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那須野
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そしてまた夏陰を待つ
小ネタ/結城くん+越知さん。結城くんが部長を降りた数日後の二人、少しの切れ端。
あと一年遅ければ。そう思わなかったといえば嘘になる。
中学三年生の春、満開の桜が葉桜へと変わりつつある水曜日。結城和樹は業後のホームルームを終えて、黙々と帰り支度を整えていた。
今日は部活動の休養日だ。普段なら友人との予定が入っている場合も少なくないけれども、どうにも気が乗らずに誘いはすべて断ってしまった。早々に帰ったところで時間を持て余すことはわかりきっているというのに、ざわざわとした放課後の教室に身を置いているのが落ち着かない。
ふ、と溜息をひとつ吐く。とにかく、今日はもう、帰るのだ。教科書類の詰まった鞄を肩に掛け、自身の席の斜め後ろにある扉へ向き直り
――
廊下に見えた、ここにいるはずのない長身に、荷物を床に取り落とした。
「結城。
……
少しいいか」
背丈が二メートルをゆうに超える彼には、教室のドア枠などあまりにも低い。それでも律儀にわずかに身を屈め、基準服姿の彼
――
越知月光はそう言った。
半分呆けたままの自分に、放課後の予定と同行の意思の有無を手短な言葉で確認したあと、彼は早々に踵を返して歩き出す。
身長に見合った長さの歩幅でまっすぐに進まれると、ほとんど駆け足でなければ追いつけない。
先月、卒業式で送り出したばかりの広い背が、今また自分の目の前にある。突然の出来事にむろん動揺はしていたが、高等部生の彼が中等部の校舎にまで訪ねてきた理由については心当たりがあった。
彼と会話ができる数歩後ろの距離にまで、意を決して近付く。渡り廊下の向こうにある薄曇りの空に、彼の銀髪が滲んでいる。
「先輩、あの、部活は」
「
……
業者の整備作業が予定より長引いた。開始が一時間ほどずれ込むらしい」
「そ、そうなんですか
……
?」
荷物は部室のロッカーに置いてきたのか、越知は随分と身軽な姿だ。迷いのない足取りで敷地を抜け、特別教室棟のシアタールームがあるフロアで彼はようやく立ち止まった。
中高の共用施設であるシアターでは月に数回、課外鑑賞学習の機会として何らかの映画の上映が行われている。あくまで自習の一環であり、(結城自身はあまり参加した経験がないものの、)毎度それなりに賑わっている印象だ。
掲示物を見るにちょうど上映が始まったところらしく、人けのないフロアはしんと静まり返っている。音響装置のものと思しい重低音が、壁越しにごくわずかに聞こえてくるばかりだった。
放課後の学園に、こんなにも静かな場所があったのか。周囲を見回しながら内心驚いていると、待合スペースに置かれたベンチを示した彼が自身を呼んだ。結城。
促されるまま、少し間をあけて彼の隣に腰掛ける。さっぱりと短く整えられた髪に差す青いメッシュを見つめ続けることができずに、視線を前に引き戻した。同じように前を向いた彼が、静かに口を開く。
「部長の立場を、辞退したそうだな」
「
…………
はい」
問いとも確認ともつかない彼の言葉は予想通りの内容で、心の準備をしていたはずだというのに声が喉の奥に重く詰まる。
去年の夏の終わりに越知から引き継いだ部長の肩書きを、自身は先日入部してきたばかりの一年生に譲り渡した。
『風雲児』という言葉がよく似合うその新入生は、まさに圧倒的だった。実力やカリスマ性を、部にいるどの上級生よりもはるかに持ち合わせ、自分自身のものとして従えながら、跡部景吾は堂々とそこに立っていた。
「
……
けど、自分でも、納得は、してます」
「
…………
」
「アイツが部を引っ張った方が、俺たちは絶対にもっと、上に行ける。
……
絶対に」
コートで真正面から叩き伏せられ、事実に近い確信を突きつけられてなお立場にしがみつくことなど、できはしない。
彼から受け継いだ部の次への成長の可能性を、私情で潰すことは許されない。理解していた。
……
理解、せざるを得なかった。
「そうか」
淡々とした彼の低い声が静かに鼓膜をたたく。
それ以上彼が何も言わないことに、ひどく安心したような、後ろめたいような心地がする。その横顔をちらと窺おうとしたところで、
――
ふいに視界が大きな影で覆われた。
「
……
ッ」
持ち上げかけていた視線が、足元へとやわい力加減で押し下げられる。自らの後頭部に彼の大きな手のひらが載せられたのだと気が付いて、息を呑む。
俯いた先の視界で、彼と自分の靴先が並んでいる。手入れをしても、学校生活の長さの分の消耗は隠しきれない。自身の靴先を、砂埃がほんの少し汚しているのが目に留まり、なぜだかじわりと視界が滲んだ。
「
……………………
、越知先輩、」
「ああ」
「
…………
スミマセン、
……
俺、せっかく、任せてもらった、のに」
「
……
ああ」
「ちゃんと、やりきりたかった、部長」
途切れ途切れの声と滴が、握り締めた拳の上にほたほたとこぼれおちていく。頭上から、彼の小さな相槌が聞こえる。ああ。
この選択が、部にとっての最善だと理解している。納得もした。たった一度ネット越しに向かい合っただけでそう信じるに足りるほどのものを、あの風雲児は持っている。
それでも。
前髪に入れた赤いメッシュが、視界の端でぼやけて滲む。憧れて追い続けた背中。彼から引き継いだ役目を、自分で手放す痛みは本物だった。
「問題ない。
……
まだ、これからだ。結城」
「はい、」
部長の座を譲り渡しただけで、部を辞めるつもりも、テニスを辞めるつもりもまったくない。
……
だから、泣くのはこれが最初で最後だ。
越知の言葉に何度もただ頷いて応えながら、結城は彼と二人、しばらくのあいだそこにいた。