仲間ではなく敵として競い合いたいゆえに阿良川に入門せず三明亭円相師匠に弟子入りを果たし、慣れ合うつもりはないが張り合いのない相手を潰してもつまらないのでそれなりに助言したりなんかもした。狭く深い落語界付かず離れず、敵としての間柄を保ちたいからしとは裏腹に毎度けったいな誘いや突拍子のない案を持ち込んでくるあかねに色々な意味でからしの度肝を抜きまくり、結果どうなったかと云えば――。
「やっば、Tシャツ絞れるくらい濡れたんだけど」
「折りたたみ出す間もなく降るなんざ嫌がらせにもほどがあるっつーの」
濡れすぎたあまり笑いが込み上がる鼠と夏の風物詩に辟易する鼠。二匹揃って雨宿りに逃げ込んだ先は何の変哲もないマンションのエントランス。慣れた様子で仲良くエレベーターに乗り込み、目当ての階に着くなり迷うことなく歩き辿り着いたとある玄関先、そう一人暮らしをしている三明亭からしの部屋である。
「おっ邪魔しま~す」
「邪魔するなら帰ってー」
勝手知ったるなんとやら。意地悪な物言いを物ともしない客人の横を通り過ぎ、湿った足音を立て家主が一足先に家に上がる。すわ塩対応や無視されたと騒ぎ立てる事もなく、からしが洗面所からタオルを持って来るまであかねは玄関のたたきから一歩も動かず待ち続けた。
程なくしてフェイスタオルを首から引っ提げ戻ってきたからしからバスタオルを受け取りすっかり濡れてしまった髪を手際よく拭いていく。
「今なら川に落ちたって言ってもバレなさそう」
「言ってどうすんだよ」
「そりゃあ、……へくちっ」
ゆらゆら揺れる蜃気楼の熱を忽ち奪う夕立ち。うだるような気温だけではなく体温低下に些か貢献し過ぎた篠突く雨の残響が閉め切った窓や重く閉じた玄関扉を通り越し静寂が薄まりかけてきた部屋の中に降り頻る。
ずずっと鼻を啜るあかねが照れ臭そうに笑い「タオルありがとー。でさ、今度なにか驕るからさ傘貸してくんな…、」手を合わせ軽く首を垂れるあかねの言葉尻を雷鳴が豪快に吹き飛ばす。からしが答える手間を省く空気を震わせ心の臓にまで轟く「この土砂降りの中、帰るなんざとんだ物好きか酔狂しかおるまいて」雷様にあかねの華奢な肩が跳ね上がったのは言うまでもない。
午後急な俄雨が降る予感は朝の天気予報通り。薄く締めたカーテンの隙間から覗く鈍色の空から意識を碌に己の体調管理も出来ないあかねに向ければ、眉尻を下げ自身の二の腕を摩り乾いた笑い声を零している。誤魔化すように微かに震える冷えた体を摩ろうが焼け石に水。濡羽から徐々に紅梅に染まる毛先を辿り落ちる水滴を目で追う最中聞こえる二度目の小さなくしゃみに俯いていた顔を上げた。
目と目が合えばバツが悪そうに愛想笑いして無謀にも傘を借りて帰る選択肢を選び続けているあかねにからしはとうとう頭蓋の端でチラついていた事を行動に移す。
「お前ェ性懲りもなくまたぶっ倒れてぇのか。――家、上がってけ」
「うぐっ、耳が痛い。でも、迷惑じゃ…?」
「いいから上がれ」
「っす」
珍しく遠慮がちに躊躇うあかねを半ば強引に洗面所に押し込んだ。
「濡れた服とかは洗濯機な、乾燥まで一気にやっとく」
「あ、ありがと」
「ついでに風呂入って温まっとけ。服は、あー俺ンで悪ィ我慢しろ」
「全っ然問題ない! てか至れり尽くせりだし!」
風呂場のあれやこれや手短に説明を済ませ早々に退散するからしの背中越しに感じる申し訳なさそうな気配。薄く開いた唇からぼそり「迷惑だったらとっくに追い出しとるわ。」小さなぼやきがあかねの耳に届く事無く風呂場の戸と洗面所の戸が同時に閉じた。
