ぬす
2026-04-26 00:03:21
6360文字
Public
 

無垢と幸福

お題箱でいただいたネタで書いたもの。あまり明るいエンディングではありませんのでご注意ください。

 スラリと細く長い手足。お洒落な洋服を纏った華奢な身体。
黄金シアターの女優からただ街をゆく女性達まで、皆美しく輝いて見える。
いくら手を伸ばしても届かないもの。
カフェの窓際席からそれらを眺めてははぁ、と深く溜め息をつく。
 自分の肉体がコンプレックスだった。
ウエストほどある太腿。乳牛のような胸。重量感のあるお尻。
生まれたのがこの凍りついた時代で幸運だったかもしれない。豊かな海のある時代に生まれていたら、水着を着れなくて一人家に閉じこもっていただろう。
鏡を見るのが憂鬱だった。私は何故、綺麗になれないのかと。
「ケーキセットはいらないんですか?」
 向かいの席の青髪の男が悲しそうに問い掛ける。
いや、誘惑というのが正しいだろう。
バターをふんだんに使ったどこからどう見ても美味しそうなキラキラと輝くフルーツタルトを口に運んで、私にメニュー表を差し出して。
この店のタルトが絶品なのはわかっている。私だって、叶うなら生チョコタルトを注文したい!
しかしその欲には抗わなければならない。ダイエットのためだ、そんな脂肪と糖の塊を食べるわけにはいかない。
「い…………い、いらない。いらないもん……
「ええ?本当に?」
 食欲を掻き消すためにコーヒーを一口飲んで、熱さと苦さに舌を痺れさせる。
もちろん無糖、ミルクも無し。本当はカフェオレにした方が美味しいのだけれど、美味しいということはつまりダイエットの天敵だ。
何だってそう。脂肪と糖がたくさんの、カロリーの高いものが美味しいに決まっている。
しかしそれを食べるということは、理想の美しい身体から遠ざかるということ。今回こそこのムチムチとした丸い身体を捨てて見せるのだ!
「我慢は毒ですよ?ほら、一口食べてみませんか?」
「あ……い、いらない!いらないから……!気持ちだけ貰っておく!から!ありがと!」
 そしてもうひとつダイエットに天敵がいるとすれば、それは目の前の彼――サンポ・コースキだろう。
別に、彼が私を肥えさせたというわけではない。
幸いにも体重の増加はなく、しかし減少もなく。
ただ、これまでに何回もダイエットを決意しては彼にその心を折られてしまっているのが現実だ。
今だってそう、目の前に差し出されたフォークには抗い難い誘惑とカロリーが乗っかっている。
あーん、と口を開けて受け止めたい欲をなんとか抑え込んで、苦いコーヒーをまた一口。
カフェインの効果を信じよう。私はまだ、我慢できる!
「またダイエットですか。あなたには必要ないと思うんですけどねぇ」
「必要だからしてるの!」
「僕は好きですよ、そのもちもち感!とっても可愛らしいですよ、ええ!」
「さいっあく……!」
 男というものはいつだってそうだ。
女の子はちょっとぽっちゃりぐらいが可愛い、なんて甘い嘘を囁いて、こちらが肥えたら見向きもしない。
彼の言葉に惑わされてはいけない。私の身体の全ては私自身の選択に委ねられるべきなのだ。
「痩せて、何がしたいんです?雪の中を水着で遊び回るわけでもないでしょう」
「それは……その、お洒落な服とか着たいし」
 世の中の可愛い服の殆どは細身の女の子のために作られている。
まず胸がこんなに大きくてはサイズが合わないし、コーディネートに失敗すればとんでもなく太って見えてしまう。
細く見せるために腰を絞れば逆に胸ばかりが強調されて、そうなれば周りの目線も気になってしまうわけで。
お尻や太腿の太さだってそうだ。スカートもパンツも悪目立ちしてしまうし、脚そのものだって短く見えてしまう。なんならブーツに脚が通らないだとか、ストッキングの柄が歪んでしまうだとか……とにかく、無数の弊害があるのだ。
「それだけですか?」
「じ、自信が欲しいの。今の自分がコンプレックスだから」
 ルッキズムは悪と叫ぶ者もいる。それは否定しない。しかしやはり社会の中にある以上それなりの美しさというものは求めてしまうもので。
絶対的な美女ではなくてもせめて恥ずかしくない程度の外見は手に入れたいと願う。
健康さえ損なわれなければ人の見た目なんて何でもいいしそこに良し悪しを定めること自体が間違っているのかもしれないが、生存競争の果てに生まれたその概念が自分を強くするのは生物として紛れもない事実だろう。
「それで自信を手に入れて、その後は?」
「そのあとは……
 お洒落な服を着て、自信を持った私はどこへ行く?
