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Ca(か)
2026-04-20 19:59:13
13205文字
Public
haikaveh SS
いつか、箱庭の外もそばにいて (上)
友人でも恋人でもないふたりが、真ん中バースデーを経てすこしだけ先へ踏み出す話 (きみさえサンプル)
1
三つ葉が好きだ。
アルハイゼンの頭のてっぺんでふわふわ揺れている、あのくせっ毛を思い出すから。
ただのくせっ毛であるはずなのに、僕にはなんだか、その毛束がたまに意志をもっているかのように見えることがあった。
うれしいときにはうれしそうに、不機嫌なときには腹立たしそうに、そして興味深いものを目の当たりにしたときには、三つ葉のくせっ毛もわくわくするみたいにそよいでいる。もちろん髪の毛に神経が通りっこないからそんなのは錯覚にすぎないけれど、アルハイゼンが動くたびに一緒に揺れるあの三つ葉のくせっ毛がかわいいというのは純然たる事実で、僕はいつも、彼よりすこし高い位置からそれをそっと眺めている。
だから僕は迷わなかったのだ。
「真ん中バースデー」を君と祝ってみたいと思ったあの日
――
僕にとっての君を象徴するものは、まさにこれしかないのだと。
*
「ねえ、”真ん中バースデー”って知ってる?」
講義室に差し込むうららかな日差しがぽかぽかと暖かい四月。
新学期が始まって間もない座学の教室で、僕の前列に座る女子学生たちがこそこそと話すのが耳に届いた。
「知らない。なあにそれ?」
「最近流行ってる記念日なんだけどさ、けっこう面白そうなのよね。仲がいい友達同士とか恋人同士とかが、それぞれの誕生日から数えてちょうど真ん中にあたる日のことを”真ん中バースデー”って呼んでお祝いするの」
へえ、そんなのがあるのか。
世の中の流行り廃りは目まぐるしくて、たった数日実習室に缶詰になっただけでもう旬が移り変わっていたりするから不思議だ。模型を作り始めた頃には爆発的に流行っていた心理テストも、製作が終わる頃には誰も話題に上げなくなっていた。なにがきっかけでどんなものが流行るかは誰にもわからないので、なんの変哲もない文房具がいつの間にか恋のおまじないアイテムになっていることもある。消しゴムのカバー下に名前を書くおまじないが流行ったときは、消しゴムを借りにくる同級生がやたら多くてちょっと困ったのはまだ記憶に新しい。
しかし、真ん中バースデーとやらはたしかに面白そうな響きがした。
「お祝いって、ふつうの誕生日みたいにケーキ食べたりするの?」
「なんでもいいのよ。誕生日ほど派手に祝わなくても、ささやかなプレゼントを渡したり、一緒に出掛けたりとか」
「ふうん。普段遊ぶのとあんまり変わらなくない?」
「ようは気持ちが大事ってことよ。一緒にコーヒーを飲みに行くのだって、ただのクラスメイトと特別な誰かとじゃ気分の上がり方が違うでしょ」
特別な誰か。
僕がその言葉で思い浮かべたのは、ほかでもないアルハイゼンの姿だった。
僕にとっての"特別な誰か"だなんて、家族を除けば、そんなのアルハイゼンをおいてほかにない。
アルハイゼンは僕のかわいい後輩であり、小憎らしい友人だ。それと同時に、時折
――
まるで磁石が引き合うみたいに、どうしようもない引力で互いに手を伸ばしたくなって、そのまま抱き合ったりキスをしたりする間柄だった。
アルハイゼンとの関係を表すのに、単なる「友人」というカテゴリがふさわしいかどうかを考えれば、まあ、間違いなくはみ出している関係だとは思う。けれど、ならば自分たちは「恋人」なのかと考えたとき、なにをもってしてそう呼ぶのかはわからなかった。
好き同士だったら?
それとも、セックスをしたら?