付け損ねていた照明のスイッチを押せば見慣れた自室の輪郭が浮かび上がり、照明と連動している空調が涼やかな風を送り始める。肩で息を吐き備え付けのクローゼットに歩を進め自分用の着替えと風呂から上がる前にあかねに貸す真新しい適当な着替えを見繕う。
あかねの着替えをローテーブルの上に一旦置き、びしょ濡れの服をその場で着替えつと耽る。
「アイツが家に来るようになったんは……」
水分を含み重く冷たい服を脱ぐ度、過去の記憶が映写機よろしく脳内銀幕にカタカタ回り映し始めた。
あれはそう丁度帰路に就く途中、見慣れた人影を道路脇で見つけ訝しげに近付けば蹲る人物と甲斐甲斐しく介抱する人物が見知った相手だと分かり大いに顔を歪めたとある日の事。
相も変わらず乗り物に弱くグロッキーなあかねを口が悪くとも心配して寄り添う泰そん。締まらない姉弟子に世話を焼く弟弟子の構図は最早お約束であるが、僅かな違和感をからしが目敏く見つけ指摘する。
『泰そん、なんか急ぎの用あるっしょ』
不意に突かれた一言に表情が分かりやすく固まり視線を逸らす様子にさてもさても思案する。
姉弟子を放っておくほど泰そんは人でなしではない。かと言ってタクシー乗せた日にゃ逆に悪化するのが目に見える。誰か応援を呼ぶにしてもすぐ来れる奴は早々いない。あからさまに詰んでる状況で泣き言恨み言ひとつ零さない、精々急かす程度でただひたすら姉弟子の体調がマシになるのを待つ。なんと損な役回りか。
『…いえ大丈夫っす……』
『(そうは見えねえが)』
声を潜め否定する弟弟子。本音をひた隠す素振りにからしが諭そうとしたその時、弱々しくされど力強く自分の背中を摩っていた泰そんの手をあかねがしっかり掴んだ。
反射的に泰そんがあかねの顔を覗き込むと、青褪めた顔でしっかり彼の顔を見据え今にも吐き戻しそうな唇で言葉を紡ぐ。
『私は、平気だから…うぷっ……』
『どの口でほざいてんだ』
『からしに面倒見てもらうし』
『おい』
『そすか、なら平気っすね』
『お前も了承すんの早ェな』
からしの突っ込みを余所に何度も頭を下げ足早に駆けていく泰そんを見送る。遠ざかる背中が人ごみに紛れ見えなくなった所で、しゃがみ込んだまま立ち上がれそうもないあかねの前に不承不承しゃがみ込み背を向けた。肩を貸すにしても立ちはだかる身長差。からしからすればいっそ背負った方が楽なのである。
周囲の奇異な視線はこの際置いておくとして、目下の問題は完全にへばってしまったあかねを何処に送ればいいのやら。途方に暮れるからしが大きく舌打ちするのも無理はない。
そして、へばったあかねと適当にそこら辺の飲食店なりカラオケ店なり入って時間を潰せば良いものを、どういうわけか普段であれば到底起こりえない判断を下してしまう。
『(――俺ン家の方が近いか)おい、動くぞ』
『へい…、ご迷惑おかけしやす……』
『ホントな』
からしはそれを自虐を込め落語バカ由来の思考ショートと名付けた。
大人しく背負われる人の重みが、力なくだらりと垂れた足が歩くのに合わせゆらゆら揺れる。間近で聞こえる弱々しい息遣いと呻き声。こと落語に置いて鮮烈にあかあかと燃ゆる熱が多寡だか乗り物酔いで風前の灯火とは情けない。不定期に込み上がる吐き気を堪えるあかねに釘を刺し、どうにか被害らしい被害を被る前に無事自宅に到着した。
『オラ、ここに座っとけ』
『うぅ~…』
言われるがままソファに座らされたあかねの朦朧とした目がぐるり周囲を見渡す。
