村椿と渡瀬さん🐱

にゃん。

 たす、と脹脛を叩く柔らかな感触に、京はPCへ向けていた視線を足元にやった。
 金色の目。
 じっと見上げてくる黒いふわふわは愛猫の葵で、京は目を細めながら「よいしょ」と身を屈めて片手を伸ばす。
「どうしました? ぼくはもうちょっとお仕事ですよ」
 ころころと喉を撫でればごろごろと鳴る葵の喉。仕事がある、なんて言いながら京は葵を抱き上げて膝の上に乗せると、両手で葵の顔をもちもちと撫でる。
「ンー」
「ふふ、はい。大好きですよ」
 愛情の籠った鳴き声に緩む口元。京はちょん、と自身の鼻先と葵の鼻先を触れ合わせると、また葵の喉や背中を存分に撫でる。滑らかな毛の感触としなやかな筋肉の凹凸。ほこほことぬくとい体温にこのままでいたいな、と思いはするのだけど視界の端にはブルーライト。仕事は待ってくれない。
「また、あとで遊びましょうね」
 小さな葵の頭を両手で包み閉じ、耳を兎のようにぴょこんと立たせた京は笑って葵の小さな体を床へ下ろす。
 さて、仕事の続きを、と思ったところで膝に衝撃と重量。
……あとで、ですよ」
 膝へ飛び乗って逆戻りしてきた葵が、なに食わぬ顔でぺそぺそと自らのちいちゃな手を舐めている。京はそれを困った顔で見ながらもう一度下ろそうと葵のふわふわとした体を両手で持とうとするのだが、葵はそれをぬるりと液体のような動きで抜け出して膝に丸まった。額を小さく撫でて、今度こそ、と思えば控えめに手の甲をチクゥ……とする爪。察する能力が高い。
……引っ掻いたりはしないんですけどねえ」
 優しい良い子なのだけれど、気儘な性質の強い葵。可愛いかわいい大事な子。
 京は「まあ、膝にいるくらいなら……」と思ってPCへ向き直ったのだが、集中できた時間は短い。膝の上に落ち着いたと思った葵が京の胸に手を置き、そのままずいずいと肩へ登ってきたからである。
「あ、あ……ちょっとそれは……あの、体勢がつらくなるので……
 言ったって猫の葵が聞くわけもなく、落とさないように若干前屈みとなった京の項を腹で包むように葵は肩で寛ぎ始める。頬にあたる髭がなんとも擽ったい。
「葵、葵……降りてください。駄目ですよ」
 ナン、と短い鳴き声がひとつ、鼓膜を叩く。次いで京は危うく椅子から転がり落ちそうになる。何故か。葵がさりっと耳を舐めてきたからである。
 京は耳が弱い。触れられたり擽られるとぞわぞわと落ち着かない心地になって、下手をするとその場で飛び上がってしまいそうになるのだ。
 そんな耳を猫のざらりとした舌で舐められたのだ。京は「ひい」だか「ひゃあ」だかつかない声を上げ、葵を落とさないようにと思ったものの飛び上がる体を抑え切れずに机へ膝をぶつけた。そんな振動にすら素晴らしい猫の体幹は揺らがないのだろう、葵は降りてくる様子もない。
「葵、こら……
 こら、と叱る声も頼りなく、京は不自由な体勢のままPCを見遣り、仕方なさそうに息を吐く。
 幸いにも仕事は急ぐ内容ではない。時間もまだある。
「ぼくの負けですよ」
 おいで、と肩口に手を持っていけば、さりさりと指先を舐める葵。だが、それだけだ。降りてくる気配はない。どうやら肩で落ち着いてしまったらしい。
…………じっとしていてくださいよ」
 京は慎重に椅子から立ち上がり、床へ膝を突き、ゆっくりと伏せるとその場でごろりと寝転がった。そうすると流石に居場所がなくなるからであろう、葵はとん、と床へ降り立って京の肩から退いてくれる。重さはなくなったけれど、ふわふわとした毛の温かみもなくなってひやりとする首筋を撫で、京は上から覗き込んでくる葵に苦笑を浮かべた。
 黒い毛並みにぴかぴかした金色の目。こんなに小さな体をしているのに、大きな人間の体の動きをあっさりと封じたり動かしたりとできる自由な生き物。
……ぼくの可愛い屋さん」
 腕を伸ばして、ひょい、と抱き上げて胸のなかに葵をしまいこむ。「ンー、ンー」と鳴き声を上げる葵は頭から背中を撫でるとエンジンのようにごろごろと言い出し、額をぐりぐりと京の胸へと擦り付けた。可愛くて可愛くて仕方のない子。
 ぽかぽかとした塊を胸に目を閉じれば幸福がとぷん、と全身を満たすような心地がして、京はほう、と自然に落ち着いた息を吐いていた。
 このまま眠ってしまおうかしら。
 葵を撫でて、撫でて、その手からゆっくりと力が抜けそうになったとき、さっきも感じた感触が手の甲をチクゥ……と襲う。
「っふふ……はい、まだちゃんと撫でますよ」
 葵を抱いたまま起き上がり、その場で胡座を掻いた京はなにも悪いことなどしていません、という顔でじ……と見つめてくる葵を撫で回した。段々と葵が顔を伏せ始め、後ろ足で手を柔く蹴り始めるまでそりゃもう撫で回した。
 やっと手を止めれば素早く離れていく葵の体。しかし、棚の上へ飛び乗った葵は京のほうを見たまま動かない。完全には離れることのない葵の様子を見れば、寂しさを感じることもなく。
「仕事の続きをしてきますからね、危ないことしちゃ駄目ですよ」
 葵にひと声かけて、京はPCの前へ戻っていく。
 組み替えた足の下にふわっとした感触を覚え、悲鳴を上げるのは三十分後のことであった。