千代里
2026-04-22 22:36:56
11466文字
Public 千影とシリルの話
 

【オリジナル創作】ネモフィラの話・3話【千影とシリルの話】


 妖精の王冠邸の庭は、千影にとってどこか懐かしさを感じさせるものだった。
 無論、彼は故国で、このような西洋風庭園のある場所に行ったことはない。近年ますます盛況な東の都には、雨後の筍の如く西洋風の建物や庭園が増えていると聞いていたが、千影には円のないことだった。代わりに彼が目にした覚えがあるのは、自分が育った教会の前にある猫の額ほどの野原と、村の端に広がる、春になれば好き勝手に花を咲かせる野山くらいだった。
「こんなにも丁寧に整えられた庭を、子供達の遊び場と一緒にしたら怒られそうだけど」
 思わず、ぽつりと感想が言葉となって落ちる。けれども、千影が初めてこの庭を目にした時の素直な感想は、今口にしたものと似たり寄ったりのもだった。
「おーい、千影。何ぼーっとしてるんだ」
「ああ、ごめん。俺は植物の根本のあたりを探してみるから、シリルは広く見渡す感じで探してみてくれるか?」
 話しながらも、千影は今の気温と風の強さ、陽の出方などをざっと頭の中でまとめる。今日は雲も少なく、ゆっくりと散策する時間が取れそうだ。
「青い花があるわけでもないし、リボンが庭に落ちていたなら、すぐに見つかりそうだけどな」
「青い花、この辺りにはないのか?」
「少し前は、あの長細い花……なんて名前だったかな」
「ムスカリ?」
「そう、それだ。ムスカリが咲いてたけど、あれはどっちかというと紫に見える」
「俺は、あの花は青と言ってもいいと思うよ」
「千影の『青』は半分『緑』じゃないか」
 そう言われて、千影は渋いものを食べたような顔で、視線を友人から逸らした。
 千影としては、『青』と故国で呼んでいたものはそのまま、習ったばかりの異国の『青』という単語に置き換えて使うようにしていただけなのだが、どうやら故国の『青』は、この国に比べると幅広いらしい。
「どうせなら、ミルトン爺さんに聞いてみるか。今日も来ているだろうし」
「あの庭師の人か。たしかに、落とし物があったら拾っておいてくれそうだな」
 ミルトン爺さんとは、妖精の王冠邸の庭全般の手入れを任されている老人だ。最近は、子供や孫を連れて庭仕事を一手に引き受けてくれている。
「どうせなら、青い花がないか聞いてみたらどうかな」
 庭をぐるりと見渡しながら、ふと千影は思いついたことを口にする。
「どうして、青い花が必要なんだ?」
「さっき、シリルが言っていただろう。もしリボンが見つからなかったとしても、メアリーは高価なリボンを二度は受け取ってくれないかもしれない。でも、この邸を出るときに、花束を送るぐらいなら、もらってくれるんじゃないか?」
 この案を思いつけたのは、以前、村の子供たちと花を摘んで、世話になっている神父に贈り物として渡したことを思い出したからだ。
「それとも、花嫁は花束を持っちゃいけない決まりでもあるのか?」
「そんなことはない。むしろ、花嫁ならブーケを持つのが普通だ。ありがとう、千影。それならなんとかなるかもしれない!」
 せっかく渡した贈り物が消えてしまったことを、シリルもかなり気に病んでいたらしい。晴れやかな表情の友人に、千影もいくらか心が軽くなった気がした。
 青のリボンだけでなく、青の花を探しながらも、シリルはステッキを使い、なんて事のない様子で歩いていく。背筋も伸びていて、傍目から見ると片足が不自由なのが嘘のようにも思える。だが、よく見れば足の曲げ方や出し方に、わずかな違和感がある。
 自分の思うような形に動かない、と以前教えられたように、歩行という無意識の運動が自由にできないため、シリルは歩くときはステッキを手放せずにいる。
(青の花のこともあるから、しばらく歩き回りたがるだろうけれど、どこかで休みを入れた方が良さそうか)
