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日本海
2026-04-20 22:29:31
8868文字
Public
太刀忍
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FEED ME WITH YOUR KISS.
2019年の春コミで発行したコピー誌の再録です
また同じマンションの中にいる。
静まりかえったエントランスを過ぎて、緑の扉のエレベーターに乗り込む。六階のボタンを押すと、狭い箱はわずかに振動し、浮上した。
あの部屋に行くのは三回目。そろそろ慣れた。
六階に着くとポーンと音がして、鉄の扉が開く。ホールから三部屋数えて、六〇六号室。白い壁に、白っぽいグリーンの古くさい鉄製ドア。
キーホルダーも何もついていないそっけない鍵を穴に差し込んで、ドアを開けるとまず手狭なキッチンスペースが目に入り、その奥に一続きの居間がある。このマンションの外観は古びて、築三十年は経っているように見えるが、内装は妙に新しくきれいだ。
そして日当たりのいい居間には、トラがいる。
動物園でしか見たことのない、生き物のトラだ。誰もがイメージするように、黄と黒の縞柄の毛並みが立派な、あの動物。
首を長い鎖で繋がれ、手狭な部屋の中をのしのし歩き回ったり、べったりと床に伏せたり、気ままに過ごしている。
俺はときどきこの部屋を夢に見る。
どうと言ったところのない1DKで、家具家電の類は3人がけの大きな黒革のソファに、単身用の冷蔵庫が置いてあるだけ。冷凍室の中には餌用の塊肉がいくつも入っているが、部屋にいるときにトラに餌をやったことはない。なぜなら彼には金属製の口輪がつけられているからだ。それには簡単に外せないような南京錠までついている。俺が持っているのはこの部屋の鍵だけだから、開けることはできない。
だからここでは、ただ彼のことを眺めて過ごす。
彼は人懐っこく、俺の脚に体をすりつけてくる。
ずいぶん人好きな様子だから、いつか口輪を外してやって、飼い猫にするように鼻先をすり合わせたりしてみたい。
俺はいつも通り、ソファの右側寄りに座って深く体を沈め、彼の動きを見守る。彼は鎖をじゃらじゃら鳴らしながら歩いてきて、俺の足元に大きな体を寄せると、そのまま目を閉じ眠ってしまった。
トラはあたたかい。足元がぬくぬくして、彼の呼吸音を聞いていると、俺も眠たいような気がしてきた。夢の中なのに。
「一緒に寝ようぜ」
ソファから体を起こして、トラの頭を軽く揉みながらつぶやく。俺の言葉がわかっているのかいないのか、彼は、長い尻尾をぴくりと震わせた。
*
目覚めたら、忍田さんの気配はすでに部屋から消えていた。エアコンの送風音だけが聞こえる静かな朝だった。
枕の下に置いた携帯の画面を見れば、彼が出勤する時刻はとっくに過ぎていた。
起こしてくれてもよかったのに、なんて思いながら寝返りを打ち、あくびをした。なんとなく昨日の記憶を反芻する。
寝る前に暖房は切ったはずだが、おそらく俺が起きたとき寒くないように、忍田さんがつけていってくれたのだろう。3月上旬とはいえまだ朝晩は冷える。
日付が変わった頃、泊めてくれと言って突然忍田さんの家に上がり込んだ。
忍田さんのことが好きだ。そのことは、誰にでも、本人にも、オープンにしてるつもりなんだけど、当の本人が理解しているのかいまいちわからない。