はっきりとした答えはまだ出ない。というよりも、なんだかこれからの人生にもかかわってきそうな大事なことを、教令院も卒業していない頃から断じてしまっていいのだろうかという迷いがあった。僕らの関係性には大きすぎる名前も小さすぎる名前もつけたくない。でもずっと名前のない関係のままでいるというのもどこか不誠実な気がして、結局まだ曖昧なままだ。
幸いにしてアルハイゼンはかたちにこだわらない性分らしく、現状にじゅうぶん満足しているように見える。だから僕も答えを出すのは後にして、今はただ、知識欲の向くまま思う存分議論ができる得難い友人と、初恋に浮かれる恋人のいいとこどりのような関係で日々を過ごしていた。
「
……
で、なんでその話を振ったの?」
聞き役の女子が怪訝そうに訊いた。それに対し、真ん中バースデーの話を持ち込んだ女子が「いや実はさ
……
」と手をひらひらさせながら口を開く。
「来週の水曜、私と彼氏の真ん中バースデーなの。だからプレゼントの相談に乗ってもらいたくって。そろそろ卒論に向けて共同研究のメンバーも選ぶ頃だし
――
」
「こら! そこ、私語をしない! いつまで春休み気分なの。いい加減になさい」
教壇に立つ教員からの鋭い叱責に、女子たちはひゃっと首を引っ込めて縮こまった。おお、これぞ春雷。そんなくだらないことを考えながら、僕はそっとノートの端っこにペンを走らせた。
アルハイゼンの誕生日
……
二月十一日。
僕の誕生日
……
七月九日。
間の日数を二で割って、間違いのないよう一日ずつ辿っていく。そうしてはじき出された僕らの真ん中バースデーは、どうやら四月二十六日らしかった。
こうして見ると案外間近に迫っている。あと二週間弱でその日が来ることがわかった途端、僕は胸の中で好奇心がむくっとうずくのを感じた。
――
やってみたいな、真ん中バースデー。
アルハイゼンには「なんだそれは」なんて怪訝な顔をされそうだけど、悪くないイベントだと思う。
お互いの誕生日のちょうど真ん中。二月と七月から手を伸ばし合って、互いにやっと手が届くのが四月の下旬
……
だなんて、なかなかロマンチックで素敵な光景だ。
それにこんな
記念日
とき
でもないと、照れくさくて言えないこともあるし
――
と、僕はひとり静かに頷いた。
関係を型にはめない自由さは、時として約束をしない不誠実さにもつながる。だからこそ僕は、いつか自分の気持ちをちゃんとアルハイゼンに伝えなくてはと思っていた。
僕が君のことをどれだけ大切に思っているかということ。
教令院を卒業したあとも、ずっと一緒にいられたらいいと思っていること。
それをきちんと言葉にして初めて、誰に対しても胸を張っていられる気がするのだ。
カーンカーン、と終業の鐘が鳴る。来週までの宿題として出されたプリントが前の席から回ってきた。
それらを失くさないようにノートに挟み込みながら、僕はさてなにを贈ろうか、と鼻歌交じりに思案した。
……
のが、一週間前のことだ。
放課後、クシャレワー学院の中にある第一工房。木工作業のためにつくられた、木くずの匂いでいっぱいの教室に足を踏み入れ、僕はいつもの席が空いているかをそっと確認した。
――
よし、空いてる。
心の中でガッツポーズをして、歩幅をすこし早めて工房の中を進むと、途中で先生に声をかけられた。
「やあカーヴェ。今日も
糸鋸
いとのこ
の練習かい?」
僕は足を止め、はい、と返した。
……
ものの、ほんとうのところは違う。しかしあながち嘘というわけでもないので、ここ最近はそういうことにしていた。
「えっと、みんなの邪魔にならないように離れてやるので、今日もここで作業をしていいですか?」
「もちろん構わないよ」
先生はにっこり笑って首肯した。その後ろでは補習を言い渡された同級生たちがひいこら言いながら作業をしていて、「いっそこっちに混ざりに来てもいいぞ、カーヴェ!」だの「明日の昼飯を奢るからおれの補習を手伝ってくれ」だの、疲れ切ったやけくその声が飛んでくる。すこしずつ近づいてくる卒業準備を前にしての補習はさぞ精神にくるだろうと思いながら、苦笑いで手を振って返した。