 今は難なく歩けているようだが、疲れてくると小さな段差でも転びやすくなる。だから、彼が歩く時はなるべく千影はそばにいるようにしていた。
 庭は春を迎え、ところどころに名も知らぬ色とりどりの花が、昼下りの日差しを浴びてゆらゆらと葉を揺らしていた。
 以前は黄色の水仙が、姿勢よくあちこちに並んで庭に彩りを与えていたが、今の主役はつんと尖った、大ぶりの花びらを持つ花だ。目の覚めるような赤、黄色、オレンジといった色が千影たちを出迎えてくれた。
 ごく自然にできたと錯覚するような、肩肘の張らない草木の配置。そのおかげで、千影はこの庭がどこか故郷にあった自然に任せるままになっていた草地に似ていると感じてしまう。
 もっとも、石畳が敷かれた小道に、小石のひとかけらも落ちていない所などは、到底自然に生じたものとは思えなかったが。
「おーい、ミルトン爺さん。来てるか?」
 およそ貴族の若様とは思えない軽い口ぶりに、千影は頭の端にスポット夫人の姿をちらつかせていた。
 シリルが声をかけた先にあったのは、庭から少し外れた小さな物置のような建物だ。申し訳程度に壁や屋根が白や青に塗装はされていたのだが、いい具合に色が落ちているおかげで、今では庭にすっかり溶け込んでいる。
「なんですかい、シリル様。今日は、特に面白いもんもないですよ」
 小屋の陰から姿を見せたのは、白くなった髭を伸ばし放題にした老爺だった。やや背は曲がっているが、元々上背はあったのだろう。今でも、若者二人を見下ろすぐらいに背が高く、小柄なシリルだけでなく、千影も彼と話すときは首を上げねばならなかった。
「おや、そっちはひよこの坊やじゃねえか。若様をこんなところに連れてくるもんじゃねえぞ」
「ひよこ(Chick)じゃなくて千影ですよ。あと、来たがったのはシリルの方ですから」
 さらりと訂正したが、ミルトン老にこの訂正をするのも、もう何度目になるかわからなくなっている。
 早速落とし物について尋ねてみるも、老人は「そのようなもんは拾ってない」と首を横に振った。ならば、とシリルは次の作戦のための一歩を踏み出す。
「ミルトン爺さん、今この庭で、何か青い花は咲いてないか? 目の覚めるような綺麗な青がいいんだ。花束に使いたいんだよ」
 花などに興味を持たなかった少年が、いきなりそんな質問をされて、ミルトン老も少し驚いたようだった。
 だが、彼も伊達に歳をとっているわけではない。とりたてて深く聞くこともなく、
「そうさなあ。ムスカリはもう終わっちまいましたし、この後は三色すみれ(パンジー)辺りが咲くが、花束向きとは言えねえですなあ」
「そういえば、この庭にはブルーベルは咲いてないのか?」
「おや、若様は知らねえんですか? このあたりは、庭にブルーベルを咲かせるなって言われてるんでさあ。放っておくと際限なしに増えちまうんですよ」
 ブルーベルとは何かと聞きたかったが、せっかくシリルが相談しているのに水を差すのも申し訳ないと口をつぐむ。おそらくは、この国ではごく普通に見られる『青い花』なのだろう。
 その後も、ミルトン老はいくつか青い花をあげてくれたが、どれもシリルの審美眼を叶えるには相応しくなかったらしい。シリルが渡したリボンのような、目の覚めるような美しい青となると、なかなか難しいようだ。
「そういえば、この家にくるまでにも見かけたけれど、広い庭には薔薇があるのが一般的だって聞いたな。ここには、青い薔薇はないのか?」
 千影が尋ねると、ミルトン老は目を丸くして何度も瞬きを繰り返した。シリルは、どこか呆れたように目を細めると、
「千影、青い薔薇っていうのは存在しないんだよ。大体が赤とか白だ」
「オレも長年庭いじりをしてるが、青は聞いたことがねえなあ。ひよこの坊主が言うみたいに、青い薔薇があるなら、そりゃ一目は見てみたいと思うけどよ」
 しみじみと頷くミルトン老。庭師の彼が言うのなら、青の薔薇というのは本当に存在しないらしい。
「とにかく、ブーケに使えそうな青い花を見つけないと。ブルーベルもないとなると、どうしたらいいか……