彼は仕事から帰って来たばかりの様子で、ジャケットを脱いだだけのスーツ姿だった。俺はゼミの飲み会の後で、見るからに酔っ払ってたと思う。
玄関先で、靴を脱ぎかけのままふざけて抱きついたら、彼は「臭い」ってぼやきながら、仕方ないなあって感じの困り顔をした。その表情がかわいくって、しまりなくニヤニヤしていたら、ひどい酔っ払いだと思われたのか、頭を拳骨でぶたれたあと、風呂場に放り込まれた。
俺があまりにも頻繁に泊まるから、忍田さんの家には俺の着替えが置きっぱなしになっている。風呂から上がるとそれらが脱衣場に畳んでおいてあった。ありがたく着替えて、髪を乾かす前に居間に戻れば、彼はキッチンの椅子に座ったまま、テーブルに頭を突っ伏して寝こけていた。傍に新聞が小さく畳まれて置いてある。シンクには洗い物が残っていた。
疲労を滲ませる彼のつむじをしばらく眺めながら、さっさと起こして風呂をすすめるべきか、もう少しだけ寝かせておくのがいいか、考えてみた。でも俺が行動を起こす前に、彼は重そうに頭を持ち上げた。
「
……
慶、あがったのか」
眠たげに片目を擦りながら立ち上がった忍田さんは、めずらしく、のろのろとした動きで風呂へと向かった。俺は彼が浴室のドアを閉めた音を聞いて脱衣所に戻り、髪を乾かしてから、洗い物を片付ける。
忍田さんは本当に疲れていた。布団は自分で出してくれなんて言うし、風呂上がりの後全ての身支度を済ませるとすぐに眠ってしまった。
もちろん俺は客用の布団なんて敷かず、忍田さんと同じベッドに潜り込んだけれど、普段だったら絶対飛んでくるであろう小言ひとつ言われなかった。しかも彼は薄目を開けて俺がいるのを認識したあと、寝返りを打ち、こちらに背を向けて寝直したのだった。
忍田さんって、仕事がこの世で一番好きなんじゃないの、ってくらい仕事ばっかりしてる。
街の防衛シフトに回ることが滅多に無くなって、大好きな鍛錬がなかなかできなくなったって、涼しい顔して制服に自分を押し込めて、この街を守りたいって使命感や責任感から、ボーダーに、三門市のために尽くしてる。
だから後進を育てるのも仕事のうち、とか口先で丸め込んで、たまに一緒に模擬戦やったりする。忍田さんは、ズル休みしたいとか考えるときないのかな。
───ポーン
携帯が鳴ったのをきっかけに、俺は空想を打ち切った。画面を確認すると、高校の時にでも適当に登録したカラオケ屋からのメルマガだった。
そういえば忍田さんとカラオケ行ったことってない。あんま歌は得意じゃねーし、忍田さんだって似たようなもんじゃないのかな。
もし忍田さんがズル休みしたいって考えることがあるなら、彼をどこかに連れ出す人間は、長年の付き合いがある林藤のおっさんでもなく、未来視持ちの迅でもなく、絶対に俺でありたい。
そうして、カラオケでも海でも動物園でも三門の外でもどこでも、普段行かないようなところへ行って、一日中子供みたいに遊ぶのだ。
彼は何て言うだろう。ちょっと困った顔して、それでも俺についてきてくれるんだろうね。
そんなことをうつらうつら、半分眠りの中で考えていたら、いつの間にか意識が遠のいて、また夢を見た。
あのマンションだった。エントランスに俺はいて、いつも通りエレベーターを使って六階まで上がり、六〇六号室を目指す。
鍵を開けて、玄関を抜け、居間に入ると、トラはいなかった。
代わりにボーダーの制服を着た忍田さんがいた。ソファの上で寝ている。
とりあえず近くに寄って、顔を覗き込む。
俺は驚いた。忍田さん、なんと黒い首輪をしている。トラと一緒のやつだ。
