aknzy
2026-04-25 00:47:15
16089文字
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贈り物

一年生の頃の鉢雷です。
ですが。本文中のかっこいいシーンのうち、1/3くらい兵助が持っていっている気もします。

 穏やかな秋の午後。爽やかな風があたたかい陽の光をかき分け、裏山の匂いを運び込んでくる長屋の廊下に、薄青の装束を身に纏った子どもが一人座り込んでいた。

「はぁ……どうしようかな」

 手に何かを握り込んだまま、ずいぶんと落ち込んでいるのが遠目からよくわかった。しおしおと曲がりきった背筋に、小狐の尾のようなふわふわとした髷がぺとりとくっ付いている。隣の組のそっくり同じ顔をした二人組の、どちらかだ。どちらだろうか。まあ、正面から真っ直ぐ見据えても、二人並んでいるところを横から盗み見てもとんと見分けがつかなかったのだから、後ろ姿で分かるわけがないとは思うのだけど。
 打ち解けたと思ったら今度はやたらめったら豆腐を勧めてくるようになった同室が、先生に用事があるからと呼ばれて行ったため俺はすこぶる暇なのである。つまるところ暇つぶしとして、曲がり角の影に隠れて、同じ顔のどちらか分かるまで調査を続けることにした。隠れて調査なんてなんだかとても忍者っぽいし。

 そうして落ち着いた秋の空気に似つかわしくない、じめじめした空気を撒き散らす背中を眺めること四半刻。見る姿は変わらずぐんにゃり曲がった背中だけだし、聞いた言葉といえば「はぁ……」「どうしようかな……」「うぅ〜……」「……何も分からない」の四種類だけで計二十回を超えたときた。薬味だけが乗った豆腐を毎日かわりばんこで食べさせられることには耐えられる俺でも、流石にいい加減にしろ、と焦ったくなり廊下の陰からえいやっと飛び出した。

「おい、何をそんなに悩んでるんだ? 組は違うが俺も学級委員長だから相談に乗ってやる! だから元気出せって、な?」

 肩に手を置き、覗き込むように隣に座る。この至近距離から観察すれば、さすがに分かるんじゃなかろうかという期待を込めて視線を向けると、そこにあったのは、先ほどまで教壇に立っていた我らが担任、木下鉄丸の顔だった。

「うわぁぁぁあああ!!」

 驚いた拍子に縁側から落ち、土の上に尻餅をつく。さらに背を丸めふるふると小刻みに震えたかと思うと、顔を手で覆い、あっという間にその顔をいつもの顔に戻してしまった。

「は、鉢屋三郎! お前なあ〜!」
「ははは、悪い悪い。尾浜勘右衛門、思っていた以上に君が吹っ飛んでいくものだから……つい面白くなっちゃって、さあ」

 そう言い終える前にも軽く吹き出す鉢屋に、口をとんがらせながら隣に座った。

「せっかく人が心配してやったってのに、損した気分だ」
「座っているのが私たちのどちらか見極めようとしてただけだろう? ……痺れを切らすまでずいぶんと耐えていたけれど、あんなに悩んでいたのに雷蔵だとは思わなかったのか?」
「え、ううん……そういえば確かに。悩んでたらそっちが不破雷蔵だって教えてもらったのになあ」

 同室の久々知兵助がこれまた人伝に聞いた話だったが、不思議と思いあたらなかったことを伝えると、すうと目を眇めて「……ふうん」とどこか警戒したような緊張が走った。兵助や、兵助と仲の良いろ組の竹谷八左ヱ門なんかを交えて話した時に見た鉢屋とまるで別人のような姿に、首の後ろに底冷えする冷気がすっと走る。

「──まあ良いか、ところでい組の学級委員長、尾浜勘右衛門」

 鉢屋がゆっくりと瞬きを一つ落とし、目をぱちりと明けた瞬間。いやに緊迫感のある表情は鳴りを潜め、よく見かけるお調子者のいたずらっ子の顔で調子を変えて話しかけてきた。
 な、なんなんだこいつ。掴みどころがないとは俺よりもろ組の連中と絡むことの多い兵助の言葉だが、まさかここまで意味の分からないやつだとは思ってもみなかった。

「な、なんだよ」
「私は先ほどまで木下先生の顔をしていたが、なんでだと思う?」
「え、いや分かんない。どうして?」
「ちょっとは考えてくれよ……まあ良いや、驚かせたお詫びに教えてやろう」

 そう言うと、わざとらしく咳払いを落として、今日一番の笑顔で鉢屋は言った。

「正解は、『尾浜勘右衛門! 学級委員長の仕事をほっぽり出してどこをほっつき歩いとる!』って、すごく怒ってる木下先生を初めて見たから、でした」
「は?」
「それはもうすごく怒ってたぞ」
……はあ!?」
「怒った木下先生、いつもの六割増しに怖かったな」
「ちょっと待て鉢屋お前、いつから木下先生の顔してた?!」
「えーと……君が曲がり角に隠れる少し前に先生が通りがかられたから、その時からかな」
「はぁ!? なんでずっと黙ってたんだよ!!」
「いや、君は一体いつになったら思い出すのかなってちょっと観察を」
「何だよそれー!!」

 同じ顔の片割れどちらかを調査していたつもりが、俺の方が逆に観察されていたし、全く思い出せないけど木下先生をめちゃめちゃ怒らせてしまっているらしい。のどかな放課後が、あっという間に地獄の様相を呈してしまった。それにこうしている間にも何を仰せつかっていたか記憶を探っているのに全く思い出せないし!
 ああもう、教えてくれてありがとうだけど次からはもっと早く言ってくれ!



