「そうなったらさ、桜の時期にでも待ち合わせしようよ」
イタズラを思いついた子どもみたいな顔をして叶が言った。去年の春、ふたりで夜歩きをしたときの話だ。
いつものランニングコースには街路樹としてハナミズキが植わっている場所がある。普段は道路の付属物くらいにしか認識していないせいか、蕾が膨らみ始めてようやくそれが花を咲かせるものだったことを思い出す。今年は季節外れの夏日もあり、例年よりも蕾をつける時期が早い。春の風物詩ともいえる桜にいたってはもうとっくに盛りを過ぎていた。
桜は冬の寒さを経たあとで積算温度が600℃を超えると花を咲かせるそうだ。テレビの気象予報士の解説に、雑用係が「へー」と声を揃えていた光景が記憶に新しい。桜の開花予想は誤差数日の高精度らしく、それを知った結果、開花予想の数日前から日課に夜の散歩が加わった。
この散歩が約半月に渡って続いているのは、現在行方不明中の男が半ば一方的に結んだ約束のせいだ。
あのときも桜の見頃は終わっていた。何の集まりだったかまでは覚えていないが、お馴染みの面子が家に上がり込み、いつもどおり遊んでいた。用意した食事のほかに、珍しく酒もそこそこ飲んだ日だった。夜になり真経津がアイスを食べたいと言い出したことをきっかけに、敗者が買い出しに行くゲームが始まった。大方の予想通りに買い出しの役目を負うことになると、便乗したオーダーがあれこれ追加される。そこへ追い打ちをかけるように真経津が限定商品が食べたい、それじゃなきゃ嫌だ、なんてクソガキ感溢れる要望を出してきた結果、少し離れたコンビニまで行く羽目になった。
「オレも酔い覚ましに一緒に行こっかなー」
そう言って立ち上がった叶に、それなら代わりに行ってくれと一瞬思ってしまう。が、それを見透かしたように真経津から「負けちゃったから仕方ないよね」と釘を刺される。真経津の言うことはもっともで、おとなしくスマホを引っ掴み玄関へと向かった。
昼間はすっかり春の陽気だが、日が落ちれば気温はガクッと下がる。時折吹きつける夜風が多少肌寒くはあるものの、ほろ酔いの火照った顔と頭を冷ますにはちょうどいい。
普段あまり徒歩では通らないルートは、暗さも相まってどこか新鮮に映る。道の先にぽつんと見える電柱を左に曲がればようやく目的のコンビニに辿り着ける。曲がり角まで100メートルほどのところで、前を行く叶がなぜか立ち止まった。横を向いた叶の視線の先にはこじんまりとした児童公園があった。そこには小さなすべり台と鉄棒があり、ベンチがひとつ外灯で白々と照らされていた。なんの面白みもないはずのその場所に叶は立ち入っていく。目的が分からず首を傾げながらも気まぐれなその後ろ姿を追う。
ベンチの前で足を止めた叶は一本だけ植えられた木を眺めていた。背の高い建物に囲われた中、叶の周囲を照らす外灯がスポットライトみたいで、まるで劇中の一シーンのような絵面だ。
「すっかり葉桜だな」
叶の言葉でそれが桜なのだと知る。たしかによく目を凝らせば葉に混じって白っぽい花が数個見えた。
「花見したのも一週間以上前だし、そんなもんだろ」
もちろんそのときは叶も一緒だったのだから、言われなくても分かっているはずだ。叶は桜から視線を外すと、ぐるりと周囲を見渡す。
「人通りも少なさそうだし、この時間ならここ貸し切りかも」
そう離れていないところに桜並木もあるので、叶の言うとおり、わざわざこの場所へ一本しかない夜桜を見に来る人は少なさそうだ。
今はもうほとんど葉しかないのに、叶はまるで満開の花があるような素振りで重なり合う枝を眺める。無いものを有るように振る舞う叶に腹の底がざわりとする。
「なんか、オマエってどっか行っちまいそうだよな」
頭に浮かんだことが、そのまま口から零れ出ていく。まだ酔っているのかもしれない。
「居なくなったら寂しくて毎日泣いちゃう?」
「バーカ。すぐに慣れんじゃねぇの?」
「ひっど」