それから、目の下にクマが濃く出ていて、すげえ疲れてるみたいだった。ネクタイも外さずにいる。
「忍田さん。起きてよ、着替えた方がいいって」
声をかけても、反応はない。仕方なく俺は彼のこめかみにかかった髪を指ですくい上げて、耳にそっとかける。
凪いだ海のように静かな寝息が聞こえる。長身なのに、猫みたいに丸くなって眠っている。
俺はソファの正面、床に座って、飽きることなく忍田さんの寝顔を観察していた。携帯のアラームが鳴って、現実に引き戻されるまで、ずっと。
目を覚ましてからも幸せな余韻に浸っていたかったけれど、そうはいかない。あいにく三限から講義があるので、名残惜しいがベッドを出る。
*
一週間後、ふたたびあのマンションの夢を見た。
忍田さんが夢に登場して以来、六〇六号室には、トラの代わりに彼がいるようになった。
夢の中の忍田さんは言葉を持たない。それが現実とは違う。一切話さないまま、猫科のように気ままに寝て過ごしている。現実の彼とは違って、常に眠たげで、野生にかえった風な仕草をするのに、着ているのはボーダーの制服だから印象がチグハグだ。この部屋では大人の忍田さんが日当たりのいい窓際の床で子どものように丸くなって眠っている光景が見られる。
「ソファで寝たら?体痛くない?」
話しかけても、重たい瞼を持ち上げた忍田さんの瞳は意思のないまま透明だ。
俺は苦しくなる。まるで、同じベッドには入れてくれたのに、背を向けられたあの夜のように。言葉にしてくれれば諦めもつく気がするのに、夢の中でも彼は何も話さない。
俺の夢の中なんだから、せめて好きなようにできればいいのにって思う。すべてが思いのままならとっくにキスとかしてる。そういうのって大体惜しいところで目が覚めるだろ。
一回くらいは試してみたいけどな。忍田さんってどういうキスをするんだろう。
*
月の明るい晩、住宅街の中、忍田さんの家へと続く通りを歩いている。
彼とは最近、夢でしか会ってない。
現実の忍田さんは、相変わらず忙しい。俺と模擬戦してる暇なんてないくらい。顔を見る機会は、会議のときだけ。直属の上司ってわけじゃないから、自分から会いに行かなければそうなってしまう。
今日は大学同期と飲みだった。大学生なんて毎週こんなもんで、暇があれば集まって騒ぎたがる。俺としては別に、くだらねえ会はどうでもよかった。それでも参加する理由は、忍田さんが飲み会がえりの俺を、ジトっとした目つきで見ることがあるからだ。ろくでもない大学生活を咎めるような視線。その奥に、ほんの少し、粘着質な何かが滲んでること、俺は知っている。本人は無自覚だろうけど、そんな目で見られると、忍田さんの気を引くのに成功したみたいで安心する。
笑えるだろ。俺は、無自覚な何かの先に何があるのかが知りたくて、自分でも何をしているのかわからないまま、同じことを繰り返す。
家に着いて玄関扉の前で一応電話をかけてみたら、彼は渋々って感じで俺の訪問を許可してくれた。ドアを開けてもらって顔をあわせるなり、「おまえが来る気がしてた」なんて言い出して、俺の着てるモッズコートのフードを掴み、そのままひょいっと俺の頭に被せる。機嫌は悪くなさそうだ。
彼はスーツのままで、着替えていなかった。もうすぐ日付が変わるというのに飯もまだだという。キッチンのテーブルセットに向かい合わせに座りながら、とりあえず、一緒にビールを飲んだ。
「今日も飲み会だったんだろ」
「そうだよ」
「ちゃんと自分の家にも帰りなさい」