 次からは早く言ってくれ! と叫びながら走り去る後ろ姿に、手を合わせる。すまん、尾浜。全部嘘だ。木下先生は怒っちゃいないし、君は何も忘れちゃいない。きっと悪戯を仕掛けた上に全力疾走させたお礼参りがあるだろうが、真実を知った尾浜の対処はきっと未来の私が何とかしてくれる。そうして未来の私に託してはいけないものは、今はこの手の中にある面だけだ。

 私が木下先生の変装をしていたのは、尾浜がここへ来る少し前に通りすがった、彼の同室の久々知兵助との会話がきっかけだった。



「三郎じゃないか、何をぼうっとしてるんだ」

 縁側に座り込んで、この三日間、私を迷いの路に誘ってやまない面を握りしめていると、い組長屋の方から歩いてきた兵助が隣に座った。

「ああ、兵助。ちょっと考え事ちゅう。……ところで、なんで私だって分かったんだ」
「え? だって面を握りしめているのもそれらしいし、それに何より、雷蔵は今ご実家に急遽帰省中だろう? もう三日目だったか」
「ああなんだ……知ってたってことか」
「なんだか元気が無いな。その手に持ってる面が原因なのか?」
「君はずいぶんてきぱき話すやつなんだな……ああそうだ、ちょっとこの面のことで悩んでて」
「先生に呼ばれているところだけどまだ少し時間があるから、それまでなら話し相手になるよ」

 そう先を促すようにぱちりと目を合わせられる。学年の中でも目立つこのはっきりした顔立ちは、前から少し変装しにくいとは思っていた。だが、向き合った時に、こうも有無を言わさずこちらの心の内側まで一本放った矢でもってその壁に穴を開け、そうしてできた通り道に光を差し込ませるような、そんな真っ直ぐで強いものがあることまでは知らなかった。敢えて少し変装相手としては避けてきたが、今後は挑戦する機会を増やしてみても良いかもしれない。
 ……それにしても視線の威圧感が強いな。
 逃げるように体を正面に戻し、ふう、と小さく溜息を吐いてから話し始めた。

 ──三日前の放課後、雷蔵に村から手紙が届いたんだ。村にいた頃、雷蔵がよく世話になっていた近所のお爺様が病に倒れ、雷蔵には迷惑をかけるなと報せを出させまいとしていたらしい。それがいよいよいつ死んでしまってもおかしくないような容体になってきたため、お爺様には内緒で知らせる、という内容のものだった。
 雷蔵は手紙を読み終えてから夜明け前の出立まで一晩中泣いていて、雷蔵のまあるい目が涙と一緒に溶け落ちてしまうんじゃないかと不安で、雷蔵の背をさすりながら夜を明かした。
 そうしてまだ暗いなか出立する雷蔵を見送った後、一人で部屋に戻ってくると、机の上にこの雷蔵の面が置いてあったんだ。最初は作りかけのまま置き忘れでもしたのかと思ったんだが、手に取ってみると全く身に覚えのない面でな。
 ……え? いや分かるに決まってるだろう、一見全て同じに見えるかもしれないが、作るたびに違う日の雷蔵を模している。微細な違いも再現しているから、全部違うし、ちゃんと覚えてる。
 面は、ただ形を模して作るだけじゃないんだ。その人の姿形に自分が成るために、己自身を切り替えるための心持ちを切り替える役割も担っている。だから、面を作る時にその人や物の姿になった時、自分がどう振る舞えば良いのか……その人は普段どんな様子でいるのかを思い浮かべながら作ることが大切なんだ。だから全て覚えてる。雷蔵のだけじゃない、お前たちのものだってそうだ。私が作った面は、入学前からこの半年にかけてのもの全て、ちゃんと全部覚えてる。

……だから、この面は私が作ったものではない、とは思うんだけど……
「覚えがないなら誰が作ったんだ?」
「そう! そこなんだ、兵助」
「どこだ?」
「忍たまのお約束は今発動しなくて良い……というか兵助もやるんだな、その見当違いに辺りを見渡すお約束」
「俺だって立派な忍たまの一人だからな。……それはさておき、じゃあその面は誰が作ったものなんだ?」

 両手で握った面を胸元の高さまで上げ、裏側を兵助の方に向ける。

「ここ、木の筋と彫り刀の彫った流れが交差しているのが分かるか」
「本当だ、たてよこ、十字に綺麗に重なっているな」
「今のが一番わかりやすいんだが、他にも面の端の処理の仕方とか、鬘の接着の仕方とかがな、私が作ったものとしか思えないんだ」
……え?」
「いや、それも少し違うか。実家で父から教わった作り方に手を加え、さらに改良を続けてきた私の面の作り方を、さらに何年も改良を続けたような……まるで、未来の私が作ったような作り方がされてるものなんだ」
「さ、三郎……