「私はあいつらの課題を見なきゃならないが、なにかあれば声をかけてくれて構わないからな」
「ありがとうございます」
ぺこりと一礼して再び足を進める。そしていつもの席
――
工房の端から二番目の作業台に着き、肩掛け鞄をやっと下ろした。
よし。今日も続きをしなくちゃ。
お腹に力をぐっと込めて意気込み、僕はここ数日取り組んでいる糸鋸の練習セット
……
もとい、アルハイゼンへのプレゼント製作セットを取り出した。
真ん中バースデーを知った日から、僕が考えに考え抜いた末、やっと導き出したプレゼントの最適解は栞だった。
アルハイゼンはいつも本を抱えている。それも決まって、とても一息では読みきらないような本ばかりだ。静かに本の世界に没頭するアルハイゼンはきれいで、文字を追ってきろきろと動く瞳も、たまに瞬くまつ毛の影も、ページを繰る指の運びもすべて見ていて飽きない。いま、その賢い頭の中にはどんなことが浮かんでいるんだろう
――
そんなことを考えながら、僕はいつもアルハイゼンが読書をするのをそっと見ている。
だからもしもアルハイゼンになにかをあげるとしたら、あの子のそばでずっと使ってもらえるもの
――
栞がいい、と思ったのだ。
相変わらずデザイン性のあるものに興味はないようだけれど、なにかひとつくらい
……
そう、ひとつだけでも、きれいなものをそばに置くことは悪いことではないはずだ。
そしてそれが僕の作ったものだったなら、こんなにうれしいことはない。
製作セットの中からデザイン画と真鍮板を取り出す。前日までの作業では既に、真鍮板にはデザインを書き写し、糸鋸の刃を入れるための穴を開けてある。
ここからが難しいんだよな。自分が描いたデザインの細かさに苦笑しながら、糸鋸の刃をそっと抜いた。
真鍮板に転写したのは、誰の目にも馴染み深い三つ葉
……
カタバミを透かし彫りに落とし込んだデザインだ。
ラザンガーデンの涼亭の足元をはじめ、道端のあらゆるところに生えそめているカタバミは、普段意識しなければ目を留めることもないくらいに身近な風景の一部だ。
けれど、いくら身近だからといってけして意味のないものなんかではない。
アルハイゼンの頭のてっぺんでそよぐ、まるで三つ葉みたいなくせ毛たち。
そして涼亭に腰掛けたときに足元に当たる、小さくて青々としたカタバミの群生。
日々に寄り添う「三つの葉っぱ」というモチーフには、実は古くからの伝承にまつわる特別な意味が込められている。けれど因論派のなかでも解釈が分かれているものだから、賢いあいつでもきっと知らない。
だからこそ秘密の願い事を込めるのに、カタバミはぴったりのものだった。
――
気に入ってくれるといいな。
そう願いながら、僕は慎重に糸鋸の刃を当てた。
2
アルハイゼンの様子がいつもと違うことに気づいたのは、昼休みが半分終わったくらいの頃だった。
「カーヴェ。今日の放課後は空いているのか」
昼食を食べ終えて歯磨きをし、さて早速とばかりに最近見つけた面白そうな論文について話をしようとした僕に、アルハイゼンはどこか切羽詰まったように聞いてきた。
「あー
……
ええと、ごめん。ちょっと用事があって」
「
……
」
むう、と不服そうに黙るアルハイゼンになんだか罪悪感を覚えてしまう。しかし真ん中バースデーのサプライズのためには事情を明かすことができないので、僕は口元がむずむずするのを揉んでごまかすしかなかった。
アルハイゼンに贈り物をしようと決めてからというもの、この一週間は準備に時間を割くために、アルハイゼンとの約束を延期にしてばかりだ。
「ごめんよ。もうちょっとできりがよくなるから」
「課題か?」
「うーん
……
ちょっと違うけど、ある意味じゃそうかも」
栞の加工は難航している。もう少しシンプルなデザインならもっと簡単にできたのだろうが、せっかく贈るのだからとびきりきれいなものにしたくて、無理をしてかなり細かいデザインを採用した。おかげで試作品
