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2026-04-22 19:05:46
3943文字
Public れめしし
 

虎と桃

ちぐはぐな二人の不健全な交友録

 書斎での仕事が一段落して小休憩を挟もうと椅子から立ち上がる。キッチンに向かう途中で携帯のチェックを忘れているのを思い出したが、長く離席するつもりはないので戻ってからでいいだろうと引き返すのはやめた。
 今日は珍しく空腹を感じていた。夕食までの時間が絶妙に遠く、かといって軽食を抓むほどではない。小腹を満たすのに丁度いいものはあったかと考え、野菜室に小ぶりの桃が残っていることを思い出す。適度な糖分は脳を働かせるのに必要不可欠だ、摂り過ぎは良くないが適切な量なら問題ない。
 掌にすっぽり収まるサイズのそれを丁寧に水で洗ってから、包丁で産毛のついた薄黄色の皮を剥いていく。中から現れたつるりとした丸みのある桃は視覚から食欲を刺激する。普段ならカットして硝子皿に並べるが、早く食べさせろと訴える胃に唆されるまま口を開いた。歯を入れると程よい甘みと瑞々しい果汁が口内いっぱいに広がり、熟れた果肉と果糖が齎す極上の味わいに自然と顔が綻ぶ。日頃の節制もあって脳が歓喜するのに至福の息を漏らしながら、もう一口と歯形をつける。顎に力を入れ過ぎて桃から果汁が飛び散って頬を濡らすのに一旦、食べかけの果実を置こうか考え冷やりとした感触が手首に奔るのに、慌てて伝う天然の甘露を舌を伸ばして舐め取った。この場に行儀を咎める人間が居ないのも手伝って、横着したのが不味かった。掌から零れる雫を啜っているとリビングの扉が開く音に体が固まった。
「あれ~敬一君いるじゃん、メッセージ見て……
 予期せぬ友人の来訪、何が起きたのか状況の理解が及ばなかった。インターホンは鳴らなかった、そこで家の合鍵を作ったのは天堂だけじゃないことを失念しているのに気付く。真経津ほど神出鬼没ではないものの叶もまた配信者という職業柄、他二人に比べると訪ねてくる時間が不規則で予測し難い。本人が来る直前にメッセージを飛ばすから迎える用意が出来る分、勝手気ままな年下の友人よりはマシだが。
 叶のライブ配信の日時は気分によって左右される。大抵はメインリスナー層が集まる曜日や時間帯を選ぶ。夕方から日付変更線あたりが多く、夜型の男は明け方近くに寝て昼過ぎに起きる生活サイクルだから、完全に気を抜いてた。
「ちょっと休憩してて、戻ってから確認しようと」
「そっか、珍しいなって思って」
 みっともない姿を見られたことで、返事の歯切れが悪くなりまるで言い訳しているみたいに聞こえる。見開いていた瞳が薄っすらと瞼が下りるのにひどく居た堪れない気持ちになった。珍しいって、メッセージを確認しなかったことか、それとも立ったまま果物を齧っていたことか。
「制限中はあんま食わないからな」
「ん、甘い良い匂いがする」
 言葉の意図を正確には読み取れないが、下手な間は余計に気まずくなる。自ら話の方向性を定めて舌を回すと、鼻筋が通った綺麗な鼻がすんと澄まされるのに鼓動が早くなる。
 叶の観測は超能力ではない。表情、声、目や手の動きといった細部に至るまでの様々な肉体反応から感情を推測し相手の心理状況を読み解く。今のオレの状態は既に把握されてると考えていい。不自然に高くなった声のトーンや上滑りする会話で、焦燥に近い緊張を飼っている、起因は食べる姿を見られたことへの羞恥と後ろめたさまで特定できても、根幹にあるコンプレックスの正体には辿り着けない。
「いい具合に熟れてる、それでだな」
「果汁もすごいから此処まで漂ってる」
 賭場の外では不必要に心の内を覗こうとしないし、きちんと線引きが出来る男だ。多少読まれたとして必要経費と割り切れる。
「天然の香水みたいなもんだ」
「最近じゃあ、祭りの屋台でも冷やしたフルーツ売るんだって」
 落とされた何気ない言葉に意識が引っ張られる。
 屋台の食べ歩きなら、お上品に食べるんじゃなくかぶりつくのが醍醐味だ。場所や状況に応じた食し方がある。駄目だ、叶が居るのに注意力が散漫になる。自身の悪癖の前兆を感じて焦るが、焦るほどに思考が深く潜り記憶の蓋を開いてしまった。
 まともな飯が食えるようになってから笑われないよう、食べ方や箸の持ち方を矯正した。格式の高い店に行くためテーブルマナーも学んだ。だけど、誰も周りに居ない独りの時は気が緩んで唇についたソースを舌で舐め取ることもあったし、音を立ててスープを飲むことだってあった。どんなに隠しても生まれ持った品が備わってなければ、結局のところ根っこの部分は薄暗いアパートの部屋で暮らしていた頃のままだ。
「オレも食べたいな、桃」
「あぁ、悪い、これ最後だからオレンジでもいいか」
 何時の間にか近くまで来ていた男に慌てて視線を外して問うと、横から伸びてきた手に利き手を掴まれる。痛みは無いが簡単に振り解けない力が籠められている。服を着ていると長身もあってか細身に映る。職業や食生活も相俟ってインドア派特有の体が薄いタイプに見えるが、実際はしなやかな筋肉に覆われた均整の取れた肉体を持っている。着痩せする男が自分の方に握った手を引き寄せるのに、微かに眉間に皺が寄るのを感じる。
「いただきます」
 落ちてきた食事の挨拶に何をする気か問う前に、男は食べかけの桃に噛り付いた。尖る犬歯が果肉に埋まって顔が濡れるのも気にせず食い千切って音を立てて咀嚼する。零れる果汁の一滴も余すところなく舐める。
 叶は真経津みたいに食べ方が下手なわけでも村雨みたいに洗練された食べ方でもない。見る相手を不快にさせないレベルの普通の食べ方だ。それがどうだ、今は野性を剝き出しにした獣と見紛う。果実に堂々と食らいつくさまは獲物を捕食する虎を髣髴とさせ、生きるための食事と強く感じさせる。あっという間に残る桃を平らげて掌には自らつけた傷と種だけが残った。ころりとシンクに転がっていく種が奏でる音で目の前の虎が人に戻る。
「難しく考えないでさ、好きにしていいんだ」
……飢えた獣じゃねぇんだ。そんな真似出来るかよ」
「敬一君、人間も所詮は動物だよ」
 ズルイ男だ。隠している部分を無遠慮に暴いておきながら、明確な言葉を避けて劣等感を噛み砕こうとする。ちっぽけでもみじめでも、どんなにダサくても自分を愛せと行動で示されてしまえば、悩んでいるのが馬鹿らしくなる。
 年上の友人に笑ってオレンジはどうすんだと確認すると、まだ食べ終わってないと口角を持ち上げた。そうして背を丸めると空になった掌に残る果汁を啜り始めた。触れる唇の温度と立てられる音に眩暈がする。体の奥底から湧く不明瞭な熱が全身に広がって呼吸が浅くなる。まるで生きながら焼かれているかの感覚が体の力を抜いて、膝から崩れ落ちそうになる寸前のところで空いた方の手で腰を抱かれ支えられる。喘ぐように息を吸い込み、離せと声にならない声をあげるも、叶は見せつけるように手首に舌を這わせる。静脈をゆっくりと舌先で舐り、唾液を塗り込める。きらきらと輝く柔らかい皮膚をきつく吸い上げられると眠っていた官能が開く。何も考えられなくなるほど脳がぐちゃぐちゃに掻き回されて、意識が溶け始めると唇が離れる。最後に仕上げとばかりに軽く歯を立てた男は虎の皮を脱いだ。
「ごちそうさま」
「は……ホント……ムカつく野郎だ」
 息も絶え絶えにそれだけ零せば、叶はご機嫌な笑みを浮かべ喉を鳴らした。