意趣返しのような言い回しに、叶は不服そうだ。
「オマエが言えたセリフかよ」
「意外と根に持つタイプなんだ」
それはどうだろうか。過ぎたことはあまり気にしないほうだと自認している。なのに、ある時期から叶に言われた言葉は消えることなく積もっていくばかりになっていた。どういう仕組みでこんなことになってるのかは、深く考えないようにしている。
「あ、良いこと思い付いた」
「あ?」
「そうなったらさ、桜の時期にでも待ち合わせしようよ」
唐突にそんなことを言い出した叶はどこか楽しそうだ。
「なんだそれ」
「もしもの話。今くらいの時間にここで。どう?」
「どうもこうもねーだろ。どういう状況の話だ、ソレ」
「なんか不測の事態? とかで会えなくなっちゃったとき、こんな約束があったらいいだろ? 忘れられないようにする御守みたいで」
「んなもん、オマエのためのだろ」
「そうだよ。オレのため」
叶のためという言葉の意味合いがなんだか噛み合ってないようで真意を探りかけた瞬間、目の前に叶の拳が差し出された。一番外側の指だけが立てられている。
「なんだよ」
「約束って言ったらこれだろ?」
動こうとしない手を叶は無理やり掴んで指を絡ませ、お決まりの口上を歌うように唱えだす。
そうだ、コイツも酔っ払いだった。
そう思い出しながらされるがままになっていたところにスマホが鳴った。電話に出ると真経津からで、アイスはまだかという催促だ。表示された時刻から、だいぶ道草を食っていたことを知る。こんなところで長居をして風邪を引くのも馬鹿らしい。さっさと行くぞと叶を追い立てて、足早にコンビニへ向かった。
戯れじみたあの夜の一幕も日々の生活に紛れていった頃。叶から一通のメッセージが共通のグループへ送られた。
「なんか面倒なことになりそうだから、ちょっと消えるね」
それは本当に唐突で、そのメッセージを最後に叶のアカウントはunknownという名前とグレーのアイコンに様変わりした。
そこから今日まで半年以上が経過しても音沙汰なしだ。徐々に不在の日々にも慣れてきたはずだった。それなのに正月を過ぎたくらいになると、頭の隅っこであの約束がチカチカと存在を主張し始めてきた。寒さが和らぐごとに無視できないくらいになったそれが、今こうして、あの日のベンチに自分を座らせている。
お百度参りには到底及ばないが、半月通ったこの場所は随分と馴染みのある場所になってしまった。だが、それも今日限りだ。ほんの少しだけ残っていた花弁も今朝方の強い雨がすっかり散らし、洗い流したから。
結局、この場所に叶が現れることはなかった。
当然といえば当然だ。嘘吐きと詰る気もない。五歳児が仲良しの子とする結婚の約束とか、小学生がこれから先もずっと親友でいようと決めた誓いとか。悪気のない、だけど後々になってまで真に受けるものでもない類のそれだ。そもそも酔っぱらいの言質などあてにするほうがおかしい。
あのとき気付きかけていた叶への感情は、どうやら着々と育っていたらしい。毎夜、桜の花の移ろいを眺めているうちにようやく気付いてしまった。こんな酔狂なことをしているのはなぜか。気付いたところで、当の叶が居ないのならどうもこうもないことも含めて。
きれいさっぱり花を散らせ切った桜を座ったまま見上げる。蕾のまま膨らみ、開くこともないこんな思いは、さっさと切り捨ててしまうべきか。あんな約束を後生大事に抱えるなんて不健全だ。だから、もうここに捨てていこう。帰って寝て、明日になったら全部なかったことにして。
細く息を吐いた後で立ち上がろうと足に力を入れた瞬間、視界に影が落ちた。急な暗がりに反射的に顔を上げる。外灯の光を遮るようにベンチの背後で男が立っていた。
「ごめーん、待った?」
ひどく耳馴染みのある声で尋ねる男は髪色こそ真っ黒なものの見間違う余地もなく昨日までの待ち人だった。
「
……人違いじゃねえ?」
「あ、そうくる?」
「オレが約束した奴は桜の時期って言ってたからな」