 せっかく新たな見通しが生まれたのに、出鼻を挫かれて再び考え込んでしまうシリル。何とかならないものかと千影も思案を続けていると、
「おお、そうだ。見たこともないというので思い出しましたがな。今年は、大陸から来た珍しい花の種を少し蒔いてみたんでさあ。その花の色が、また綺麗な青だったんでさ」
「本当か!? どこにあるんだ!?」
 九死に一生を得た心地だったのだろう。前のめりになるシリルが転ばないように、千影は片手で宥めなければならなかった。
 ミルトン老が案内してくれたのは、庭に走る小道から少し外れた、花園の区画としては終端に近い部分だった。その先に広がる草原も敷地としては邸のものであるが、花や草木が植えられた散歩道はこの辺りで一区切りがついている。
 そこも、ミルトン老により自然な佇まいの庭として整えられていたが、その一角に千影には見覚えのない草花がいくつか並んでいた。
「この辺りは、よそから持ち込んだ種がここで根付くかどうか試してるでさあ。旦那様が、ありがたいことに、オレ宛に種を送ってくれることがあるもんでな」
「ミルトン爺さんに、わざわざ種を?」
 シリルは不審げに眉を寄せたが、すぐにその顔は喜びのそれに変わる。なぜなら、見事なまでに美しい青の花びらを持つ小さな花が、いくつか咲いていたからだ。
「ええ。名前はよく知らんのですが、合衆国から取り寄せた種っちゅう話ですな。まあ、ちいとばかし花束にするには小さすぎるから、シリル様の希望には添えんかもしれませんがね」
 ミルトン老の言う通り、青空が花の形をとって落っこちてきたようなこの花は、小ぶりで愛らしいものの、花束とするにはいくらか迫力に欠ける。それでも、名も知らぬこの小さな花を何かに使えないかと、シリルは早速あれこれ考え始めた。
「この花がたくさん咲いていたら、一面が湖みたいになるだろうね」
「そう思うなら、ひよこの坊主も今度育ててみるといい。種はたくさん送ってきなすったんだが、土が合うかもわからんものを、たくさん植えるわけにもいかんのでな。まだまだあるんだよ」
 ミルトン老は仕事道具がしまってある庭師の小屋に取って返すと、千影の手の上に小さな布の包みを置いた。縛ってある紐を解けば、吹いたら飛びそうな小さな黒い点がみっしり詰まっている。
「ここは、若いもんには退屈だろうさ。花を育ててみるのも、まあ、ちょっとした暇つぶしになろうよ」
「ありがとうございます、ミルトンさん」
 この花を育てるのだとしたら、きっと植えるのは今から何ヶ月も先になるだろう。春の花なら、植えるのは秋頃だろうか。
(俺は、それまでずっとここにいるんだろうか)
 シリルのお目付け役を命じられてから、シリルの実家であり千影の後見人と思しき大人たちの姿は殆ど見かけない。
 彼らが何を自分に望んでいるのかもわからないが、何より千影もまた、自分がどこに向かって歩いているのかわからない部分があった。
 庭に出る前にシリルが触れていた、自分の母親の話。瞼の裏に焼き付けたはずの千影の母の姿は、今は随分と朧になってしまっていた。
 考え込むシリルをどこかで休ませて、もうしばらく庭を散策してみようか。自分自身の思考を整理するためにも――そう思い、何気なく庭の奥に目をやった千影は、
――え?」
 昼下がりの日差しが差し込む、穏やかな空間。シリルと千影と、ミルトン老しかいないはずの、その場所に。
 草木に溶け込むように、人影が一つ。
 陽光にきらめく髪は、誰かによく似たブロンド。さながら日の光を一本一本結わえ付けたかのように輝く髪の下には、触れれば溶けそうな白い肌と桜色の頬。
 柔らかな肢体を覆う淡い白のドレスが、風に靡いている。
 それは、一人の美しい女性だった。さながら、この庭の主人が気ままに散歩をしているかのように、至極当然の光景として彼女はそこにいた。
 思わず見とれるほどの、現実離れした一瞬。
 けれども、同時に、千影の理性がそっと囁いた。
……誰だ?)