忍田さんの口調は優しい。しかし、「目は口ほどに物を言う」だ。俺の何かが意に染まないという目つきをしている。俺はその、正体のわからない何かをもっと引き出したくなる。
「
……
俺さあ、酔っ払うと、忍田さんに会いたくなるんだよね」
上目遣いで見つめながら、言った。場面によっては遠回しな告白とも取れる台詞に、彼は目を丸くする。
「でも迷惑なんだったらダチの家行けばよかったかな」
わざとそんな風に続けたら、あからさまに彼からの視線に粘度が増した。俺は調子に乗ってニコニコしてしまいそうになる。忍田さんはだんまりだ。
「忍田さん本当は、俺が家に来るの、嫌じゃないでしょ。俺に変な虫がついてないってわかって安心してるくせに。自分で気づいてないんだね」
そう言われて、彼は豆鉄砲を食らったような顔をした。ビール缶を中途半端に持ち上げたまま、呆気にとられている。俺は何も気にかけてない風を装って、話題を変えた。
「なんか飯作ろうか?」
「
……
」
「忍田さん?」
「
……
私はそんなに過保護か?」
忍田さんがちょっとムッとして言う。つい俺は吹き出してしまう。過保護ときたか。とことんわかってねえなあこの人。そして俺は彼のそういう鈍感さを好ましいとも、ずるいとも思う。
「そうかもしれねえけど、ちげえよ忍田さん」
釈然としない様子の彼を放っておいて、俺は勝手にうどんを二人分茹ではじめる。忍田さんがため息をつくのが聞こえた。彼に背を向けたまま、言う。
「好きだよって、ずっと言ってるじゃん」
「
……
慶」
何度目の告白だろう。でもはっきり言葉にするのは久しぶりだった。忍田さんはやっぱりだんまりだ。
その晩も忍田さんと一緒に寝た。というか、客用の布団を抜け出して、ベッドに潜り込んだのだった。ちょっとは分かってくれ、はっきり拒むか、受け入れるかしてくれという意図も込めて、寝息を立てている彼を背中越しに抱きしめるようにくっついた。
そしたらまた夢を見た。かつてトラがいて、今じゃ忍田さんがいる、あの部屋の夢だった。
忍田さんは今、制服を着てはいなかった。素肌に、ゴワゴワした綿の黒いTシャツとコンビニで売っているような安物の黒のボクサーパンツ、黒い首輪を身につけている。そして、窓際で、日光を背に受けながら脚を投げ出して、フローリングに直に座っている。
いつもと違う格好に、背徳感を覚える。だってまるで忍田さんをこの部屋に囲ってるみたいだから。
部屋の暖房の設定温度は二十二度になっているが、ほとんど下着姿の彼にはどうやら寒いらしい。震えてはいないが、骨ばった膝から上、太腿に青い血管が浮いている。ソファを、日の差す位置に移動してやったらいいのかもしれない。
なんだか寒々しいので、毛布を巻きつけるようにかけてやって、その上からぎゅっと抱きしめた。
彼の首元に鼻先をすり寄せて、甘えてみる。それから、冷えた頰に手を添えて唇を親指で押す。すると彼は、意思なき人形のようにされるがまま、口を薄く開き、俺の指を受け入れた。犬歯が尖っている。指で舌を捕まえて、ちょうど口の中を調べるように、大きく開かせる。忍田さんは目をつむって、はあ、と息を吐き出した。それがあんまりにも熱っぽいので、俺はぞくぞくしてしまう。もっとちょっかいを出したくなる。今だったらキスできるかもしれない、そう考えて、指を舌から離し、忍田さんの顔を覗き込みながら、ゆっくり顔を近づけた。
唇が重なる。やわらかい感触がした。舌先で唇をつついてこじ開け、舐め上げる。忍田さんが、舌を絡めあったまま切なげに息を漏らしたかと思うと、俺の舌の根をつついた。俺は、キスが拙いこの人の、わずかばかりの奉仕に興奮し、ほとんど恍惚としていた。