「桜の絨毯だって桜の時期だろ?」
「これのどこをどう見たら絨毯って言えんだボケ。節穴か?」
視線を地面に落とせば雨に流されずに済んだ花の残骸が一、二枚へばりついているだけだ。
「えー」
「残念、タイムオーバーだな。時間をかけ過ぎたってやつだ」
突き付けた言葉に叶は耳が痛そうだが知ったことではない。仮に国外に居たのだとしても桜の開花なんて少し調べれば分かることで、そこから散るまで猶予はたっぷりあったのだから。それをしなかったのは、やっぱりその程度ってことだろう。そう考えるのは卑屈だろうか。それでも、もとは叶が言い出した約束だ。
今さっき、散った桜を区切りにようやく心機一転と決意したこの気持ちを、この男はどうしてくれる気なのか。遅刻をしてきた男に八つ当たりしても文句を言われる筋合いはない。
叶は桜の木に近寄る。どんなに眺めたところで、一片だって花弁は残っていない。それは他でもない自分が一番良く知っていた。
「でもさー、オレ桜の時期とは言ったけど「ここの」とは言ってないよな?」
観念して木から離れたと思えば、とんでもない屁理屈が叶の口から飛び出してきた。待ち合わせはここで、だけど桜はここのじゃない、と。こちらの反応などお構いなしに叶はスマホを見せてくる。
「ほらほら。咲いてる木もあるって」
「んなもん、リアルタイムって証拠はねーだろ」
「まあ、たしかに敬一君の言うとおりだな」
やけに聞き分けの良い反応に怪しんでいると、叶は楽しそうに笑みを浮かべる。それこそ約束をしたときに似た、まるでイタズラを思い付いた子どもみたいなやつだ。
「じゃあ、今からちゃんと咲いてるか見に行こうか! タクシー待たせてるから」
「はぁ⁈」
「ほらほら早く早く。運転手待ちぼうけになっちゃう」
急転直下の展開についていけずにいると、叶は勝手な言い分で腕を引く。路肩にはハザードランプを点灯させて停まっている車が見えた。ぐいぐいと押してくる叶に促され、とりあえず後部座席に乗り込む。
「じゃあ、お願いしまーす」
続いて乗った叶はドアが閉まるなり、耳馴染みのない丁寧語で発車を促した。
「どこ行くんだよ」
「東京駅」
「ちなみにその先は?」
「新幹線の最終、ギリ間に合うといいな!」
「オマエ
……」
開いた口が塞がらない。久々に顔を合わせた男に言ってやりたいことは山ほどあるが、とりあえずは窓の外を眺める。突拍子もない事態に頭の中を整理する必要があった。
「っつーか、今更桜咲いてるかなんて、どうでもよくねぇか?」
改めて自分が着の身着のままで遠方に連れ出されることに疑問を抱く。
「だって嫌なんだもん」
「なにがだよ」
「敬一君の約束を破る男って不名誉なレッテル貼られるのが」
「ワガママに付き合わせる自分勝手な男ってのが揺るぎなくなるのは?」
「そっちは、まあ。敬一君はノーと言えちゃう男だし?」
それは暗に「本気で嫌がってないでしょ?」と言っているのだろう。
「それに汚名返上したら、言いたいこともあって」
「なんだよ」
「なんか言いそびれちゃってたこと。だから一緒に桜見てから言う」
それ以上を今言うつもりはないらしい。思わせぶりな言い方に少しも期待するなというのは無理な話だろう。
桜前線は今どこまで北上しているのか。たしか北海道は開花がまだのはずだから、どこかでは追いつけるのか。
依然として窓に顔を向けていると、揺れる座面に置いていた手に叶の小指が触れた。わざとなのか、たまたまなのか。勘ぐるよりも先に、それが獅子神の小指に絡みついた。
よくもまあ、シラフでこんなことができるものだ。
いったいどんな顔でやっているのかと気になったが、ここで叶を見るのは思惑通りになりそうで癪だった。視線は頑なに外へと向けたまま、なにをやってるんだかと呆れながらも、絡んだ指に少しだけ力を込めた。
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