長身のからしが横たわっても窮屈にならないゆったりとした二人掛けソファ。後ろの壁にはセンス良く配置された額縁の中に色とりどりの世界が飾られている。
ふと物音と気配を目で追い上手く働かない頭の中の記憶の引き出しを端から引っ張りひっくり返すをくり返す。ぼんやり肘掛けに凭れ掛り道中からしから話し掛けられたであろう途切れ途切れの記憶をたぐり寄せているうちに目の前に差し出されたミネラルウォーターのペットボトルについぞあかねは思考放棄した。
『ここ、どこォ?』
『俺ン家』
『へえー? お洒落な部屋ー』
『そうかい』
やおら上半身を起こし受け取ったペットボトルの蓋を開けようにも力が入らず四苦八苦。見兼ねた無骨な手がにゅっとペットボトルを奪うなりプシュっと蓋を開け突き返すつっけんどんな優しさにあかねがにへらと笑い、冷たい水で気持ち悪さを胃に押し流す。大分落ち着き飲みかけのペットボトルを傍のローテーブルに置くや右から左に抜けて行く『マシになったらとっとと帰れよ』からしの小言を子守唄に、生返事をひとつしたあかねは重たい瞼に抗う事無く寝の国に旅立った。
『寝つきがいいにもほどがあんだろ』
悪態を吐きつつ寝入るあかねに掛布を掛けると、礼でも言っているのか寝惚けているのかもごもご口を動かす様に深々と眉間に皺が刻まれる。
壁に掛けられた時計に目を遣る、終電にはまだ早い時間。そこからざっと逆算して招かねざる客が寝れる時間を算出。最悪タイムリミットまでに起きなければ問答無用で叩き起こしお帰り願おうと、からしは携帯ゲーム機に手を伸ばしスリープモードを解除した。
しかし、普段一人分の生活音しかないプライベート空間に自分以外の呼吸音、身じろぐ気配が存在する違和感がからしの気を容易く散らす。
規則正しい秒針の音に隠れ聞こえる穏やかな寝息を鼓膜が拾い然程小さくないゲーム音が遠ざかっていく。
忙しくなく鳴り続ける音楽に逆らい動かない指。蓄積するダメージ音に急かされる事なく止まっていた指は、最終的にゲームオーバーの音に合わせゲームの電源を切った。
殆どからしの耳に届いていなかった賑やかな音が消えた途端、さざ波のようにあかねの寝息と秒針の音が寄せては引いていき、時折り部屋の外から聞こえる車が通り過ぎるエンジン音や上機嫌な酔っ払いの声が泡沫のように揺蕩い弾け溶ける。
『――どうかしてんな』
意図的に気を紛らわそう。でなければ眠りこける狸を観察し続けてしまう己自身の趣味の悪さにそれこそ反吐が出る。気分転換にコーヒーでも淹れるかなんて随分重くなってしまった腰を上げたからしがキッチンに消えていく。
使い慣れたマグカップにインスタントコーヒーの粉を適量入れ、蛇口から水道水を汲んだ電気ケトルを台座に置きスイッチを押す。水が沸騰し始めるにつれボコボコ湯が踊る音に紛れパチパチ爆ぜる音が頭蓋奥に木霊した。
燻っているこの感情は心は可楽杯で比べようのない実力の差を見せつけた眼窩に焼き付いて消えない斜陽に勝ちたい闘争心や競争心でありそれ以外ない筈だ。
ハッと声に出していないにも拘らず、咄嗟にからしは口を手で抑えた。
時間差で鳴る湯が沸いた事を知らせる機械音。馴染んだ動きで湯を注げば湯気を立ち昇らせた黒い水面が波打つ。マグカップを傾かせ溶け残った粉を溶かしつつ戻れば、ついさっき起きたと思われるあかねが腕をぐぐっと伸ばしていた。
『気分は?』
『おかげ様で』
コーヒーを啜りがてら『まだ起きてなけりゃ鼻を詰まんで起こしてやろうと思ったのに』と、揶揄うからしに『それは残念だったね』と、すっかり回復したあかねが出迎える。