――
いや失敗作はゆうに二十を超え、いまや真鍮板の残骸が机の隅で小山を作っている。
糸鋸
いとのこ
の刃を進めすぎて切り落としてしまう線、なかなかなめらかに削り切れない穴、輪郭線よりも細くしつつ、強度の限界を攻めるカタバミの葉脈。
正直なところ、いまの自分の実力からすればずいぶん背伸びをした、加工難度の高いデザインになってしまったと思う。でも妥協して半端なものをプレゼントするなんてのはありえないし、いまさらあきらめることもしたくない。
あとすこし。もう数時間かければ、最高の作品は必ず完成する
――
そうに違いない。
「ほんとにごめんな、アルハイゼン。ここのところ、君とじゅうぶん議論できていないことは僕も気になってるんだ。もうすこしだからこらえてくれないか」
ふわふわのくせ毛を指で梳きながらアルハイゼンの頭を撫でる。てっぺんの三つ葉がふよんと気持ちよさそうに揺れた。
「
……
うん」
撫でられるがままのアルハイゼンが手のひらに頭を擦り付けてくる。
こうしているとかわいいやつなんだよな、と思うさなか、前髪の隙間からアルハイゼンの瞳がこちらを覗き込んでいるのに気づいた。
――
あ、キス、したそう。
目は口ほどに物を言う、なんてのはまさにその通りだと思う。いまここでキスがしたい
……
そんな言外の意図は、わざわざ口を開かなくたって眼差しひとつでたやすく汲み取れる。それどころか瞳の奥で燻ぶる熱まで伝わってくるのが困りもので、その熱さに引っ張られて僕までどきどきしてしまう。
アルハイゼンが顔を近づけ、そっと傾けてキスに誘う。いつもなら僕もここで、アルハイゼンと同じように近づいてそれに応える
――
のだけれど、ふいに脳裏をよぎった「不誠実」の三文字が胸につっかえてしまい、彼をそっと押し返した。
「
……
だめだよアルハイゼン。人が来るかも」
アルハイゼンは目元を鋭くして、なおも顔を近づけようとする。
「来ないよ」
「来るって」
「来ない。それとも、君はしたくないと?」
「そ、そうじゃない
……
け、ど」
いたたまれなくなって目を反らす僕を、アルハイゼンが視線で咎めた。
そりゃあ僕だってキスしたい。アルハイゼンのくちびるがどんなにやわらかいか、どんなふうに僕を求めてくれて、それがどれだけ気持ちいいかをもう知ってしまっている。
でも、やっぱり
ち
・
ゃ
・
ん
・
と
・
し
・
て
・
から君に触れるべきだと思った。
「
……
とにかく、議論もキスももうすこしだけお預けだよ。それと二十六日の放課後は空いてる?」
「二十六日?」アルハイゼンが片眉を上げた。「空いてるが」
「よかった。じゃあ、いつもの教室を予約しておくから、十六時に来てくれ。大事な話があるんだ」
曖昧な関係から一歩踏み出して、気持ちをちゃんと言葉にしてスタンスを明確にするための大事な話。いまがよければそれでいいわけじゃなくて、ちゃんとこの先も、大人になっても一緒にいたいのだということを、ありのまま伝えたい。
大事な話という言葉が固すぎたのか、アルハイゼンは僕を探るように眉をひそめた。
でも何も言わずにああ、と頷いて、アルハイゼンはそこでやっと身を離した。
昼休みの終わり頃、アルハイゼンと本館のエントランスを歩いていると、妙論派の同級生に呼び止められた。ごく最近見た顔だと思ったら、放課後に第一工房で補習を受けているひとりだった。
「カーヴェ! よかった、すれ違わずに会えた」
「どうしたんだ?」
「今日の放課後なんだけど
――
って、ごめん。後輩と一緒だったか」
「ううん、構わないよ。で、なに?」
「今日の放課後、クシャレワーの実習室に保守点検が入るらしいんだ。順番にやってくから、終わるまで俺たちには別室待機しといてほしいってさ。今日もこっちに来るんだろ?」
「ああ、えーと
……
うん」
やや濁った愛想笑いで頷いた。横にアルハイゼンがいる手前、彼との約束よりも優先していることを目の当たりにさせるのは気まずい。