 この家に、妙齢の女性といえばハウスメイドのメアリーやアンナがあたるが、彼女らと目の前の貴人は背格好も顔立ちも違う。
 だとしたら、庭に迷い込んだ近所の者か。服装からすると、観光に来た者がふらっと入り込んでしまったのか。
 女性の横顔が、微かに動く。ちらりと動いた視線は、まるで春の湖水を思わせる透き通った鮮やかな碧だった。
 長い睫毛が動く。一瞬の瞬きと、千影の視線が交差する。
 こちらが彼女に気づいたことを咎められたような気がして、思わず瞬きをしてしまった――その一瞬の暗闇の後、そこにはもう、誰もいなかった。
「え?」
「千影、どうかしたのか?」
 思わず首を左右に振ってみても、淡い白のドレスを靡かせるブロンドの女性はどこにもいない。春の日差しが、音もなく彼女を攫っていったかのように。
「さっき、そこに人がいた気がするんだが……
「人? 誰もいないぞ」
 シリルに言われるまでもなく、千影も人どころか小鳥一羽いない庭園が広がっていると知っていた。
 それでも、自分の目にした光景に繋がる何かがないかと、ブーツが汚れるのも構わずに、千影は女性が立っていた場所へと向かう。
 しかし、そこにあったのは柔らかな土と草木だけ。彼女を示す足跡も、草木を踏み荒らした跡も、何一つ残っていなかった。
 
 ***
 
「ごめんなさい。こんな夜遅くまで探してもらうことになるなんて」
 蝋燭にぼんやりと照らされたメアリーの顔は、周りの昏さもあってか、大層沈鬱なものに見えた。
 もっとも、彼女が物憂げなのは光のせいだけではないと、千影も知っている。結局庭を丹念に探しても、リボンは見つからなかった。
 書斎や客間など、主立った部屋も念入りに探してみたが、今のところ青のリボンどころか青のハギレ一つ見つかっていない。
 念のため、千影は夕食後に時間をとって、メアリーと一緒に地下の部屋を見て回っていた。だが、こちらも芳しい成果は得られなかった。
「シリルがベッドに入ったら、上の部屋をもう少し見て回ってみますよ」
「ありがとう。でも無理はしないでね。あなたが倒れてしまったら、シリル様のお世話をする人がいなくなってしまうから」
「俺がいなくても、何だかんだでシリルなら上手くやるような気がするけどな」
 足が悪くなってからも長い療養生活を経たはずなのに、シリルは驚くほど自分の身の回りの世話は自分でしたがる傾向がある。それは、従者としての生活に不慣れな千影に対して、さしたる文句も言わないことからも窺えた。
「シリル様は、お体のこともあってから、誰かに頼ることを嫌っているみたいなの。でも、貴方のことは信頼しているように見えるわ。だから、あなたに何かあったら、きっととても悲しむ」
……ええ、気をつけます。これでも、シリルの面倒を見てくれって、彼の親戚にも言われている立場ですから」
 大丈夫と請け負った矢先、手に持っていた燭台が揺れて、メアリーのブロンドに小さな光の輪を与えた。
 火の光を受けて輝くその髪を目にして、千影はふと昼間に庭で見た女性のことを思い出す。
「メアリーさん、ちょっと変なことを聞いてしまいますが……前にあなたが話してくれた、小さいときに見守ってくれた女性というのは、いくつぐらいの人だったんですか?」
「え? ええっと……すごく大人に見えた覚えがあるから、多分二十かそれ以上か、だと思うわ。それがどうかしたの?」
 昼間に見た白昼夢のような一幕を、千影はメアリーへと伝えた。この話は、まだシリルにはしていない。
 もし、あの女性がメアリーの関係者だった場合、彼女は他人の家の敷地に勝手に入ったことになる。邸の主人であり、咎めねばならない立場のシリルは困ってしまうだろう。
「もしかしたら、メアリーさんの結婚について聞いたその人が、この辺りまで様子を見に来たのではないかと思ったんです。それらしい人を見かけたので。若い女性でしたから、もしかしたらその人本人ではなくて、親戚の誰かかもしれませんが」