借りていた掛布を律儀に畳みソファに置き、物珍しさ全開家の中を探索したくてからしに目配せするも。
『元気になったんならとっとと帰れ』
ド迷惑だ。なんて凄まれてしまえば退散する他ない。
とぼとぼ玄関口へ歩いていくあかねとすれ違う際、飲みかけのコーヒーをテーブルに置きからしもまたあかねの後を追うように玄関に向かう。
『お邪魔しま、うわっ!?』
『んだよ』
『真後ろにいると思ってなくて、ビックリしたー』
『チッ。エントランス出たら右な、そのまま歩けば大通り沿いに出る。あとは分かんだろ』
『……』
『あ゛? まだ何かあんのかよ』
きょとんと見上げる澄み切った紫苑が新月を捉えるなり人なつっこい笑顔を浮かべた。
『からし、今日は本当にありがと! 助かった!』
鳩が豆鉄砲を食ったように一瞬呆けるもすぐさま正気に戻り、カチャリと扉が閉まるまで手を振るあかねを煙たげに見送ったあと呼吸すら止まっていたと錯覚するくらい大きく息を吸い吐いた。
『――ま、もう来ねェだろ』
不毛な自問自答に清々した気持ちを一滴。踵を返せば随分と殺風景に感じる“いつも通り”の部屋が無言で家主のひとり言を受け止める。
俄かに足元から這い上がる認めたくない存在を無機質な目で見下ろした。何かの切っ掛けで勢いが増さないようからしが淡々と踏み潰し始めたのを豪快に腰を折ってくるインターホン連打。いっそ幻聴であればどれだけ良かったか如何せん聞き流すにしては声量がデカすぎる上『かーらーしー。雨降ってきたから傘貸してー』悪びれる素振りも見せない元凶にからしは苛立ったまま玄関開けるや勢いよく傘をぶん投げた。
後悔、先に立たず。
どうやらあかねの選択肢に【からしの家】が追加されたらしく、しょっちゅうではないとはいえ気軽に訪れる場所認定された不名誉にからしは大いに頭を抱え掻き毟った。
溜まり場にされるなんて冗談じゃねェ、などとからしが凄めど暖簾に腕押し。とかく気にも留めないあかねに然程効果を発揮せずそれどころか――。
「根負けした挙句、ずかずか入られるなんざとんだお笑い種だ」
瑣末な事であかねを家に上げてしまったが最後、傘の返却の仕方やなんやで玄関先にまま居座り、痺れを切らし半ば追い出す形で玄関を閉めた日の事を思い返すだけで頭が痛い。
部屋に戻りすっかり冷めてしまった元ホットコーヒーをからしは一気に飲み干した。黒く温い液体が喉を通り過ぎ腑に落ちる感覚がやたら鮮明に残り続け、そのお世辞にも美味いとは言えないどっちつかずのコーヒーをまた飲みたいと思っているのだから尚の事性質が悪い。
無駄に長いだけで要領を得ない過去回想から席を立ち、雨で濡れ冷えた体をざっくり拭き部屋着に袖を通す。以前まじまじと「足、長くない?」言われたのを適当に払いのけズボンを穿き、意外と身長気にしいなあかねが風呂から上がる前に洗面所に歩を進める。
3回ノックしたあと念のため声を掛け扉を開けた。自身の濡れた衣服を洗濯カゴに入れ、風呂場の不透明な扉越しに動くあかねに一言掛ける。
「着替え置いとくぞ」
「へーい」
シャワーの音に遮られない程度の声量で言えば、それ以上の大変元気な返事が返ってきた。
早々に退散する前に横目で回している洗濯機の残り時間を見遣る。表示される当分終わりそうにない時間を頭の隅に置きからしは洗面所を出た。
ひと段落して訴えかけてくる喉の渇きを宥めるべく進行方向をキッチンに変更。理路整然と食器が並ぶ食器棚を横切るからしの目がいつからか増えていた桜の花びらが舞うマグカップを視界端に捉え、その横に佇む自分のマグカップだけを食器棚から取り出した。