そんな僕のぎこちない様子に同級生は違和感を覚えたようだったが、深くは突っ込まずに「じゃ、伝えたからな」と軽やかに去っていった。
「ええと
……
」
僕の横で終始黙ったままでいるアルハイゼンをちらりと見た。
「ごめんな。君をないがしろにしてるとかじゃないんだ。ただこればっかりはどうしても
――
」
「さっきから謝りどおしだが、ほんとうに重要な用事ならそう謝らなくたっていい」
アルハイゼンが小さく嘆息して肩をすくめた。
そのいつもと変わらない仕草に、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、
「それとも、なにか俺に言い出せないことでもあるのか?」
気を抜いた僕の瞳を真っすぐ射抜き、アルハイゼンは核心に迫った。
なにか隠しているんだろう。そう語るアルハイゼンの花緑青の瞳が僕に逃げることを許さなかった。
言い出せないこと
――
栞と一緒にアルハイゼンに伝えたいことはある。
けれどそれを口に出すのは、まだ今じゃない。
「ご、ごめん
……
まだ言えない」
「まだ?」
「えっと、なんていうか
――
そう、ちょっと心の準備がいるんだ。二十六日に必ず言うから」
煮え切らない僕の言葉に、またもやアルハイゼンが眉間の皺を深くする。
しかし、アルハイゼンが「君は
――
」となにかを言いかけたところで、カーンカーン、と予鈴の鐘が鳴った。エントランスで聴く鐘の音はよく響くせいですこしうるさい。アルハイゼンが言葉を続けるのをあきらめるにはじゅうぶんだった。
「
……
」
「
……
えっと、アルハイゼン、僕は
――
」
「いや、いい。それより二十六日だったな。その時には必ず聞かせてもらう。では、俺はもう行く」
アルハイゼンはくるりと踵を返し、ハルヴァタット学院の黒い扉へと歩いて行った。ああ、じゃあまた、とどうにか絞り出した僕の声が届いたかどうかはわからない。こちらが手を振るのも見ないまま、アルハイゼンの背中が遠くなっていくのを僕は気が沈みながら見た。
もうちょっと、うまいやり方があったよな
――
。
重苦しく息を吐きながら思う。アルハイゼンは聡い子だけれど、自分が見抜いた隠し事をむやみやたらと白日の下に晒したがるようなやつじゃない。それが「後のお楽しみ」の類なら、そっとしておいてくれるくらいには気が利くはずだ。わかってたはずなのに、ついなにもかもをもったいぶってしまって、結果アルハイゼンを怪しませてしまった。
サプライズはやはり慣れない。でもきっと二十六日には成功させよう。そのときには今日のことも改めて謝って、アルハイゼンにばかだなって呆れかえってもらおう。
気を取り直して僕はクシャレワー学院の白い扉に足を向けた。扉をくぐる直前、ふいに視線を感じて振り返るとアルハイゼンがこちらをじっと見ているのに気づいた。
どうしたんだろう。やっぱりなにか言い忘れたのかな
――
と、目を凝らしてみたものの、距離が離れすぎてどんな顔をしているのかよく見えない。
僕がなにかを言う前に、アルハイゼンはまた踵を返して今度こそハルヴァタットの大扉をくぐっていった。僕はやむなくそれを見送ってから、自分もクシャレワーの大扉をくぐり、午後の授業へと向かった。
そして迎えた四月二十六日。
約束の教室で待っていると、十六時ぴったりにアルハイゼンが入ってきた。いつも通りに鍵を閉めて、いつも通りの足取りでこちらに近づいてくる。
そのはずなのに、なぜだか今日はアルハイゼンの纏う雰囲気がすこし違う気がした。
「アルハイゼン、お疲れ。もう今期の時間割には慣れ
――
」
「大事な話とはなんだ」
雑談もそこそこにアルハイゼンが本題に切り込んできた。顔を窺い見れば、やはりどこかこわばった様子でいる。
「えーと、そんなに怖い顔するような用事じゃないよ。まず、今日は何の日かわかるかい、アルハイゼン」
アルハイゼンはしばらく考え込んだが、やがて諦めてふるふると首を振った。
「四月の二十六日。今日は、僕と君の『真ん中バースデー』の日なんだよ」