 呆然とした兵助に少し悪いことをした気分になっていると、突然肩にばん、と手を置いてきて、少し怒った顔で兵助は言った。

「雷蔵がいないからって正気を失うな、三郎。お前が笑顔で迎えてやれないでどうするんだ」
「はあ?」
「迷惑なことも多いけど、冷静なのがお前の長所だろう。つべこべ言わずに正気に戻れ!」

 そう言いながら声は大きく、ばしばしと肩を叩く力は強くなっていく兵助に、私は思わず手に持っていた面を兵助の顔に押し付けてしまった。

「い、痛い痛い痛い! 私はおかしくなんかなっていないし至って冷静だ! まったく、君の方が早とちりで空回りしてしまってるんじゃないか」

 すると、もごもごと面の下で顔を動かしていた兵助が、顔を面の横にずらして言った。

「三郎、この面、なんかちょっと大きくない?」
「えっ? いやそれは兵助に比べたら雷蔵は面長で、そこがいっとう可愛いんだが」
「少し黙って、今つけてるやつ貸して」
「うわやめろ、分かった貸すから離してくれ!」

 私の顔をすかさず鷲掴みにして面を剥ぎ取ろうとしてくる兵助の腕を慌てて押さえつける。くそ、素早い上に力も強いなこいつ。入学前から鍛えていたとは八左ヱ門から聞いていたが、顔に直接触れられた同級は初めてだ。足も速いというし、おとなしそうな顔をしていざ実戦となると、意外と正面からやり合おうとするやつかもしれない。
 冗談がきかない真面目人間枠から要注意枠に移す必要があるな、と頭の片隅に留め置きながら、鷲掴みにされたまま面を外す。

「その下も雷蔵なんだな」
「色々重なってたりするけど、基本的に八、九割雷蔵だ」
「ふうん……あ、ほら」

 興味がなさそうに呟いたかと思うと、手元でかつかつと触れ合わせていた面同士を重ねた状態でこちらに見せてきた。
 ……重ね合わせた?

「上に被さってるのが部屋に置いてあったという面で、下に隠れてるのが今三郎の顔から剥がした面だ。見ろ、ぴったり重なってる」
……本当だ」
「三郎が面を顔に重ねてるのと同じ要領だと思うし、ここまでぴったり重なるってことは、やっぱりこれは三郎が作ったものなんじゃないか?」

 私にとって変姿の術は、雷蔵の姿を模すことは、とても楽しくて、心地よくて、作った時間もつけた時も何一つ取りこぼしたくない大切なものだったのに。
 ──私は、雷蔵の面を、ひとつ綺麗さっぱり忘れてしまっていたのか。

 重なる面を抱え込むように背を曲げると、兵助がふと立ち上がった。

……そういえば、八左ヱ門に聞いたことがある」

 正面に回った、お天道様を背に背負う兵助を見上げる。半月ほど前、八左ヱ門と兵助の喧嘩を仲裁した時のような、気まずそうに頬をかきながら逸らされた目線は、私の背後の自室の方を見やっていた。

「木下先生は、お前たちの見分けがつくんだってな。しかも、三郎が昨日と同じ面をつけてるかそうでないかまで分かるって聞いた。俺はまだ面の違いは分からないから先生はすごい、って言ってた」

 山守の家で育った兵助と、獣たちと触れ合うためによく森で遊び回っていた八左ヱ門は、どうにも波長が合うらしく、組が違う者同士の中では特に仲が良い。

……俺は二人の見分けすらつかないけど、それでもお前たちがすごく仲が良いのは分かるよ」

 忍たまのお約束。その一つ。最も人数が多く、まだ学園の空気に慣れておらず、やる気と不安に板挟みな一年生の頃は、組と組の間の対抗意識が色濃く現れる。
 そんな中で、兵助はい組の優秀生と名を知られながらも、学級委員長として他の組との橋渡しの役目を持つ勘右衛門と同じくらい、他の組の生徒とも隔てなく話すやつだった。

「だから、もし三郎が覚えてなかったとしても、今ここにあるこの面は、きっとすごく大切に作られたものだってことも、分かるよ」

 本人の口下手も手伝って、最初の一ヶ月ほどは小競り合いに発展することもそこそこの数あったようだった。けれど、八左ヱ門と仲良くなるにつれて、雷蔵や私と話すことが増えるにつれて、尖った言葉はまっすぐ届く光に、変わりにくい表情は緊張を解き真摯な視線へと変わっていった。

「もし三郎が作った時のことを忘れていたとしても、今ここにあるこの面は、とても大切に作られたものだ。豆腐を日々大切に作ってる俺が保証する。だから、何も気にすることなんて無いよ」

 背後に回っていた視線が、しっかりとこちらを捉える。さっき逸らしたのとは違う理由で、思わず顔を下に向けた。

……ありがとう、兵助」
「うん、別に。無理やり顔から剥がしたし、悪いなって」
「ふ、あれもう二度としないでくれよ。結構怖い」
「ああ、分かった。気をつけるよ。……そうだ、三郎」
「なんだ」
「こうは言ったものの、お前はきっと雷蔵に関してのことだから多少なりとも引きずるだろう」