大方拭いたとはいえ濡れた体で空調に当たっていれば気化熱で体温が下がるというもの。雑にインスタントコーヒーを作っていたら無駄に風呂から上がった宣言の声が聞こえ、からしがのそのそリビングに顔を出すとほかほか湯気を立ち昇らせるあかねがソファにどっかり座っていた。
やおら重なるデジャヴ感。精々やる気皆無な間違い探しをするのであれば、あかねが着ている服の所有者はからしという点だろう。男性用且つ高身長のからしの服はあかねにとって、背伸びした子供が父親の服を着るに等しい。ダボついた袖と裾を捲り如何にか手と足を出しているが、咄嗟に動けばずっこける未来が容易に浮かぶ。
「小っせ」
「はあ!?」
揶揄い半分マジ半分。からしの口から出た言葉に即喧嘩腰になるあかねの脳内は彼とは違う事を想像して大変お冠である。一触即発不可避の状況下、こんなこともあろうかと用意していたカフェオレ入りマグカップを差し出せば不承不承受け取るや一口二口飲むにつれ面白いくらい機嫌が直っていく。両手で桜の花びらを包み、ホッと息つく様にからしは内心「(チョッロ)」と呟いた。
二人掛けソファの真ん中に座っていたあかねを左端にズレさせ空いたスペースに腰を下ろす。何も疑わなければ警戒心を抱かない、温まった体から立ちのぼる湯気に隠れ匂い立つ香りが鼻腔を掠める距離にいても尚、緩みきった顔でカフェオレを味わって飲むあかねを横目で見下ろしていたからしの目がスッと眇められる。
「(信用してんのか舐めくさってんのか、そのどちらでもないか)」
一挙手一投足に込められる意図を勝手に深読みして振り回されるなど愚の骨頂。むしろ癪に障る。
ゆえにらしくない行動を起こしてしまうのも致し方ない、そう大義名分の屁理屈をこさえたからしの口が弧を描く。
「一人暮らししてる男の部屋にのこのこ来てシャワーまで浴びるなんざ、危機感無さすぎんだろ」
努めて茶化さず声を潜め指摘するからしに当の本人は目をぱちくりさせ小首を傾げた。
「アンタ私に何かする気? しないっしょ」
「……そうだな」
「だって、からしって私のこと小馬鹿にしたり発破掛けたりするけど、私をそういう目で見ないじゃん」
「は――、」
カンラカンラ笑うあかねに何かを言い掛けた己自身に困惑したからしが言い澱む。
まだ中身が残っているマグカップを置き、緩く捲った裾を引き摺りながら部屋の中を練り歩きしまいにはセミダブルベッドへダイブを決めるあかねの傍若無人っぷりにようやくからしの意識が現実に引き戻された。
折角整えたベッドメイクが見るも無残な状態になり果てていく。転がるにとどまらず平泳ぎやクロール、背泳ぎを披露するあかねのお陰で滅茶苦茶だ。大層楽しげに遊ぶ身勝手極まりない客人の無礼にとうとう乱暴にマグカップをテーブルに置いた家主が立ち上がる。
「お前ホントいい加減にしろや!」
大股でどすどすベッドに近付き丁度仰向けになったあかねの両肩を掴み動きを封じた。湿り気を帯びた黒いカーテンが重力に従って垂れ下がり、一直線に捉えたあかねをからしがねめつける。
隠す気のない憤怒に覆い被されようとも、あかねは微動だにしない所か凪いた面持ちでからしを夕暮れの瞳に映し込んだ。
「私、からしにならいいよ。……違うか。からしがいいって言ったらどうする?」
「――は?」
突如疾風に吹き消された憤怒の炎が先程よりも巨大な困惑を引き連れ思考能力を攫う。短時間の間に二度も言葉を失い、その要因を作った相手は顔色一つ変えず見上げ続けている。