「
……
まんな、か」
「そう。僕の誕生日と、君の誕生日のちょうど真ん中の日ってこと。最近、この日を祝うのが流行ってるんだってさ。だから僕もささやかだけど君にプレゼントを用意したんだ」
そう言って、僕はきれいな緑色の包装紙でラッピングしたプレゼントをアルハイゼンに差し出した。まだ状況を飲み込めていないのか、瞬きが多くなったアルハイゼンがおずおずと受け取る。しかし受け取ったところで固まってしまったので、せっかくだからここで開けてくれよと促して、一緒に包みを解いた。
包装紙の波をかき分けて現れたものに、アルハイゼンは静かに目を見張った。
「
……
栞」
「ふふ、君はいつも本を読んでるだろ? だから、これなら長く使ってもらえるかなあと思って作ったんだ」
「作った? これを?」
アルハイゼンが栞をそっと持ち上げて、いろんな角度からまじまじと見始める。
挟んだページを傷つけないように丸めた角、錆びないように丹念に磨いた表面。そしてこだわりぬいたカタバミの葉脈の線と、ペン画のインク溜まりっぽく見えるように削った輪郭線。こだわりぬいた工夫の数々には費やしたものも少なくないけれど、アルハイゼンがこうしてひとつひとつ確かめてくれるのなら、苦労だってなんだって一瞬で報われてしまうから不思議だ。
「ほんとうはもっと早くに仕上げて、君との議論も延期しないで済むはずだったんだけど
……
えへへ、透かし彫りってけっこう難しくてさ。いっぱい失敗しちゃったんだ。それでようやく完成したのがこの一枚ってわけだけど
……
長いことお預けにしてごめんな、アルハイゼン」
「つまり、ここ数日の放課後、君はずっとこれを作っていたと?」
「うん。クシャレワーの工房でね」
僕が頷くと、アルハイゼンは気が抜けたようにほっと小さく息をついた。
しかしすぐに口をきゅっと引き締めると、「じゃあ、このあいだの彼は」と聞いてきた。
「彼?」
「先日の昼休みに会った妙論派だ。放課後、一緒に集まっていたんじゃないのか」
「ああ、あのときの
……
ううん、集まってないよ。確かに彼も工房には来てたけど、あっちは補習だったんだ。さすがにもう終わった頃だとは思うけど」
補習。
アルハイゼンが炭酸が抜けたみたいに呟いた
――
かと思ったら、次の瞬間にはひどく長いため息をついた。その仕草に倣ってアルハイゼンの頭の三つ葉もへよんとしなる。
いつもと様子が違うアルハイゼンに戸惑っていると、やがてアルハイゼンがぽつりと零した。
「
……
てっきり、君は距離を取りたいのだろうと」
距離。
……
僕が? 君から?
あまりに予想外の話が飛び出したので、今度は僕の瞬きが忙しなくなった。
距離を取りたいだって? そんなことあるはずないのに。
「そろそろ君たちは卒業に向けて、論文の準備を始める頃だろう。共同研究をするならそのメンバーも集める頃だ」
「それは
……
うん。たしかにそうだけど」
「放課後の集まりが悪くなったのは、研究を共にするメンバーで集まって構想を練っているのかもしれないと思った。それ自体は悪いことではない。教令院に籍を置いたからには、専門分野がなんであれ最終目標は卒業することなのだから」
教室の外がいつにもまして静かに感じられた。そのせいで、アルハイゼンの声がいつもよりくっきりと聞こえる。
普段のアルハイゼンなら誤魔化せたかもしれない、わずかな心の揺れが声に滲んでいるのがわかって、僕はそこでやっと自分の思い違いに気づいた。
「だが君は、俺が触れることも拒んだ。つまりこれまでの曖昧な間柄で触れ合うことをやめたいのではないか、と思ったんだ。だから
……
」
今日を境に、”すべてなかったことにしたい”と言われるのではないか、と。
「そんなこと
……
!」
ガタンと大きな音が鳴るのにも構わないで、僕は跳ね上げ椅子を無理やり押しのけた。考えるよりも先に体が動いてアルハイゼンへと駆け寄る。
そして衝動のまま、僕はアルハイゼンをぎゅっと強く抱きしめた。