 兵助が励ましてくれた手前大丈夫だと胸を張って言いたかったが、自信もないので黙っておいた。嬉しいことであれ悲しいことであれなんであれ、雷蔵のことで私の感情が尾を引かないことなんて、確かに何一つ無いかもな、と思った。

「だからお前、少し木下先生に変装してみたらどうだ?」
……それはまた、一体どうして」
「ほら、木下先生は面の違いにも気づくって言っただろ」
「ああ、言ってたな」
「だから、三郎みたいに違いに気づくけど考え方が違う人に変装してたら、何かまた他に分かることがあるかもしれないだろ」

 確かに、さっきまで閃かなかった問題の答えが、一つ上の先輩の顔で悪戯を仕掛けようと外に出た瞬間に思いついたり、動物の世話で八左ヱ門の顔にしていたのを雷蔵に戻した瞬間、周囲の動物が半分に減った代わりに課題が終わってないことを思い出したりする。
 この間なんか、雷蔵と八左ヱ門と長屋の廊下で話している最中に、尾浜勘右衛門の髪はどうなっているのかという話題になったことがあった。再現として変装したその時、豆腐の香りがどこからともなく漂ってきて、うっすら悪寒の走る背を庇うように雷蔵の手を引き部屋に入ると、廊下に残された八左ヱ門が曲がり角から現れた兵助の豆腐談義に引き摺られていった。
 そういうことがあったばかりなこともあり、兵助の言ったことに素直に頷き顔を変えた。

「確かにな、しばらくそうしてみるよ」

 つい、と前に目をやると、兵助の顔色が斜堂先生に負けず劣らずの真っ青になるくらい、ひどく血の気が引いていた。

「どうしたんだ、へいすけ」
「わ、忘れてた!!!!」
「え?」
「木下先生にい組の用事で呼ばれてたんだった!!悪い三郎俺もう行く!!」

 そう言って、かつてないほど慌てた様子で走り去っていってしまった。

「あ、気づけなくて! すまないことを、したー……あー、もう見えなくなったぞ。悪いことをしたな」

 後に残った砂埃が消えるまで、一応兵助が走り去った方向に手を振っておいた。



 ──思い返してみると、い組は二人とも慌てた時の走り方が似ている気がする。兵助はともかくとして、尾浜勘右衛門にもなんとなく落ち込んだ様子を見せ続けていたら暇つぶしとはいえ声をかけてきたのには少々驚いた。合同授業で遠目に見かけた時や、雷蔵についていくために用具委員の活動をさっさと終わらせ図書室へ向かう時に通りがかる学級委員長委員会の様子なんかを見るかぎり、ああいった時にはかえって踏み込まないようにする人間だと思っていたのだが。まだ半年とはいえ、同室というのは先輩方の言うとおり似てくるものなのかもしれない。

 すっかり日が落ちた部屋で、一人、件の面を眺める。
 この半年の間で、今まで変装してきた面の数を合わせても足りないほどの面を作った顔がそこにある。そしてきっとこれから先、今とは比べ物にならないほど作っていくことが手に取るように分かる。
 それにしても、本当に私が作ったのかまるで思い出せないとは。木下先生の面をつけたまま、とっぷりと日が暮れるまで眺め続けていたが、終ぞ分からなかった。

 雷蔵。らいぞう。たった三日間、夏休みに比べたらずっと短いあいだ顔を見ていないだけだというのに、得も言われぬ不安がじわじわと這い上がってくる。ご飯はちゃんと食べられているだろうか。病は気からというし、悲しみの中体調を崩してしまってはいないだろうか。夜に一人で泣いていないだろうか。泣き明かしたあの夜のように、隣にいて、安心させてやりたい。私がスランプに陥って布団の中で震えていた手を握ってくれたように、私が変装することを笑って受け入れてくれたように、私も雷蔵にとって安心できる居場所でいたい。

 なんだか少し泣きたくなって、文机に置いたままの面を手に取り、雷蔵を呼んだ、その時だった。

「らいぞう……
「ただいま、三郎」

 間髪入れずに返ってきた返事に勢いよく振り返ると、戸に手をかけた雷蔵が、月明かりに照らされながらそこに立っていた。

「ら、雷蔵! ……おかえりなさい」
「うん。ただいま、三郎」

 たまらず立ち上がって手を握り伝えると、少し照れくさそうに頬を染めて笑い返される。顔を変えて鏡の前で笑ってみてもまだ見ることのできない、あたたかいひだまりのような、やさしい雷蔵の笑顔だ。柔らかく包み込まれる手に、ようやく自分の手が強張っていたことに気がついた。

「ふふ、しみじみと僕の面を眺めちゃって。どうしたんだい?」
……ああ、聞いておくれよ、雷蔵」

 照れ臭さを隠すようにてきぱきと荷を下ろす雷蔵に、部屋にあった身に覚えのない面のことを話した。

「部屋に戻ったら、置いてあったのかい?」
「ああ、私の机の上に置いてあった」
「ちょっと、見せてみて」

 行李の前に座る雷蔵の元に躙り寄り、面を手渡す。なにやら口をとんがらせてむむ、としばらくくるくる回しながら観察していた雷蔵が、鬘の一点に目を留めると、ぱっと顔を上げて言った。

