たちみたいな得体の知れないところの方が安心するというなら、俺にかけられる言葉はない」
でも、と彼は続ける。
「これだけは確かだ。俺は、この先を生きるメアリーの未来の姿を見てみたい」
何を言われるかと身構えていたメアリーにとって、シリルの言葉は予想外だったようだ。小さく飲まれた息には、きっと、千影が想像している以上に多くの気持ちが込められている。
「メイドを辞めて、邸を出て、花嫁になって、農場で夫を支えていく彼女の姿を、しわくちゃのお婆さんになっても元気でいる姿を、そんな様子を見たくてこっそり農場にやってきた俺を叱る彼女を。これからも、俺たちが生きるこの場所で、俺は見ていたいんだよ」
シリルの顔には、挑発的な笑みが浮かんでいた。人間の範疇を超越した何かに対してもなお、彼は挑むのをやめずにいる。
「だから、俺がメアリーに二度と会えないような場所に連れていくつもりなら、全力で邪魔してやる。それが俺がお前に言ってやりたい全てだ」
シリルの論は、千影とは全く違っていた。メアリーにとっての幸せの定義を探り続けていた千影は、妖精の意見に気圧されてしまった。
だが、シリルはただ、自分が望むことだけを叩きつけた。
そこにメアリー本人の意思はないように思える。だが、彼女の幸いを望むものがここにいると、どんな無数の論よりも彼ははっきりと表明していた。
怖いもの知らずな発言であったが、シリルが平然と妖精と対峙しているわけではないと、千影はすぐに気がついた。千影の肩を借りる彼の手は、微かに震えを走らせていたからだ。
妖精が何を考えているかは、戦慄く唇からも分かる。人ならざるものの憤怒が口から溢れ出ようとした時、
「
……
そうね。私、大切なことを忘れてしまっていたみたい」
メアリーの言葉が、妖精の言葉を止めた。
「まずは、あなたに御礼を。
……
ありがとう。こんなにも、私の幸せのことを考えてくれて。たとえ家族であっても、こんなに真っ直ぐに気持ちをぶつけてくれる人はいないんじゃないかって思うぐらい」
波打つブロンドを背中に流して、メアリーが人ならざる女の前に立つ。
「だから、本当はあなたが満足できるぐらい、あなに付いていって、幸せなメアリー・ベイカーの姿を見せてあげたいって思うの」
一瞬、妖精の横顔に期待が走る。だが、メアリーはゆっくりと首を横に振った。
「でもね、あなたと同じくらい、私の幸せを見たいって言っている人がここにはいるみたい。だから
――
私は、あなたについていっても、きっと幸せにはなれないわ」
硝子に罅を入れたかのように、妖精の顔に初めて明らかな表情が浮かんだ。手塩にかけて育てた娘に手を振り払われた母親のように、女の顔に狼狽がありありと浮かんでいる。
『
……
分からない。お前は、確かに不安だと口にしていた。笑顔の数が減っていったのも、私は見たのに』
ふと、横で二人の様子を見守っていた千影は思う。
この妖精が「幸せ」という言葉に妙に拘るのは、メアリーの感じる幸せや不幸せを、人ではない何かの視点では読み取れないからではないか。
だから、妖精は笑顔の数を数えた。幸せという言葉を口にできるかを問うた。
彼女なりの指標で、自分とは違う『人間』という生き物の幸せを読み取ろうとした。
「確かに不安なことはあるわ。でも、先に進むっていつもそういうことだってことを、私は忘れてしまっていたみたい」
振り返ったメアリーの視線の先には、二人の少年。彼女が仕えている主人と、その友人が並んでいる。
「私がメイドになるって決めた時もそうだった。近所のお姉さんたちみたいに、ちゃんと働けるのか、いじめられないかって心配だった。実際、メイドになったばかりの頃は、家に帰りたいって何度も思ったわ」
それでも、メアリーはメイドを続けた。そうしなければならない事情もあったのだろうが、彼女がその道を後悔していないことは、今の顔を見れば分かる。
「私はメイドであり続けていたから、シリル様に出会えたの。不安な未来を突き進んだから、仕えられてよかったと心底から思える素敵な主人に出会えた」
メアリーの賞賛に、千影の肩を借りて立つシリルが、くすぐったそうに鼻を鳴らす。
「私の未来はまだ見えないし、不安なことは本当よ。でも、今度だって、進んでいった先に、良かったと思える何かがあるかもしれない。その未来を、私は信じたいの」
先ほどのメアリーのように悄然と立ち尽くす妖精の手を、メアリーはそっと包み込む。そうすると、今まで尊大な振る舞いを見せていた妖精の女は、まるで小さな子供のように見えた。
「だからね、今は大丈夫。でも、いつか、本当に私があなたの手を借りたくなったなら、そのときは今度こそあなたに手を伸ばすわ」
聞き分けのない子供を宥めるようなメアリーの笑みに、妖精もぎこちない笑顔を返す。
「できるなら、その時の私の手がしわくちゃのお婆さんになっていることを、祈っていてちょうだい」
ゆっくりと、メアリーの手が妖精から離れる。妖精はもう、彼女を無理に追おうとはしなかった。
数歩距離を置き、メアリーは寝間着の裾をつまみ、ゆっくりと足を引く。
シリルにも見せた別れの一礼。妖精へと送るそれは、自身を案じる家族への別れのようであった。
*
妖精によって連れ出されたメアリーと、どういう理由からか一時的に足の自由を取り戻してやってきたシリル。二人は、どちらも素足で庭にやってきてしまっていた。。