すべてなかったことにしたいだなんて、そんなことあるはずない。
そう言いたかったのに胸がどうしようもなく締め付けられて、苦しくて言葉にならない。
この二週間、頭の中はアルハイゼンのことでいっぱいだった。このサプライズでアルハイゼンが喜んでくれればとそれだけを思いながら、スケッチしたカタバミとにらめっこしてデザインを練ったり、毎日工房へ通い詰めて真鍮を削ってはがらくたを積み上げ、試行錯誤を繰り返した。けれどそれは僕の事情でしかなかったことに、僕はやっと思い至った。
窓から差し込む、まだ鋭さを持たない春の西日がアルハイゼンに注ぐ。逆光に照らされるアルハイゼンはひどく寂しく見えた。
――
不安にさせてしまった。
大事にしたいと思った君を、いちばん喜んでほしかった君のことを、ほかでもない僕が置いてけぼりにしてしまった。
それがどれだけ寂しいことか、僕は知っていたはずなのに。
「ごめん
……
。ごめんよ、アルハイゼン」
「最近の君は謝ってばかりだな」
アルハイゼンが小さく息をついて、僕の背中に緩く腕を回した。
「
……
そうだな。ごめんとか、だめだとか言ってばっかりで、ほんとうに言わなきゃいけないことはなにひとつ言ってなかった」
ほんとうに言わなくちゃいけないのは、ただ一言だけだというのに。
僕は腕をすこしだけ緩めて、アルハイゼンの瞳をまっすぐ見つめた。
深呼吸をひとつ。それからやっと、いちばん言いたかったことを口にした。
「好きだ。君が好きだよ、アルハイゼン」
「
……
それはどういう「好き」?」
アルハイゼンも瞳を反らさず、まっすぐ僕に問いかけた。その迷いのなさにアルハイゼンも今日をもって、すべての
曖
・
昧
・
をやめようとしているのがわかった。
どういう「好き」か。それはもちろん、誰より特別で、ずっと一緒にいたい
――
そんな「好き」だ。もしかするとそれはもはや「愛してる」に当たるものなのかもしれないけれど、正直なところ、子どもの僕にはまだよくわからなかった。
愛してる。
物語の中で、大人たちが抱きしめ合いながら
――
あるいは、目に涙を浮かべながら口にする愛の言葉。その底がどのくらい深いのか、どれくらいの温度で、どれくらい幅が広いのかを僕はまだ知らない。
好きでは足りない気持ちを愛してると表現するのなら、ひょっとすると大人は好きという気持ちだけでは一緒にいられないのかもしれない。
だけどそれでも、この先大人になってもずっと一緒にいたいと思うのは、きっとアルハイゼンだけだと思った。
「話したり、触れたり
……
なにもしなくても、そばにいたい。そのどれも、君とがいい。君以外じゃいやだ」
アルハイゼンはうん、と喉の奥で静かに相槌を打って、鼻頭を擦り合わせるように顎を上げた。くちびるのほんの先が掠れる。じんと甘い痺れが訪れて、途端にもっと欲しくなった。
やわらかで温かいあの感触が恋しくてたまらない。もう一瞬も離れたくなくて、僕はアルハイゼンのくちびるを追いかけた。
「ん
……
」
乾いたくちびる同士が重なる。擦り合わせるだけで陶然として、頭の中までじんとした。繰り返すうちに欲が出てアルハイゼンの上くちびるをやわく食むと、アルハイゼンもすぐに僕の下くちびるに食みついてきた。角度を変え、場所を変え、吐息ごと味わうように口を開く。どちらともなく舌が差し出されてからはもう止まらなくなって、互いにぐいぐいと押し付け合うようにひたすらキスに没頭した。
キスの巧拙はなんにもわからないけれど、アルハイゼンとふたりでキスに夢中になっているというこの状況だけで、うなじがぞくぞくするほど興奮した。
「君は?」
キスの合間に僕が訊いた。
「アルハイゼン、君の気持ちはどんなのだ?」
「君でなければ意味がない。そういうものだ」
「こんなキスも、ほかの誰かじゃ意味がないってこと?」
「君でなければしない。キスも、それ以上も」
明らかにこちらの興味を誘うような言い方に思わず笑ってしまう。