「三郎、これ、僕が作った面だ」

 徐々にしかめっつらをゆるめて、えへへ、どうだい? と笑う雷蔵を前に、私は開いた口が塞がらなかった。



 ──確か半月ほど前だったかな。僕が学園を出発する前、八左ヱ門と兵助が喧嘩をしたことがあっただろう? そうそう、三郎がい組の学級委員長、尾浜勘右衛門と一緒に仲裁したやつ。あの時に、二人が仲直りしやすいように、三郎が「相手に感謝を伝えるなら、相手の好きなものでも持って謝れば良いんじゃないか」って言ってたの、覚えているかい。僕はそれを聞いて、僕は三郎に感謝を伝えているだろうか、ってふと思ったんだ。
 ……ああ、うん。お前ならきっとそう言うと思ったよ。でも、僕からも何か形に残るものを、僕が用意したものを、あげたいなって思ったの。
 そうして色々思い浮かべてさあどれにしようかと迷い始めた時に、図書委員の当番で変装についての本を見つけたんだ。続きもの、というか、改訂版がたくさん出ていてね。三十は超えていたかなあ。試しに一つ、一番新しいものを読んでみたんだけど、それがたまたま三郎がいつも部屋でやっているやり方とすごくよく似ていてさ。これだ、って思ったんだ。
 それから手紙が届いたあの日まで、お前が用具委員の仕事をこなしている時間帯に、先輩にお願いして作らせてもらっていたんだ。そう、だからここのところちょっと委員会の時間が遅くなってたんだよね。
 初めて作るものだし、工程も手間がかかっていたものだから、半月かかって漸く手紙が届いた日に仕上げに取り掛かれたんだよ。
 そうしてやっと完成した面をしみじみと眺めていたら、三郎が手紙を届けに図書室まで来てくれたのがちょうどその時でさ。慌てて机の下に隠したんだ。そのまま部屋に戻ったきりだったから……きっと同じ当番だった中在家先輩が届けてくださったんだと思う。



 一通り話し終えると、三郎は、そうか、と言ったきり口元に手を当てて黙り込んでしまった。

「三郎の作った面には及ばないけど、お前が僕に出来の良い面を嬉しそうに見せてくれたり、すごく楽しそうにこだわりを話してくれるのが嬉しくて。それを僕もお前に、同じものをあげたいなって思ったのがそれなんだけど……どう?」

 両手を床について三郎の方に向き直り、面と三郎を交互に見つめていると、ちょっと水気の混じった小さな声で話し始めた。

……うれしい。とても嬉しい。君がこうして考えて作ってくれたこと、すっごく嬉しいよ。ありがとう、雷蔵」
「ふふ、どういたしまして!」

 すん、と鼻を啜る音が部屋に響く。うーん。まだだめそうなら、懐紙を渡してやろうかな。どこにしまっていたっけ。

「私の父は昔、同じように忍術学園に通っていたそうだ。……だからきっと、父も同じようにその本を見て変装を学んだんだろう。そうして覚え、磨いた術を、幼い私に教えてくれたんだと思う。私の面の作り方と似ていたのは、きっとそういうことだ」

 三郎の言葉に、行李を漁る手を止めて、なるほど、とぽんと叩く。確かに三十巻以上改訂版が出ていれば、そういうこともありうる話だ。

「ぜひ、本の作者にお会いしてみたいものだな」
「うんと、たしか竜……竜王丸、って方が書かれていたような気がするよ。今日はもう遅いし、明日、図書室で確かめてみようか」
「そうだな。……ねえ、雷蔵」
「うん? なあに、三郎」

 身じろぎして面を両手で持ち直した三郎が、軽く俯いていた顔を上げた。目には涙を溢れんばかりに貯め、耳はすっかり赤く染まっているのが見える。

「雷蔵、この面、私につけてくれないか?」
「え、うん。良いけど、どうしたの?」
「いいからほら、つけて」

 ぐい、と押し当てられる面を言われるがままに手に取り、三郎の顔に軽く当てる。

……あれ、三郎はいつもここからどうやって面をぴったりくっつけてるの? 木だよね。糊とかつかってるのかな」
「大丈夫だから、そのまま動かさないでいて」

 またまた言われたとおり、動かさないように、きゅ、と力を込めて握ると、三郎が顔を上下左右にゆっくりと小さくゆらして、言った。

「もう大丈夫。手を離してみてくれ」

 恐る恐る手を離すと、僕の作った面は、三郎の顔にぴとりとくっついてまるで三郎が作った面と同じようにその顔に馴染んでいた。ゆらゆら揺らめく炎の灯りがはっきりと輪郭を照らし出すも、あるはずの面の境はその下のものと最初から一続きのものであるようになだらかだ。