メアリーはこのままでもいいと主張したが、流石にシリルを素足で邸に返すわけにはいかない。
千影は彼に靴を貸し、メアリーには自身のタイとハンカチを使って即席の布靴を作って彼女の足に縛り付けた。メアリーは大層恐縮していたが、近日中に花嫁となる女性の足を傷だらけにするわけにはいかないと押し切ったのだ。
メアリーが布靴の具合をシリルに見て貰っているのを横目に、一仕事を終えた千影が一息をついていると、ふと視界の端に未だ立ち尽くす妖精の姿が目に留まった。
メアリーが見えなくなるまで見送るつもりなのか、彼女は所在なさげに別れを告げた娘を視線で追っていた。
「あなたは、やっぱり妖精なのですか」
今なら答えてくれるのではないかと、千影は尋ねる。期待通り、女性は気だるげに首を巡らせ、口を開いてくれた。
『そう呼ぶ者もいる。妖精(フェアリー)、精霊(ニンフ)、湖の乙女、金の髪の一族(タルイス・テーグ)
……
他にも、多くの人間が多くの名で私たちに呼びかけた』
やはりという思いと、そんなことがあるのかという驚愕が千影の胸の内を交差していった。
千影の故国にも、かつて妖怪という存在が信じられていた。だが、徐々に「そんなものはいない」という考えが染み渡りつつあり、今ではお伽噺として語られるに留まっている。
そんな時世の最中に、彼女は紛れもない奇跡の存在としてこの場にいる。
これまでの出来事を、千影はただの夢だと一蹴するつもりはなかった。
そもそも、千影もメアリーも常識では説明がつかない状況に放り込まれたのだから、今更彼女の主張を否定するのは、それこそ愚か者の所業だ。
『私はお前の問いに答えた。ならば、次はお前が私の問いに答えよ』
どうやら、彼女にとって千影の質問は知識を求める取引として受け取られたらしい。おずおずと頷き返した千影に、彼女は言う。
『人間に幸せであれと願っていると伝えるためには、どうすればいい?』
「はい?」
その質問があまりに風変わりだったので、千影は聞き返した。だが、妖精は鉄面皮を維持したままだった。
この様子から察するに、やはり妖精という存在は、根本的に人間の幸せとは何かを理解しているわけではないのだろう。
彼女は自分なりの枠組みで、メアリーの幸せを推しはかり、彼女の不安を取り除こうとしたのだ。
『メアリーは、己の不安ですら楽しそうに語っていた。人間にとって〈不安〉とは良くない感情であるというのに。ならば、彼女に拒まれた私は、何を以て彼女に願いを伝えればいい』
「そうですね
……
。本来なら、人によるとしか言えないところなのですが、あなたが贈りたい相手は一人だけでしょう」
本来なら、メアリーや自分を攫おうとした妖精に親切にする理由などない。
だが、メアリーに拒まれた彼女が、先ほどよりずっと静かにしている
――
落ち込んでいるのだと分かると、邪険に振る舞おうとは、千影には思えなかった。
(困っている人に親切にすることは、正しいことだ。相手が人間だって妖精だって、それは変わらない)
そうやって、心を定めると、言葉はあっさりと飛び出てきた。
「それなら、お祝いの贈り物をするのは、どうでしょうか。誰かに贈り物をする時、そこには祈りや願いが詰まっているものです。メアリーさんにも、あなたの願いは届くはずですよ」
直に顔を合わせる前から、メアリーは『名も知らぬ彼女』に今の自分の姿が届くように祈っていた。メアリーなら、妖精なりの贈り物から彼女の気持ちを汲み取ってくれるだろう。
『それは、青いものでなければならないのか?』
「あれは、たまたまサムシングブルーのおまじないにかけただけで、青いものである必要はないと思いますが
……
」
シリルのリボンはそもそもどうしたのか、と尋ねたところ、『私の国で還した』という要領を得ない回答を得た。要するに、もう手元にはないということなのだろう。
『ならば、私は青いものを贈ろう。あの人間に代わって』
「先ほどの青い花を、ですか?」
『いいや。あれは我々の花だ。こちらには咲かない』
何かいいものはないものかと思案する姿は、まるで在りし日のシリルのようだ。すっかり毒気を抜かれた千影も、一緒になって考えてみるも、すぐに答えは出なかった。
ざあっと春の夜風が吹き過ぎ、それに誘われるようにして野の草花が揺れる。その有様が、先ほどの見事な青の花畑を彷彿させた。
あれは、妖精である彼女が生み出したものなのだろうか。そこまで思案した千影は、ふとあることを思いつく。
「あなた方は、草花に働きかける力を何か持っているのですか?」
『そのような性質を持つ者は、我々の仲間でも一部のものだ。私に限って言うのなら、そのような力はあるという答えになる』
「それなら、こういうのはどうでしょうか」
そう言って、千影は妖精にあるものを渡しながら、彼女へと自分の案を説明する。妖精は戸惑いながらも、素直にそれを受け取った。
『
……
本当にそんなものでいいのか?』
「ええ。それに、これは妖精であるあなたにしか起こせない奇跡です」
千影は今もシリルと何か話しているメアリーに目をやり、目を細める。
「妖精の奇跡を授かった花嫁なんて、素敵じゃないですか。少なくとも、俺はそう思いますよ」
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