「本当!? でも、どうしてこの邸に来たのかしら。来てもらっても、お客様として持てなすこともできないのに」
 本人の家ならいざ知らず、職場にいきなり訪問されても、メアリーにもハウスメイドとしての仕事がある。或いは、そのような当然思いつくことにも気が回らないほど、自由奔放な性格をしているのだろうか。
……でも、もしまた見かけたなら、教えてくれるかしら。仕事もしなきゃいけないって分かっているけど、でも」
「それほど、彼女はメアリーさんにとって大事な方なんですね」
 メアリーは小さく頷く。燭台に揺らめく蝋燭をじっと見つめているからか、光が仄かに彼女の瞳を輝かせている。その面差しは、昼間見かけた貴人の彼女によく似ていた。
「名前も、どこの家の人かも知らないの。でも、小さい頃の記憶を思い返すと、いつも彼女がそこにいたのだけは確かなのよ。お母さんとの記憶もあるのに……何故かしらね。まるで、彼女が私のお母さんのように思うこともあるの」
 そんなわけないのに、とメアリーは苦笑する。先ほどまで浮かんでいた貴人の面影は、くしゃりと浮かんだ笑みの向こうに消えていった。
「もし、また見かけたら、一度声をかけてみます。でも……あまり期待しないでくださいね」
 女性が消えた後、足跡一つ残っていなかったことを思い出して千影は付け足す。
「もしかしたら、俺の勘違いだったかもしれませんから。春の日差しがあまりに暖かくて、うとうとしていたのかもしれません」
「千影様ったら、立ったまま寝ていたの? ダメよ、ちゃんとシリル様が妙なことをしていないか、気をつけておかないと」
 今でこそ、足のこともあってシリルは大人しく過ごしているが、小さい頃は庭で虫を捕まえたり、馬を走らせればお目付役の声も無視してどんどん遠くに行ってしまうような子供だったらしい。メアリーの語る昔話は、千影の知らない友人の一面をいくつも見せてくれていて、いつまでも聞いていられそうだった。
 だが、メアリーには明日も仕事がある。部屋中を丁寧に磨き上げるためにも、彼女の時間を奪うわけにはいかない。
「じゃあ、おやすみなさい、メアリーさん」
 地下の部屋に別れを告げ、千影は燭台を片手にシリルの部屋に向かった。
 *
 就寝前のシリルは、青い花の件のことをまだ考え込んでいたが、千影に促されて早々にベッドの中に入ってくれた。
 もっとも、布団に入る前も何やら考え込んでいるようだったので、火を消してもしばらくは寝付けていないかもしれない。
「さて。見回りも兼ねて、もう少し廊下や部屋を探してみるか」
 夜になると、窓にはカーテンがおり、燭台以外の灯りは無くなる。この状態で捜し物をするのは非効率な気もするが、暗闇に目が馴染めば存外に見える部分も多い。
 昼間は目に見えるものが多すぎて見逃していたものを、運良く探し当てられる場合もあるだろう。
 何より、全力を尽くしたわけでもないのに、早々に布団に入るという自分を千影自身が許せなかった。
(だって、それは……俺が求める、正しい在り方じゃない)
 自分の体力の限界に至るまで、千影は夜の捜索を続けるつもりでいた。
 まずは書斎を今一度入念に探し、続けて客間の家具の隙間まで目をこらす。家具の下や隙間は、落とし物が紛れ込んでも見えにくい場所の定番だ。
 廊下ではカーテンの裏側や折り目の、表面上は見えにくい所も確認していく。このような真似を昼間にしたら、またスポット夫人に目をつけられただろうから、今が夜で結果的に良かったかもしれない。
 廊下の全てのカーテンを調査した後、シリルは突き当たりのカーテンに手をかけて、ほうと息を吐いた。今のところ、残念ながら成果はない。
「どこに行ってしまったんだろうな。もし風に飛ばされて敷地の外に行ってしまってたら、流石にもう見つからないだろうし……