♉♍
 着いて早々、服や肌を汚すことになった叶はトレードマークのコンタクトを外しホットタオルで顔を拭いながら、暇つぶしに話し始める。
「日本の古事記でイザナギが妻のイザナミを黄泉の国に迎えに行ったときに、禁を破って黄泉軍に追われて黄泉平坂の木に成る桃で撃退した話から、魔除けの力を持つ果物とされてるんだよな桃って」
 配信で話すためか、叶はジャンル問わず多種多様な雑学に詳しかった。実際に友人達を集めた食事会で披露することも多い。関心を惹くよう計算された抑揚のついた声で紡ぎ、時におどけた仕草で笑いを誘い時に無機質な表情で背筋を冷やす。ついつい手を止めて聞き入ってしまう魅力に彩られていた。
「そっちの効果はあんま望めなそうだ」
 少し前に友人が獣になるのを身を以て分からされた自分からすれば、コイツに効く魔除けなんてあってないようなもんだと嘆息を漏らす。
「一方で古代中国の神話に出てくる西王母の庭に成る桃は不老不死の果実とされ、漢の武帝に献上した伝説があるんだ」
「顔出し配信者のお前にとっては願ってもないことじゃねぇの」
「永遠の二十八歳の出来上がり。でもふたりで食べたから効果は半々だ」
「そいつは残念だったな」
「オレひとりで生きるより、敬一君とふたりで生きる方が楽しいじゃん」
「付き合わされるこっちの身にもなれ」
 よし、と顔を拭き終えた友人が着ていたパーカーを脱ぐのに寄越せと横から引っ手繰り、予備のパーカーを取りにリビングを出るところで後ろから声が掛かる。
「お前の服貸して」
……わかったよ。大人しく待ってろ」

 ドラム式洗濯機にパーカーを突っ込んでスイッチを入れると着替えを取りに部屋へ向かう。
 叶と居ると、友人の定義が曖昧になる。一般常識に囚われない男相手に正論が通用するはずもないが、オレ自身も実感が伴う経験が少ない分、これが正しい形だと断じることが出来ない。手探りで関係を築いていくしかないが、うっかり気を抜くと噛みつかれる緊張感が伴う。手を噛まれる想像に、じんと右手が熱を持つ。視線を落とせば右手首に刻まれた小さな赤い痕、洗ったはずの肌から甘い香りが漂うのに、ゆるりと手を持ち上げると誘われるよう虎につけられた印に唇を触れさせた。