……はは、思ったとおりだ」
「え、どうして! 三郎お前今、手なんか使ってなかったよね、どうしてそれでぴったりくっついてるんだ? 木なのに!」

 興奮して三郎に詰め寄る僕に、三郎は小さく笑って答えてくれた。

「雷蔵、君、この面を作る時に、自分の顔に当てて形を確かめていただろう?」
「うん、見ただけじゃそっくり作れなかったから……ちょっとずるいかもと思ったけどね。でも、せっかくだからゆうこうかつよう、しないとなって思って」
「はは、やっぱりな。……雷蔵、私は君の姿を、顔を模しているんだ。そのために色々工夫してるんだけど。とにかく、私の目的は君に変装することだ」
「うん、そうだね?」
「つまり雷蔵。君の顔に当てて大きさを確かめていると、それは、雷蔵の顔になろうとしてる私じゃなくって、雷蔵の変装を完璧にした私が、さらにその上につける面の大きさになるってこと」
……あっ」
「だから、ちょっとだけ大きいけれど形がぴったり同じこの面は、うまいこと嵌めてやれば、糊なんか使わなくってもこうやってつけることができるってわけさ」

 夏休み明けに二人で出かけた市場で見かけた、入れ子の絡繰を思い出した。複雑にでこぼことした、同じ形の大きさだけが違ういくつかの箱が、角度を変えながら動かしてやるだけでみるみるうちに中へ仕舞われていってしまう。あれと同じことが、今この面で起きたってことだろうか。

……それってさ」
「うん」
「それって、三郎が作る面がやっぱりすごいってことだよね!」
「ん、え?」
「だってさ。僕は顔に当てただけだけど、三郎は観察でまるっきり同じものを作れたってことだろ? 三郎はやっぱりすごいなあ!」

 やっぱり三郎はすごいなあ、としみじみと思う。面を作ったのはちゃんと全部自分だけでやったけれど、最初に木を切り出す時の僕の顔の型取りだけはどうしてもできなくて、少しだけ先輩に手伝ってもらったから。どこからか手に入れてきた木材で、型もとらずにこうもそっくりな面を作る三郎は、やっぱり本当にすごいやつだ。



 すごいやつだ、と言われてしまった。まだ一年生にも関わらず、変姿の術に関しては学園一かもしれないと噂されるほどなのだから、きっとそれなりにすごいことなのだろうとは思っていたが。雷蔵に言われると嬉しさもひとしおというものだ。この世の誰より誉めてもらいたくて、笑顔になってもらいたくて、とびきり大切な雷蔵に。
 そしてそんな雷蔵は、私のことを同じように大切にしようとしてくれる。懐が広すぎて怖いからとか、大雑把なやつだから、とか何かと理由をつけては信じようとしなかった春の頃の自分の尻を蹴り飛ばしてやりたい気分だ。

「雷蔵。ところで、その……お爺様とは会えたのかい」

 顔を見た時からずっと気になっていた事を恐る恐るそう聞くと、ぱっと目を輝かせて嬉しそうに聞いてくれよと話し始めた。

「それがね、僕、三郎に見送ってもらってからしばらく歩いていたら、保健委員会の委員長と、二年は組の善法寺先輩にお会いしたんだ」
「保健委員?」
「そうだよ。善法寺先輩が、中在家先輩から手紙の事を聞いて何か出来ることはないか、と保健委員長に相談されたらしくてね」
「ああ、そういうことか」
「だから、もしかしたら何かできることがあるかもしれない、って一緒に村まで診にきてくださったんだよ」
「へえ。それで?」
「村に着いた時はすごく苦しそうだったんだけど、先輩方がその場で煎じた薬を飲むと、次の日にはもう床から起き上がれるくらい元気になってたんだ!」

 学園の生徒が保健室にかかる時、いちばん多い原因として実技の授業や実習で負った怪我がある。打撲に切り傷、擦り傷刺し傷と、一年生から時には先生方まで保健室のお世話になっている。
 そして次に多いのが、まだ体の弱い低学年がひく風邪と、五、六年生の先輩方が実習に赴いた合戦場や他の領地などでかかってしまった流行病などである。それに、四年生になった忍たまには耐性をつけるために毒に慣れる訓練もするという。
 それらを全て内外問わず診ている忍術学園の保健委員が、一般的な村々を回診するお医者様よりも長けているところがあったとして、何ら違和感はない話だった。

「流石だな」
「うん、僕もう嬉しくって。ずっと我慢してたんだけど……先輩方の前で思いっきり泣いちゃったよ」

 えへへ、と笑いながらふにゃりと眉を下げて笑う雷蔵に、胸の内側がきゅうと苦しくなった。

「それで、今日の昼まで先輩方が薬を作るのをお手伝いしたり、村の近くの薬草の分布図を作ったりしてから、こうして帰ってきたというわけなんだ」

 何はともあれ回復されたようで良かった、と返すと、雷蔵は少し浮かない顔をした。今話していないところに、何か暗い表情をするようなことがあったのだろうか。

……三郎」
「なんだい、雷蔵」
「僕がいなくて、寂しかった?」
「ん、突然どうしたんだ雷蔵。そりゃ寂しかったけど」
「だって。お前、僕が泣いちゃったって言った途端にすごく寂しそうな顔をするんだもん。気づいてないのかい?」

