からりとグラスの氷が音を立てる。家主不在のアパートのリビングでダラダラ飲む時間はもはや定番のものとなっていたが、いつになく今日の簓は酒のペースもまわりも早いようだ。特番ラッシュで忙しいという仕事のせいなのか、待てど待てど帰らない家主のせいなのか、零にも判断がつかない。
「盧笙まだ学校やわ。忙しんやろな〜、学期末やもんな」
手持ち無沙汰に位置情報アプリを眺めながら簓が呟く。連絡していないのだから盧笙としても早く帰ろうとしようがないわけだが、それもまたいつものことである。
「メールの一本でもしてやれば飛んで帰ってくんじゃねえか? 簓くんはこんなおいちゃんと飲んでるより恋人とのあま〜い時間の方が大事だろ?」
「ははは、恋人て、なあ? あー、まあそうか……」
歯切れ悪く呟いて、簓がグラスをあおった。薄い琥珀色の液体が白い喉に吸い込まれていく。簓が自分で持ち込んだウイスキーがそんな勢いで飲むほど安価なものでないことを知っている零は、それでも笑いながら残った氷に酒を追加で作ってやる。
零が簓と盧笙に呼び出され、珍しく二人で正座して交際することになったと報告を受けたのは1ヶ月前のことだった。詐欺師を自称する身として顔に出すことこそなかったものの、零はそれなりの驚きをもって報告を受け入れた。どう見たって思い合っていながら、簓は少なくとも友人としてのスタンスを崩す気がないと踏んでいたからだ。
それから何度か一緒に飲んだが、二人の間で流れる空気はそれまでよりもぎこちないようだった。
「何か思うところでもあるのかい? 簓クンとしては」
「てかなあ、盧笙のアレは恋人ごっこやで、まあそのうち飽きるわ」
「へえ、それ盧笙に言ったらどう思うのかね、あいつは」
盧笙の真っ直ぐな性格は、零よりもよほど簓の方が把握しているはずだ。
「いや〜飽きる、ちゅーかそのうち気づくやろ? 俺と付き合ってどないするんて。セックスはギリできたとしても結婚もできへんし子供もできん。親に紹介もできんし職場にも言えん。八方塞がりの八宝菜や」
自分のギャグに簓は自分でケタケタと笑う。
「盧笙は真っ直ぐな奴やから、思い込んだら簡単には動かへん。俺のことが好き言うならなんぼでも付き合うたるし、ヤりたいんか知らんけどケツくらい貸したるわ、あっまだそこまでは許してないで!? でもなあ……」
「でも簓クンは好きなんだろ? 盧笙先生のことが」
「愛しちゃってますからねえ、そらもう、二度と離す気がないくらいには」
二人の生い立ちについて、零は知り合う前にひと通り調査を済ませていた。ただ、零が扱う情報という文字の羅列には、簓自身の感情は含まれていない。両親の離婚なんてよくあることだ。そして本人のトラウマの重さなんて本人にしかわからない。
「やからまあ、盧笙が満足するまでは恋人ごっこやわ。けどまだええよなあ、一ヶ月いうたら楽しい頃やろ、タイミング来たらちゃんと別れるし」
ゴロンと氷が転がり、また簓のグラスが空いた。そろそろ水を注いでやろうとした零の手を押し留めて、簓は勝手にウイスキーのボトルを手にする。
「別れられるのかい? 簓くんは」
「まー盧笙は真っ直ぐな奴やからな、あいつに別れ話なんかまともにできるわけないんよ。やから俺からちゃあんと別れたらなあかんやろ。そん時が来たら零、力貸してな?」
「おいおい、おいちゃんに何をさせようってんだ?」
「零は話上手いから、盧笙のこと丸め込むのなんて簡単やろ? うまいこと俺と別れやす〜いように誘導してくれたらええから、何なら盧笙好みの女の子とかなら俺が用意しとくし」
策略に巻き込もうとする簓に苦笑する。これだけ酔っ払っていてもよく回る頭は、悪知恵なら思いつくらしい。
「盧笙先生の好みねえ、俺はよく知らんからな」
「わかりやすいやろ、あいつの好みなんか。黒髪ロングでおとなしめで清楚〜って感じ。女子校育ちで得意料理は肉じゃがで、さしづめ名前は」