決まっている。しかし口には出せないとコーヒーカップを置いて黙り込む。
言えるわけがない理想の未来。
私の最後の目標は今目の前にいる彼、サンポなのだから。
「教えてくれないんですか?」
 タルトを一口、わざとらしく頬張りながら彼がにまりと笑う。
見透かされているのか、それともただ揶揄っているだけなのか。
そう、私がダイエットを決意した理由は彼にある。
つまるところ、彼に恋をした。それが私のモチベーションで、最大の敗因だった。
 恋しい男の隣に立つにはやはり相応しい姿になりたいと思うもの。彼のような外見の良い男となれば尚更だ。
想いを伝える前にはまず、釣り合う人間にならなければいけない。
実に単純明快な理由だろう。
 しかし、お察しの通り彼は非常に手強い男なのだ。
スレンダーな美しい肉体を!そう決意した私の心を何度も折って中断させてはにこにこと笑うのが彼だ。
食事制限をすればバターと砂糖を手に私の元までやってくる。
運動をすれば車に乗って家まで送り届けてくれる。
そして昼はお茶に、夜はお酒にと、とにかく太りやすい食事に誘ってくるのだ。
そういえば、出会った時も子供達に配るクッキーをひとつ私に分けてくれた気がする。
私に餌付けするのが楽しいのだろう、こちらとしてはたまったものではない!
「教えないっていうか……サンポには話しづらい、かも」
「おや?それでは今から女性になりましょう。こんにちは、ポサンです!」
「変な裏声やめて、面白いから。そういう意味じゃなくて……
「では、どういう意味で?」
 う、と言葉に詰まって目を逸らす。
もしかしたら本当に、彼から見た私は醜い女ではないのかもしれない。
だけど、私が納得できない。この姿で想いを打ち明けたくはない。
悶々と考え込む私をよそにメニュー表を開く彼の表情はなんとも楽しそうで、また私を弄ぶつもりだろうか。
そして店員を呼んで彼が発した言葉は何より残酷だった。
「すみません、生チョコタルトをひとつお願いします」
 それは私の大好物で、最もカロリーの高いもの。
耐え難い誘惑だ、目も耳も塞いでしまいたい!
今から彼はそれはもう美味しそうに、一口一口丁寧に、私の食欲を煽るように目の前で食するつもりだろう。
しかし、それに負けてはいけない。今回こそ私が勝つのだ。
耐え抜くためにコーヒーに手を伸ばして、ごくりと飲み込んだそれは――甘くて、飲みやすい?
まさかと覗き込んだコーヒーカップの中を見てさぁ、と顔が青くなる。
明らかにミルクを混ぜられて白っぽく濁ったそれ。
おまけにあの味は明らかに砂糖も入れられている!
「サ、サンポ、これ」
「ふふ、あなたが教えてくれないので悪戯してしまいました」
「さ、サイテー……!」
 先ほど目を逸らした時だろうか?まさかこんな手段に出るなんて。
しかし残すのも行儀が悪い、カフェオレ一杯分のカロリーを後でなんとかしなければ。
仕方なくそれと向き合った私の前にさらに生チョコタルトが運ばれてくる。
嫌な予感がした。まさか、これって。
「はい、どうぞ!お好きでしたよね、こちらのタルト!」
「本当……本当あんたさ、あんたさぁ……!」
 それはもう悪魔のような優しい笑みを浮かべて、皿をこちらに差し出して。
勝手に注文したのだからあんたが食べろ――そう断ろうとしたはずなのに、もう何日も食事制限に苦しんだ身体はごくりと唾も言葉も飲み込んでしまう。
「食べないんですか?」
 まずい。非常にまずい。
頭が言い訳を次々と並べ立てては生チョコタルトに手を伸ばそうとしている。
好きな人の前で食事を残すなんて印象もお行儀も悪い!――確かに、それはそうだ。
その分運動すれば問題ない!――いや、それは違、わないかもしれない?
