スサ
2026-04-26 18:14:36
1743文字
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鬼水 つつじ



 風が軽くなった。さやかな葉擦れの音が耳に心地よく、時を迎えた鳥たちのさえずりと共に初夏の訪れを予感させていた。
 人よりよほどに優れた嗅覚を持つ鬼太郎は強く甘い、甘ったるいくらいの香りに鼻を少し動かす。薄紅、深紅、濃紅、赤紫、緋色に朱色、橙、そし白。躑躅(つつじ)だ。全ての花の香りが等しく強いわけでもないから、人間には香りが感じられない場合もあるだろう。
 昔を思い出しながら、鬼太郎はひとつの花を手に取る。少し紫がかった、濃い紅色の花だ。今ここで咲いている中では、それが最も強く香っていた。きっと、人間にもわかるくらいに。
 ──かつて、幼い頃の鬼太郎は、水木に抱かれて歩きながら同じように躑躅の花を手に取り、水木に差し出していた。
 あの頃は、近所で咲いていた中では薄い桃色の花がいちばん、蜜が甘かった。そういう花を選んで水木に渡して。水木はきっと、意味はわかっていなかったと思う。ただ単に、幼子が花を摘んでよこしてくれる、そのくらいに感じていたのではないかと思う。
 水木は飽きずに、嫌がらずにそれらを受け取ってくれた。
 今にして思えば、百の言葉より雄弁な、それは愛だったとわかる。
 花の尻を水木の口に当てても、最初はびっくりしても、その後には意図を汲んで蜜を吸ってくれた。それが嬉しくて、甘い蜜の花を吟味したものだ。
 幼い幽霊族の子のこの純真を、当の躑躅の花たちこそが喜んだ。坊や、こっちよ、とか、あたしが特別甘いわ、とか、花々は鬼太郎の小さな手を迷わせた。水木からしたら遊んでいるように見えたはず。彼はある程度鬼太郎を好きにさせた後、ちんまりとした指を握りこみ、はいここまで、花がなくなっちまうぞ、と笑ってやんわりと止めてきた。まだもっと甘い花があったはずなのに、と鬼太郎はじたばたもがいたが、いかな怪力とはいえ、体が小さすぎた。
「元気、元気」
 なんなくいなして、水木は小さな鬼太郎を抱き直すと躑躅の木々を離れて歩き出した──。
 花をくわえて、鬼太郎は水木のことを考える。会いに行こう。すぐに思う。
 そうと決めたらやることはひとつ。
 今が花盛りの躑躅を見回し、鬼太郎はどの枝を切っていくかを吟味する。花たちの声は昔より控えめに感じる。彼らの側にも何かしら遠慮めいたものがあるのかもしれない。鬼太郎はもう、赤子でも幼子でもないから。
 紅色、桃色、朱色に白、と適当に束ねて、さて束ねるものがない。と、思ったのもつかの間。ズボンのポケットには手ぬぐいがあることを思い出した。身だしなみというやつだ。昔、もっと子どもだった頃はあまりそのようなものの必要性をみとめていなかったが、今では手ぬぐいかハンカチを持ち歩くようになった。けして、水木を座らせる時に敷いたらくすぐったそうに笑ってからかってきた顔が可愛かったからとか、けしてそんな理由からではない。
 とにかく、たたんだ手ぬぐいを広げ、細長く折ってから、一度手を離して広がっていた躑躅の枝を軽く整え、縛る。
 縛るだけなら、色気はないが、髪の毛を伸ばして、それを使うこともできたかもしれない。しかしそれではあまりに情緒がない。それくらい鬼太郎にもわかる。
 よし、と満足げに笑い、鬼太郎は軽い足取りで歩き出す。だがそれはすぐ小走りになる。
 水木に早く躑躅を見せたくて

 特に用事がなくても早く目が覚めてしまうのは老人の性なのか。休みだというのに早くから洗濯物を干しながら、そろそろこたつをしまうか、と水木はのんびり考えていた。水木自身は寒がりではないのだが、水木のかわいい子、もとい良い人は猫の子のようにこたつでぬくぬくするのが好きなので、片付けてしまうと悲しむ。とはいえあたたかくなってきたし、天気もよいし、と悩ましい。
 と、たたっ、という小気味良い駆け足の音が聞こえてきて顔をあげる。手をとめる。
 予感があった。
 噂をすれば影、ではないが。
水木さん!」
 手に持った花束──のような、躑躅の切り花を軽く振るように鬼太郎がやってくる。
 今までおまえのことを考えていた、といったらどんな顔をするだろう?
 笑いを噛み殺しながら水木もまた手を振り返す。
「おはよう、鬼太郎」