nekosuimidori
2026-04-20 21:32:05
2216文字
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蜂の来る庭


 この一文の訳を、「甘美」とするか、それともただ「甘い」とするか──そう悩んでいた時だった。
 ふわりと甘い香りが漂って、聖はペンを走らせていた手を止めた。何処から香ってくるのだろうかと考えれば、微かに聞こえるじゅうじゅうと何かを焼く音に妻が料理をしているのだと気付いた。
 仕事に集中していて気付かなかったが、古ぼけた壁掛け時計は十二を指し示しているし、そろそろ腹に何か入れたいと体が訴えている。とりあえず、妻の気配に背を押されるように、その訳語を原稿に書きつけた。愛用のペンを木製のトレイに置いてぐっと背伸びをすると、固まった身体の節々から小さく音が鳴った。
 開け放たれた硝子の引き戸から入る風が書斎の中を優しく駆けて、パラパラと辞書のページを捲っていく。頬を撫でる風の心地良さに目を細めながら、穏やかな陽が降り注ぐ庭に目をやった。ハーブや花、木、そして少しの野菜が植えられている庭は、戦争が終わってからたったふたつの鞄だけを持って、菜々香の生家であるこの家に住み始めてから大切に育て上げてきた自慢の庭だ。
 ふと、庭の片隅に植えているローズマリーに何匹か蜂が止まっていることに気付く。四月半ばの温かな今日は、彼らにとっても格好の仕事日和なのだろう。小さい体でせっせと蜜を集める姿はなんとも愛らしい。
 ぼんやりとそれらを眺めていると、扉を叩く音が響いて視線が自然とそちらに向いた。どうぞと声を掛けると、ノブを回す音とともに開かれた隙間から愛妻である菜々香の姿が覗いた。
「お昼ご飯ができたのでお呼びしようかと思って……お仕事のお邪魔でしたか?」
「いや、丁度休憩しようと思ってたところだった」
 腰を上げて部屋を出ると、居間に向かって歩き出す。
「何作ったんだ?」
「たまにはお米以外もと思って、パンケェキなるものを作ってみました」
「あー、だからか」
 腰をかがめて菜々香の首筋をすんと嗅ぐ。先程よりも濃い甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
「甘くていい香りがする」
……犬ですか、聖さんは」
「菜々香限定の忠犬です」
 頭に軽く口付けを落とすと、忠犬はそんなことしないと照れた様子の菜々香にくつくつと笑う。一緒になって何年も経つのに、この可愛い妻はどうにもこういったことには慣れないらしかった。

 居間に入ると、座卓の上に並んだ料理が目に入る。付け合わせの皿には目玉焼きにベーコン、庭で採れたベビーリーフにトマト、バジル。そして卓の真ん中に置いてある大皿には焼き立てのパンケーキが何枚も重ねてあった。
「結構焼いたな」
「実はメリケン粉が古くなっちゃいそうだったんです」
「なるほど」
 互いに向かい合うように座布団に腰を下ろして手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
 それぞれの取り皿にパンケーキを取り分けると、聖はそこにトマトとバジルを、菜々香は目玉焼きにベビーリーフを乗せた。それぞれがナイフとフォークで一口サイズに切り分けると、いい香りのするそれを口に運ぶ。
……ん、美味いな」
「我ながらいい出来です」
 美味しそうに食事を口にする菜々香につい口が綻ぶ。愛らしい様子の妻に食事の手が止まっていると、「どうかしたんですか?」と不思議そうに顔を覗き込まれる。それに「なんでもない」と返しながら食事を再開した。
 そうやって少しずつ雑談を挟みながら、パンケーキを胃に収めていくと、皿の上はあっという間に空っぽになった。
「美味かった。ご馳走様でした」
「はい、お粗末さまでした」
 時計を見てみればあと十分も経てば午後一時になろうという所で、さてこれからどうしようかと頭の中で算段を立てる。仕事は急ぐものはないし、かといってこれからどこかに出掛けるというにも特に場所は思い付かない。そこまで考えて脳裏に浮かんだのはあの蜜を運ぶ蜂達だった。
……菜々香、少し庭に出ないか?」
「お庭にですか?」
「花に蜂が来てたんだ。春も盛りだし、少し日向ぼっこでもしようか」
「あら、いいですねぇ。じゃあ食器だけ片付けてしまいますから、先に行っててください」
「いや、俺もやるよ。ふたりの方が早いだろ」
「じゃあ、お願いしますね」
 そうして二人して食器を片付けようと、空いた皿に手を伸ばした。

 履物を引っ掛けて庭に出ると、植物の青くて甘い香りが広がった。その香りに誘われてふわりふわりと何匹もの蜜蜂が蜜集めに精を出しているのを眺める。
「本当ですね、蜂さん達がみぃんなお仕事してる」
 微笑む菜々香の手を緩く握ると、同じような力で握り返してくるのが愛おしい。
「にしても、本当に今日はいいお天気ですねぇ」
「だなぁ」
 春の陽気は崩れる気配など一切なく、清々しい青空を一面に広げていた。
「あー……このまま寝っ転がってお昼寝しちゃいたいですね。芝生の上にごろーんと」
「するか?」
「しませんよー。まだお洗濯物干してないんですもの」
「じゃあ早速干すか。俺もやるから早く終わらせよう」
「そしたらお昼寝タイムですね」
 くすくすと笑う菜々香に自身も小さく笑い返す。
 あぁ、本当になんて穏やかな日なんだろうか。洗濯物を干すということですら愛しい人とするとなるとこんなにも楽しいことに変わるなんて。
 そう思いながら家の中に戻る背を、蜂がまた一匹横切って行く。
 春眠が心地よい、とある春の日のことだった。