そのとき、舌の奥で、彼の歯がかすかに触れた。次の瞬間彼は、ざらつく舌同士を合わせ、そして舌の根から先までをゆっくりとなぞって、一気に俺の舌を、噛み切った。
淡い期待が食い破られて一瞬のことだった。何が起きたのかわからなかった。
夢なのに、俺は慌てて口元を手で押さえる。舌先から吹き出る黒いトリオンの煙が、指の隙間から漏れ、立ちのぼった。
俺は黒い煙越しに、忍田さんのトラみたいな黒い瞳孔が縦に細まるのを呆然と見ていた。彼は背をガラス戸にもたれかけて、煽るように上唇を舐める。それから上目遣いで俺のことを見て、笑いさえした。
俺は少し冷静になって、体は生身なのに、舌が千切れて流れるのが血ではないのを再確認した。いや、何も可笑しくはない。これはただの夢だから。
*
目を覚ますと忍田さんは案の定寝室にはいなかった。
起こしてくれなかったってことは、拒まれたということだろうか。
俺の何がダメだったんだろう、とか、俺は調子に乗ってとんでもない思い違いをしていたのだろうか、とか、自己嫌悪しても仕方がない。
携帯の画面を見ると、忍田さんの出勤時間は過ぎているが、まだ二限からの講義には余裕で間に合う時刻だ。でも心から行きたくねえなあと思う。
結局その日はサボって、警戒区域を散歩した。放置された庭の隅にある梅の木が、蕾をつけているのを眺めたりして、もうすぐ春が来るのだ、とぼんやり思う。そしてぶらぶらあてもなくゴーストタウンの中を歩いていたら、見覚えのある建物にぶちあたった。
それはなんと、あの夢の中に出て来るマンションにそっくりなのだった。外から見たエントランスの様子なんか、寸分違わず一緒で、俺は驚いた。中に入ろうと思いたったが、正面玄関には鍵がかかっていた。非常階段の方にまわりこんで、柵を登り、侵入する。六階建てのマンションだという特徴も一致していて、俺はすぐに六〇六号室を目指す。
階段を小走りで登りきって、少し息が弾んだ。エレベーターホールから三部屋数えて、六〇六号室。白い壁に、白っぽいグリーンの古くさい鉄製ドア。
鍵なんて持っていない。しかし、ドアノブに手をかけてひねってみると、ドアは開いた。ためらいなく部屋に進もうとしたその時、耳をつんざくような警報が外で鳴りだした。
振り返って、エレベーターホールの手すり付きの柵から身を乗り出し、警戒区域を見渡せば、比較的近い場所で、いくつかのゲートが開いたのが目視できた。換装するか迷って、結局やめた。あれくらいの規模なら、現在シフトに入っている隊員だけでも十分対応できると判断したからだ。今日は誰が担当だったか知らないが、すぐに現場に駆けつけてくるだろう。
この時間ここに自分がいて、マンションに侵入したのがバレると後々面倒なことになる。惜しいが、場所は覚えたし、また後日。そう思い、俺は退散した。
*
それにしたって、夢に出てきたあのマンションにまた行きたいと思って、その日の夜に、俺は再び警戒区域を訪れた。記憶していた目印をいくつか辿って、誰にも見つからないよう警戒しながら、目的地にたどり着く。そびえ立つマンションを下から見上げ、六〇六号室のベランダはどれだろうと探すうち、妙なことに気づいた。カーテンの隙間から、ごく薄く灯りが漏れている部屋がある
……
?
びっくりして、心臓が一度だけ大きく跳ねた。
そして、思った。
もしかしてあの部屋には、夢の中みたいに、忍田さんがいるんじゃないか?