「シズカちゃんかい?」
あまり詳しくはない古典漫画のヒロインの名前を出してやると、簓はキャッキャと子供のように喜んだ。
「ええやんシズカちゃん! いうたらなんも俺と合ってへんな、俺なんかニギヤカちゃんやで、ウケる〜」
子供らしくはない琥珀色のウイスキーがまた簓の中に吸い込まれていく。仕事に障るならここまで酔うことはない男だ。きっと吐き出したい感情もあるのだろう。
「ああそうや、そんで笑顔が可愛い子な。これだけ俺も合うてることない?」
「可愛いかあ?二十六の男の笑顔が」
「ムカーっ! 笑顔が可愛いヌルサラちゃんってレギュラー番組のファンからは評判やねんぞ、ラジオやけど、って笑顔見えてへんがな!」
けして美形というわけではないが、愛嬌のある細い目をさらに細めて簓が笑う。
「まあ、おいちゃんよりは可愛いかもな?」
「にゃはは、れーはいかちーからな、けどわろたらかわええで。てか笑顔はだいたい誰でもかわええねん。俺は世界を可愛くしとるんや、褒めてくれ〜ろしょ〜」
とうとういない恋人に向かって話し始めた簓に苦笑して、零もグラスをあおった。鼻に抜ける花の香りは、酔っ払いに飲ませておくにはもったいない上等な酒だ。
「簓くんはどうするんだい? 盧笙先生と別れて」
「ええねん、俺は一人でも笑いながらテキトーに楽しく生きてけるし、盧笙の人生までは引きずりまわさんでも。まあ食い込んではいくけどな、グイグイっと! あいつの結婚式の司会もスピーチも全部ヌルデがやるで、贅沢やろ」
「そりゃあすごい、天下の大芸人白膠木簓さんの仕切りなんて全国中継モンだぜぇ」
「ふひひ、あいつ俺のギャラなんか払われへんよ絶対。事務所通さんとやったらそれも闇営業って言われるんかな、なんでやこの上なく光り輝いとるっちゅーねん」
いよいよ酔いが回ったらしい簓は、ラグの上に仰向けに寝転がった。
「れーは結婚しとるもんな、ええモンなんやろ、結婚ってのは」
カラカラ氷を回しながら、靄のかかった思い出を辿る。ごく普通の夫婦でいられた頃、今となっては遠い記憶だ。
「どうだろうな、時代が時代だったからな」
「ほーかぁ……似合うやろな盧笙、子供とキャッチボールしたりすんの」
何かを思い浮かべるように簓がクスクス笑う。
「あいつはお日様の下が似合うねんな……自称は月らしいですけど、ぷくく、月てお前、臭っさー、ムーンやなくてプーンって臭うわ」
簓のスマホのバイブレーションが数度短い音を立てた。一秒で飛びついた簓の顔で相手を察する。
「センセーかい?」
「うん、ろしょーやった。仕事終わったって、もう日付変わるで? 大変やねえセンセも」
どうやら盧笙の方もGPSで簓が部屋にいることに気づいたらしい。
「ならおいちゃんはそろそろおいとましますかね、若い二人の邪魔しちゃ悪いし」
「え〜! なんでやなんでや! まだええやん」
ごろごろ転がってきた簓が、零の足にしがみついて引き留める。
「おってや……零おらんかったらまたそーいう雰囲気になってまうし」
「嫌なわけじゃないだろ?」
「嫌、いうか、なんか最近できればあいつに触られんのもできるだけ避けとるっちゅーか、びみょーな時期やねん……たのむわ」
「しょうがねえなあ」
初めは利用価値しか見ていなかったこの二人は、賢いくせに底抜けに善良で、関わる中でいつしか零も感化されてしまっていたらしい。まあおいちゃんとしては若者たちの恋愛沙汰に少し巻き込まれてみるのも悪くはない。
膝にしがみついて寝てしまった簓の頭のアホ毛を揶揄いながらウイスキーをちびちび舐めていると、じきに玄関の扉が開く音がした。
「おう、おかえり、お疲れさん」
「ただいまーって、お前らの家ちゃう俺の家や! んでおい簓、お前ひとんちで勝手に寝とるんちゃうぞ、家主のお帰りやで」