 雷蔵が作った面越しに、頬をやわやわと撫でられる。

「手紙が届いた夜、一晩中僕のことを慰めてくれただろう。なのに、渡そうと思って作った面は渡せずじまいだし。三郎を一人にしちゃったなって……それにさぶろう、僕が見てないところで泣いたりするの、すごく嫌がるじゃないか」

 雷蔵が話すたび、一つ一つの言葉を探りながら頬に触れられるたびに目の前にいる雷蔵の私とそっくり同じ私服がぼやけて色が滲んでいく。

「っ、らいぞう」
「うん」
「わたしは、自分で思っていたよりもずっと、君のことが、すきみたいで」
「うん。……僕もだよ」
「本当はついて行きたかったし、この面は私が作ったのにそれを忘れちゃったんだと思ってた」

 しゃくり上げながら必死に口を動かす。なんで私はこんなに泣いてるんだろう。どうして、こんなに。

「でも、この面は雷蔵が作ってくれたもので、とても嬉しいんだ」
「喜んでもらえたなら、よかったよ」
「嬉しいし、同じくらい……悔しいんだ」
「え?」

 悔しい、と口にしたその瞬間に、頭を覆っていたじんと痺れた感覚がすう、と消えた。
 そうか、私は悔しかったんだ。



 三郎が、大粒の涙をぼたぼたとこぼしながら泣いている。拭っても拭っても止まらない。あんまり泣くと目を腫らしてしまうよ。そう声をかけようとした時、震えながら大きく息を吸って、三郎はまた掠れた声で話し始めた。

「い組の兵助に、言われたんだ。『大切に作られたものだってことは見れば分かるから、忘れてたって大丈夫だ』って」
「兵助がそんな事を……うん、それで?」
「でも、雷蔵は私のことをたくさん考えて、これを作ってくれたんだろう」
「それは、そうだね」
「雷蔵は、私がしたことに、さっきみたいに私の気持ちを分かってくれてるじゃないか」

 膝小僧の上で握り拳を作っていた三郎の両手が、その上に添えていた僕の左手をぎゅっと包む。

「でも私は面のこと、気づけなかった。それにきみ、すごく綺麗に作ったじゃないか。夕餉の当番の時、いつも下処理が大雑把なのに、あんなにていねいに。だ、だからわたしは、雷蔵のこと、ほんとはなんにも分かってないんじゃないかって、怖くなったんだっ」

 そう大きな声で話すと、恐ろしさを遠ざけるように、安心するものにくっつくみたいに僕の手を三郎の額あたりで握り込んで、しくしくと静かに泣き始めてしまった。

 ……三郎は何も悪くないのに。三郎ほど、僕のことを分かっていて、僕のそばにいてくれる人なんて、他にいやしないのに。僕が見たことないくらい泣いていたことで不安にさせちゃった上に、出自不明の面が重なったものだから、こんなふうにさせてしまったのかな。

「さ、三郎。泣かないでおくれよ、そんなわけないじゃない。僕をいちばんよく分かってるのは三郎だよ。僕が自分の顔をそのまま使ったってすぐ当てたじゃないか」
「ふ、ぅう、んぐっ……うぅ……
「ほら、今日はもう寝よう? 帰りに先輩が転んで泥だらけになったから、湯殿にはもう寄ってきてあるんだ」
……っ、……ぅん゛」

 ずびずびと鼻を啜る三郎の手を優しく剥がし、行李から出した寝巻きに着替える。その間ずっと、三郎は僕のことをじっと見ていた。
 軽く帯を締め、さて布団を敷こうと立ち上がった時に、ぴん、と裾を掴まれた。

「どうしたの、三郎」
……
「え、ごめん、もう一回言ってくれるかい」

 中在家先輩よりも小さい声でぽそぽそと喋る三郎に、しゃがみ込み、耳を寄せる。

……いっしょのふとんで、寝てはだめか?」

 三郎は真っ赤に泣き腫らした目を半分だけ開けて、まだ少し震えを残したまま、伺うようにこちらを見ていた。

「もちろん、僕もそうしたかったんだ。ほら、おいでよ。一緒に寝よう?」

 それで三郎の不安が取り除けるというのなら、一晩じゅう、ぎゅっとあたためてあげよう。今度は僕が三郎に寄り添ってあげる番だ。
 泣いたことですっかり温かくなっている手を握って、そっと引いた。



 僕が学園に戻った翌日の放課後。僕は三郎と二人、件の本を読みに図書室を訪れた。

「失礼しまーす……って、あれ。今日の図書当番は委員長なんだけど、今は留守にしているみたい」
「貸し出しが必要なわけでもないし、探してしまおうか。来られたら、その時に説明すれば構わないだろう?」
「うん。鍵がかかってなければ、いつだって大丈夫だよ」