 だが、そのような諦めに飛びつく前に、今一度捜索を続けよう。そう思い、千影がカーテンを閉め直そうとしたとき、
……?」
 窓ガラスの向こう、何か白くぼんやりとしたものが見える。月明かりのような、淡くか細いものではない。
「何だ?」
 蝋燭の光で霞んでいた目を軽く擦り、千影は目を凝らして、窓の向こうに広がる庭を注視する。
 白くぼんやりとしたもの――その正体は、夜風に翻る白いドレスだった。
 雲が晴れて降り注いだ月の光が照らしだしたのは、目の覚めるような美しいブロンド。名のある彫刻家が削り出したような相貌の輪郭を、今度こそはっきりと千影は捉えた。
 だが、目撃したのは、千影だけではない。
……!」
 目が、あった。
 目鼻立ちがわかる距離では、ないはずなのに。
 しかし、確かにそう感じた。
 ただ目があっただけなのに、まるで眼前に彼女がいるかのような、言い知れない感覚に襲われる。
 はっ、と息を吐き出す音と同時に、自分が息を止めていたことを数秒遅れて自覚した。燭台の炎が、漏らした吐息に揺れて、千影の影を大きく揺らす。
……確かめないと」
 あの女性が本当にメアリーの探している人物かはわからない。もしそうなら、こんな夜更けに邸を訪問した理由を問わねばならない。
 もし、あの人が探し人でないなら尚更だ。不審者を放置しておくわけにはいかない。
 足音を立てないように注意しながら、千影は階段を駆け降りる。
 玄関ホールには、幸い予備のランタンがある。燭台の火を移して、ランタンを片手に千影は外へと飛び出した。
 春とはいえ、夜になれば気温もグッと下がる。温もりを帯びた春風は、今は冷気を帯びてひんやりとしていた。
「あの窓から見えたのなら、方角は……多分こっちだ」
 見当をつけて、ランタンがぼんやりと照らし上げる庭をいく。昼間に見た時と比べると、庭はすっかりその晴れやかな装いを潜ませ、沈黙に徹しているように思えた。
 故郷で目にした、木々が野放図に生い茂る森と、暗闇に沈んだ庭園は、一歩先は見えない闇という意味ではさして変わらないものなのだと、今更ながら思い知る。
 歩き続けて幾分もしないうちに、千影はその人を見つけ出した。
 庭園の中では浮いて見えるはずの薄い白いドレスも、夜中に一人で歩き回っているという違和感も、なぜか彼女の前では全てが当たり前のことのように思えてしまう。もう何十年も、何百年もこの庭に佇んでいたかのように、ごく自然に彼女はそこにいた。
 だが、その視線は庭ではなく邸に向けられている。壁にトカゲでも張り付いてでもいるのか、彼女はずっと、何かを見上げ続けていた。
「あの……あなたは誰ですか。どうして、こんな時間に、こんな場所にいるのですか」
 超然とした雰囲気に気圧されかけたものの、当初の目的を思い出して、千影は問いを投げかける。
 だが、彼女は依然として虚空を見上げ続けていた。
「すみません。聞こえなかったのでしょうか。あなたはどうしてここにいるのか、と訊いているんです」
 千影の存在そのものを無視しているかのような態度に、違和感と微かな反感を覚える。せめて、会話をする相手として見做してくれないだろうかと、疑念と不審の狭間を心が行き交う。
 すると、漸く彼女はゆっくりと、千影へと視線を向けた。
『やはり、お前は見えているのか』
……え?」
 脈絡のない返答に驚いたのではない。彼女の発した言葉が、一瞬理解できない音の羅列に聞こえたからだ。
 しかし、意味はわかる。不思議と、何を伝えようとしているのかは理解できる。
『見えているならば、話は早い。この石の家にいる、メアリーという名の娘を知っているか』
「え、ええ。ということは、あなたは彼女の――
『あの娘は、これからもこの家にいるのかどうか、お前は知っているか』
 千影の言葉を待たず、女は滔々と語り続ける。違和感のある言葉を別とすれば、彼女の質問は千影にもわかるものではあった。