チョコレートは体に良いからむしろ食べた方がいい!――それはハイカカオチョコレートの話で目の前のこれは、バターも砂糖もたっぷりな……いや、それも体に……良いかも!
 ぐらぐらと思考が揺れていく。
何より、サンポが私の好物を覚えていて、それを注文してくれたというのが嬉しくて断りたくないと思ってしまう。
この大切なひと時をダイエットなんていう意地で台無しにしてしまって良いのだろうか?
目の前に並んだ美味しそうなタルトとカフェオレ、そしてサンポ・コースキが甘い匂いを漂わせて思考回路を溶かしていく。
「では、食べさせてあげましょう!口を開けて?」
「あ……あぁ……
 フォークを突き立て一口分を切り分けて、生チョコタルトをこちらに差し出すサンポ。
やはり悪魔だ。こんな男を魅力的だと思ってしまう自分の浅はかさが憎い。
「はい、あーん♡」
 その魅力的な言葉に、ブチッと脳内で何かが音を立てた気がした。
次の瞬間には舌の上には蕩けるような甘みが広がっていて、身も心も幸福に支配されてしまっていた。
 ああ、馬鹿馬鹿しい!
タルト一切れにいつまでもウジウジと悩んでこの幸せを享受しないなんて愚か者のすることだ!
カロリー?脂肪?糖?全部美味しくいただいてしまえばいい!
「美味しいですか?」
「美味しい!とても!」
「ふふ、それでこそあなたです!はい、もう一口。あーん♡」
 再び口に運ばれたそれをぱくりと咥えて、そしてまた一口。
香り高く濃厚なチョコレートが舌の熱に溶けて、バターたっぷりのタルト生地も甘く口当たりが良くて。
やはり、バターだ。バターがたっぷり使われたものは美味しい。サンポのクッキーもそうだった。
跳ねた青い髪を揺らしながら次々とフォークを差し出して、時折カフェオレで休憩を挟んではまた一口とタルトをつつく。
 最後の一口!とずい、と近付けられたものはなんとも惜しく感じられて、より香りを楽しもうと鼻を近づける。
くんくん、と嗅いだそこからは濃厚なチョコレートと、微かに混じる奇妙な匂い。
金属のような、しかしフォークからではない。それでいて何故かよく知ったようなもの。
「サンポ、お金触った?」
「え?」
「サンポの手からコインみたいな匂いがする」
 そう、これは硬貨の匂いだ。
手に染み付いたかのようなそれはいかにもお金が大好きな彼らしい、なんて笑ってしまう。
「あ……はい、そういえばさっき小銭を落としてしまって。拾い集めていたので、それかもしれませんね!」
お金の匂いがする、なんて言われたのがショックだったのかもう片方の手を眺める彼の姿もまたおかしくて。
表情は幸せに緩みっぱなしのまま、口を開けてフォークを迎え入れる。
「じゃあ最後の一口、いただきまーす」
「ええ、どうぞ!じっくり味わってくださいね」
そうして注文された生チョコタルトはあっという間に私のお腹の中に収まってしまって、心地良い満足感にはぁ、と息をついて――己の行動を思い返して青ざめる。
「今回もダイエットは失敗のようですね。お疲れ様でした!」
 またもや私に勝利した男が涼しい顔でコーヒーカップに口をつける。
苦もなく無糖のコーヒーを飲み干すその姿に格の違いをまざまざと見せつけられて、カフェオレの味に敗北の二文字を見出す。
ああ、また彼に乗せられて食べてしまった。
何より求めていた幸せなひと時を与えられてしまった。
……なんでいつも邪魔するの?私にダイエット器具でも売りつける気?」
「あ、それもいいかもしれませんね。身につけるだけで脂肪を燃焼!ダイエットリングなんてどうでしょう」