主導権を完全に握るでもなく、明け渡すでもなく、出方を窺う素振りでアルハイゼンは僕を試している。こういうところが生意気で、でもかわいくもあるのが厄介だ。
厄介には厄介で返してやろう。僕は仕返しを図り、わざと眉を上げて耳元で囁いた。
「君
も
・
したいの?」
含意を正しく汲み取ったらしいアルハイゼンはぴくりと動きを止めた。
けれど目に見えてうろたえたりはしないで、ただ目を細め、僕の首元に顔を埋めて呟いた。
「
……
したいよ」
「
……
ふふ」
あんまり素直な一言に、胸の奥が甘くよじれて口端が緩んだ。正直に言っているだけのように見えて、ちゃっかり
そ
・
れ
・
以
・
上
・
をせがんでもいるその様子がやけにかわいく見えて、なんだか勢いに任せてすべてを許してしまいそうになる。
「でも、まだだめだよ。アルハイゼン」
「いやではなく?」
アルハイゼンが尋ねる。
ばかだな。君以外ないってこんなに伝えてるのに、まだそんなことを聞くなんて。
「いやなことがあるもんか。まだだめなだけだよ。たくさん準備がいるらしいし、勢いだけでことに及んで失敗はしたくないだろ」
したい、というからには、アルハイゼンだってやりかたを調べているはずだ。男同士のセックスの仕方。それに伴う準備。ありとあらゆる懸念事項。それらをいったんすべて忘れてしまうことは簡単だけれど、その先に良い結果はきっと待ってはいないだろう。
「だから、今日はまだお預けだ」
こんなにしておいて、とアルハイゼンがむすくれた。度重なる色っぽいキスで互いの下腹部はすっかり熱を持ってふくらみ、制服をぐいぐいと押し上げている。それに気づかないほど鈍感ではなかったし、どぎまぎするほど純粋でもなかった。
「どれだけキスに慣れたったって、僕らはまだ未成年だ。それに
キ
・
ス
・
以
・
上
・
はひとつじゃない」
年上ぶってにやりと笑うと、アルハイゼンがごくりと喉を鳴らした。とはいえ自分だって経験があるわけではないので、あまり知ったかぶってもいけない。
「最後まではしないよ。でも、君とならもうちょっとだけ、進んでみたい」
だって、せっかくの日なのだし。
「君はどう?」
共犯めいた誘いに、アルハイゼンは迷うことなく静かに頷いた。
ふわふわの髪を梳くように手を伸ばす。ほんの十分前にはしょげていたアルハイゼンの頭の三つ葉は、すっかり元気を取り戻して気持ちよさそうにそよいでいる。撫でる手のひらに擦りつくみたいにアルハイゼンが頭を預け、それから僕のことを、ふたたびあの瞳で見つめてきた。
――
あ、キスしたそう。
拒む理由はもうなにもない。
僕は頷いて、それからそっと瞼を下ろして待った。
でも、まもなくやってきたキスの感触がちょっと緊張してるみたいに固かったので、僕はとうとうこらえきれずにくつくつ笑ってしまった。
僕が君のことをどれだけ大切に思っているかということ。
教令院を卒業したあとも、ずっと一緒にいられたらいいと思っていること。
ほかの誰でもない君だからこそ、
こ
・
う
・
い
・
う
・
こ
・
と
・
がしたいのだということ。
伝われ、伝われ。言葉を交わして、肌で触れ合って、全身全霊で君が好きだという気持ちが伝わるようにと、宝物に触るように手を伸ばす。途中、アルハイゼンが制服の隙間から素肌を探り当ててきたので身体をよじったら、はあ、と怒ったようなため息をついてアルハイゼンが肩を甘噛みした。
「わ、ばか。えっち」
「君だってそうだろう」
赤い顔で開き直るアルハイゼンは、もういっときも我慢できないというように瞳を据わらせて、欲情をすこしも隠さないでいる。
そのさまに思いきり煽られてしまった僕は、アルハイゼンの耳たぶを食んで煽り返し、それからもう一度「ばか」と言ってやった。
静かな教室に、呼吸の合間に小さく漏れる声と衣擦れの音が密やかに響く。
汚れてしまわないようにと僕らから離れて置かれたカタバミの栞だけがなにも言わず、西日を受けてきらきら輝いていた。
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