 確かこのあたり、と指した棚を二人で覗く。

「あ、あった。これだよ、『変姿の術の基本のき 〜その三十二〜』」
「結構分厚いんだな」
「細かく図解が示してあって、すっごく分かりやすいんだ……ほら」

 そうしてページを三郎に向けた途端、瞳がまぁるくぱちりと開いたかと思うと、突然彼が吹き出して、笑った。

「っふふ、はは! ら、雷蔵ぉ! 君、これを見て作ったのか?」
「わ、何だよ突然。そうだよ? この本のおかげで作れたんだ」

 そう言うと、三郎はまだ笑いが止まらないようで、僕の肩をとん、と叩きながら言った。

「ら、らいぞぉ、その書き込み、っふふ、最初からあったのかい?」
「え、うん。全部の頁にあったけど……それがどうしたって言うんだ?」
「あ〜……、んふふ、じゃあ、じゃあさ雷蔵。君の顔の型を取るのを手伝ってくれた先輩ってどなた?」

 四年生の先輩だよ、と言うと、三郎は徐に立ち上がり、受付にあった当番表を持って戻って来た。

「えーと……半月前ってことはこの日かな」
「いや、その翌日だったから次の頁の……って、あれ」
「あぁ、やっぱりな。そうだろうと思ったよ!」

 二人で片側ずつ持った当番表のあの日の頁には、僕の面づくりを手伝ってくれた四年生の先輩の名前は無かった。

「えっ、それじゃああの日僕の型をとってくれたのは一体誰なんだ?!」
「落ち着いてくれ雷蔵、大丈夫。悪いやつの仕業じゃあないよ。……まあ、勝手に侵入してるのは悪いことだけど。でも、君に危害を加えるような人じゃない」
「三郎は誰だか分かったのかい?」
「あぁ……雷蔵、もう一回変姿の術の本を開いてくれるかい」

 言われるまま、さっきと同じ頁を開いて見せる。三郎の、僕より少し細くて大人みたいに綺麗な指が、描き込まれた文字をなぞる様に撫でていく。

「この書き込み、実はね」
……っ、うん」

 三郎が声を潜めるのに合わせて、間に置いてあった当番表をどかして近寄った。耳元に片手を添えられ、とっておきの秘密を話すときみたいな、どこか楽しそうな声色で、三郎は言った。

「実は、それ、私の父上の筆跡なんだ」

 考えてもみなかった言葉に、思わず三郎と筆跡を交互に見やる。いかにも「書の上手い人」が書いたような、流れが綺麗につながる書き込みは、言われてみると、確かに三郎の字と少し似ているかもしれない。

「えっ、三郎のお父上!?」
「しーーっ! 雷蔵、流石に声が大きいよ!」

 器用に小声で叫んだ三郎に、少し冷静になる。……いや三郎のお父上!? 春に行った一年ろ組一同による近隣に住んでいる忍たま達のご家庭訪問行脚旅に唯一顔を出さなかった三郎のお父上が、学園に来ていたの!? しかも先輩の変装をして僕に手解きを……?! 一体何の目的があってそんなことをなさったんだろうか。三郎本人に助言をするということなら分かるけれど、どうして僕に……? 

「う、う〜〜〜〜ん……
「さては、父上がそんなことをした理由は何か、で迷っているな? 雷蔵ぉ」
「う、うん……って、すごい笑顔だなぁ。もしかして、三郎には心当たりがあるのかい?」
「もちろんだとも」

 三郎はそう言いながら立ち上がり、当番表をもとあった場所へと戻した。

「夏休みに帰った時に、雷蔵のことをたくさん話したんだ。雷蔵がどんなにすごくてかっこよくて可愛いか」
「お、お前は何を話してるんだよ……

 本を持ったまま座り込んでいる僕の前にしゃがみ込み、小さく笑って、三郎は言った。

「雷蔵が、私がずっと変装していることを許してくれて、私と一緒にいてくれて。……私の大切な人なんだって、言ったんだ」
「た、たいせつなひと」
「ふはっ、口ぽかんって開いてるぞ。……嫌だった?」
「そっ、そんなわけないよ」

 つん、と鼻先をつつかれたと思うとそんなことを言うものだから、慌てて否定する。そんなわけないだろ。

「大好きだよとはよく言ってくれるけど、大切なっていうのは初めて聞いたから、ちょっとびっくりしただけなんだ」
「そうか?」
「うん。ちょっとびっくりしたけど、なんだかすっごく嬉しいや。ねぇ、もう一回言ってみて、三郎」

 膝を立てたまま抱えて、組んだ腕の上からじっと三郎の目を見つめる。ふと見やった耳が、昨晩の行灯の灯りのように淡く染まっていた。

……先輩ちょっと遅くないか、探しに行こう」
「あ、待ってよ三郎、逃げるなんてずるいぞ!」

 とたた、と遠ざかる足音に急かされて素早く、それでいて丁寧に本を棚へとしまう。何となくそうした方が良い気がして、手を合わせてみた。

「三郎のお父上、変装について教えてくださりありがとうございました。いつかきっと、今度は僕が三郎のことをすごく大切だってこと、お話しに行きます」

 ぱん、とひとつ手を叩いて立ち上がる。戸口の前でそわそわとこちらの様子を伺う気配に自然と口角が上がった。あの日図書室でお会いした先輩だと思っていた人の手は、とてもあたたかく綺麗で、優しい手をしていたことを思い出す。
 焦ったくなってきたらしく、かたりと足音を立てた人影に向かって、一歩、前へと足を踏み出した。