「怪しい!買わない!……それで、なんで邪魔するの?」
「邪魔だなんて、そんな」
 いかにも心外だ、とでもいうように肩をすくめる彼をじっとりと睨みつける。
欲望に負けたのは私の責任だ。しかし、彼のやり口もなかなか悪どいものではないだろうか。
僕とお酒を飲んでほしいなんて言ってクリーミーな甘いカクテルを奢ったり、一緒に食べてほしいと巨大なパフェを注文したり。私が好きなものばかりを、彼の手で与えてくるのだから。
「僕はただ、あなたの喜ぶ顔が見たかっただけですよ」
 何と言葉を返せば良いものか。
ずるい、と真っ先に思った。どうして?と疑問が湧いた。そして嬉しいと感じてしまう単純な私がいた。
しかしまるで子供を見守る時のような、優しい笑みと愛おしげな目でこちらを見つめる彼の姿にさらに感情が交錯する。
「サンポの中の私って、なんなの」
「勿論、可愛いお嬢さんですよ!」
「そうじゃなくて」
 愛玩動物にでもなったかのような気分だった。
彼のそれは間違いなく愛情だ。だけど友愛とは限らない。
私が彼を恋い慕っていても、彼からは女としてすら見られていないかもしれない。
そう思うと彼のその慈愛に満ちた目が少し怖かった。
「それを今、僕の口から言ってしまっていいんですか?」
 空のコーヒーカップが軽やかな音を立ててソーサーに戻される。
口に残ったカフェオレの味がじわりと滲んで――彼の言葉にも恐ろしさを覚えて、その甘さを恨みながら消える。
まるで私が何と言ってほしいのか全て理解しているようなその言葉に寒気が走って、私の想いを見抜かれているようで頭が熱くなって。
……私に何を求めてるの」
「願わくばずっとこのまま、可愛いお嬢さんでいてほしいですね」
……そう」
 私の耳に、それは柔らかな拒絶に聞こえた。
鼻の先がじんわりと感覚を失って、涙が溢れそうだ。
ずっと知っていたのだろう。わなわなと震える私の手を慰めるようにそっと撫でて、しかし指を絡めてはくれない。
何が「喜ぶ顔が見たい」だ。最も求めるものは与えてくれないくせに、優しい言葉ばかり口にして。
……お金、置いていくから。私、帰るね」
「結構ですよ、僕が好きでしたことですからね」
「ううん、置いてく。今までありがと」
 これ以上そこにいるのが苦しくて、早足で店を去る。
帰ったら甘いココアでも飲んでしまおうか。ホイップクリームとマシュマロを乗せて、ラム酒を混ぜても良いかもしれない。
お嬢さん、なんて呼び声が聞こえるのを最後まで期待して、しかしそれが私に届くことはなかった。



 月明かりを映した刃が美しく白銀に光る。
刺し貫いたそこからはつうと雫が垂れて、それは彼の黒い手袋の中で揉み消された。
石畳には何の痕跡もなく、微かな音すらもなく。
ただ暗闇の中に緑色の目がゆらりと揺れてはまた消える。
……はぁ」
 寒くもないのに吐息を手にかけて暖を取る。
掌からは不快な鉄錆の匂い。
あの娘はコインの匂い、と言っていただろうか。
これの正体すら知らないような人間だと理解させられてしまって――彼の愛おしい日々は今日、終わりを告げた。
彼が彼女を追う選択肢を取らなかったのはきっとそこに目を向けてしまったからだ。
未だ彼女の笑顔を思い出すなんて往生際の悪い、と溜息をつく男の影が死体を葬ったゴミ箱に伸びていく。
「幸せになってほしかっただけなんですけどねぇ」
 彼の思い描いたものが彼女の幸福か、そればかりは確かめる術がない。
その舞台に彼の居場所はないと引き際を弁えた、ただそれだけの話。