何か言いたくとも唇すら動かない状況は、あかねがフッと表情を和らげからしの肩を気さくにポンっと叩き終了した。
「ごめんごめん。これ冗談でも言っちゃあいけないやつだ、からしの綺麗な彼女さんに申し訳が立たない」
「オイ、なんだそれ」
あかねは茶目っ気たっぷり笑って済ます気満々だったが、そうは問屋が卸さない。停止していたからしの思考が瞬時にトップスピードで回転し、相手に気付かれぬようベッドに乗っかり逃げ道を塞ぐ。
「うん? 前の打ち上げで一緒にいた女の人って彼女さんでしょ?」
「アイツは俺のマネージャー。そんなんじゃねえよ」
ゆるゆると降下して肩を掴んでいた手を腕をあかねの顔を囲うように置き、物理的には重くないが圧迫感を感じる程度に双方の間にあった隙間を埋める。夜に染まりつつある紅霞がベッドの海に波打ち広がる情景は否応なしに男女の秘め事を彷彿させ、からしの下で身じろぐしか出来ないあかねにも流石にそれは伝わったようだった。現にあれだけ真直ぐ射抜いていた視線がおかしいくらい泳ぎ回り目が合わない。
「へ、へー? 左様で御座いやしたか……」
「お前が始めた事だろ勝手に降りんな」
冗談で揶揄ってみたら笑えない反応が返ってきて右往左往無様な醜態を晒す落語バカにほとほと呆れて手を出す気も起きやしない。ささやかな抵抗か顔の間に手で壁を作り固く目を瞑っているあかねから身を引き、何処かふらり消えたかと思いきや数分も経たず戻ってきたからしが先程のソファにどっかり座りあかねを手招く。
怒られやしないか恐る恐るベッドから下り居住まいを正して隣に座る姿はさながら借りてきた狸の如く。そのまん丸な目がからしの手の動き追うと、テーブルの上にことり真っ白な正方形の箱が置かれた。からしと箱を交互に見れば顎で促され、これまたそーっと手に取り蓋を開ければ蔓か蔦かが絡み合う黄金色輝くイヤーカフが気だるげにあかねを見上げていた。
「えっ…、えっ?」
「今付けてるピアスと喧嘩しねェデザインにした。で、それをどうするかはお前に任せる」
「えっ? ええっ?!」
傍から見ても分かり易いくらい狼狽するあかねにからしは更に畳みかける。
「受け取り拒否をするもよし、受け取るだけ受け取って付けないもよし。好きにし、――物好きめ」
言い終わる前に覚束ない手付きでイヤーカフを左耳に付ける光景にニヤリと笑い、立膝に頬杖をつき意地悪く覗き込む男からプイっと顔を背ける女のいじらしさにまた笑う。
生憎先程と違い右側に座っているお陰で真っ赤な左耳が丸見えであり、恥ずかしくて膨らんだまろい頬を突き放題である。揶揄い倒すのも一興、だがしかし下手に臍を曲げられ外されては元も子もない。
きめ細かな肌を指の背で数回撫でたからしは、随分とコンパクトになってしまった両膝を抱え背を丸めるあかねの耳元に唇を寄せ滅多に言わない彼女の名前をそれはもう低く掠れた声で囁いた。
「朱音」
「ひゃいっ?!」
不意を突かれて出たに相違ない綿毛がフッと飛ばされたような音程の外れた声色。
咄嗟にソファ端まで飛び退き熱を帯びているであろう左耳を両手で抑えて見上げるあかねの眼差しにからしの嗜虐心が擽られる。弟弟子に散々世話になりっぱなしのだらしない姿や誰よりも落語を楽しみ勝ちに行く時とは全く違う、何処か不安そうに揺れる瞳の裏側、言い表し難い期待が入り混じった熱を見透かしたからしの目が細められた。