「彼女なら、近いうちに実家に戻り、故郷の方の元へ嫁ぐそうですよ」
『何故だ』
 なぜ、と問われても千影にはメアリーの家の事情に関しては部外者だ。
 だが、女にとってはまさに青天の霹靂だったらしい。表情に大きな変化はなかったが、響く声には肯定的とはいえない感情が混じっていた。
『私は、まじないを破った。ならば、あの娘はこの場に残る。そうではないのか』
 女の言っていることの意味が、千影にはさっぱり分からなかった。だが、何か引っかかるものもあった。
 まじない、という言葉を最近自分は耳にしなかったか。それを破ったというのは、何を示唆するものなのか。
「あなたが何を言っているかは分かりませんが、どうして、そこまでしてメアリーさんをこの邸に留めておこうとするのですか」
 メアリーは花嫁となり、使用人のお仕着せを脱いで新たな人生へと旅立つ。それは、この国においてごく一般的な幸せの形の一つなのだと、千影も薄ら察していた。
 故郷でも、夫に嫁ぐ娘は不安そうではあったが、新たな生活への期待に胸を弾ませていた。中には、不安どころか、心の底から嬉しそうに夫と一つ屋根の下で暮らす日々について、夢を語る娘もいたほどだ。
 だというのに、この女性はまるで反対の主張をしている。それが、千影には不思議でならなかった。
 だが、女の方もまた、千影の言葉に滲む意見とは真逆の感情を抱いていたらしい。
『メアリーはこの家で過ごす日々を幸せだと言っていた。この場から旅立つことに、不安と心配を抱えている。ならば、彼女を家の外へと誘うまじないを私は壊さねばならない』
「先ほどから言っているまじないとは、何のことですか」
『彼女は幸せであらねばならない。私は、彼女が幸せであるというから、彼女をここに残しておくことにしたのだから』
 千影の問いかけは、最早女にはつゆほども届いていないようだった。彼女はただ、自分に語りかけるように、静かな決意を秘めた言葉を口にし続けた。
 無視され続けていたものの、千影もただその場の空気に流されるままでいたわけではない。
 断片的に語られる言葉の破片を組み立てていくと、突拍子もないと思いながらも、一つの確かな想像が頭の中でゆっくりと組み上がってくる。
「もしかして、あなたがメアリーのリボンを隠したのですか」
 何を言っているのかと、千影自身呆れてしまうような発想だ。それでも、聞かずにはいられなかった。
 彼女が、『まじない』を壊したと言ったから。
 そして、あのリボンは、シリルが渡した『花嫁を幸せにするおまじない』の最後の欠片(ピース)だったから。
 女は、ぐるりとこちらへと視線をやった。まるでからくり人形が急に動いたかのように、異質さが滲み出た挙動に、冷静でいようとした心臓も嫌なはずみ方をする。
『お前には関係ないことだ』
「関係あります。メアリーさんも、シリルも、必死にあのリボンを探している。あなたがそれを隠しているのなら、今ここで返してください!」
 体中から嫌な冷や汗がぶわりと湧き出る。これ以上、この存在に近寄ってはならないと本能が警鐘を鳴らしている。
 けれども、思い悩む友人の姿が、申し訳なさそうに頭を下げているメアリーの姿が、千影の瞼には焼き付いていた。
『二度は言わせるな。私を見る眼を持つ者よ』
 女の手がゆっくりと持ち上がる。
 同時に、千影の視界が黒一色に染まる。
――!?」
 咄嗟に手元にあったはずのランタンに目をやり、千影は息をのむ。そこ点っていたはずの灯は、まるであの女に摘み取られたかのように消え失せていた。
 細くたなびく、薄らとした煙の気配。それだけが、ここに灯があったことを示す証拠として残り続けている。
(風もないのに、一体どうして――
 振り返り、再び女の姿を探すも、そこには昼間と同じように誰の気配も見つけられなかった。
 夜風に攫われたかのように、ただ冷えた春風だけが千影の頬を撫でていた。