非常階段を静かにあがって、六階に到着する。
六〇六号室の扉の前で二回ほど深呼吸したあと、ついに俺はドアノブをひねった。妙に大きな音で軋みながら、扉は開く。
作戦室から拝借してきた小さな懐中電灯のスイッチを入れようと思ったが、室内はうすら明るい。まず、入ってすぐ、手狭なキッチンがある。それは夢と一致しているが、間取りが多少違っている。居間へと続く引き戸は開け放たれており、キャンプ用のランタンが灯されているのがキッチンから見える。家具や雑貨が置かれたままなのも、夢とは違う。
息を潜め、居間に足を踏み入れた瞬間、俺は死ぬほど肝を冷やした。
迅が俺を驚かすために死角に隠れて立っていたからだ。
「──ヒッ」
「よっ、太刀川さん」
あの、目を細めているだけなのか、笑っているだけなのかわからない表情で迅は手を振った。
「おまえ
……
!」
「どうしたの」
「
……
」
どうしたもこうしたもない。俺は自分がどれだけ馬鹿か思い知った。
*
居間には赤い布張りのソファがあった。そこに座って話を伺えば、この部屋は迅の秘密基地のようなものらしい。誰にも内緒で、警戒区域内に拠点を持っている。そのうちの一つがここだと言いやがった。
ガスコンロを持ち込んで、茶まで沸かせるようになっている。
「ねえ太刀川さん」
迅が急に真顔で言った。
「猛獣って撫でてる時は可愛いけど、いつか噛むよ」
「
……
は?」
迅がランタンの火を絞って、部屋を一段階暗くした。
「まあいいや」
迅は肩をすくめる。
「ねえ、今日忍田さんの家、行きなよ」
何の話だよ、と思った。
俺は忍田さんのことなんて一言も言ってねえのに、何か察しているみたいなのが、癪に触ることこの上ない。
「おまえに言われなくてもそうする」
迅の前で電話をかけたら、いつもより早い時間に忍田さんは帰宅していた。
家に行きたいと伝えたら「おいで」と返ってきたので驚く。そうなったらもう急いで行くしかない。
*
俺を迎えるなり、忍田さんの目尻は赤くなっていた。泣いていた、わけではもちろんなく、軽く飲んでいたらしい。俺は昨夜から朝にかけてのことを思って、少し気まずい。
キッチンで、また向かい合わせに座って、忍田さんの作った簡単な料理をつまみながら、熱燗を飲んだ。
「最近おまえの夢をよく見る」
どこか遠い目をして忍田さんは脈絡もなく言う。俺はハッとする。
「どんな?」
「おまえの部屋でずっと寝てる夢」
「そんだけ?」
「ああ、夢の中でも寝てるっておかしいよな」
「忙しすぎて、休みたいんじゃないの」
「そうかな」
会話はそこで止まって、気詰まりな沈黙が場を支配する。
猪口をとん、とテーブルに置く音がやけに大きく聞こえた。
「なあ、慶、私なりに考えたんだ」
来た、と思った。
「昔から、おまえの寝顔を見てると、まるで親のような気持ちになるよ」
「
……
」
「だから慶の気持ちには応えられないんだとずっと思ってた。でも、昨日、夢の中でおまえと
……
」
忍田さんは言い淀んだまま猪口を持ち上げた。俺は首を傾げて、先を促す。
「
……
おまえと、キスしてから、自分の本当の気持ちが自分でもよくわからない」
俺は驚いて目を見開く。喉のあたりが熱を持って、言葉に詰まってしまう。だから頷いて、彼の手に、自分の手をそっと重ねた。
*
隣で寝る許可を初めてもらった。今度は、背中越しじゃなく、正面から彼を抱きしめていい。丸っこい後頭部を撫でながら、鼻先同士をすりあわせて囁く。
「忍田さん、何時起き?俺も一緒に起こして」
「
……
明日、非番だよ。休暇とった」
「うそ」
「昼ごろどこか出かけないか?」
「
……
俺、授業ある」
誘いはうれしいが困ったふうに言えば、忍田さんは息だけで笑った。
「サボればいい」
それを聞いた俺は、力の限り彼を抱きしめる。
「ねえ、キスしていい?」
彼は迷ったようだった。そして頷いた。唇を重ねたら、彼の舌先が俺の口内に入ってきた。現実の忍田さんの方がずっと、キスが上手だった。
一瞬、舌に犬歯が当たって、俺はほんの少しだけ身構える。
それでも、唇を離せなかった。
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