わざとらしく距離を縮めソファの背凭れに体重を預け覆い被されば、分かり易いくらいにあかねの体がソファに沈み如何にかからしと距離を保とうと試みている。
「(背凭れと逆側に転がりゃ逃げれるってのに、な)」
あえて不完全の檻にして脱出経路を残しているというのに逃げられない獲物に狐がくつくつ笑う。
「イヤーカフもちっと見せてくれや」
殊更やわい声音に促され逡巡するも勝てないと観念したらしく両手で覆い隠していた左耳を素直に晒すあかねは耳や頬と云わず首元まで朱に染まりつつある。筋張った長い指が耳輪に付けられたイヤーカフを満足気になぞるこそばゆさ。ギュっと握った両手で口元を隠す初心な仕草に思わず逆側の檻を閉じてしまいそうになる。
「あー、似合ってんな。悪くねェ」
金属の繊細な凹凸を親指の腹で撫でたまま何食わぬ顔で耳の縁をなぞり火照る熱の感触を楽しむ。
からしの冷たい指先が形の良い耳を掠める度、更に体温が上がるような錯覚に陥っていく。我慢しなければ変な声がまろびでてしまう羞恥であかねは波打つ口元を必死に引き結んだ。目を逸らしたくとも逸らしてしまったら何かが起きてしまいそうな予感に臆してしまい、あかねの目はからしの今まで見た事のない色を宿す目に釘付けだった。
やおらカーテンの隙間から差し込む西日が室内に舞う塵をキラキラ照らし通り雨が過ぎ去ったのをからしにだけ知らせる。耳を澄まさなければ遠雷はおろか微かに雨脚が聞こえるかどうか。赤く染まった耳の熱が指先に伝播していくのを堪能しつつ、いっそ檻を閉じてしまおうかと実行しかけた矢先――。
「あっ! 洗濯終わった!!」
無粋な乾燥終了の音が鳴るや否や、体の自由を取り戻したあかねが疾風の如き速さで洗面所に駆け込んだ。
しばらくして洗面所から「あっつ!?」と、悪戦苦闘する賑やかな悲鳴次いでバタバタと着替え終わった勢いを落とさず出て来るなり「洗濯とお風呂、着替えに……イヤーカフ…ありがと! お邪魔しました!!」と、ソファで寛いでるからしに向かって矢継ぎ早にあかねが叫ぶ。
ありありと滲むこの機を逃してはならぬ、という意気込みは大変結構だが「荷物、忘れてんぞ」からしに言われそそくさリュックサックを取りに戻りなんとか玄関先でスニーカーを履く姿を眺め笑わないなんて無理な話だ。
わたわた、もだもだ。焦ってもたついているあかねに追いつく事なぞ朝飯前の所業。真上からつむじを見下ろしていたからしの目線がやや上がったのとほぼ同時、バッと振り返ったあかねの面貌は玄関を開け放って差し込む西日に照らされたと、言い訳するには苦しいくらい真っ赤になっていた。
「じゃね! ――からしぃ、まだ雨降ってるから傘貸してっ!!」
「早ェなオイ」
玄関扉が閉まり切る前に赤々と照らされた空を指差し雨が降っているのを全力で伝える落ち着きのなさ。
おっちょこちょいなあかねに鼻で溜息を吐くのも束の間、夕陽を背負うあかね越しに白雨を視界に収めたからしは脳内に浮かんだ言葉をそのまま語り掛けた。
「晴れてるのに雨が降る天気のこと、なんつーか知ってるか?」
「はあ? お天気雨でしょ、あと……っ!!」
「そうさ。テメェが散々俺の事を例えている動物のな」
――狐の嫁入り
あかねはもう言わなきゃいいのに言ってしまった後悔塗れな自分の口で呟いたのか、はたまた心底愉悦感に浸った表情で話し掛けるからしの声なのか、それすらも分からないまま渡された傘をただただ見下ろすしか出来なかった。
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