「ろしょー……? あれ、あははは! ろしょーが三人おる〜!」
「盧笙は一人や! なんやめずらしいなコイツが酔っ払うの、おい、目の焦点合おてないぞ? って、わ、危なっ」
零の膝を離した酔っ払いが、今度は盧笙の膝にしがみつく。盧笙はそのまま勢いで倒れ込むようにして、床の上に尻もちをついた。
「おれこのろしょーにする〜! 三人もおるし一人くらい俺のもんにしてもええやろ」
「おい、簓」
「そっちのろしょーもな、俺のギャラ割引にしたるからな、シズカちゃんと幸せになりや……」
それだけ言って、簓はまたすよすよと平和な寝息を立て始めた。
「なんやねんギャラ割引って、あとしずかって誰?」
「さあなあ、酔っ払いの言うことはおいちゃんにはわかんねえな」
酔っ払いの相手はそれに相応しい男に任せることにして、グラスに残ったウイスキーを流し込んだ。強いアルコールに喉が焼ける感覚が気持ちいい。
「俺が三人おったとして、三人ともお前のことしか考えてへんのにな」
膝に乗った頭のアホ毛をつまみながら、盧笙がぽつりと呟いた。
「盧笙先生よぉ、簓くんはなかなか重症だぜえ? はっきり言わなきゃ伝わらないんじゃねえか?」
「零に言われんでもわかっとるわ、俺かてなんも考えてへんわけとちゃう」
拗ねたような物言いは、やはりまだ今時の若者だ。自分の20年前を思い出し、ふっと零は笑みを漏らした。
「まだ手ぇ出してないんだろ」
「なっ……お前そこまで零に喋んなやアホが」
ベチっと軽い音を立てて盧笙の手のひらが簓の額を叩く。叩かれた方はまだ気持ちよさそうに夢の中だ。
「とっとと既成事実作っちまう方かと思ってたわ、簓くんみたいなのは」
「いや俺やのうて簓の方かい! まあ、でもええねん、そういうのはちゃんと通じ合ってからで」
いつか盧笙は零に、簓を尊敬していると漏らしたことがある。あれからいくらかの時を経て、盧笙の簓を見つめる瞳にはそれ以上の熱が点っていた。簓の強いところと弱いところ、そして零ですら見えない心の裡が、きっと盧笙には見え始めているのだろう。
「俺は気ぃ短いけど執念深い方みたいやから、まあじっくりやらせてもらうわ。もう離れたる気はないねんから、なんぼでも時間あるし。ほら簓、ちゃんと布団で寝ぇ。明日覚えとれよほんま」
強引に腕を引き寄せ、盧笙が簓を肩に担ぐ。若者たちの邪魔にならぬよう、そろそろお暇しようかと零も一緒に立ち上がった。
「なんや、お前は帰るんか」
「おいちゃんは泊まんねえの、タバコの吸えない部屋には」
ヒラヒラと手のひらを振って上着を羽織り、狭い玄関で靴を履く。扉を開ければ外はもう夏の空気だ。湿気と熱気を吸い込んだ零の背中を、簓を寝かしつけた盧笙が大きな声で呼び止めた。
「なあ! 俺と簓がどないなっても、お前も仲間であることに変わりはないからな! 離さへんぞ!」
「おお〜熱烈だねえ」
夏の夜に響くラブコールに苦笑する。
「はっきり言えゆーたんはお前やろ! 俺も言いたいことは極力言うとくことにしたんや、あいつにはもうちょい伝わってへんだけで」
玄関からブンブンと手を振る盧笙に軽く手を挙げ、階段をゆっくり降りた。
出会った頃、零の情報という文字列の中で盧笙は、簓を奮起させる道具の一つでしかなかった。数度のDRBを経て、零の中で躑躅森盧笙という人間の認識は、簓以上に変化したといえる。
「仲間ねえ」
己にはとても似合わないくすぐったい響きに鼻を鳴らして、夜のオオサカを歩き始めた。那由多と想い描いた未来、この国の笑顔を作っていくのは真正マイクなのか、それとも。
らしくない感傷に浸りながら零の姿は夜のネオンに溶けていった。人の想いを飲み込むオオサカの夜はまだ、始まったばかりだ。
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