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null_shhh
2026-04-20 23:15:42
3022文字
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毒水
🍋さん、書きました
「恋雪さん。水を、飲んでください」
そう言って、最愛のあなたは水の入ったグラスを差し出した。
幼い頃からこの世界にはほとんど触れたこともないのに目にすると酷く懐かしさを感じさせるものがいくつもあった。それは、真っ新な道着であったり、雪の結晶のモチーフだったり、薬の匂いだったり。
不意にそれらに触れては、何故だか無性に懐かしい気持ちになることがあった。
物心がついて色々知る年になればこういうのをデジャヴっていうのかしら、と思っていたけれど。
それは年を重ねるごとに回数が増えていった。むしろそれどころか、当初は懐かしいというなんとなくの感覚の物だったはずなのに、いつの間にか覚えのないぼんやりとした記憶が付随するようになった。
例えば白い道着を見ると、誰かとそれを干した記憶。雪の結晶のモチーフを見るとそれを誰かが似合うと言ってくれた記憶。薬の匂いを嗅げば誰かが私を背負ってくれた記憶。
それらは全部自分の事のように感じられるのに、明確にそんなことはなかったと断言できる記憶達だった。
そんな不可思議な感覚や記憶を人に説明するのは難しくて誰にも話したことはなかった。そう、幼馴染で恋人である人にも。
ある晴れた日。
武術の大会に出ることになった恋人の背を玄関から見送った。青い空が美しくて、その背が凛々しくて、なんだかふわふわした気持ちで眺めていたら。また不意に蘇る記憶があった。
それは、これまでにないほどはっきりとした記憶だった。
私のものではない、だが確かに宿る“わたし”の記憶。
・・・そう。その日も気持ちの良い天気の日だった。空は青く澄んで、雨は降りそうもない。私はあの人の背を見送りながら「良かった」と思った。この天気の良さなら、きっとそんなに遅くならずに帰ってきてくれるはず。
片時も離れたくない、というわけではないけれど、傍にいるのが当たり前になっていたから。離れているのはやっぱり少し寂しい。
・・・でも、嬉しかった。
祝言を挙げることを自分の父に伝えたいから一日暇を貰いたい、と言われたときは。この話は私や父から提案されたものだったからそれを受け入れてくれただけでも天にも昇るほど嬉しかったけれど、でもどこかでちょっとだけ不安だった。そうせざるを得ない状況に追いこんでしまったじゃないかって。
あの花火の夜に全てを受け入れてくれて、私を守ると約束してくれて。更にはそれをお父さんに報告したいって言ってくれるほど、前向きに受け取ってくれることが。
「・・・よし。狛治さんが戻る前に洗濯物をして、廊下もお掃除して、それから、きっとお腹を空かせて帰ってくるだろうから夕餉の準備もして・・・」
そう、あの日と同じだ。
最愛の人を見送って、当たり前にまた会えると思っていた。
――
なのに、私は・・・死んでしまったのだ。
毒を投げ込まれた井戸の水を飲んで。血を吐き、藻掻き苦しみ、抗いようもなく、その毒水で呆気なくだが惨たらしく、死んでしまった。
死んだ。死んだ。死・・・。
その記憶を思い出した私はそのままその場に崩れ落ちた。
・・・それは、さながら臨死体験のようなものだった。
そしてその強烈な記憶は、その日から、私に“何かを飲む”という行動を拒絶させるようになってしまったのだった。
もう何日も何も飲んでいない。食事はできるが、水分をとらないとやがて何も喉を通らなくなった。立ち上がることも億劫になってきて、明らかに“普通”ではなくなった私に、最愛の人、狛治さんが気づかないわけがなかった。
私の部屋で向き合うように座る。私は座っているのもやっとの状態で、それを見る狛治さんの表情には一種の恐怖のようなものが見えた。
「恋雪さん、水を飲んでください」
差し出されるグラスを持つことすら、手が震えるほど怖くて拒絶する。少しだって自分に近づけたくないのだから、口元になど持っていけるわけがない。
渇きよりも恐怖が勝っていた。
それを口にして喉を潤わせたら。
その流れを辿るように爛れた痛みが走り、眩暈と、狭窄が私を襲う。わけもわからぬまま、熱い液状の塊が口から溢れ、溺れるように藻掻くだけ。助けを乞うこともできないまま、私はその場に臥せるのだ。
そして朦朧とする意識の中、ただ、名前を呼ぶ。声は出せないまま、何度も、はくはく、と口を開いて、空気を求める魚のように。
――
そして、私はあなたをひとりぼっちにする。
その、痛烈極まりない記憶が何度も何度もフラッシュバックする。激痛と絶望の記憶。
「恋雪さん、お願いだから!」
どんなに願われても、どんなに求められても、それだけはできない。できないのだ。
あらゆる恐怖がこの身を苛む。それを飲まずにいればやがて私は死ぬのだろう、と思ってもどうしても口にできない。それを望むわけではないのに、あまりにも強烈な記憶がそれを拒絶するのだ。
狛治さんがぐっとグラスを近づけて、私の口元へと運ぼうとする。
それをほとんど無意識的に払い落とせば、床にグラスが落ちる鈍い音がした。広がる水が狛治さんのズボンに滲みていくのを眺めながら、言葉が出なかった。謝りたいのに、謝っても水は飲めそうにない。
しばしの沈黙の後、狛治さんが小さく息を吐いた。
それがどんな感情からくるものなのかはわからないけれど、思わず私はピクリと肩を揺らしてしまった。
「・・・すまねぇ」
それだけ言った狛治さんは突然、先ほど払い落としたグラスに水を注ぐために置かれていた水差しを持ち上げて、それを呷るように口に入れた。じゃぱじゃぱと水が狛治さんの口に注がれ、乱暴な仕草のせいで入りきらなかった水は顎を伝って床にぼとぼとと落ちる。
いきなり、何をしているんだろう。唖然としてそれを見ているうちに、水差しを床にどんと投げやりな風に置いた狛治さんはそのまま私の頭を掬うようにして捕えた。そして、そのまま距離は、ゼロになる。
それは、乱暴な、口づけだった。
驚き口を開けてしまった私に温い水が流れ込んでくる。自然な高低差で。それを拒否することなどできるわけがなく、瞠目しているうちに喉の奥へそのまま落ちていった。
狛治さんの眼はこれまでに見たこともないほど、真剣なものだった。その眼差しを見つめ返すと甘さよりも、酷い痛みが胸を走り抜けた。
こくん、と喉が鳴った。それは水が喉を通り抜けた合図だった。
その様子を見た狛治さんがそっと労るように私から離れていく。向き合った私と狛治さんの唇から顎、服の襟元まですっかり濡れてしまっている。
「あなたが怖いなら、ずっとこうして水を飲みましょう」
静かに、狛治さんが言った。
そんなことできるはずない、なんて思いながら。狛治さんの声色があまりにも真っすぐで揺るぎないから、本当に死ぬまでずっとこうやって水を与えられ続けるのかもしれないなんて、考えた。
「大丈夫」
そっと手を握り込まれた。その温もりで、強張っていた肩の力が抜けていく。同時に、壊れたみたいに涙がぽろぽろと零れていく。
「なにがあったって死ぬのは、俺が先だ」
もう大丈夫だと、急に思った。過去に味わったあなたによって生かされる、という疑似体験が、過去の痛烈極まりない記憶を塗り替えていく。そうだった。いつもあなたにそうやって生かされていた。きっとこの世でもそうなのだろう。
「今度こそ、あなたを守りますから」
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